デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

2部 実業・経済

1章 金融
1節 銀行
5款 社団法人東京銀行集会所 東京銀行倶楽部
■綱文

第50巻 p.407-412(DK500082k) ページ画像

明治42年8月4日(1909年)

是日、東京銀行集会所・東京交換所・東京興信所及ビ銀行倶楽部ノ四団体連合シテ、東京銀行集会所ニ於テ、アメリカ太平洋岸商業会議所ノ招待ニ応ジ、同国ヘ渡航スル栄一等、及ビ欧洲ヨリ帰国セル園田孝吉ノ、歓送迎会ヲ開ク。栄一、主催者総代豊川良平ノ送迎ノ辞ニ対シ、答辞ヲ述ブ。


■資料

渋沢栄一 日記 明治四二年(DK500082k-0001)
第50巻 p.407 ページ画像

渋沢栄一 日記 明治四二年       (渋沢子爵家所蔵)
八月四日 曇又雨 暑
○上略 午後六時銀行倶楽部ニ抵リテ各団体ノ催ニ係ル送別会ニ出席ス、豊川良平氏∃リ挨拶アリタルニヨリ一場ノ謝辞ヲ述ヘ、後立食ヲ共ニシ、食後種々ノ談話ヲ為シ、夜十時帰宿ス


銀行通信録 第四八巻第二八七号・第四六―四七頁明治四二年九月 ○録事 渋沢・佐竹・園田三氏送迎会(DK500082k-0002)
第50巻 p.407 ページ画像

銀行通信録 第四八巻第二八七号・第四六―四七頁明治四二年九月
 ○録事
    ○渋沢・佐竹・園田三氏送迎会
東京銀行集会所・東京交換所・東京興信所及銀行倶楽部の四団体にては、八月四日午後六時より、今般北米合衆国太平洋沿岸商業会議所の招待に応じ同国へ渡航せらるべき渋沢男爵・佐竹作太郎両氏、並に過般欧洲より帰朝せられたる園田孝吉氏を、東京銀行集会所に招待して聯合送迎会を開きたり、然るに当日園田氏は折悪しく病気の為め出席なかりしも、渋沢・佐竹の両氏は繰合せ出席あり、其他主人側出席者八十余名にして、定刻に至り一同席定まるや、総代豊川良平氏起て送迎の辞を述べ、之に対し渋沢・佐竹両氏の答辞あり、夫より別室に於て立食に移り、宴酣なる頃会員千阪高雅氏の発声にて、渋沢・佐竹両氏の万歳を祝し、更に渋沢男爵の発声にて四団体の万歳を唱へ、斯くて一同歓談の上午後九時散会せり


銀行通信録 第四八巻第二八七号・第一九―二四頁明治四二年九月 ○渋沢・佐竹・園田三氏送迎会演説(八月四日東京銀行集会所に於て)(DK500082k-0003)
第50巻 p.407-412 ページ画像

銀行通信録 第四八巻第二八七号・第一九―二四頁明治四二年九月
  ○渋沢・佐竹・園田三氏送迎会演説
              (八月四日東京銀行集会所に於て)
    ○豊川良平君の挨拶
来賓の御方に皆様に代りましてチヨツと御挨拶を申上げます、此度渋沢男・佐竹作太郎君、此御二方が米国へ御出になります、又園田孝吉
 - 第50巻 p.408 -ページ画像 
君、これは先達て倫敦へ御出になりまして御帰朝になりました、一方は御送り申し一方は御迎ひ申す、此送迎を兼ねまして今日の宴会を開きました次第でございます、実は佐竹さんが御出掛になるに付きましては、一昨日幹部の計ひで御招待状を差上げました、皆さんには御通知になつて居りませぬから玆に御披露を申上げて置きます、それから園田さんは出られる筈でございましたが、少々病気でどうも出られぬから、会員諸君に宜しく御挨拶をして呉れるやうにといふ御鄭重の御手紙でございます、此辺は御了承を願ひます
さて渋沢男は明治六年この方、我銀行界の牛耳を取つて此銀行の発展に努められ、其指導に依つて今日銀行事業の盛大を見るに至つたことは皆様御承知の通り、尚此銀行の仕事に伴つて他の事業の指導もせにやならぬといふので、其方にも随分御苦労をされた、此間には二度の戦争もあり、機に臨み変に応じて総て我国家の為に御尽力下されたことは皆様の御承知の通であります、さて段々御年を重ねるに付て、最早銀行以外のことは総て関係をお断りするといふことで、先達御承知の通り六十有余の殆ど離るべからざる会社其他大切の御相談役等の関係をお断りになつた、退隠はなされぬが先づ身体を幾らか楽にして、さうして第一銀行の為に尽力しやうと、斯う云ふことで他の事はお断りになつた、所が御承知の通り亜米利加から御招待を受けた、就ては先方からも是非渋沢男に御出を願ひたい、又此方の商業会業所其他社会の上流・中流に立つて居る人からも、皆渋沢さんに御出を願ひたい彼方からも、此方からも、どうか行つて貰ひたいといふので、最早総ての関係をお断りになつたにも拘らず、それでは奮発して行かう、斯う云ふことで此度お出ることになりました、今月の十九日に御立になつて亜米利加の西海岸に着き、西海岸を廻るだけなら宜いが、東の方の紐育、ボストンの方までも廻つて御帰りになるのでございますから随分えらいことだらうと思ひます、して見れば吾々会員といふものは満腔の熱誠を以て渋沢さんの行を送り、及び其御旅行中無事安穏に過されて、芽出度御帰朝になることを吾々一同の力を以て祈らねばならんのであります、又彼地へお出になれば日本の銀行の様子はどうであるか、どう発展されて居るか、斯う云ふ尋もあらう、又それに続いて交換所はどう云ふ具合に進んで居るか、斯ういふ問もありませう、又興信所の制度はどうであると必ず問はれるでありませう、それ等の事に付ては渋沢さんは、銀行は勿論興信所も交換所も発起の発起でございますから、それに対しては充分に御説明下さるであらうと思ふ、それと同時に彼地の交換所の様子、興信所の様子を十分お土産に御持帰り下さいまして、我々を御指導下さることと信じて疑ひませぬ、さて佐竹さんは皆さん御承知の通り、第十銀行の創立の際同行へ御這入になつたので、今は御老人のやうであるが、其昔佐々木勇之助さんと一緒に大蔵省の簿記学校へ行つて、簿記などゝいふ言葉は未だ世間で余り知らぬ時分に、自ら簿記の御修業になつて随分御骨折になり、それから明治十五年には第十銀行の頭取になられ、今日まで第十銀行を御預りになつて居られます、甲州は御承知の通り生糸の生産地たる信州に近寄つて居る、又甲府も生糸の発達地であります、此土地の銀行を
 - 第50巻 p.409 -ページ画像 
御預りになつて、傍ら電灯会社を御経営になつて居ります、是も創業の際は蟠根錯節、株主は未だ電灯の何ものたるを殆ど知らぬ、随つて其株主の性質も分らぬと云つて宜い、其困難の中へ這入て他にも電灯会社がある、それをトウトウ一の会社に纏めて、さうして遂に桂川の水力から電気を起して、今日東京市へ持つて来て此部屋に斯様に風を送るのも皆電気の力であります、本を質せば桂川の水力である、一方では銀行のことを御預りになり、一方には文明の利器たる電灯のことを御預りになつて居られる佐竹さんであります、さうして此度御出になる亜米利加は、最も電気化学の事業の発達して居る国であることを承知して居ります、して見れば渋沢男は銀行を率先しておやりになり又一方では各種事業の発展に御尽力になり十分の御経験がある、又佐竹さんは銀行に長く御尽力になつた上に、電灯を御経営である、此御二人が此度米国へ御出るといふことは随分国家の前途の為め非常に利益あることゝ思ひます、是は堅く信じて疑ひませぬのであります、私は先刻渋沢さんの御健康で御帰朝になることを御願ひ申しましたが、佐竹さん亦然り、どうぞ御多忙中御身を御厭ひなされ、さうして無事御帰朝になることを、会員一同万々御祈り申して居ります、それで来る十一月御帰りの時は、又諸君と共に御喜びの盃を挙げたいと思ひます、今日は御暑い所を御出下さいまして有難うございます、会員に代りまして御礼を申上げます(拍手)
    ○渋沢男爵の答辞
会長及会員諸君、今度私が亜米利加へ旅行を致すに付きまして、当集会所・手形交換所・銀行倶楽部・興信所等の諸団体が御申合せ下さいまして、御送別の宴を開かれましたのは感謝の至りに堪へませぬのでございます。
只今皆様を御代表で豊川君から、至つて御親切な深く私を御察し下された御送別の言葉を下されましてございます、如何にもモウ七十の老年でございまして、殊に不幸にして英語は解しませぬし、斯る身で自ら図らず今般の旅行に、仮令強て勧められるとも、応ずるは頗る突飛な事柄と自身も今尚躊躇致して居るのでございます、殊に従来は本業は銀行でございますけれども、併せて各種の事業にも関係して居りました、追々身体も弱つて参りまするし、何時までもさう限りない各種の雑務に関係致すまでもなからうと心附きまして、当年総ての事務を御断りして唯最初経営しました銀行だけの一途に止めて、どうぞ過ち少なからんことを孜々として心懸けて居ります際でございますから、斯様な旅行などは殆ど為し能はぬと思ひましたで、種々なる方面からの御勧め又は要求も受けましたけれども、意を決し能はなかつたのであります、さりながら昨年米国の実業家を日本へ御招きしたといふことも、或は一時の出来心と云ふやうなこともあつたかも知れませぬけれども、此太平洋を隔てゝ東西にある両国の間は、行末益々関係は深くなるであらう、関係が深くなると同時に或点からは交情の阻隔を惹起さぬとも限らぬ、故に事を好む者は種々な揣摩臆測を為しつゝある今日でございますから、五十年の昔、コンモドル・ペリーが我長夜の眠を覚して呉れたとか、閉してある桃源の戸を解いて呉れたとかいふ
 - 第50巻 p.410 -ページ画像 
ことに付ては、我国民が押なべて同国の厚情を喜んで居る次第でありますけれども、唯それだけを以て何時までも両国の交情を持続することは出来ぬ、此間に倍々交情を温めて行く必要は必ずあるでございませう、畢竟昨年米国商業会議所の人々を日本に御招きしたといふことも、聊か其意を含みましたことでありませう、又参られた米国の人々も其処らのことを意味して参られた、其結果は頗る好都合で、先方も大に満足をされて再び彼の地の企となつて、今度は日本の同位置にある人を是非彼地へ招かふと云ふ場合に至つたといふことでございますれば、何れどの筋からか相当な顔触の御人々が罷越して、大なる働きを為し得られぬでも、向ふの厚い情に報ゆるだけのことは是非なければならぬと、自身等は深く感じましたのでございます、素より私などは事情にも通ぜず言葉も解らず、果して其位置に立ち得るとは思ひませぬけれども、段々様子を拝見しますると、奮つて行くといふ御方の方が寧ろ少く、彼も行かず是も厭やだといふやうな事態に見へまする為めに、遂に先々月でございましたか、平生御親みを厚うして居る数十の御方の御会合席で、誰ぞ年寄株を見出すやうにしたいと、色々御相談のあつた結果、結局千家・高橋・中野の三君が、其会合の総代として、是非渋沢に此労を取ることにして貰ひたい、一同の希望はさう決したから、どうぞ厭やと言はぬで呉れといふことの御談じを蒙りまして、其以前から私は外務大臣・大蔵大臣あたりから、チヨツト御誘ひ言葉を頂戴しましたけれども、前に申す理由から実は御免を蒙る考で居りましたけれども、今申上げました如くに極く親しい方々の御請求を受けて見ますと、実は反対にさういふ方々こそ適当な御顔触であるのに、私だけを御責めなさるのは御無理のやうであると、斯う考へましたけれども、最早其席に於て相譲るといふことは既に晩しと考へましたから、モウ、さう云ふ訳なれば不肖ながら身体が続きましたら必らず御引受を致しませう、追々年も取りましたし、余り健康でもございませぬから、若し病気の為に果すことが出来なかつたら、是は平に御宥を願ひますると、御請をしました次第でございます、其以後段段向ふの招待の模様を聴きますると云ふと、思ふたより此の旅行は困難と存じまする、概略道順と申しますると、先づ十九日に出立として九月二日にシアトルへ着して、シアトルの近辺からポートランド、タコマ、スポーケン等を経て、それから段々東部へ行つて紐育・費府・華盛頓より中央部を又西へ戻つて参りまして、最初の申込であると十一月三十日迄旅行の筈でありましたが、再応掛合つた結果、少し日を繰上げて十一月二十三日に桑港へ帰ることになつて居ります、それで廻ります場所が四十六箇所ほどございまして、其日数が七十幾日、多くは汽車生活をやれといふやうに見へまするのです、先づ遊山といふことでございますと、一汽車遅れても此方の都合でといふ所に楽がある、昔風の旅でありますと、馬に任せて行くといふ筆法で、一向時を定めぬのが旅行の一番愉快なり便利とする所である、然るに今度の旅行は最初からチヤンと割付られて、さうして其日の休息は汽車の中でする、勿論汽車の設備も日本より好いでありませう、或は特別の車を出して呉れるかも知れぬ、けれども併し如何に我々が自ら奉ずるの卑
 - 第50巻 p.411 -ページ画像 
きにして見た所が、汽車の中で七十日旅をして、そうして各地を廻らなければならぬ、其上に出まする場所は総て言葉の通ぜぬ情意の通はぬ人に唯々無暗に手を振つて、此方の産物は斯うだ、此機械は斯うなつて居るから見い、ヘイ畏りましたと云ふて、先づ順送りに廻つて歩きますのですから、卑い言葉で申すと何だか興行師に猿芝居が買はれて宿次に打つて歩いて、十一月の三十日にならなければ年期が開かぬといふ位置に立つたと言はんならぬやうな有様でございます(笑)、幾らか此行程を変更しやうといふことを考へて数回外務省に打合せをして電報を掛けましたけれども、ナカナカ、シヤトルが振出し元で、此企をしました亜米利加の委員長は、先頃参りましたブレーン氏とドールマン氏、此二人ばかりであるか或は其他の人も加つて居るか知らぬが、ナカナカ吾々の請求を容れない、どうも各地とも相当の引合をして段々評議の末斯の如く定つたのだから、動かすことは出来ない、何んでも斯でも此方の希望に応じて呉れ、其代り休日は息ませるからさう思へ(笑)、以て此の旅行は楽でないといふことの御察しを願ひたい(拍手)、左様に苦しんで七十余日を経過しましても、実は前申す如く事情を知らぬ、言葉の通ぜぬ私、決して自分としては大なる功能を其間に顕はすことは出来ないと考へます、併し吾々一行は総計では四十六人ばかりでございます、但し従者も加へて――其中には実地家も大分ございます、是は決して私如きものでないので、私が左様に功能がないからと云ふて、此一行が功能がないといふことは決して申されませぬ、此一行を押纏めて行つたならば、或は日本を代表し得るだけの力があると申上げられるかも知れぬ、どうか私の無能を以て一行が至て卑い、功能が無いものだといふ御解釈はないやうに致したい、但銀行として皆様が私を斯様に後押をして下さるのは、長い間の御同業の関係に因ることで、実に御好意辱けない、私は此諸君の後押によつて我行を盛にすることが出来、彼の地に参つて、今日日本の銀行は仮令中途より豹変して、より善くなつたと申しましても、又自分も善くなつたと思ひますけれども、其源を質せば亜米利加が根本でございます、明治五年八月何日でございましたか、亜米利加の制度に依つて銀行条例が発布されたのでございます、其先祖とも申すべき国の銀行状態を観察して参りますのは、多少趣味があらうと思ふ、況や此の如く多数の御方が十分行つて調べて来い、手形の交換はどう云ふ有様か興信所の仕組はどうなつて居るかといふやうな廉々を、相当な地方に付て十分観察して参れといふことは、仮令其御言葉がございませぬでも、出来るだけは調べて参る考でございます、私自身は功能が無いのは前述の通りでございますが、他の方面に於ては幸に実地に精しい、教育にも農業にも、或は工業にも、相当な顔触の人が皆此一行に加はりますから、詰る所どうぞ此団体に依て、両国の交情を益々温め得るやうに、又一方には追々に情意の通ずるに依つて、事情の近くなる程或場合には又利害の衝突を来さぬとも申されぬので、例へば支那に対する日本の希望と亜米利加の望みとは、必ず同じ道行を為すとしますれば、是等の事に付ても深く考へて、成るべく其間の衝突を避けるといふことは心懸けねばならぬと思ひます、是等の点に付ては心を用ゐ
 - 第50巻 p.412 -ページ画像 
て、彼等の希望はどの辺である、之に対する吾々はどう覚悟して宜からうといふことは、解せぬながらも一部の観察が出来ますれば、必ず帰朝の上諸君に申上げることは怠りませぬ所存でございます、詰り今度の旅行は、前に申しまする通り、私一身としては殆どモウ之が老後の奉公仕舞ぐらゐに思ふので、私は此間から始終申して居るのは、丁度私は天保時代の生れですから、規則立つた教育も受けず、兵役などといふことも、百姓ですから時々領主の夫役に使はれたと云ふことはありますけれども、一向国に対する義務などとして勤めたことはなかつたので、今度七十になつて初めて徴兵に取られた(笑)、年限は三箇月、志願徴兵だから歳月は甚だ短い、十二月になると隊を出て戻つて呉る、斯う云ふ訳で彼方に参る積りであります(笑)、一言御挨拶を申上げます(拍手)
    ○佐竹作太郎君の答辞
今日は私をも御招き下さいまして誠に光栄に存じます、今回私が渡米を致すことに決した動機は、渋沢男爵始め私に行つたらどうかと云ふ御相談を受けまして、それが動機になりまして遂に渡米の決心を致し御請を致しましたものゝ、考へて見ますと、私は学問も無ければ見識もない、何等役に立つべき理由が少しも見出しませぬので、殆ど唖同様の者でございます、資格の上から申しますと実に問題外でございまして、私が参りますといふことは世間に向つても申上げられぬやうな次第でございますが、唯僅かに年を取りましたゞけに世の中の経歴といふものだけを知つて居りますが、其他には何も知りませぬ、それでは彼の国に参つて見ました所が、看板さへ読み得られぬのであります誠に慚愧に堪へませぬ、それで唯今御言葉のございました如く、成るべく一身のことを注意致しまするが、先づ以て肝腎のことゝ考へますので、御忠告に背きませず無事に帰つて参りたいと思ひます、唯前に申上げたやうな次第で、一向何等役に立たぬ者が一行に加はつて参りますに付ては、横浜を出帆致しましてから更に横浜に帰着しまする迄の間は、御同行諸君が非常の御迷惑であらうと自分は推察を致して居ります、甚だ恐縮に堪へぬのであります、幸に彼地に於きましても、御一行諸君の御助力によりまして、大なる過失なく大なる恥辱を蒙らないやうにして参りますれば、自分一身のために仕合せであらうと心得て居ります、今夕は斯る盛大なる御宴会に御招待を蒙りまして、誠に光栄と存じます、深く諸君に対して感謝の意を表します(拍手)
   ○本資料第三十二巻所収「渡米実業団」参照。



〔参考〕銀行通信録 第四八巻第二八九号・第四三―四四頁明治四二年一一月 ○録事 銀行倶楽部委員長代理(DK500082k-0004)
第50巻 p.412 ページ画像

銀行通信録 第四八巻第二八九号・第四三―四四頁明治四二年一一月
 ○録事
    ○銀行倶楽部委員長代理
銀行倶楽部委員長渋沢男爵海外旅行の途に上らるゝに付、其不在中早川千吉郎氏に委員長代理を委託せられ、其他の諸氏よりも同様依頼あり、早川氏之を承諾して同委員長に就任せられたり