デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

9章 其他ノ公共事業
7節 関係団体諸資料
10款 糧友会
■綱文

第49巻 p.632-637(DK490204k) ページ画像

昭和2年5月31日(1927年)

是ヨリ先、食糧及ビ調理ニ関スル研究・改善並ニ普及ヲ目的トスル糧友会設立セラレ、是日栄一、顧問トナリ、在任歿年ニ及ブ。


■資料

会員関係書類 【謹啓 前略 昨日は早朝より御伺申上甚た失礼致候 其節は種々御高見拝聴致、且御声援を忝ふし、御多忙の折柄御無理相願候にも不拘、糧友会の顧問御快諾…】(DK490204k-0001)
第49巻 p.632 ページ画像

会員関係書類               (渋沢子爵家所蔵)
謹啓
前略 昨日は早朝より御伺申上甚た失礼致候
其節は種々御高見拝聴致、且御声援を忝ふし、御多忙の折柄御無理相願候にも不拘、糧友会の顧問御快諾被下候儀に就ては、同会の為め深謝の至りに不堪奉存候
何れ三井理事長罷出御厚礼申述へく候得共、不取敢乍失礼以手紙御礼申上度、如斯に御座候 敬具
                陸軍糧秣本廠内
                    糧友会
  二月八日                丸本彰造
                      佐藤金治
    渋沢子爵閣下
         侍史
  ○右ハ年次明記ナケレドモ昭和二年ナルベシ。


渋沢栄一 日記 昭和二年(DK490204k-0002)
第49巻 p.632 ページ画像

渋沢栄一 日記  昭和二年        (渋沢子爵家所蔵)
三月八日 曇 寒気少ク減
午前八時過起床、洗面シテ直ニ朝飧ス、畢テ陸軍士官佐藤金治・丸本彰造二氏ノ来訪ニ接シ、雑誌糧友ノ賛助ニ付種々依頼アリ、依テ携帯ノ書冊一覧ノ後、何分ノ回答ヲ約シテ辞去ス○下略


財団法人糧友会回答(DK490204k-0003)
第49巻 p.632-633 ページ画像

財団法人糧友会回答            (財団法人竜門社所蔵)
糧友発第一〇五号
    故渋沢栄一子爵ト本会トノ関係ノ件
  四月十八日        財団法人 糧友会
四月十五日附御照会有之候首題ノ件、左記ノ通リ回答申上候
追テ渋沢翁ニ関スル本会丸本理事ノ記録(糧友誌第六巻第十二号)御参考ノ為別送致候
          記
一、糧友会設立年月日       大正十四年十二月廿五日
一、故子爵ノ糧友会顧問就任年月日   昭和二年五月卅一日
  ○右ハ当資料編纂所ノ問合セニ対シテ昭和十三年四月十八日付回答セラレタルモノナリ。栄一顧問就任ノ月ヲ次掲職任年表ニハ二月トナスモ、綱文ニ
 - 第49巻 p.633 -ページ画像 
ハ右回答ニヨリ五月トス。


青淵先生職任年表(未定稿) 昭和六年十二月調 竜門社編 竜門雑誌第五一九号別刷・第二四頁 昭和六年一二月刊(DK490204k-0004)
第49巻 p.633 ページ画像

青淵先生職任年表(未定稿) 昭和六年十二月調 竜門社編
              竜門雑誌第五一九号別刷・第二四頁昭和六年一二月刊
    昭和年代
  年 月
 二 二 ―糧友会顧問―昭六、一一。


糧友会規約及名簿 第一―一一頁昭和二年刊(DK490204k-0005)
第49巻 p.633-634 ページ画像

糧友会規約及名簿  第一―一一頁昭和二年刊
    趣旨
凡ソ国運ノ隆昌ト国礎ノ堅確トハ、先ツ其ノ国民食糧ノ充実ニ俟ツモノ多シ、是レ近時食糧問題ノ重要視セラレ、之カ調査研究ノ必要ヲ諸方ニ喧伝セラルル所以ニシテ、殊ニ貧弱ナル食糧資源ト稠密ナル人口トヲ抱擁スル帝国ノ現状及前途ニ於テ然リトス。
然リ而シテ食糧ノ生産方面ト人体栄養方面ノ研究ハ公私機関ノ貢献見ルヘキモノ有ルモ、食糧ノ消費方面ト海外資源ノ開拓利用ニ就テハ其ノ一貫セル研究未タ完キモノ尠ク、吾人ノ最モ遺憾トスル所ナリ。
固ヨリ生産ノ増加ト消費ノ合理化トハ相互ニ併進シ、国内資源ノ開発ト海外資源ノ利用トハ同時ニ促進スルヲ以テ、帝国食糧問題ノ解決上意義多シトス。玆ニ於テ乎、吾人ハ特ニ平素抱懐スル食糧ノ合理的消費、即、配給組織ノ改善、購買方法ノ適切、炊事調理ノ向上、栄養価値ノ増進、消費ノ節約等ヲ広ク国軍及国民等ニ普及徹底シテ之ヲ一大能率化スルト共ニ、隣邦資源ヲ調査開発シテ食糧ノ供給ヲ豊富ニシ、以テ国家永遠ニ亘ル円満ナル食糧問題ノ解決ニ寄与セムトス。
斯クシテ吾人ノ研究ト活動トハ、現在及将来ノ帝国国礎ノ安泰ト食糧文化ノ先駆トシテ、四海同胞ノ平和ト幸福トニ新シキ奉仕ヲ為サムコト、本会終局ノ理想ニシテ且ツ使命トスル所ナリ。
    糧友会規的
第一条 本会ハ食糧及調理ニ関スル研究改善、並之カ普及ヲ目的トス
第二条 本会ハ前条ノ目的ヲ達スル為、左ノ事業ヲ行フ
  一 食糧及調理ニ関スル調査研究
  二 講演会、講習会、試食会等ノ開催
  三 会誌「糧友」ノ月刊、調査報告、其ノ他図書ノ刊行
第三条 本会ノ事務所ハ当分、東京市深川区越中島陸軍糧秣本廠内ニ設ク
 必要ニ応シ適宜ノ地ニ支部ヲ設ク
第四条 本会ノ会員ハ食糧及調理ニ関係アル有志者ヲ以テシ、正会員及名誉会員ノ二種トス
 正会員ハ本会ノ趣旨ヲ賛成シ、年額金参円ヲ納付シタルモノトス
 名誉会員ハ学識名望アル者、又ハ食糧及調理ニ関シ功労アル者ノ中ヨリ、理事長之ヲ推薦ス
 会員ニハ会誌「糧友」ヲ配付ス
○中略
 - 第49巻 p.634 -ページ画像 
    糧友会名簿
             顧問
               子爵 渋沢栄一
               男爵 大倉喜八郎
               男爵 益田孝
             評議員(イロハ順)○氏名略ス
             役員
              理事長 三井清一郎
              理事(イロハ順)
                  小野寺長治郎
                  横田章
                  佐藤金治
               監事 佐野会輔
               委員(イロハ順)○氏名略ス



〔参考〕糧友会関係書類(DK490204k-0006)
第49巻 p.634 ページ画像

糧友会関係書類              (渋沢子爵家所蔵)
(印刷物)
拝啓 時下春風駘蕩の候、益々御清穆の段大慶至極に奉存候
陳者本邦食糧問題の解決に関し、多年尽瘁せられ居候本会評議員子爵土岐章氏、今般苦心研究の結果食糧新資源たるべき科学的栄養新食品『イースト』(人造肉?)を完成し、其製品を発表し得る事に相成申候
御承知の如く『イースト』に就ては、過般ホノルルにて開催せられたる汎太平洋会議に於て、米国農務局長ベーカー博士によりて、将来の食糧問題の解決は『イースト』の食用にありと主唱せられたることは当時我国代表東京帝国大学教授那須農学博士によりても報告せられたる処にして、彼の欧洲大戦の際、独逸国民の生命を維持したる人造肉も正しく此『イースト』にて、之が利用の最も肝要なる事を裏書するものと存候
就ては玆に本会の主催にて、右研究者土岐子爵の説明を乞ひ、併せて研究品の御試食・御批評旁々御高話拝聴仕り度候間、御多用中恐入り候へ共、来る四月十六日午後五時半、華族会館まで何卒御枉駕相煩し度此段御案内申上候 敬具
 追て粗餐差上度準備の都合も有之候に付、御出席の有無御手数ながら折返し御回答の程願上候
  昭和三年四月十日
              糧友会
                顧問 子爵 渋沢栄一
                顧問 男爵 大倉喜八郎
                顧問 男爵 益田 孝
                理事長   三井清一郎



〔参考〕糧友 第六巻第一二号・第一二―一四頁昭和六年一二月 渋沢青淵翁と人口食糧問題 丸本彰造(DK490204k-0007)
第49巻 p.634-637 ページ画像

糧友  第六巻第一二号・第一二―一四頁昭和六年一二月
 - 第49巻 p.635 -ページ画像 
    渋沢青淵翁と
      人口食糧問題
                      丸本彰造
 天保十一年二月十三日朝、埼玉県大里郡八基村の農家に呱々の声を揚げた渋沢栄二郎、改名篤太夫栄一、号青淵翁は、昭和六年十一月十一日午前一時五十分、九十二歳の高齢を以て福禄の円満なる大往生を遂げられた。
      ×
 九十二歳の高齢を以て、昭和三年四月二十二日長逝せられた、吾等の糧友会顧問大倉喜八郎鶴彦翁を偲びて筆を執つた糧友三年六月号の大倉鶴彦翁と食糧問題私は、今また同じ吾等の顧問渋沢翁の事どもを記す、転た感慨に堪へぬものがある。
      ×
 回顧すれば、私の初めて親しく面話する機会を得たのは、大正十三年の夏七月初旬、朝霧漸く霽れた早朝、飛鳥山の静寂なる奥深き子爵邸であつた。そして、それは熱に燃えた食糧問題研究の同志が、我国食糧問題の対策研究及生産・消費・配給の合理化実行指導機関として官民協力の、帝国食糧協会の創立を目論見、其の実現を期する為私は微力をも省みず趣旨目的を説き、創立の後援を頼みに行つたのであつた。蓋し明治維新以来我国の新しい社会公共事業の創始発達には、陰に陽に必ずや翁の力の加はつて居ないものはないことが知られて居たからである。
      ×
 八十有余にして、未だ仕事に繁忙なる子爵邸は引きりなしに訪問者があるので、「待たすも気の毒だから」と特に誰れも来ない静かな内にとの御厚意に朝早く訪ねたのであつた。種々とあの大声で高説を聴き「何時でも出て参り、会の組織運用が出来るやう振当てゝ貰ひませう」と快諾されたのであつた。
      ×
 斯くて食糧協会の創立は着々進捗しつゝあつたが、ある事情によつて止んだ。其の変形として糧友会が生れ、曩の因縁により、顧問として御指導を願ふことになつた。
 糧友誌の表紙題字「糧友」は渋沢翁の染筆である。昭和三年一月号糧友の為書いて下さつた。
 生之者衆食之者寡為之者疾用之者舒則財恒足矣
                      八十八翁青淵書
 成程、翁が六歳のとき母親・父親から三字経の素読を教はり、八歳の時、四書・五経・日本外史・十八史略・文選を修了し、十二歳の頃には孔孟を学び、詩経・書経を読破したと云ふ漢学と、翁の抱懐する食糧問題経済人生観とが遺憾なく表はれて居る。
      ×
 耳は少し遠いが、大鐘をつくやうな元気な大声、ニコニコエビス顔で話される――時は慶応三年正月十一日仏蘭西大博覧会参列の為、特派使節随行の一員として横浜を出帆しマルセーユに上陸、巴里に安着
 - 第49巻 p.636 -ページ画像 
しナポレオン三世に謁見した威気揚々の話。豈計らんやその時既に故国では維新回天の大業が遂行され、帰朝命令が来て、一行が横浜へ帰着したのは年号も改まつて、明治元年十二月三日であつた。世は全く一変して了つた政局変転の大渦巻、先輩同僚の生死不明、討幕の念を抱きつゝ心ならずも幕臣となり、為に亡国の民の感を抱き、明治維新新政府に仕へる気持にもなれず、さりとて慶喜公の再呼出をも拒絶して、有為転変の世の中を感じた時の心境、感慨無量の物語。さては明治六年江藤新平と議合はずして財政意見書をたゝきつけ世間を驚倒せしめ、官を弊履の如く捨てゝ商人になつた一くさり。など勇ましく語られる時、若やいだ気色の見えたものだ。
 慶喜公には余程敬服せられたものと見え、大人格として賞め称へられ、篤敬の態度を以て種々逸事を語られた。
      ×
 翁はよく『私は人口食糧問題の方で格別専門的な意見を以て居りません』と云はれた。併し熟々思ふに、翁ほど人口食糧問題の解決に実際的尽力をされたものはあるまい。
 即ち翁が明治四十二年七十歳にして財界を引退された当時、其の関係して居られた事業は、実に百余の数に上つて居た程で、凡そ我国維新以来起つた新事業で、翁の関係せぬものは殆んどない。実に渋沢翁の伝記は即ち我が新日本の産業経済の発達史であると称するも強ち溢美ではあるまい、それ丈我が人口に職業を授け、同時に水陸食糧の増産、貯蔵法の改良、配給消費の合理化に貢献せられた事の絶大のものがあるのである。
      ×
 翁は食糧問題の解決策としては、いつも消費節約問題よりも生産増加問題を強調された。
 「ナニ、タント出来ればよい、少い土地から割合多く生産するやうにする、生産技術の進歩、科学的農業が必要である、然るに百般進歩したる今日、農業のみに学問の応用が乏しいのは遺憾である、最も必要なるは科学的農業経営と、真に農を愛し土に親しむ丁抹式農業教育が必要であつて、石黒農務局長等の後援して居る茨城県友部の日本国民高等学校の如きを、モツト普及するの必要がある。
 私も自分の郷里埼玉県八基村の小学校に、卒業後農民補習教育をするやうに力を注いで居る――要するに食糧問題解決の根本は、農業教育の実地訓練を盛んにし、土を愛し奮闘努力の気概を養ひ、撰種施肥農耕法等に学理を応用し、農業の工業化、電化をなし、集約農法による徹底的生産増加を図るにある」と云ふ事を持論として一再ならず語られた。
      ×
 その後昭和二年四月二十三日翁の推賞される国民高等学校を訪ねて成る程と感心した(糧友二年六月号)、翁の後援されて居る八基村の農業補習教育を視たいと思ひつゝ其の機会を得なかつた私は、今朝鮮に来て一昨年から小学校の正科に農業実習科を設け、男女並に生産教育を実施して居る状況を見て、翁の主張が此処迄も実現して居ること
 - 第49巻 p.637 -ページ画像 
を視て私かに喜んで居る事である。
      ×
 翁の言葉其の儘「三つ違ひの兄さん」として大倉翁を推され、大倉翁亦渋沢翁を敬し、其の友情の濃やかなるものがあつた。
 それ故大倉翁の三年春病むや、翁は頗る心配し、今一度健康を取り戻さんと、元気を附けられた。大倉翁の病篤きを予想して向島の大倉別荘で、感涙会を催されたとき、渋沢翁は少々不快であつたのを押して出席され、大倉翁を慰められたと云ふ涙ぐましき友情の表はれを見せられた、百歳迄もと信ぜられた大倉翁の死に会し、極度に落胆せられたのは渋沢翁であつた。
 爾来翁は甚しく健康を損はれ、遂に大倉翁と同じ九十二歳で他界せらる。洵に近代日本が蒙れる国家的損失の最大のものとして、又我等の糧友会の為痛惜に堪えざるものであり、玆に謹んで無上の敬意を表し筆を擱く次第であります。
                 昭和六年十一月十二日夜