公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15
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大正15年5月12日(1926年)
是日、丸ノ内日本工業倶楽部ニ於テ、牛島謹爾追悼会挙行セラル。栄一出席シ、追悼式後ノ演説会ニ於テ、発起人総代トシテ、司会並ニ追悼演説ヲナス。
東京朝日新聞 第一四三五〇号・広告大正一五年五月五日 謹告故牛島君知友諸君(DK490163k-0001)
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東京朝日新聞 第一四三五〇号・広告大正一五年五月五日
謹告故牛島君知友諸君
来五月十二日東京丸ノ内日本工業倶楽部に於て故牛島謹爾君追悼会開催に付、御賛同の諸君は同月七日迄に端書を以て左記各項に別ち、御出席の旨御通報相成度候
第一 追悼式(基督教式) 午後三時
第二 演説会 同四時
第三 晩餐会(会費金五円) 同六時半
東京丸ノ内二十八号館渋沢事務所内
故牛島謹爾君追悼会
発起人
東郷平八郎 徳川家達
総代 埴原正直 大隈信常
高橋是清 有馬頼万
渋沢栄一
故牛島謹爾君追悼会書類(DK490163k-0002)
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故牛島謹爾君追悼会書類 (渋沢子爵家所蔵)
(印刷物)
故牛島謹爾君追悼会順序書
大正十五年五月十二日午後三時
東京丸の内日本工業倶楽部
一 奏楽 津川主一
一 讚美歌 三五四 聖歌団
一 聖書 (旧約) 鵜沢聡明
一 聖書 (新約) 日疋信亮
一 祈祷 南廉平
一 独唱 三四八 外山国彦
一 追悼の辞 宮崎小八郎
一 讚美歌 四四五 聖歌団
一 祈祷 山本忠興
一 頌栄 四六二 聖歌団
一 祝祷 綱島佳吉
一 挨拶 遺族代表
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以上
同追悼演説会
同日午後四時於同所
一 開会ノ辞 渋沢栄一
一 追悼演説 元田作之進
埴原正直
高橋是清
一 閉会ノ辞 渋沢栄一
以上
同追悼晩餐会
午後六時三十分於同所
一 晩餐会
一 餐後卓上演説
右終了後散会
故牛島謹爾君追悼会書類(DK490163k-0003)
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故牛島謹爾君追悼会書類 (渋沢子爵家所蔵)
(印刷物)
大正十五年五月十二日於日本工業倶楽部
故牛島謹爾君追悼会参列者氏名表
牛島君親族氏名
牛島弥三郎殿 三島信子殿
牛島覚殿 浮田いつ子殿
牛島たくえ殿 中村よし子殿
江崎静夫殿 小野すて子殿
今村貞治殿
会員氏名
氏名上ニ附シタル○印ハ発起人総代○中略
○渋沢栄一 渋沢正雄 渋沢武之助 ○下略
中外商業新報 第一四四四四号大正一五年五月一三日 ポテトー王追悼会 きのふ丸ノ内工業倶業部で(DK490163k-0004)
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中外商業新報 第一四四四四号大正一五年五月一三日
ポテトー王追悼会
きのふ丸ノ内工業倶業部で
ポテトー王として在米邦人のために万丈の気を吐いた牛島謹爾氏の追悼会が、既報の如く十二日午後三時から丸の内日本工業倶楽部に於て行はれた、可憐な自由学院の女生徒等の歌ふ讚美歌の間々には、鵜沢聡明・日疋信亮・綱島佳吉氏その他の聖書朗読・祈祷等があつて式は閉ぢられた、少憩の後続いて追悼演説会が開かれ、発起人側の渋沢子・高橋是清・元田作之進・埴原正直の諸氏は交々立つて、牛島氏が廿五才に単身米国行きの三等船客となつてからポテトー王として彼地に雄飛するまでの苦心や、その間飽まで人格的に終始し、日米間の融和のために尠らず尽力されたことなどを説いた、故人の功績と徳とを頌へ午後六時半閉会、更に同七時から晩餐会が開かれた、来会者は
故人の郷里久留米市からわざわざ上京した次兄弥三郎氏及び親戚数名を初め前記諸氏の外、粕谷衆議院議長・添田寿一・山科礼蔵・今
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井五介・堀越善重郎・根津嘉一郎・浮田和民・藤原銀次郎・有馬頼万・結城豊太郎・藤原俊雄・指田義雄・藤山雷太・増田義一の諸氏政界・実業界に於ける名士約五百名で非常に盛会であつた
○栄一ノ演説筆記ヲ欠ク。
中外商業新報 第一四四四四号大正一五年五月一三日 渋沢子と故人牛島君(DK490163k-0005)
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中外商業新報 第一四四四四号大正一五年五月一三日
渋沢子と
故人牛島君
カリフオルニアで死んだ牛島謹爾君の追悼会が十二日工業クラブで催されたが、なんせ発起人が、東郷平八郎・徳川家達・高橋是清・渋沢栄一といふ歴々の人々だけに朝野の名士が大分集まつた▽発起人の内でもこの追悼会に力瘤を入れたのが渋沢子で、日米問題一手引受人のような観がある同子だけに、牛島君の追悼会も自分の身内が死んだ時のような熱心振りで、自腹を切つて各新聞に広告は出す、印刷はすると、自身でスツカリ采配をふつたものだ▽牛島君は生前に詩が好きでその詩集が出来あがらうとする時に死んでしまつた、渋沢子がこれを引きとつてみると装幀など余りゾツとしない▽「こんなものがアメリカへやれるもんか、もつと立派なものに造りなほして、送らうぢやないか」といふので、出来あがつたものを悉く倉へ打つ込んで、新しいものを渋沢子の費用で再製中ださうだ▽今さらのことではないが、渋沢子が友情に厚いことに、みんな驚いてゐる
(増田明六)書翰控 滝本為三宛大正一五年五月二四日(DK490163k-0006)
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(増田明六)書翰控 滝本為三宛大正一五年五月二四日
(渋沢子爵家所蔵)
在米日本人会
滝本為三様
拝啓 其後は以外の御無音に相成候処、近時貴兄の御健康如何に候哉と御案申居候、今春は久し振りに面会し得べしと楽しみ居候牛島氏羅市にて突然の御発病、御遺族並貴兄等の尽されたる百方の御手当も其効無く、遂に逝去せられ候は真に千秋の恨事に候、多年貴会の会長とし又在留邦人の代表的人物として邦人の為に利益を図り、又日米親善に尽力せられたる其功績を顧み、更に日米国交の将来を想像するときは、同氏の死は啻に牛島家の不幸に止まらず真に日本の大なる損害に候、特に多年間会長と仰き苦楽を共にせられたる貴兄の御嘆息は察するに余りある義に候
今春貴兄より同氏帰朝の報を得、小生等は各方面の人々に図り如何にして同氏の滞京を愉快ならしめんかと窃に計画致居候処、図らすも突然の訃音に接し真に驚愕致候
右の為め小生等の同氏に対する歓迎の計画は更に追悼の意志と変し、過般来大山卯次郎・藤平純三・宮崎小八郎・渡辺金三・日比勝治及小生の六人実行委員と為り、実業家・官吏・政治家・教育家・宗教家より成る一大追悼会を催さんと之が準備に着手し、渋沢子爵・東郷元帥徳川家達公・高橋是清・埴原正直・大隈信常侯・有馬頼万伯(牛島氏旧藩主)の七氏を発企人総代に仰き、去五月十二日を卜し丸の内工業
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倶楽部に於て正粛なる追悼会を開催致候、其プログラム・演説者・発起人及来会者氏名は別紙○略スにて御承知被下度候、又別に同氏の小伝を作り、ジヨルダン博士の同氏に対する感想とを併せて印刷に附し、之を来会者に配布して同氏の偉業を広く紹介致候
此追悼会には同氏の郷里及東京の御親戚諸氏列席し、本会をして真に意義あらしめられたるは、発起人一同を始め実行委員たりし小生等の本懐之に過きさる次第に候
別天詩稿の件は先きに牛島氏より吹野聴雲・荘田翼斉両氏(何れも二松学舎ノ人)に作製を依頼せられ、其費用に付ては予て御通知致候通同氏より子爵に送附せられし蜜柑運賃に子爵より相当の出金を加へ五百冊出来致候処、之を一覧したるに校正不十分にて誤字脱字等多く、又製本の体裁も感心不致候得共、目下残本四百冊(五百冊の内百冊ハ二松学舎の人々に其希望に依り頒布)貴兄宛送附致候間、御遺族に御協議の上可然御取計被下度候、尚正格のものを子爵監修の下に作らしむる事に致目下印行中に候、此れは一冊凡壱円の予定にて貴方分として三百冊調製可致候間、此代金参百円は御序に御送附被下度候
ジヨルダン博士の令息ナイト氏去三月不慮の災難にて死去せられし事過日雑誌上にて承知致、渋沢子爵に於ては深く哀悼し、老博士御夫婦に甚深なる同情を捧け、貴兄を経て此意志を老御夫婦に伝へ、ナイト氏御墓前に花環を供へ度と希望致候、依て玆に米貨五十弗の手形封入致置候間、之を花環及博士御訪問の費用に充て、子爵の希望の達せらるゝ様御取計被下度懇願仕候、尚博士には子爵より悔状発送せられ候御含迄に申添候
毎々御多忙も不察御迷惑の義願上恐縮の至に候 匆々敬具
東京 渋沢事務所
大正十五年五月廿四日 増田明六明六
○エリック・ナイト・ジョルダンノ死去ニ関シテハ、本資料第三十八巻所収「ERIC KNIGHT JORDAN RESEARCH FELLOWSHIPS IN GEOLOGY」大正十五年十月六日ノ条参照。
(牛島東豪)書翰 渋沢栄一宛大正一五年六月(DK490163k-0007)
第49巻 p.486 ページ画像
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冊子版の『渋沢栄一伝記資料』をご参照ください。