デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2023.3.3

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

2部 実業・経済

1章 金融
1節 銀行
1款 株式会社第一銀行
■綱文

第50巻 p.190-197(DK500034k) ページ画像

大正6年―昭和6年(1917-1931年)

栄一、当行頭取辞任以後、歿年ニ至ルマデ、相談役トシテ、努メテ当行ノ年賀式及ビ株主総会等ニ出席シテ、演説ヲナス。


■資料

渋沢栄一 日記 大正一二年(DK500034k-0001)
第50巻 p.190-191 ページ画像

渋沢栄一 日記  大正一二年         (渋沢子爵家所蔵)
一月一日 快晴 寒
○上略 第一銀行ニ於テ行員年始ノ式ニ列ス、畢テ一同ニ向テ年始ノ訓示ヲ為ス(行員弐百七十人余)○下略
 - 第50巻 p.191 -ページ画像 
(欄外記事)
 去年ノ元旦ハ米国桑港ニ在テ新年詩作アリシカ、今年ハ左ノ一絶ヲ得テ、朝来絹本ニ揮毫シテ第一銀行ニ持参シタリ
 司命由来元是天。只期行止両能全。佳辰喜我前途豊。百歳猶余十六年。
  癸亥元旦試筆             青淵逸人
  ○中略。
一月二十七日 曇又晴 寒
○上略 午後二時第一銀行株主総会ニ出席シ、畢テ株主ノ為メ一場ノ演説ヲ為ス
○下略


竜門雑誌 第四一七号・第七五頁大正一二年二月 ○第一銀行定時株主総会(DK500034k-0002)
第50巻 p.191 ページ画像

竜門雑誌  第四一七号・第七五頁大正一二年二月
○第一銀行定時株主総会 第一銀行にては一月二十七日午後二時より東京銀行集会所に於て第五十三期定時株主総会を開き、佐々木頭取議長席に就き、同期間に於ける決算書類承認、利益金処分案、満期取締役一名改選、支店二ケ所増設の件等を順次附議する所ありしに、満場異議なく原案を可決したるが、内取締役には杉田富君重任し、又増設支店は神戸市京町並に名古屋市玉屋町に設置する事に決し、尚ほ恒例に依り株主一同に対する青淵先生の演説ありて、其閉会せるは午後二時半なりしと云ふ。
○下略


竜門雑誌 第四一八号・第三三―三六頁大正一二年三月 ○第一銀行定時株主総会に於て 青淵先生(DK500034k-0003)
第50巻 p.191-193 ページ画像

竜門雑誌  第四一八号・第三三―三六頁大正一二年三月
    ○第一銀行定時株主総会に於て
                      青淵先生
 本篇は一月廿七日東京銀行集会所に於て開催せる、第一銀行定時株主総会に於ける青淵先生の演説要旨なりとす。(編者識)
 久々で総会へ出て、株主諸君と御目に懸る機会を得ましたことを深く喜ぶのでございます。段々に年が寄りましてもう総会へ出られまいと思ひましたら、又今年も御目に懸ることの出来たのは、私の心に嬉しく思ふと同時に、満場の諸君には御喜び下さるだらうと先づ大に慰むる訳であります。善い事もあり、悪い事もあるが世の中の常であつて、八十四になつて此処に出て皆さんに御目に懸ることは私には善い事でございますけれども、経済界それ自身が果して左様に年を取つても健全であると云ふことは申せぬやうに思ひます。随分世間には大分老衰に陥つた経済界が見えるやうでございますから、是は御互に注意しなければならぬやうでございます。それに就ては此処でなしに日比谷で色々大きな声が出るやうでございますから、諸君は御聞きでありませう。併し此の経済は実は制度上のみに依頼するものではない、元来御互が自身で宜くして行かなければならぬ、丁度身体を医者にのみ頼むと云ふことが、必ずしも健康を保つ所以ではないと同じことだと思ふ。私も既に度々医者に懸つて色々医者の御世話になつた。或場合には医者も必要でありますけれども、実は平生に於て自制、自らを努
 - 第50巻 p.192 -ページ画像 
めることが健康を持続する所以だと思ひます。国家及経済界の事も尚其通りであつて、唯制度にのみ依つて税を減じて呉れとか、或は特別な金を出して呉れとか、低利資金が欲しいと云ふことばかりが、経済の完全な発達だと思ふのは、私は少し医者にのみ身体を頼むことになりはせぬかと思ふのであります。成るべく自身が十分に健康を保つやうになつて始めて本当に経済界が発展するのであらうと思ふのです。欧羅巴の大戦が日本に大なる影響を与へて、或点から大に伸びましたことは、誠に御同様に喜ぶべき訳であるけれども、併し其反動が今尚来て御互を苦しめて居ると云ふても過言ではない。唯今頭取の御述べになつた生糸業、即ち養蚕業、是等は実に日本の経済界を大に庇護する大動脈でありますけれども、私は深く恐る、今の通りの高い値段で何時迄行けるか、二千円を当込んで居るのは少し間違つて居ないか、もう少し生産を増して価を安くするやうにするが宜からうと思ふのです。現に御覧なさい、人造絹糸と云ふものが中々盛んな力を有つて居る。況んや御隣の養蚕が若し発展したならば、吾々は所謂後方に瞠若せぬければならぬやうな有様になると思ふ。それにも拘らず亜米利加の景気が好いから沢山売れると喜んで、無暗に値を高くするのは、此処に御出の御方は養蚕家で居らつしやるまいと思ひますから、申上げても十分御分りがないか知らぬが、結局私は六億円が五億円、遂には四億円と下りはせぬかと思ふ。是非是はもう少し価を安くして量を増すやうに心掛けたいと思ふのであります。或は船の事、数へ来ると大体の経済の上に於てもう少し注意しなければ、私は宜くないと思ふのであります。今其位置に居りませぬ私共は甚だ失礼ながらどうも昔取つた杵柄で、もう一度実業界に出て働きたいと云ふやうな観念を起すこともある位でございます。是は決して私がさう云ふ望みを有つた訳ではないけれども、此世の中の有様を見ると誠に何だか残念のやうに思ふ点も少なからぬのでございます。銀行営業が私共の考へる所ではもう少し取締らなければいかぬと思ふ。当銀行が決して不取締とは申しませぬ、誠に頭取其他の諸君が打揃つて極く堅実に、然らば唯堅実のみで進歩の力がないと云ふでなく、進んで行つて居るやうに思ふので、御同様皆さんと共に大変信頼致しますけれども、併し押並べて日本の銀行が皆同様に堅実かと云ふことは少し疑問に属する。殊に銀行者がどうも悪くすると預金を以て自己の仕事をしやうと云ふ弊害が中中多い、是は余程危いことである、是れ程の弊害はないと私は思ふ、極端に言ふならば罪悪だと思ふ。どうしても其弊が往々瀰漫して、為に時々甚だしい不都合を惹起することが間々ございますので、是は御互に余程注意して、株主としては始終当局者に注意を与へ、或る場合に於ては監督もしなければならぬと思ふのでございます。幸に第一銀行の如きは誠に今御報告のある通りで、仮令経済界が不況に陥つて若し何かあつたとしても、悪いものは悪いとしてすつかり根本的治療を加へられて居るやうでございます。既に前期に於て大阪の或る取引に就て、過失を生じて損害を受けた、速にそれを損失として消却をしたと云ふことを伺つて、誠にさうありたいことだ、此治療を怠つてどうなるだらうと云ふ経営は、決して完全なものでないと云ふことを思つ
 - 第50巻 p.193 -ページ画像 
て居りますから、此等の事に就ては成るべく昨日のことは昨日済し、今日の事は今日済す、総て其日々々にやらなければならぬ。所謂日に日に新にして又日に新なり、湯の盤銘の如くにありたい。而して其の経営は全く多数の人に対しての取引、或は商業者・工業者に対して供給するのが銀行の本務である。それに依つて自己の経営をすると云ふことは、私はどうしても銀行の本体ではないと思ふ。此間に立つて其観察を誤らぬで、一方から預ける人、一方から借る人、此両者の間に立つて完全な取引をするのが宜い。甚だしきは自己が借る為に預ると云ふに至つては、前に申す通りどうしても宜しくないと思ひます。幸に本行の如きは最もさう云ふ弊害がないと云ふことを私に確言し得ると思ふのは、御同様株主として誠に喜ぶべきことだと思ふのでございます。之を要するにまだどうも大体の経済界が世界的になつた日本として、どうしても勢ひ此戦乱の創痍の癒ゆるまでには相当な歳月を要しますので、まだ今日もう先が見えたとは言ひ難いかと思はれる。亜米利加は今頭取の御報告の通り、追々に回復して来るのでありませうけれども、現に英吉利と云ひ、仏蘭西と云ひ、又独逸の如きは、まだ中々経済界は回復致さぬやうに見えますから、是等の安定するを俟つて矢張日本も追々に安定になるであらうとは思ひますけれども、要するに此経済界は制度も必要であります。勿論どうしても善い制度を設けなければならぬが、其善い制度よりは自制するのが本当の鞏固なる経済界を作り得ることゝ思ふのであります。斯く考へますると当銀行の如きは、私が今申上げる通り誠に其銀行として完全に自らの力を量り自らが信じて事を為すと云ふて宜しからうと思ふのでございまして是は諸君と共に誠に本行の為に、又御同様に我が銀行界の為に深く慶賀するのでございます。丁度前に申上げました通り、人が医者の治療のみに依つて健康を保つよりは、自己の勉強と精神の十分なる活動に依つて本当の健康を保ちたいものと思ひます。私が年寄で健康自慢をするでございませぬが、身体の健全も、経済界の健全も或点からは一致し得ると思ふので、玆に久々で皆さんに御目に懸りまして、まだ丈夫であると云ふことを御披露すると共に、経済界をもどうぞ八十になつても丈夫たらしめたいと思ふのでございます、一言申上げます。
 段々支店が多くなりまして、其監査のことは余程御注意あれかしと思ひます。私が勤務して居つた時分には五つか六つしかなくても、時時遣損つたことがあるやうに記憶して居ります。数が多くなると悪くすると規則にのみ依りたがるが、規則のみに依つても取締は本当のものではない。然らばと云つて規則なくして取締ることは多くなれば決して出来ぬのでありますから、規則と人と、所謂精神と法律とを一緒に保つて行かなければ完全な監査は出来ないと思ひます。支店の取締は余程十分に御注意を要すると思ひます。是は諸君も必ず御同意であらうと思ひますから、私は特に重役に対して御願致して置きます。


(増田明六)日誌 大正一二年(DK500034k-0004)
第50巻 p.193-194 ページ画像

(増田明六)日誌  大正一二年     (増田正純氏所蔵)
五月九日 水 曇
定刻出勤
 - 第50巻 p.194 -ページ画像 
○中略
午後五時半より東京会館に於て第一銀行重役及本支店支配人招待晩餐会開催、渋沢子爵病後療養の為め大磯ニ転地セられ居るを以て、渋沢篤二氏代理主人席ニ着く、同銀行にてハ去七日より支店長会議開催、各地支店長上京に付き例年の行事ニ傚ひ之が催行ハれたる次第なり、食卓ニ於てハ篤二氏の挨拶に対し来賓総代佐々木頭取の謝辞あり、午後七時同会館墜道《(隧)》を経て帝劇ニ観劇に一同を案内す、十時半終了○下略


第一銀行五十年小史 同行編 附録・第一―九頁大正一五年八月刊 【渋沢子爵の演説 (大正十二年七月廿六日於第一銀行総会)】(DK500034k-0005)
第50巻 p.194-196 ページ画像

第一銀行五十年小史 同行編  附録・第一―九頁大正一五年八月刊
    渋沢子爵の演説
           (大正十二年七月廿六日於第一銀行総会)
 幸に今日此総会に出席する事が出来ましたために、多数の株主諸君とお目にかかる機会を得ましたことを、私は深く喜びますので御座います。只今頭取より本期の議案は明瞭に御説明があり、また株主中より御注意も御座いましたが、詰り全会一致の御賛同で芽出度創立五十年の経過は、特別利益配当をも生ぜしむるの好成績を得て、本銀行の業務が段々に進み行くことを、銀行のためまた株主諸君のために慶賀するので御座います。私は明治六年に此銀行を生み出したところの一人で御座いますから、かかる機会に遭遇しますと、其喜びは或は諸君以上にあると申しても、決して銀行を我が物にするといふお叱はなからうと思ふので御座います。
 今日考へますると、千万円・二千万円の会社も有力なるお方々は、立どころに創立しますから、此銀行が当時二百五十万円の資本で開業したのは、何のものかはと満場の諸君が皆お笑ひで御座いませう、併しそれは時勢を能く御観察なさらぬお考でありまして、明治六年に於て二百五十万円の株式会社を造りますのは、其時には余程の骨折であつたといふことを、どうぞ御了解を請ひたいので御座います。大体株式会社といふものが何であるかといふことを、今日の諸君はもう法律づくめ、一寸しても権利義務、お八釜しう御座いましてよく御承知で御座います。世運の進歩誠に結構では御座いますけれども、其頃の百姓町人は唯お役人の前で、お辞儀の上手が世渡の最上手段といふ位の世の中であつたのです。利得といふものは悪く申せば、御世辞追従等より生ずるもので、権利上から富が生ずるなんといふことは、あらう筈はないといふ位の世の中であつた。役人とか武士とかいふ種類の人には、相対で意見を言ふことさへも出来ぬのが、御一新前の有様であつたから、維新早々でも尚其官尊民卑の風は、中々にえらいものでありました。悲しいかな今日でも未だ其弊風は残つて居ると言はなければならぬので御座います。かかる時機に於て株式会社の組織といふものが、敢て官尊民卑に関係はないやうなものゝ、国の法律に依つて人民自己の権利を行使して行くので御座いまして、而して先例のない、学習の無い、他人の資本を集めて之を一つの会社として而も営利事業を経営するといふのでございますから、熟練した人であつたなら訳もなかつたのでありませうが、明治五・六年頃に株式会社に熟練の人は仮令日本の隅から隅まで尋ねても得られぬ筈である。それ故に当時の
 - 第50巻 p.195 -ページ画像 
株式会社の組織、即ち第一国立銀行の成立は其点から考へますると、如何に困難であつたかといふことは、今も尚ほ御追想下さつても宜からうと思ふので御座います。幸に当時の政府も金融機関が必要である殊に其時は不換紙幣を兌換せしめたいといふ事と、実業を盛にするには金融機関が最も必要であるといふ希望から、頗る力を入れて下さつたので、幸に第一銀行は二百五十万円の資本で組織することが出来たのであります。而してそれが多数民衆の賛同を得たかといふと、否さうでなくして、其中の重なる二百万円は三井と小野――三井は其時も矢張八郎右衛門と称しました、小野は善助と称しました――一方は駿河町、一方は田所町に店を持つて居るところの大商店、此両家が各百万円づつ出資する、其他に島田といふ家がありまして五万円、阿州の西川甫といふ人が十五万円を出資致しまして、外に私が存じて居た或る華族が四万円を加入し、其他は一万円・二万円位の加入者があつたといふ位の有様で、当初は三百万円にしようと思うたのがどうしても纏りませぬので、二百五十万円にしたといふのは如何に情ない事かと私は窃に歎息した事を記憶してゐるので御座います。そこで漸く成立はしましても其経営を知らぬ。私が知らぬといふばかりでなく、其当時に於ては知つた人は誰もなかつた。お集りの株主諸君、また重役の方々も長く継続されることを例として居りますが、現頭取は其頃多分二十歳位の青年であつた。私も丁度三十五歳の時でありました。創立以来引続いて勤続致して居られるのは、先づ頭取お一人と申して宜からう。かく新しい仕事に新しい人が従事して、其事柄は最も熟練した古い人すら尚ほ難んずる事を始めたので御座いますから、蹉跌せずに今日に至つたのは、私として此上もなく喜ばしく感ずるのみならず、其当時の我経済界の有様は、所謂官尊民卑の通弊で、国富といふものは私人の力では出来ぬものだ、民力で事業発展などといふ事は、思も寄らぬといふ有様であつた。而して此通弊はどうしても直さなければならぬ、日本国民が官吏の前で低頭平身ばかりして居るやうでは、迚も国富を堅実に増すことは出来ない。欧羅巴・亜米利加の実況を見ても決してそんな事はない。将来之に拮抗するには矢張人民の程度が、同じやうに進まなければならぬといふのが、銀行業以外最も重要な問題であつたといふことは、諸君も御了解であらうと思ひます。さりながら若しも此銀行が経営宜しきを得ずして、中途失敗に畢るやうなことがあつたならば、独り経済界の事物が違却するのみならず、重要なる時運に対しても、尚且目的を失する事になりますから、微力ながら私は其間に従事して、如何に苦心であつたかといふことを、諸君の御諒察を請ひたいのであります(拍手)。然るに此銀行創立後間もなく、明治七年十一月に至り、其車の片輪ともいふべき小野組は、余りに過度なる進歩を図つた為め、終に蹉跌を致して到頭破産の運命を見るやうになりました。前に述べた如く三井・小野・島田の三家に、僅の他の株主が附随して成立つた銀行の、其大基幹の小野組の破産は、一方からは取引の関係、一方からは資本の関係で、第一銀行に取つては実に容易ならぬ打撃である。或る種類の人は最早第一銀行は潰れたと申された位であつて、其頃の私と現頭取との苦心は、五十年の昔ながら
 - 第50巻 p.196 -ページ画像 
宜しく諸君の御追想を請ひたいのであります。それから続いて生じて来たのは、金銀比価の変化であつた。元来国立銀行の制度は、金札引替公債証書を納めて銀行紙幣発行の許可を得、其紙幣は金貨を以て引替へる制度であつたが、其頃東洋の金銀比価は常に動いて居る。此比価の動揺を知らずに設けた制度でありましたから、少しく比価が動いて来ると、其銀行の信用は如何に厚くても、金貨の必要上其紙幣は交換される。私も他の人々も玆に気付かなかつたために、明治八年には春頃より頻に金貨の取付が多くして、銀行は余儀なく自己で其紙幣を引上げて、遂に国立銀行の制度は形あつて実なしといふものに相成つたのであります。此金貨引換も小野組破産と相並んだ第二の困難でありました。故に第一銀行の開業免状は、明治六年の七月二十日でありましたけれども、銀行紙幣の交換を金貨とせずして政府の紙幣を以てすることに改正せられ、明治九年に更に免状を貰ひましたから、其営業満期が明治二十九年であつたといふ事は、前陳の理由から起つたのであります。是は五十年余りの古いお話でありますけれども、幸に私は四十三年程頭取を勤務致しましたので、老衰はしましたけれども、既往の事を記憶して居るために、かかる席に於て此銀行の起原は斯様であつて、其経過中にかういふ困難があつたといふ事を演説するのは無用の弁ではありませうけれども、併し私は此機会に於て述べて置きたい、株主諸君にも御迷惑ながら御聞取りを願ふのであります。
 実に歳月の経過は早いもので、五十年は夢の間に去来したやうに思はれまして、当時其苦みを負担した私は、今日も尚三十五歳の時と余り変らぬやうな心地が致します。而して今日此席に於て昔語をすることの出来るといふのは、私も喜ばしく感じますが、第一銀行たる一の法人も、渋沢の為に喜んで下さるだらうと思ひます(拍手)。且つ此五十年の歳月が意義ある経過を為したるのみならず、此金融機関に依つて弟子を造つたとか、師匠になつたとかいふ事を、自慢らしく喋々するのでは御座いませぬけれども、日本の金融がかくすれば道理正しく進行するものだ、かくすれば実業の発展を援助し得られるものだといふことには、多少裨補するところがあつたらうと思ひますると、独り此銀行の資本に対する配当が一割三分になつたとか、特別配当が一割あるとかいふ事のみをお喜びなさるべきものではなからう、其以外に如何に国家に裨益を与へたか、如何に経済界に進歩を見たかといふことは、諸君も能く御理解なされて、自ら任じまた自ら喜んで下さつて宜からうと思ふのでございます(拍手)。孰れ其中本銀行に於て五十年記念の祝典もお催しになるだらうと思ひます。私は其時にも、成べく身体を丈夫にして、更に諸君に向つて古い経過を詳しう申上げたいと思ひますが、今日は偶然にも此株主総会に出席して、一言を述べる機会を得ましたことを嬉しく感じますので、今頭取のお指図に従つて沿革の一端を開陳した次第で御座います(拍手)。
  ○右総会ハ第五十四期定時株主総会ナリ。


白石喜太郎手記 大正一二年(DK500034k-0006)
第50巻 p.196-197 ページ画像

白石喜太郎手記  大正一二年      (白石喜義氏所蔵)
大正十二年九月一日
 - 第50巻 p.197 -ページ画像 
午前十一時五十八分大地震発ル、震動ノ為メ渋沢事務所大破、惨憺タリ、折柄事務所ニアリシ子爵○栄一及増田以下全員無事、一同第一銀行ニ避難、子爵ハ同行旧館ニ於テ、頭取・石井・杉田・西条諸氏ト談話小憩ノ上、午後二時三十分頃明石氏ノ自動車ニテ(子爵乗用77号車ハ事務所正門附近煉瓦・石材其他山積シタル為メ運出シ不能トナリタル為メ)根津ニ大迂廻シテ帰邸セラル、増田氏同伴、円庭ノ仮小屋ニテ就眠セラル○下略
  ○中略。
九月四日
子爵ハ○中略
第一銀行仮営業所ヲ訪問シ、佐々木頭取以下重役ニ面談セラル○下略
九月五日
○上略
午後子爵東京ニ出動、白石随行○中略第一・貯蓄ヲ訪ヒ○下略
九月六日
子爵ハ午前九時半頃ヨリ出動、渡辺得男随行○中略第一銀行ヲ順廻○下略
九月七日
午前九時飛鳥山邸発子爵出動、白石随行
○中略 帝国ホテル○中略ニテ午餐ノ後第一銀行ニ到リ頭取其他ト面会○下略
九月八日
午前九時半渋沢子爵出動、白石随行
○中略 第一銀行ニ到リ、頭取・石井・杉田諸氏ト会談セラレタル後午餐ヲ共ニシ○下略
  ○中略。
九月十八日
○上略
午後四時、事務所ヲ後ニシ、旧事務所・第一銀行ノ焼跡ヲ視察セラレタル後帰邸セラル、尾高・増田・渡辺・白石随従ス


(増田明六)日誌 大正一二年(DK500034k-0007)
第50巻 p.197 ページ画像

(増田明六)日誌  大正一二年      (増田正純氏所蔵)
九月十八日 火 晴
○上略
子爵ニ随行シテ○中略第一銀行焼跡ヲ巡回ス、子爵ハ斯クモ無残ニ同銀行ヲ焼失セシメサル工夫ナキニアラサリシモノヲ、未タ考慮ノ足ラサリシヲ悔ムトノ談話アリタリ
○下略