デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

9章 其他ノ公共事業
7節 関係団体諸資料
3款 埼玉県人会
■綱文

第49巻 p.519-525(DK490180k) ページ画像

大正10年4月23日(1921年)

是日、上野精養軒ニ於テ、当会主催ニヨル、栄一ノ子爵陞爵祝賀会開カル。栄一出席シテ謝辞ヲ述ブ。


■資料

集会日時通知表 大正一〇年(DK490180k-0001)
第49巻 p.519 ページ画像

集会日時通知表 大正一〇年        (渋沢子爵家所蔵)
四月二十三日 土 午後五時 埼玉県人会催
              渋沢子爵陞爵祝賀会(上野精養軒)


竜門雑誌 第三九六号・第六八―六九頁 大正一〇年五月 ○青淵先生陞爵埼玉県人祝賀会(DK490180k-0002)
第49巻 p.519-520 ページ画像

竜門雑誌 第三九六号・第六八―六九頁 大正一〇年五月
○青淵先生陞爵埼玉県人祝賀会 埼玉県人会々長・埼玉学生誘掖会々頭・埼玉学友会々頭として多年同県人の指導誘掖に任ぜられつゝある青淵先生が、昨年九月陞爵の恩命を拝せらるゝや、同県出身の諸氏は衷心より先生の陞爵を欣喜し、相胥りて昨秋祝賀会を挙行せんと発起したるが、当時先生病気にて折角療養せられつゝある中、気候も寒冷に向ひたるより、遂に心ならずも差控えつゝありしが、其後先生の健康も全く旧に復されたるを以て、四月二十三日新緑の好季節を卜し午後五時より本多静六・山川義太郎・石井健吾・大川平三郎・小倉常吉尾高幸五郎・加藤政之助・粕谷義三・田中栄八郎・指田義雄・諸井恒平氏等六十四名の諸氏発起の下に、青淵先生を上野精養軒に招待して情誼溢るゝが如き祝賀の盛宴を催したるが、先づ東家楽燕浪花節の余興あり、出席者百三十名の来着を待て午後六時祝賀式を挙行す、司会者本多静六氏の挨拶ありて、山川義太郎氏祝賀文を朗読す、之に対し青淵先生の懇切なる謝辞ありて、更に本多氏の挨拶あり、是れにて式を閉ぢ、別室に於て華かなる祝宴を催したるが、宴終了に際し本多静
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六氏五分演説を試み、次に同氏の指名にて加藤政之助氏、加藤氏の指名にて長島隆二氏、次で諸井六郎・卜部喜太郎両氏何れも前演説者の指名にて五分演説を為し、最後に青淵先生更に謝辞を述べられ、今夕の如く同県人の諸氏によりて催されたる祝賀の宴に列席することを得しは余の衷心より感喜する所なりとて、先生多年の経歴を物語られ、微力乍ら今後の余生をして益々社会公共の事業に尽瘁すべく努力しつつある故、諸氏に於ても余の意の存する所を諒とせらるゝを得ば、余の本懐不過之云々と鄭重なる謝辞あり、最後に山川氏の閉会の辞ありて一同和気靄々裡に午後九時散会せりと云ふ。


埼玉県人会会報 第四号・第二八―三六頁 大正一一年一二月刊 渋沢子爵陞爵祝賀会(DK490180k-0003)
第49巻 p.520-525 ページ画像

埼玉県人会会報 第四号・第二八―三六頁 大正一一年一二月刊
    渋沢子爵陞爵祝賀会
 会長閣下には大正九年九月五日勲功に由り特に子爵を陞授せられたり、依て県人会は祝賀会挙行に就て計劃せり。
 準備会 大正九年十月十八日山川義太郎・本多静六・滝沢吉三郎・諸井四郎諸氏は事務所に会し、県人会・学生誘掖会・学友会の三団体申合せ祝賀会開催に関し協議を遂げ、予め発起人となるべき人々の同意を求むるため左の依頼状を発し、十一月十三日挙行の予定とせり。
 拝啓 秋冷の候益御清適之段奉大賀候、陳者渋沢子爵先般陞爵の恩命に接せられ候は誠に慶賀の至にて、吾人本県出身者之殊に欣喜に堪えざる処に御座候、就ては同子爵を会頭に仰ぎ居候埼玉県人会・埼玉学生誘掖会及埼玉学友会の三団体申合せ同県人祝賀会開催致度と存候間、何卒左記事項御快諾の上発起人に御加入被成下度、此段得貴意候 敬具
  大正九年十月十八日
                       山川義太郎

                       本多静六
                  世話人
                       滝沢吉三郎
                       諸井四郎
      要項
 一、来月十三日午後五時より上野精養軒にて挙行の予定。
 二、一般来会者の会費は凡参円五十銭、学生に限り会費壱円五十銭の予定。
 三、料理及装飾の費用は壱人に付凡六円の予定。
 四、式は祝賀文朗読に止むること。
 五、祝賀会に出席者の署名したる名簿を添え子爵に贈呈する事。
 六、発起人には出席の有無に不拘約弐拾円の御出金を請ふ事。
 七、御諾否乍御手数来る二十五日迄に御一報の事。
          以上
 斯くて前記四氏は更に県人会常任幹事石川雄之助・黒須竜太郎・増田明六・相田延一諸氏と協議の結果、祝賀文起草を石川雄之助氏に託し、他の一面には実行方法に就て著々歩を進めたり。
 然るに閣下には十一月初旬より御風気に罹らせられ、医師の勧に由り転地するの必要を認めたるに由り、祝賀会は一先づ延期し、改めて
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来春四月頃気候の最も温暖良好の時を以て挙行することゝせり。
 翌大正十年三月廿日以上八氏再び事務所に相会し、改めて発起人の同意を求むることゝし、同四月一日前発起人に通知を発し夫れ夫れ同意を求め、四月十日左記開会通知状を発送せり。
 拝啓 時下益御清適の段奉賀候、陳ば渋沢子爵昨年御陞爵相成候は御同様本県人の衷心欣喜に堪えざる所に御座候、就ては来る四月二十三日(土曜日)午後五時より上野精養軒に於て本県人祝賀会相催し度候間、万障御差繰り御来会被成下度此段御案内申上候、尚御知友御勧誘被下度併て願上候 敬具
  大正十年四月十日
   渋沢子爵陞爵埼玉県人祝賀会発起人
    石井健吾     石川雄之助     石坂泰三
    岩出惣兵衛    今井利喜三郎    林頼三郎
    原富太郎     本多静六      大場多市
    大川平三郎    大森喜右衛門    小倉常吉
    小沢久助     尾高幸五郎     岡田健次郎
    渡辺六蔵     渡辺得男      加藤政之助
    河田大三九    柿原定吉      粕谷義三
    田中万次郎    田中栄八郎     田島竹之助
    滝沢吉三郎    塚田啓太郎     長島隆二
    永田甚之助    卜部喜太郎     野本伝七
    黒須竜太郎    熊倉良助      山川義太郎
    山中勇      山崎嘉七      松村金兵衛
    松岡三五郎    松谷正太郎     松崎半三郎
    松崎伊三郎    松本真平      増田明六
    福田又一     小林辰蔵      遠藤柳作
    相田延一     新井由三郎     綾部利右衛門
    網田豊三郎    斎藤安雄      斎藤小十郎
    斎藤善八     指田義雄      宮下林平
    渋谷正吉     渋沢義一      日比谷任次郎
    諸井六郎     諸井恒平      諸井四郎
    桃井可雄     関根温       杉田助左衛門
追伸
 一、当日の順序
  一、余興
  一、祝賀式
  一、祝宴
 一、会費 金五円(発起人金拾五円)当日御持参相成度候事
  但し車夫仕度は自弁の事
 一、御来否共封中の回答箋に依りて来る四月二十日迄に必らず御回答被下度、若し御回答なきときは御不参と相見做候事
 一、御出席の向は受付に於て御署名相願度候間御含置被下度候事
 一、御出席の御回答後二十二日迄に御取消無くして御不参の場合は御出席と致会費を申受候間御承知置被下度候事
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 当日の概況
  司会者 副会長 山川義太郎氏
 正五時開会 来会者には予め用意せる書箋に一々署名を乞ひ、壱秩の幅に調製し閣下に贈呈することゝせり。
 五時半閣下来場せられたれば特に設けられたる式場に請じ、会員一同の面前に於て山川副会長左の祝賀文を朗読す。
      祝辞
 渋沢子爵閣下、閣下ハ今回国家ニ勲功アルノ故ヲ以テ特ニ陞爵ノ恩命ニ浴セラレタリ、我等埼玉県人ハ衷心欣喜措ク所ヲ知ラズ、玆ニ相会シテ賀筵ヲ開キ聊カ祝賀ノ意ヲ表セントス
 惟ルニ閣下ハ今ヨリ六十余年前郷里八基村ヲ出テ一橋家ニ仕ヘテ一代ノ英傑徳川慶喜公ニ臣従シ、遠ク欧州ニ遊ビテ世界ノ文化ヲ咀嚼シ、其帰国スルヤ政界ハ一大変動シ将軍ハ已ニ大政ヲ奉還シテ世ハ王政復古トナル、閣下召サレテ大蔵省ニ官スルコト五年、然レドモ是レ閣下本来ノ素志ニ非ルヲ以テ幾何モ無ク野ニ下リテ第一銀行ヲ主管セリ、是レ閣下ガ政界ヲ離レテ身ヲ実業界ニ投ゼラレシ始メトス、当時我ガ国ハ維新更始ノ際百事皆新ナル施設経営ヲ要ス、就中商業ニ於テハ指導ヲ要スルモノ多シ、是ニ於テ閣下自ラ範ヲ垂レテ殖産興業ノ実ヲ挙グルト共ニ、最モ人格修養ニ重キヲ置キ、商業ヲシテ社会上権威アルモノタラシメントシ、努力経営今ニ五十余年、我ガ実業界ヲシテ欧米諸国ニ比シ遜色少キニ至ラシム、其間ノ偉功丕績挙テ数フベカラズ、曩ニ朝廷其功ヲ賞シテ男爵ヲ授ケラル、其後閣下ハ各種実業界ノ関係ヲ解キタレドモ、更ニ社会事業ニ向テ尽瘁セラレ、教育・宗教ニ慈善・救済ニ将タ感化事業ニ労働問題ニ、其他苟モ社会ノ発展調節ニ関スルモノ一トシテ其指導斡旋ヲ力メサルハ無ク、而シテ外ニ対シテハ国民的外交ニ重キヲ置キテ世界ニ於ケル日本ノ地位ヲ向上セントス、殊ニ日米関係ニ至リテハ最モ閣下ノ苦心焦慮セラルヽ所タリ、夫レ明治維新以後豊功偉績ヲ樹ツルモノ少キニアラズ、然レドモ在野ノ志士ニシテ斯ノ如キ偉業ヲナセルハ独リ閣下アルノミ、是ニ於テ朝廷更ニ爵ヲ陞セテ子爵ヲ賜ハル、良ニ以アリト謂フベシ、抑モ閣下ノ事ニ当ルヤ本邦固有ノ士道ヲ経トシ、孔孟ノ儒学ヲ緯トシ、常ニ卓絶ナル識見ト偉大ナル精力トヲ以テ実践躬行セラルヽガ故ニ、其事業ノ上ニハ毎ニ一段ノ光輝ヲ加ヘタリ、今ヤ閣下歯徳共ニ高ク名声ハ遠ク世界ニ馳ス、我等県人ガ此名誉アル閣下ヲ戴クヲ得タルハ何等ノ光栄ゾヤ、玆ニ県人有志相会シテ謹ミテ欣喜ノ微衷ヲ表ス、冀クハ閣下其徳ハ南山ノ高キガ如ク、其恵ハ東海ノ深キガ如ク、寿康強健ニシテ長ク久シク我等県人ノ仰止タランコトヲ
  大正十年四月二十三日    渋沢子爵陞爵埼玉県人祝賀会
  此日画家森脇雲渓氏は自作鯉魚の画幅に一書を添へ贈呈方を幹事に托したれば、幹事は之を閣下に贈呈せり。
 食堂開始 式後直に食堂を開始す、已にして本多静六氏は会員を代表し左の挨拶を述べらる。
 諸君本日は我が県人渋沢閣下の陞爵祝賀会を催するに当り、主賓た
 - 第49巻 p.523 -ページ画像 
る渋沢閣下の御来臨を忝ふし、且多数諸君の御出席を得ましたのは世話人一同の深く光栄とする次第で厚く御礼を申します。
 偖て渋沢男爵閣下には今回子爵におなりになりましたが、閣下の御功績から申せば寧ろ少いかと思ふ次第であります、而して子爵には已に富と名誉とを兼有せられて居りますが、世の普通人は名誉の境遇に達せし頃は精神は最早老耄して居ります、然らずんば逸楽に耽り天寿を全ふするものは少いのであります。名利兼有し寿八十二の高齢に達し、若かも矍鑠たること壮者を凌ぐ様な閣下は思ふに百二十五歳の寿を有せらるべきを信ずるのであります、乃ち閣下は名誉と富と天寿とを併有せられました、勿論世には閣下若くは其以上の長寿を保つ人無きに非るも、多くは晩年は楽隠居と称して全く社会の事業に関係せざる者が普通である、然し此では長寿も何の意味をなさないものと思ひます、之に反し渋沢閣下は一日否一刻も安閑として居らず、八十二歳の高齢を以て壮者も尚及ばざる勇気と努力とを以て国家社会のため尽瘁せらるゝは、我々の深く感謝に堪へざる次第であります、願はくば一層御自愛百二十五歳以上に達し、永く国家のため尽瘁せられんことを祈る次第であります。
加藤政之助氏
 渋沢閣下は天下衆目の天爵を有し是以上人爵の必要を認めないのであります、今日の時世は目明き千人目盲千人の世の中であるのに、更に尊き人爵を得られたることを深く御喜び申します。
長島隆二氏
 渋沢男爵には先頃実業界との関係を断たれし以来内外諸般の事に向て尽瘁せられ、如何なる事業に於ても殆ど閣下を煩はさないことは無いのであります、例へば北米の事に又は内地のことに、其他慈善に社会に思想に教育に各種の業皆閣下の意見考案援助なきことはないと申しても差支ないのであります、近くは済生会の如きも亦然りであります、斯く功績は弥々高きに爵の子爵とは甚だ低き感じが致します、然し乍ら他の一面より見れば国民全体より其功績は十分に認めらるゝことゝ信じます。
諸井六郎氏
 私は子爵の心を心とし県人の心を心とし多く海外に於て事に当て居りますが、世界の各方面に於て常にバロン渋沢の名を見ざることは無いのであります、同時に我が埼玉県のことを思出します、私は之を以て紀念といたします。
卜部喜太郎氏
 私は平素子爵には頗る疎遠をして居りますが、心は絶へず尊き御指導を受けて居る高弟の一人で、子爵をば天下万人より仰がるゝ先輩と認めて居ります、思ふに人望を欲するならば閣下は已に公爵に達したでありませう、然るに仁義忠信の道を楽み倦まざるは此れ天爵であります、古人は天爵を修めて後に人爵を得ると云ひます、閣下が世界的人物として仰がるゝは此れ天爵の存する所以でありまして微々たる男爵より子爵に進みしとて格別喜ぶにも足らず、已に天爵を楽む以上は人爵は公爵以上であります、我が埼玉の一士卒が公爵
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以上の光を放たるゝは此れ我が恩師として仰ぐ所以であります、其処で我々は只形に於て喜ぶのみならず、閣下の心を相続し小渋沢たらんことを国家世道人心のために希ふ次第であります、我々は閣下に由て感化を受けたることを謝するに辞なし、尚願くは永久に指導せられんことを切望致します。
渋沢子爵の御答辞
 万堂の諸君、私は今夕程心嬉しく感佩に堪へないことはありません勿論喜びと云ふことは沢山ありますが、心から深く感ずるのは同郷の心ある諸君と共に相会し、賞讚を受けると云ふことは何たる光栄でありませう、何とも御礼の申様も無い程であります。
 偖て自分一身の経過は已に御承知でありませうが、自分は血洗島に呱々の声を上げ、始めは漢籍を修め拾四歳の時尾高が水戸学を修め尊王攘夷を主張し、寛仁大度は仁なりなどゝ云つた其薫陶を受けました、元来農家の生れですから農業を営み、傍藍の製造に従事して閑暇には多少文学にも志しましたが、偶米艦来るに当り天下の大勢国家の憂ふべきを覚り、同時に国家は身命より大切なることを知り先づ攘夷論の仲間入をしました、其間には種々なる事に出遇ひ其事毎に感を深ふし、国家は我が親よりも尊きことを知りました、其がため親をも余処にして暴挙を企て乱暴な考をし、何でも海外と事件を起さなければ日本の精神を一変し得ずと考へ、廿四歳の時三人相会し種々なる計劃相談を致しました、親に対しては不孝なるも国家に対しては忘るべからずと思ひ、兎に角一時親を見棄ることに致しました。
 先づ横浜に入り異人館焼払を思立ちましたが尾高順中《(尾高惇忠)》が止めました其をすれば直に捕縛さるゝ、其れでは何にもならぬ、寧ろ京都に出てゝ事をせんとて、文久三年十二月廿七日浪人となり京都に上り国家に尽さんと思立ちました、其処で予て懇意な平岡の家来と云ふ手段を取り、京都に入りては一橋家に仕へしが、其後一橋慶喜公が将軍になると云ふ話が起りましたから、自分は其は将来のため決して得策でないと云つて諫めましたが遂に用ひられませんで、慶喜公は将軍になられました。
 其後自分は命に由り欧州に派遣されましたが、其間に政変が起り、将軍は政権返上となり、遂には伏見・鳥羽の戦となり、有栖川の宮は征討大総督として東下せられ、慶喜公は上野寛永寺から一旦水戸に退き、やがて駿府に屏居せらるゝと云ふ急変に接し、此際に於て私は帰朝し、駿府の宝台院の一室に於て慶喜公にお遇ひ申しましたが、其時は只感慨無量と云ふ態で一言も申上ぐる事が出来ませんでした。
 其処で一時駿府に足を駐め実業界に尽さんと思ひ、当時欧州に盛に行はれて居る合本組織を採用せんと思ひしが、明治二年十一月召されて大蔵省に入り官に務めしが、其後官を辞し第一銀行を起し、専ら之に従事して居りました、然し大正五年に実業界乃ち利益方面を全く離れて、専心社会事業に尽すべきことを思立ちました、之には利益と道徳の一致を計らんとて甚だ苦心しました、元より十分なる
 - 第49巻 p.525 -ページ画像 
理想には達しませんが、或る程度迄は商人をして人格と道徳とを高めしめ、欧米諸国の商人と伍して敢て遜色なきに至らしめたことを信じます、其他今尚否今後とも最も苦心するのは御承知の日米関係であります、顧れば最初米国のハルリス氏が日本に来て熱心に開国を促し貿易の利を説くに当り、日本にては鎖国攘夷乃ち外人打払ひの論盛にして、私も其れを以て国の目的方針としなければならないと考へた一人であつた事は前に申述べた通りでありましたが、然るに世の形勢が一変し、六十年後の今日に於ては米国が日本人打払と云つた様な事になつて来たのですから、私から見ましては到底黙つて見て居る訳には行かぬのであります、是非とも之は適当に解決しなければならぬ事と思ひます、元よりこの様な年を取て微力なる此身が何れ程のことが出来やうとは承知して居りますが、生きて居る限りは力の続く限り御奉公を致しこの御恩命に報ずる考で御座います、其に就きましても今後一層県人諸君の御後援を仰きたいと思ひます、今夕御鄭重なる御招待に預り一言以て謝辞と致します。
 斯くて主客共に歓を尽し、司会者の発声にて子爵閣下の万歳を三唱し、九時散会せり。
      出席者○一五二名氏名略ス