デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

9章 其他ノ公共事業
7節 関係団体諸資料
8款 財団法人青山会館
■綱文

第49巻 p.624-629(DK490202k) ページ画像

大正14年1月(1925年)

是月栄一、徳富猪一郎ノ設立ニ係ル財団法人青山会館ノ顧問トナル。在任歿年ニ及ブ。


■資料

渋沢栄一 日記 大正一四年(DK490202k-0001)
第49巻 p.624 ページ画像

渋沢栄一 日記  大正一四年         (渋沢子爵家所蔵)
一月十七日 半晴 寒
○上略 国民新聞山川瑞三氏ヨリ、青山会館ノ顧問タルノ依頼ニ付来状アリタルニ、同意承諾ノ事ヲ回答ス
○下略
  ○山川瑞三ハ当会館理事。
  ○当会館常務理事関野正之談ニヨレバ、当会館ノ会議ニ栄一ノ出席シタルコトアル由。(昭和十七年二月当伝記資料編纂員松浦総蔵記)


(山川瑞三)書翰 渋沢栄一宛大正一四年一月二〇日(DK490202k-0002)
第49巻 p.624 ページ画像

(山川瑞三)書翰  渋沢栄一宛大正一四年一月二〇日
                    (渋沢子爵家所蔵)
敬呈 先便御相談申上候青山会館顧問の件、余り勝手ケ間敷恐縮の至ニ有之候得共、御異存も無之事と信し、御承諾の事として本日の紙上ニ発表致置申候、実ハ御回答を相待可申く候得共、発表相急候まゝ右の次第ニ御座候、不悪御承引御願申上候
猶ほ顧問の職責としては
 顧問は館長の諮詢ニ応し、且ツ随時理事会、評議員会ニ出席して意見を開陳することを得
とあるのみにて、別ニ物質的責任を有するものに無之候間、此儀も御含み置被下度御願申上候 頓首
  大正十四年一月廿日           山川瑞三
    渋沢子爵閣下


青淵先生職任年表(未定稿) 昭和六年十二月調 竜門社編 竜門雑誌第五一九号別刷・第二二頁 昭和六年一二月刊(DK490202k-0003)
第49巻 p.624 ページ画像

青淵先生職任年表(未定稿) 昭和六年十二月調 竜門社編
              竜門雑誌第五一九号別刷・第二二頁昭和六年一二月刊
    大正年代
  年 月
 一四 一 ―財団法人青山会館顧問―昭和六、一一。


財団法人青山会館 第一九―二八頁刊(DK490202k-0004)
第49巻 p.624-625 ページ画像

財団法人青山会館  第一九―二八頁刊
    財団法人青山会館寄附行為
      第一章 名称
第一条 本館ハ財団法人青山会館ト称ス
      第二章 目的・事業
第二条 本館ハ皇室中心主義ニ基キ、一般国民ノ社会的教化ト品性陶冶並娯楽慰安ヲ図リ、以テ其向上発展ニ資シ、且其福利ヲ増進スル
 - 第49巻 p.625 -ページ画像 
ヲ以テ目的トス
第三条 本館ハ前条ノ目的ヲ達スル為メ会館ヲ建築シ左ノ事業ヲ行フ
 一、各種ノ図書ヲ備ヘテ縦覧ニ供スルコト
 二、講演会、講習会、談話会、展覧会、陳列会、慰安会、バザー、演芸会其他、営利ヲ目的トセサル各種ノ会合ヲ開クコト
三、社会教化事業ノ指導者ヲ養成スルコト
四、前記列挙ノ事項ヲ目的トスル会合ノ為メ、会館ノ全部又ハ一部ヲ貸与スルコト
五、地方又ハ海外ニ於ケル各方面ノ人士ノ紹介、又ハ上京者ノ接待ヲナスコト
六、其他評議員ニ於テ本館ノ目的ヲ達スルニ必要アリト認メタル各種ノ事業
      第三章 事務所
第四条 本館ハ事務所ヲ東京市赤坂区青山南町六丁目三十番地ニ置ク
○中略
      第五章 役員
第十二条 本館ニ左ノ役員ヲ置ク
 一、館長  一名  一、顧問 若干名
 一、理事  拾名  一、監事 三名
 一、評議員 若干名
○中略
第卅二条 第十五条ニ依リ推選セラレタル館長、理事、監事、評議員顧問ノ就任スル迄、左記ノ者ヲ以テ館長、理事、監事、評議員、顧問ト定ム
    青山会館役員(いろは順)
△館長 蜂須賀正韶
○中略
△顧問 一木喜徳郎   床次竹二郎
    若槻礼次郎   高橋是清
    田中義一    上原勇作
    久原房之助   八代六郎
    山本悌二郎   後藤新平
    近衛文麿    渋沢栄一
○下略



〔参考〕財団法人青山会館 第六―一八頁刊 【青山会館の建設に就て 徳富猪一郎】(DK490202k-0005)
第49巻 p.625-629 ページ画像

財団法人青山会館  第六―一八頁刊
    青山会館の建設に就て
                      徳富猪一郎
 本篇は徳富猪一郎氏が大正十年十二月二日夜、旧国民新聞社中、同郷、同窓の友人諸氏を日本倶楽部に招待して、社会教育の宿志を果すべく、青山会館を建設する計画を発表したる際の演説の草稿である。以て其の微衷の存する所を諒承せられんことを。(国民新聞掲載)
満堂の諸君各位、今夕は御繁用の際にも拘らず、斯く多数光臨された
 - 第49巻 p.626 -ページ画像 
ことを感謝致します。お招きしたる範囲は、従来同社中とか、同郷とか、同窓とかと申す方々に限りました次第で、その中にも遺漏の多かつたことを遺憾と存じます。或は又た故らに此方より遠慮して、差控へた向も少くありません。右の方々には何れ他の方法もて、お知らせ申すつもりで御座ります。
      教育は四十有余年の興味と志望
私は事珍らしく申すではありませんが、年来教育に多大の興味を持つてゐます。已に明治十四、五年、私が十九歳か二十歳の頃、大江義塾なるものを創立し、自ら理想の一斑を実施しました。爾来四十有余年専ら新聞記者として世に立ちましたが、未だ一日も教育の事を忘れたことはありませぬ。されば去る大正八年、国民新聞が一万号に達した際にも、自ら揣らず国民教育奨励会なるものを発起し、聊か国民教育の為めに尽す所あらんとしました。然るに頼ひに天下に少なからざる共鳴者出で来り、今や国民教育界に於ける見逃す可からざる一の機関となり、創立以来僅かに二箇年でありますが、已に較著の成績を挙げてゐます。此れ固より私の力ではありませぬ。全く沢柳会長、歴々の評議員諸君、理事諸君、其他有志諸君の忠実、熱心なる働きの結果であります。
      更に社会教育に就て多大の希望
私は更らに社会教育に就て、尚ほ多大の希望を有してゐます。特に近来に於て最も熱切に、其の必要を感じてゐます。社会教育とは、小学・中学・大学以外、云はゞ総ての学校以外に於ての教育であります。或は通俗大学と申しても差支へありますまい。即ち一般人民に向て、時節柄尤も緊要なる智識を普及せしめる事であります。例せば明治神宮の御祭日には、維新時代史を講演し、華盛頓会議の際には、米国史、若くは現代の時事を講演すると云ふが如き、最も適切なる問題を、最も適切なる場合に講演し、云はゞ対症応急の妙薬を、其の入用者に提供するが如きことであります。
惟ふに今後は普通選挙も行はれ、国民の智徳を向上せしめ、殊に其の日新の時務的知識、科学的知識、経済的知識、市民として是非とも有すべきあらゆる知識を取得せしむる必要は、更らに従来に比して数層の必要を加へ来る次第であれば、此種の教育は取り分け大切の事と信じます。
且つ或は音楽会とか、或は絵画の展覧とか、或は花卉の陳列とか、凡そ社会の諧調を保ち、人心の融和を進め、世の中の階級戦争や、利害的反目や、其の荒らくれたる殺風景なる状態を調節して、春風、和気駘蕩、藹然の裡にあらしめんとする作用は、愈よ其の必要を認めざるを得ないのであります。復た市民をして随意に其の知識を吸収せしむる、社会及び時事と接触する簡易図書館の類も同様必要と思ひます。就ては其の必要を充たす機関の設置は、一日も欠く可からざるものと信じます。
      機関たる会館の建設と敷地の困難
私は年来倫敦にトインビー・ホールと申す会館が、倫敦の貧民窟なる東端にありて、労働者の為めに社会教育の仕事をなしてゐることを承
 - 第49巻 p.627 -ページ画像 
知してゐます。私は我国に於ては単に労働者のみとは申しませぬ。我が中流階級、俸給受領者階級、小商人階級、小工業者階級等、即ち官吏、会社員、教育家、其他の人々にも、更らに又た地方青年諸君の中央に於ける交通の中心点として、若しくは紹介の仲次所としても亦た其の必要を認むるものであります。私は是非其の機関として、即ち其の機関の一として、一の会館を建設致したいものと思ひ、已に前年来屡ば我が社友とも相談し、先づ其の敷地を借り受けんと諸方を物色致しました。
併しながら不幸にして、約四十方哩の東京市中に我等に貸して呉れそうな地所は見当りませぬ。固より金さへ出せば、幾許でもありませうが、無代若しくは無代同様の地所はありませぬ。それで私は殆んど失望の余り、一時は断念せんとしました。併し私は偶然にも少年の時に読んだ、ロングフエローの詩を想起しました。それは或る彫刻家が彫刻す可き材料に窮し、百計尽きましたが、汝の榾火の燃え残りの木片をもて、それに充てよとの暗示を得て、意外なる名作を出来したと申す話であります。即ち彼是遠方を探し廻る迄もなく、青山なる私の現住所を以て、之に充てては如何と云ふことであります。
      明治神宮附近青山私邸の提供
勿論青山の邸宅は、甚だ狭くはありますが、又た山の手に偏してはゐますが、如何であらうかと考へました。私は先づ神田青年会館の敷地に就て比較しました。私の邸宅の敷地は、五百十七坪余ありますから青年会館程の建物ならば差支あるまいと考へました。場所は山の手でありますが、幸ひに明治神宮表参道の真前であります。今や明治神宮を中心として、故らに建設せんとする各種の計企さへある際なれば、最も好都合であると考へました。御承知の如く東京は追々と渋谷に拡がり、玉川方面に拡がりつゝあります。大東京から見れば青山は東京唯一の中心でなければ、少くとも中心の一であります。特に地方の諸君は何れも明治神宮を目標として、東京に来られますから、地方諸君と連絡を保つ上には、別して好位置であると認めました。且つ明治神宮附近に斯る会館を設立するは、皇室中心主義と申す意義からも、亦た 明治天皇の偉大なる御人格を景仰する上からも、頗る其の地を得てゐるものと信じます。
更に自から省みますれば、大正十一年には六十歳となり、十二年には世俗の所謂る還暦になります。私も自分相応に何なりと社会奉仕をなす可きであらうと考へました。せめて著作中の近世日本国民史が、十分の五以上の成功を見たならば、それにて申訳があると存じましたが牛歩遅々で中々思ふ様に果敢取りませぬ。彼を思ひ此を思ひ、寧ろ青山の現住宅の敷地を社会教育会館設置の敷地に寄附しては如何と思ひ附きましたのは、去年の末頃でありました。それから妻にも相談し、長子・次男等にも相談し、何れも異存ありませぬから、弥よ決心しましたのは本年の春頃でありました。故に本年の夏、沢柳君が洋行の際には、其志を打明け、何とか諸外国にも斯る機関の存在するであらうから、其の仕組等に就て調査をお願致し置いた次第でありました。
      思い出多き二十年来の旧廬
 - 第49巻 p.628 -ページ画像 
以上は全く会館設立、及びそれに向て私が青山邸宅の敷地寄附に関する一切の動機を、極めて率直に申上げたのであります。尚ほ余計な事ではありますが、少しく申し加へたき事があります。或は廃物利用の為めに差し出したのではない乎、即ち此家にいや気が差したのではない乎、売り飛ばさんとするも買手がないのではない乎、抔とのお疑問も出るかも知れませんが、決して左様ではありませぬ。私は元来物に飽くと申すことがありませぬ。無いと申すよりも出来ない性分です。私共は明治三十二年五月、庭の八重桜が未だ全く散り失せぬ内に此家に移りました。それから子供の部屋を建て、私の書斎を建て、両親が逗子から参る毎に二階を其の居室と致しましたが、行歩不便と申すので、更らに其の居所を建て、最後に成簣堂文庫を建てましたのが明治四十二年でありました。私は元来、此家を終焉の場所と定めてゐました。私の十人の子供の五人は此家にて産れました。私の著作の大部分は、此家にて出来ました。私の父は逗子から最後の病を養ふ可く、此家に参りました。私の母は此家にて永眠に就きました。私が移居の当初に植ゑました門前二株の銀杏樹は、既に雲を凌ぐの勢をもて成長してゐます。何と申しても私には思ひ出の多き家であります。厭気がさす所ではなく、私の魂魄は長へに此辺に彷徨するであらうと思ふ程であります。
又た大正八年私が重患にて、築地の林病院にゐました頃、已に此家を買ひ受けたしと、病院迄出懸けた人があつた程です。妻は其方に向ひ御覧の通り主人は未だ存生してゐますからとてお断り致した程であります。過日も或人が来て十五万円位ならば、買手もあるであらう。寄附とは大変な奮発ぢやと申しました。此れは洋服細民である私が、柄にない僭上な事をするとの意味が、或は言外に含まれてゐたかも知れませぬ。或は事実其通りかも知れませぬ。併し人心の同じからざるは其面の如しで、私は此れが今日の私としては、最善の方法と信じますから、此の通りに決心致しました次第で御座ります。当初から寄附する積りでもなければ、率爾に斯く決心したのでもありませぬ。但だ予ての念願たる、社会教育機関設置の為めに、熟図の上、自から其地を作さんと決心した迄の事であります。
      難題は建築費、大方の戮協に待つ
併し難題は是からです。此迄は吾物を差出すから、何も面倒はありませぬ。併し敷地のみでは何の用にも立ちませぬ。先づ何よりも会館が必要であります。如何に倹約しても、建築費と設備費と基本金とで一百万円と見積らねばなりませぬ。而して此金は誰が出します乎、何処から出ます乎。私は正直の所、一の見当も付きませぬ。但だ皆様の御戮協を俟つて、天下同志同感の君士より、如上の金額を募集して戴きたいと思ひます。
私は本来経済方面には、極めて無趣味の者であります。併し斯る場合には趣味の有無は論外です。故に私は不肖を顧みず、世間の富豪と申す方々にも御相談申して見るつもりで御座ります。唯だ皆様に金を出していたゞきたいと申すのみでは、聊か無責任と存じますから、兎も角も私も其の申訳けに、敷地丈は差し出すことに致しました。故に是
 - 第49巻 p.629 -ページ画像 
からは是非、其上に建物丈は建てゝいたゞきたいものと思ひます。世の中に死金と、生金とがあります。世間では多額の資金を擁する慈善事業がありますが、動もすれば寄附者の目的に副はぬ事があります。此れは死金と申さねばなまりせぬ。私は決して口広く申すではありませぬが、人様の御寄附になつた金は一銭一厘たりとも、最大有効に使用したいと思ひます。過般山梨県に参りました時に、或る郡視学の方から、国民教育奨励会は僅かに三十万円の資本でありながら、三百万円にも勝る仕事をしてゐると賞讚を受けました。此れは過当の讚辞であつて、固より斯く自惚る訳ではありませぬが、少くとも会長其他諸君の献身的骨折で、斯る事業中にて最も有効の働らきを為しつゝある丈は、間違ないと信じます。従つて今回の社会教育事業も、亦た同様である可く、誓て期待するものであります。
      財団法人として社会事業に貢献
繰り返し金の事を申しますが、兎角金は入用の場所には乏しきものであります。私は皆様に決して無理の出金を要求するものではありませぬが、何とか皆様の尽力にて、如上の寄附金の集る様願ひ上げます。若し皆様の高見にて、私共の為す可き仕事があつたならば、何なりとも為す積りであります。何卒御遠慮なく誨示を願ひます。而して若し此事が不結果に了つたならば、独り私一己の不面目のみでなく――敢て皆様の不面目とは申しませぬが――社会の不面目ではあるまい乎と思ひます。
私は寄附金がよるよらぬに拘らず、来年中には、青山の現住宅を引き払ふ積りであります。呉々も私の微衷を御洞察下され、然る可く御戮協を願ひます。而して更らに皆様より同志の方々に、如上の意味を御伝達下され、此れが真に個人的の社会事業でなく、社会的の社会事業たる実を挙ぐる様願ひます。申上ぐる迄もなく、此の会館の名は淡泊に青山会館と名けたいと思ひます。而して財団法人には、已に私の先輩、知己、親友、其他各方面に於ける名流の欣諾を得てゐますことは私が只今尤も愉快なる新聞として、皆様に御報道申上ぐる所で御座ります。