デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

9章 其他ノ公共事業
7節 関係団体諸資料
3款 埼玉県人会
■綱文

第49巻 p.575-577(DK490193k) ページ画像

昭和8年9月23日(1933年)

是日当会ハ、浅草伝法院ニ於テ、栄一及ビ其他ノ物故役員ノ追悼法会ヲ催ス。遺族代理トシテ渋沢
 - 第49巻 p.576 -ページ画像 
家ヨリ渡辺得男参列ス。


■資料

埼玉県人会会報 第二九号・第二六―二八頁 昭和八年一〇月刊 物故役員追悼大法会並ニ修養法話会開催記(DK490193k-0001)
第49巻 p.576-577 ページ画像

埼玉県人会会報 第二九号・第二六―二八頁 昭和八年一〇月刊
    物故役員追悼大法会
      並ニ修養法話会開催記
 本会は去る九月二十三日秋季皇霊祭当日、浅草伝法院本堂に於て左記物故者役員各位の追悼法会を執行し、在りし日本会発展の為に幾多の寄与貢献せられし英霊に対し、心からなる感謝供養の誠意を披攊すると共に、発展途上にある本会の現況を報告し、併せて盛大なる修養法話会を開催し、在りし日の故人の功徳を偲び、懐しき幾多の思出に耽りつゝ県出身先人の遺徳を讚仰し、数時間に亘つて修養法話に聴き惚れ、意義深き一日を過したのであつた。
    物故者霊
  前会長      子爵 渋沢栄一殿○外二七名氏名略ス
定刻加藤副会長は物故役員追悼法会開催の趣意を述べ、定めし地下に眠る物故役員諸氏も心から本会の催しに対し喜ばれる事であらうと壮重厳粛なる口調を以て開会の挨拶をなし、続いて二十余名の僧侶の読経に遷り、了つて故渋沢子爵遺族代表渡辺得男氏○中略等の焼香に続いて参会者一同の礼拝あり、香煙縷々立ち昇る厳粛裡に法会を終り、別院に於て会食を共にし、午後一時より曹洞宗大学々長忽滑谷快天老師は『生死の問題』につき人生問題の蘊奥を説かれ、喜多院住職壬生雄舜師は『追悼の意味』なる題下に約一時間に亘り平明簡易に有意義なる法話を試みられ、参会者に多大の感興を与え、本多博士は『故渋沢子爵の逸話』の御披露あり、前会長の偉大なる御人格を偲ぶ事が出来三時過ぐる頃散会せるが、当日参会せる芳名は
 岸井辰雄○外七九名氏名略ス
      渋沢青淵先生の思出
      (昭和八年九月廿三日伝法院にて本多博士講演大要)
 本日我埼玉県人会員中で物故せる先輩各位の慰霊追悼会を催ふしましたに就ては、私も多年物故諸先輩の御指導を受けて居りました一人である関係上、此機会に心から追悼の意を表し、深く物故各位の冥福を祈る次第であります。
 就ては私は物故先輩中の代表として、渋沢青淵先生に関する思出話を申上、以て慰霊の言に代へます。青淵先生の偉大なる人格とその功績に至つては、已に世に公にされたものが多くありますから、私は玆に、私自身が約四十年の間親しく先生に接した間に直接に感動した事丈を申上ます。
 其一に、先生は地方の会合の席上等で決して知事の上席に就かれなかつた。先生から見れば孫のやうな而も自分の世話をした事のある知事に対しても、先づ知事を正面に据えて、其次でなければ座らなかつた、或る時私が其訳を聞いたら「知事は其地方の長官だから、皆ながそれを立てるやうにしなければ、其地方は治らないではないか」と言はれました。
 其二 新しい用で相談に行くと、大抵一度は之をつゝぱねてこちら
 - 第49巻 p.577 -ページ画像 
の熱心さを試し、且突込んで其事情を反問した上で初めて夫れに賛成し而して苟も一度賛成した以上は何処迄も面倒を見て、それを完成させました、そして多くの場合には、此方から無理に頼んでやつと賛成して貰つた事業にも、却て困る程懇切に世話をやかれました。
 其三 どんなに利益の多い事業でも決して独占にせず、必ずや大勢に分けてやると謂ふ風にされ、反対に損な仕事でも其が世の為になる事なら、どうだ銘々損する積りでやらうではないかと、先づ自ら金を出されました、特に私の知つて居る先生晩年の事業は全く自己の利害を超越して、世の為め国の為めに尽された事に感動されました。
 其四 先生は「理窟は言ふべし酒は買ふべし」の実行者であつた。或る時或る用で先生に頼みに来た人に対し、先生は鋭い理性で判断して、どしどし其の不注意を叱り飛ばされたのだから、もうそれで帰へすのかと思つて居たら、先生は今暫くと止めて、理窟は右の通りだが君の計劃にも絶対見込がないと言ふわけではないから、更に大に研究するが良い、之れは少しだがと包み金を出されましたから、帰つた後で「あんな奴に一文もやる必要はないではありませんか」と私が言つたら、「何に世の中は理窟は言ふべし、酒は買ふべしだからな」と言はれた事があります。理性の発達せる点に於ては、私は故安田善次郎翁に敬服して居た、然し酒を買ふ点が両者の間に違つた点で、安田翁が凶刃に倒れ先生が天寿を全ふせられた相違は、玆に存する事かと存じます。
 其五 談話が懇切丁寧であつた事、用件がすんで玄関迄送り出しながら、更に前に話した要点を繰返へして更に念を入れられました、随て先生の話された事は誤りなく記憶する事が出来ました。
 其六 青淵先生は死に至る迄、新知識を取入れる事に努められました、即ち先生は死ぬ少し前迄断へず人の話を聴き、又新らしい本を読まれて、新知識を取入れる事に努められました。私抔でさへ洋行して帰つて来ると、必ず一度土産話をしろと招かれたものであるが、特に私が驚いたのは、先生は多分八十九歳でしたが、伊香保の木暮別館に避暑されて、私も其近所に避暑して居たから、時々御邪魔をしましてふとした話の行きがゝり上進化と遺伝の学が今日の人生観上重要な事をお話しました所が、それは今少し詳しく知りたいが何かよい本はないかと云はれますから、幸私が持合せて居た鈴木忠康氏の遺伝と進化と云ふ二百二十九頁の本をお届けしましたら、二日許りの内にそれを悉く精読されて、三日目に私がお訪ねした時には、此点はどういふ訳かと、数ケ所私に質問されたのには、私は実に叱驚して仕舞つたのであります。