デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

2部 実業・経済

1章 金融
1節 銀行
3款 特殊銀行 2. 株式会社日本勧業銀行
■綱文

第50巻 p.292-295(DK500058k) ページ画像

大正6年11月5日(1917年)


 - 第50巻 p.293 -ページ画像 

是日栄一、帝国ホテルニ於テ開催セラレタル、当行創立二十周年記念祝賀会ニ臨ミ、演説ヲナス。


■資料

竜門雑誌 第三五四号・第一五五頁 大正六年一一月 ○日本勧業銀行創立二十年紀念会(DK500058k-0001)
第50巻 p.293 ページ画像

竜門雑誌  第三五四号・第一五五頁 大正六年一一月
○日本勧業銀行創立二十年紀念会 日本勧業銀行にては去る十一月五日、同行創立二十年紀念祝賀会を帝国ホテルに開催し、寺内首相以下各大臣、同行創立関係者青淵先生、金子子其他、各政党の領袖、財界の有力者二百五十余名を招待したるが、当夜は同行総裁志村源太郎氏の来賓に対する謝辞、並に同行の過去及び現状を略述して将来の指導援助を請ふ旨挨拶あり、之に対し寺内首相・勝田蔵相の祝辞演説に次ぎ、金子子は同行法案制定当時に於ける裏面の歴史を述べて、総裁の功績を称揚し、青淵先生亦同じく該法案制定当時に於ける一場の自己失敗談を試みられ、「余は勧銀が土地を抵当に貸付くる事を非常に危険視し居たるが、今日に至りて其先見の暗かりし事を陳謝する」云々とて満場を賑はされ、和気靄々たる盛会裡に散会したる由。


中外商業新報 第一一三四八号 大正六年一一月六日 ○勧銀記念祝賀会 朝野諸名士演説(DK500058k-0002)
第50巻 p.293-295 ページ画像

中外商業新報  第一一三四八号 大正六年一一月六日
    ○勧銀記念祝賀会
      朝野諸名士演説
日本勧業銀行は、本年創立後満二十年に当るを以て記念祝賀会を開き五日及六日に亘り朝野の名士五百余名に招待状を発したるが、五日は在朝諸名士、監督官庁吏員、政党主脳、各農工銀行代表者等を、午後五時より帝国ホテルに招待、盛大なる晩餐会を催せり、食後
△志村勧銀総裁 一場の挨拶をなしたる後
 日本勧業銀行の貸付は、不動産・工場財団・軽便鉄道財団・公共団体・各種組合の各種貸付を含み、其貸付総額は、今や二億二千万円に上れり、而して之が資源たる債券発行高は二億千万円に上り、内割増債券九千万円なり、而して勧銀設立当時は一般に其貸出の危険を気遣はれたるも、爾来星霜を経ること二十年、貸付の益々安全なるを証明せり、是れ勧銀の貸付は全国各地方に亘る故、一地方に於て水害其他の天災を受くるも、全体に亘りて格別の影響なく、又其貸付は概して小口にして、公共団体貸付の如きは一口の金額平均二千二百円に過ぎず、又年賦貸付に於ては其利率を低歩にせるを以て債務者に於て元利を償還するに苦痛を感ぜざること等に因るものなり、是等の現象は特殊銀行の機能を発達する為め、今後益々助長せざるべからず、而して今日の貸付は、一口の平均金額現在二千二百円となり、四十年の同金額四千七百円なりしに比すれば、非常に小額になれりと雖、我国の如く小農組織の国に於ては其一口金額の更に低下するを要す、此等の点に付て勧銀は将来一層勉むる所なかるべからず
と述べ
△次に寺内首相 は左の如く演説す
 惟ふに帝国の経済界は、維新以来顕著なる発達を遂げ、之に伴ふ諸般の制度殆んど革新を見ざるものなく、特に財界の動脈とも謂ふべ
 - 第50巻 p.294 -ページ画像 
き金融機関に至りては、広く欧米先進国の実況に鑑み、施設最も宜きを得たり、曩に国立銀行を統一して中央銀行の基礎を定め、更に貿易金融の機関を創設し、其他一般普通銀行並貯蓄銀行条例を制定し、遂に明治三十年日本勧業銀行及農工銀行を設立し、帝国の銀行制度玆に殆んど完備せるに庶幾し、而して日本勧業銀行及農工銀行は、帝国人口の最多数を占むる農工業者に対する資金供給の任に膺るものなるが故に、其施設必ずしも欧米諸国の先蹤を逐ふこと能はず、当局者の苦心蓋し想像の外に出づるものありしならむ、日本勧業銀行設立以来過去二十年間に於て、帝国の財界は急激なる変遷を来し波瀾重畳たりしにも拘らず、能く幾多難関を踏破して経済界の進運に伴ひ穏健なる発達を遂げ、設立当初に比し隔世の観あらしめたるは、畢竟諸君の先輩並諸君の奮励努力に職由せずむばあらず、然りと雖我国農工資金供給の実際に就て深く観察するときは、未だ完全の域に到達したりと言ふこと能はず、特に我帝国の現状に想到すれば、尚幾多考慮を要すべきものあり、都鄙金融の疎通及中産者以下に対する金融問題等、寧ろ今後に於て解決を要すべきもの尠しとなさず、今や欧洲大戦乱は三年有余に亘り、帝国の負荷する所転た重大なるものあらむとす、顧ふに各国の戦時経済施設は悉く非常の決心を以て断行せられ、自給自足の精神到る処に横溢せり、此の間に処し諸君の努力如何は、帝国産業の隆替に至大の関係あるを以て、一層奮励して本行既往の発展に譲らざるの成績を挙げられむことを切望す、終に臨み勧業銀行前途の繁栄を祝し、併せて之に従事せらるゝ諸君の健康を祈る
終つて勝田蔵相別項の演説○略ス をなし
△次に金子子爵 は起ちて
 勧銀創立当時、余は同行の貸付目的を農工業に及ぼさんと欲したるも、当時の世論は農業貸付に限らんと欲する意見盛にして、余の計画は容易に実行し得ざる形勢なりしが、当時志村氏は当局官吏として熱心に余の意見を賛成し、遂に其の営業科目に工業貸付を包含するに至れり、而して勧銀の今日の盛況を見るに至れるは、畢竟農工業に対し資金を供給するが為めなり、次ぎに現在の勧銀の貸付総額を開業当時に比すれば、実に七倍の増加を示せるが、更に之を輸出増進額に付て見るに、是亦七倍の増加を示し、両者の関係極めて密接なるを証明せり、蓋し勧業銀行の業務は農工業貸付を主とするを以て、其業務たる極めて地味なるも、此の地味なる事業は実に我貿易の基礎を示せるものにして、今後我国産業の本源も爰にありと云うべく、勧業の前途は益々多望なり
と述ぶ
△最後に渋沢男 は
 明治六年国立銀行設立当時に於て、余等は銀行の土地に放資するを以て極めて危険とする因習に捕はれて居たるも、退いて土地の金融に付き其貸付を地方全般に普及する等、特殊の注意を払ふに於ては土地の貸付必ずしも危険ならざる事実を勧業銀行の発達に徴して明かにせり、而して都市の殷盛は地方の繁栄に俟たざるべからざるは
 - 第50巻 p.295 -ページ画像 
今更云ふを要せざる所にして、余は勧農銀の聯絡、今後一層完全となり、益々資金を小農工に普及し、地方産業の発展するに至らんことを切望す
と述べ、終つて列席者互に歓談を交へ、午後十時散会せり、当夜の出席者左の如し
 寺内首相・松室法相・田逓相・勝田蔵相・岡田文相・金子子爵・渋沢男爵・若槻礼次郎・大岡育造・小松原英太郎・石黒男爵・河野広中・箕浦勝人・元田肇・添田寿一・早川千吉郎・浜口雄幸・有松英義・市来大蔵次官・水野内務次官・内田逓信次官・児玉書記官長外百四十八名