デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

9章 其他ノ公共事業
7節 関係団体諸資料
12款 雑 7. 日本棋院
■綱文

第49巻 p.654-659(DK490212k) ページ画像

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■資料

集会日時通知表 大正一三年(DK490212k-0001)
第49巻 p.654 ページ画像

集会日時通知表  大正一三年       (渋沢子爵家所蔵)
七月十七日 木 午後四時 日本棋院ノ件(帝国ホテル)


棋界秘話 矢野由次郎著 第二一五―二二六頁昭和四年一月刊(DK490212k-0002)
第49巻 p.654-657 ページ画像

棋界秘話 矢野由次郎著  第二一五―二二六頁昭和四年一月刊
    棋界統一の目論見
 一躍五段。一朝数千円の総花を振り撒いた大縄開山は、夙に碁界統一の志があつた。蓋し彼れが惜気もなく総花を振り撒いたのは、或はその伏線であつたかも知れない。彼れはこの潮時乗ずべしとでも考へられたであらう。先づ縁故深き広瀬平治郎・関節蔵等と相謀つて、日本囲碁協会設立の趣意書と定款を作成した。その定款の概要は即ち左の如くであつた。
     日本囲碁協会定款
       第一章 目的及事業
 第一条 本会ハ本 《(欠字)》碁道ノ保護奨励及教導普及ヲ目的トス。
 第二条 前条ノ目的ヲ達スル為ニ左ノ事業ヲ行フ。
  一、会館ノ建設
  二、棋家ヲ専属セシメ、之カ支持保護ヲ為シ、碁道ノ研究及普及ニ努メシム
  三、子弟ヲ収容シテ其ノ養成ニ努ム
  四、本会ノ目的ヲ達成スルニ必要ナル出版
  五、棋家並ニ会員ノ和衷協助ヲ実顕スルニ必要ナル事業
       第二章 名称及事務所
 第四条 本会ハ日本囲碁協会ト称ス。
 第五条 本会事務所ヲ東京市ニ置キ必要ノ地ニ支部ヲ置ク。
       第三章 資産及会員
 第六条 本会ノ資産ハ左ノ各号ヨリ成ル。
  一、会員ノ寄附金
  二、雑収入
 第七条 本会ハ毎年度収支剰余金ノ一部又ハ全部ヲ基金ト為ス、基金ハ之ヲ消費スルコトヲ得ス。
 第八条 基金百万円ニ達スル時ヲ以テ財団法人ト為スヘシ。
 - 第49巻 p.655 -ページ画像 
第九条 本会ノ事業ヲ翼賛シ寄附金ヲ醵出スル者ハ、之ヲ会員ト称ス。(以下省略)
 彼れはその趣意書とこの定款とを提げて、先づ本因坊秀哉を首めとして東京に於ける五段以上の碁家の賛成を要求したのであつた。総花の香なほ新たなる好潮時、況んや統一の美名に加ふるに、彼等が生活の安定に向つて、一転機を劃するの計画に誰れが反対するものがあらうぞ。乃ち
 『本会ノ趣旨ハ我等多年ノ宿望ト合致スルモノナルニ依リ、一同其ノ成立ニ努ムベク此ニ署名スルモノナリ』
と協賛の意を明らかにして、署名調印された碁家は即ち左の如くであつた。
 田村保寿(本因坊) 中川千治(亀三郎) 広瀬平治郎
 雁金準一      岩佐銈       鈴木為次郎
 高部道平      瀬越憲作     故長野敬次郎
 井上孝平      加藤信      故小岸壮二
 喜多文子      宮坂宩二      関源吉
                     (以上東京)
 稲垣日省     故阿部亀治郎 恵下田仙次郎(井上因碩)
 田村嘉平      久保松勝喜代    木村広造
                     (以上関西)
 以上はその当時日本全国に於ける五段以上の碁家全部を網羅したのであつた。この中関西方はその機会がなかつた為でもあらう。一名も署名者はなかつた。余り後廻しにするは宜くないと思つてその後予が関西に赴いた時に名古屋の稲垣日省以下の参加を求めたのであつた。
 扨て東京に於ける五段以上の碁家の署名は、彼れが手に依つて迅速に取纏められた。夫故にこの計画は著々進捗せられるであらうと署名者は孰れも鶴首翹望しつゝあつた。所が大縄は何を考へてたか、三月経つても半年過ぎても一向それらしい煙も見えない。如何したことかと署名者は、みな痺れを切らして了つた。
 『大縄パトロンは旧臘以来我々に賛成さして置きながら、春過ぎ夏来つても未だに一向その計画を実現する模様がない。忘れたんぢやないか知らん。呑気にも程がある』
と愚痴を溢ぼすものさへあつた。それから猶ほ二月経つても三月過ぎても、依然として黙として更に動く気色がなかつた。サアもう堪らない。中にも高部道平・鈴木為次郎・瀬越憲作なんど、最も統一に熱心な連中は、悠長にも程こそあれといきり立つて、大縄パトロンの宅へ押掛けて行つて、
 『碁界統一は何処まで進行して御座るか、承りたい』
 『イヤ少し考へがあつて未だ一向手を着けてないんだ』
 『ヘエー……。我々に署名させてから、殆ど一ケ年になるではありませんか。早速進行して頂きたいと思ふが如何ですか』
と督促頗る急なるものがあつた。斯くては如何に遠謀深慮の大縄パトロンでも、勢ひ実行に取掛らなくては面目が立たない。
 それが為とは後に聞いたことではあるが、彼れは予の処へ電話を掛
 - 第49巻 p.656 -ページ画像 
けて来た。
 『矢野君。今日は在宅か』
 『イヤ、今出掛けようと云ふ所です。何か急用ですか』
 『実は、急に君に相談したい事があつて、これから出掛けようと思つてゐるのだが……』
 『そんなら、どうせ出掛け序でだから私の方からお訪ねしませう』
と云つて予が彼れの宅へ行つたのは大正十一年の九月頃であつた。所が彼れは前述の趣意書と定款を示されて、
 『この計画はかねて、君も承知されてるだらうが、僕も大いに努力するつもりだから、君も一つ尽力して呉れまいか』
と云ふ。予は先づその趣意書を読んだ。定款も一と通り読んで見た。そして予は彼れに向つて言つた。
 『碁界統一計画は至極結構である。然しながら「基金壱百万円ニ達シタル時ヲ以テ財団法人ト為スベシ」とは如何なものか。私も従来寄附金募集には幾多の経験がある。社会事業・慈善事業の如き、国家公共の寄附金ですら――而して有力な背景があつてすら――求むる者は際限がなく、出す人には限りがあるから、如何に努力してもなかなか思ふやうにならぬのが常である。況して囲碁の如き、世事益々多端にして人事愈々多忙の現代、暇と金を費やしてまでその研究もし向上をも図つて、不断斯道の醐醐味に涵らんと欲する程の閑人――陶酔者――は寥々晨星と一般、七千万国民中殆ど万分の一にも足らぬ現実ではないか。論より証拠、日本全国に碁打は何人あるか。その何人中恒産ある者果して幾人かある。謂はゞ碁界は社会の一小公園の如きもので、最大多数の国民とは全然没交渉である。斯くの如き閑余の娯楽機関の設備、若しくは維持の為に壱百万円……私共の如き枯木に花を咲かす術を知らぬ無能力者が、如何に粉骨砕身すればとて、井底の月、優曇華の花。実現不可能の風車運動に終るは必然である。遺憾ながら真ツ平御免を蒙ります』
と断つた。
 所が彼れは甚だ当惑さうな面色をして、
 『イヤ、我々とても強ち百万円に達しなければ云々と云ふ訳ではない。それはつまり将来の目標とするに過ぎない。要するに如何にすればよいか他に方法があるものなら、それでもよい』
 『多少私案がないでもない。取敢えず、日本全国の重なる同好縉紳諸公の賛成を仰ぎ、而してその顔触によつて任意寄附金額を見積りその範囲内に於て会館建築其他の計画を樹てると云ふ方針であるならば、実行可能であるから、微力ながら一と肌脱ぎもしませう。その維持方法に至つては別に腹案がある』
 『君の考へ通りでいゝから是非一つ至急に尽力して呉れ給へ』
 『宜しい。然らばお互に囲碁の酔興人同士だ。松茸狩――寒鮒釣――でもする覚悟で、微力の限りを尽しませう』と答へた。所が彼れは当座の運動費として弐百円を投げ出した。因つて予はその翌日から運動に著手して、翌春までに幸に賛助を仰ぎ得たる縉紳諸公は即ち左の方々であつた。
 - 第49巻 p.657 -ページ画像 
  渋沢子爵    阪谷男爵    清浦子爵
  徳川公爵    細川侯爵    牧野子爵
  京極子爵    井伊子爵    山本達雄
  松方巌     井上準之助   池田成彬
  佐々木勇之助  石井健吾   故日下義雄
  森田富     土方久徴    大倉喜七郎
  森村開作    神田鐳蔵   故小池国三
 故原田虎太郎   有賀長文    武藤山治
  米山梅吉    仙石貢     元田肇
  故杉山虎雄   山田直矢    松方正作
  高山長幸    犬養毅     頭山満
  各務鎌吉    青木徹二    津田興二
  田中遜     横田定雄    前原厳太郎
  菊地次郎    生田定之    西園寺亀次郎
  渡辺鉄蔵   故福沢捨次郎   徳富猪一郎
  山川瑞三    阿部充家    添田敬一郎
  松岡均平    野田俊作    伊集院子爵
  芳川伯爵    橋爪捨三郎   木浦八郎
  前山久吉    藤正純     古島一雄
                   (以上東京)
  矢田績     三輪長兵衛   上遠野富之助
  土井国丸    大喜多寅之助   (以上名古屋)
  谷口房蔵   故坂仲輔    故青木道孝
  平賀敏     樋口三郎兵衛  菅沼豊次郎
  奥山春衛    和田久左衛門  故中田錦吉
  若林与兵衛   山田惣兵衛   清水栄次郎
  坂田幹太    相島勘次郎   安宅弥吉
                   (以上大坂)
  鹿島房次郎   岩崎虔      (以上神戸)
  鈴木喜平治   秋田久右衛門  南郷三郎
  毛戸藤吉            (以上和歌山)
右の外本因坊秀哉に渡した芳名帳の方へ署名せられた縉紳諸公も亦五六十名許りあつた。


棋界秘話 矢野由次郎著 第三二六―三三一頁昭和四年一月刊(DK490212k-0003)
第49巻 p.657-659 ページ画像

棋界秘話 矢野由次郎著  第三二六―三三一頁昭和四年一月刊
    会館建築の姉妹金
 兎に角予等のこの行○大正十二年二月十五日東京発囲碁会館建築資金勧募大阪行は意外の収獲があつた。多少の落伍者は覚悟の前、一日も早く統一計画を実現すべく、本因坊秀哉と共に急いで帰京の途についた。車中に於て秀哉は予に向つて、
 『会館建築費の半額は谷口さんの寄附を仰ぐとして、あとの壱万五千円は如何にして調達するか』
 『それは私には確かに成算がある。と云ふのは、この事に就て、先きに大倉御曹子を訪うて賛成を求めた所が、彼れは快く署名された
 - 第49巻 p.658 -ページ画像 
のみか、特に私に向つて『再来年(大正十二年)は父の米寿だ。父が米寿を機として、僕に身代を譲つて呉れると云ふことだから、さうなれば僕も日本の棋界の為に、より以上の助力をするつもりだ。その時は君も共に尽力して呉れるか』と内意を洩らされた事があつた。その言質、儼として私の耳底に存す。紳士の一言は金鉄よりも堅い。だから大倉御曹子に対し、谷口老の話を打明けて只管御頼み申さうではないか。必ず考慮して呉れるに違ひないと信ずる。それに就ては万全を期する為に渋沢子爵に御援助を願ふつもりだ。善は急げ。明朝七時を期して私共両人で渋沢子爵を御訪ねしようではないか。実は世界の公人として、国家的社会的事業に吐哺握髪、日も亦足らぬ先生の平生を知悉する私としては、成るべく先生を煩はすことを遠慮したいのである。けれども是れ又日本棋界の重大事だ。無理な御願ひは出来ないが、お序の節と云ふ意味で、大倉御曹子に対し御言葉添へだけを願うではないか』
と云つたら、秀哉は莞爾として頷き、
 『それでは明早朝渋沢子爵を訪問すべく、貴方の宅へ立寄りますから、宜しく御紹介を願ひます』
と云つた。
 その翌朝本因坊秀哉と共に青淵先生を飛鳥山邸に訪うて、事の次第を具陳して、大倉御曹子への御言葉添へを願つた。幸に先生は御承諾下された。その帰途予は秀哉に向つて言つた。
 『私の考へでは、青淵先生が大倉御曹子への御言葉添へを御承諾下されたと云ふその事だけで充分だと思ふ。是れから直ぐに大倉御曹子を訪問して、実は今朝渋沢子爵にも斯様々々御願ひして来ましたと云ふ触れ込みで、運動費五百円也の御礼かたがた谷口老の話を打明けて、新たに壱万五千円の寄附を願うではないか』
 『さうしませう』
と云ふことで、秀哉と二人で御曹子を銀座の事務所に訪うて、大阪土産を披露して、建築費壱万五千円の寄附をお頼みしたのであつた。因に御曹子は今迄でさへ、自ら進んで日本棋界に於ける子弟養成の為とあつて、毎月本因坊秀哉に対し、若干の育英費を恵まれてゐた程、それ程囲碁に深い趣味を持たれ、剰へ予に対する言質さへあるのだから無論寄附を承諾されるものと信じたのは決して無理ではあるまい。御曹子は対へらく
 『自分が棋界の統帥者になる抔とは思ひも寄らぬ事だ。が、既に谷口さんが建築費の半額を寄附されると云ふ事ならば、渋沢子爵とも御相談の上、追つて御返事を致しませう』
と云ふ含蓄ある返辞だつた。予は十中九分九厘まで成功したものと信じて疑はなかつた。
 併しながら九仞の功を一簣に虧くと云ふ戒めもある。念には念を入れるに如くはない。と思つて予は数日後他にも用事があつたので、再び青淵先生を訪うた。所が先生には
 『この間の頼みに就ては、穂積や阪谷ならば自邸へ来て貰つてと云ふことも出来るが、大倉喜七郎さんでは如何に昵懇の間柄でも、ま
 - 第49巻 p.659 -ページ画像 
さかに此処へ来て貰ふと云ふ訳にはいかぬ。さりとてわざわざ出掛けて行く訳にはいかない。幸に近日大倉商業学校の卒業式がある。その時は何時も自分は必ず列席して一場の訓示をなすのが例になつてゐる。喜七郎さんも何時も見えられるから、其時に話をしてやらう』
と云ふ洵に感激に余りある申し聞けであつた。
 『有難う御座います。実は大倉喜七郎さんには既に先日本因坊と二人で参りまして、只管御願ひして参りました。其時喜七郎さんの御答には、先生とも御相談の上追つて返事をして下さると云ふことでありますから、何分宜しく御願ひ致します』
 斯くまで人事を尽したからは、もはやその成否は天命を待つほかはないと安心した。