デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

2部 実業・経済

1章 金融
1節 銀行
5款 社団法人東京銀行集会所 東京銀行倶楽部
■綱文

第50巻 p.528-532(DK500121k) ページ画像

大正3年7月2日(1914年)

是日、帝国ホテルニ於テ大隈首相・加藤外相・若槻蔵相・尾崎法相・一木文相・岡陸相・仙石鉄道院総裁ヲ招待シテ、銀行倶楽部第百八回晩餐会開カル。栄一出席シテ、支那旅行談ヲナス。


■資料

銀行通信録 第五八巻第三四五号・第九八頁大正三年七月 ○録事 銀行倶楽部第百八回晩餐会(DK500121k-0001)
第50巻 p.528 ページ画像

銀行通信録  第五八巻第三四五号・第九八頁大正三年七月
 ○録事
    ○銀行倶楽部第百八回晩餐会
銀行倶楽部にては七月二日午後六時より、帝国「ホテル」に於て第百八回会員晩餐会を開き、大隈首相を始め其他の閣員を招待せり、当日の来賓は大隈総理大臣始め加藤外相・若槻蔵相・尾崎法相・一木文相・岡陸相の諸大臣、仙石鉄道院総裁及過般支那漫遊をなし帰朝せられたる渋沢男爵等の諸氏にして、主人側の出席者百二十名の多数に上りたり、定刻六時三十分食堂を開き晩餐を共にし、食後委員長早川千吉郎氏の挨拶あり、次いて大隈総理大臣・加藤外務大臣・若槻大蔵大臣及渋沢男爵の演説あり、十時三十分一同歓を尽して散会せり○下略


銀行通信録 第五八巻第三四五号・第四二―四四頁大正三年七月 ○銀行倶楽部晩餐会演説(大正三年七月二日) 渋沢男爵の演説(DK500121k-0002)
第50巻 p.528-532 ページ画像

銀行通信録  第五八巻第三四五号・第四二―四四頁大正三年七月
  ○銀行倶楽部晩餐会演説       (大正三年七月二日)
○上略
 - 第50巻 p.529 -ページ画像 
    ○渋沢男爵の演説
委員長及臨場の内閣諸公閣下、此倶楽部の晩餐会には私は何時も主人位地で意見を陳述致しますから、今夕も其心得で出ましたところが、今晩は此お席の客の一人にお算へを戴きましてございます、それは先月支那に旅行をしたゝめである、支那で沢山支那料理を馳走になつたによりて、又日本に帰つて斯の如き盛大なる御馳走を受くるといふことは、子から孫と利息を産み出すやうな訳で、銀行としては御馳走の利倍増殖と申して宜からうと思ふのであります(笑)、唯今委員長の御挨拶に答へられて総理大臣閣下は、御懇切に施政の方針を内容にまで立入つて、御説明を下されたやうに拝承致しました、続いて若槻大蔵大臣閣下も、在外正貨に付き其他公債の事に付て詳明に御説明を下さいましたのは、吾々大に迷夢を覚したやうに考へます、蓋し今夕の如く内閣諸公が銀行倶楽部の晩餐会に御集会下さるといふことは、私も数年間此倶楽部の委員長を務めましたけれども、私の時代には未だ曾て見ることの出来なかつたのであります、故に私は第一に早川委員長の功績を倶楽部員諸君と共に賞賛致しますが、併し或は是が倶楽部の委員長のお骨折よりは、現内閣諸公が実業界に深く意を注がれるより致した所でありますか、其孰れであるかといふことは考究する必要はありませぬ、何れにしても斯の如き盛会は今迄は未だ見ることが出来なかつた、将来は屡々見たい、所謂空前にして絶後たらざることを希望するのであります(拍手)
殊に現内閣は実業界に重きを置かれて、既に本月の十日でございましたか、全国の実業家を招集されたといふことは私も旅行中承知しまして喜悦致したのであります、当時私は九州まで帰つては居りましたけれども、病後のために余儀なく参席することの出来なかつたのは頗る遺憾でありましたが、御厚意の有難いことを深く感謝致します、唯願くは斯る事柄は一時的のことでなくして永久に継続したい、或る都合によりて生ずることでなく衷心から実業を御愛し下され、又御引立下さることを希望して已まぬのであります、是は独り銀行者ばかりではございませぬ、実業界の人々が政治界に対して其注意の致し方が足らぬとか、待遇が薄いとかいふやうな不平は別として、吾々の務むべき所は必ず努め、我が品格を高め、我が見識を進めるといふことを弥増尽さねばならぬことゝ私は深く思ひまするのであります、国内に居りましても常にさう思ひますが、若し一歩外へ踏出しますと、此念慮が益々強くなるやうに考へます、過般支那旅行をしまして彼国の実業の事を観察致しましても矢張同様である、総じて他国へ出ますと、我が実業の足らぬ所、更に努めなければならぬ所が多々あるといふことを益々感ずる、幸に政府当局諸公の殊に近頃、実業界に重きをお置き下さることを深く感謝すると同時に、吾々はこれに狎れずして益々我手腕品格を進めて久しうして之を渝へぬやうにして往きたいと期待致すのであります
内閣諸公の施政方針に付て外交に財政に経済に対するところの抱負は総理大臣閣下のお演説及び其他当局諸公の御説明を拝承致しまして、別に申上げまする点はございませぬ、早川委員長はいまだ拝聴せぬ前
 - 第50巻 p.530 -ページ画像 
に多少の不服があると言はれましたが、私は今夕詳しく伺ひまして大体に於て少しも不満はございませぬ、併し或る事物に臨んでは見解を異にして、斯くするといふ事にそれはいけませぬと申上げることが絶無とは言はれませぬ、是はどうぞ左様な事は無からしめたいとは思ひますが、若し有りましたら御容赦を願ひます、但し今日に於ては御演説の御趣意に対して全然感謝措く能はずと申上る外ありませぬ、唯将来其事が事実に現はれることを深く希望致すのであります
次に私は支那旅行に付て今夕の御馳走を戴きましたが、支那旅行のお話は各地で申述べましたで、甚だ陳腐の言葉になりましたけれども、極めて簡単に一言申添へて御馳走のお礼に致さなければならぬと思ひます、此旅行は何等任務を帯びませぬので、所謂漫遊であつた、併し漫遊中多少の用務を持ちましたのは、諸君も御承知の通り昨年孫逸仙の来朝された時に日支の間に合弁会社を組織しました、其組織した会社が第二革命政変のために大に違却しましたのみならず、時としては誤解が生じました、蓋し国際間で其言葉の通じない、疑惑の多い場合に誤解の生ずるのは無理ならぬことであります、仮令誤解たらざるも今日の所では日本が長江筋に手を染るとか、或る利権を取らうとして居るとかいふやうなことを、屡々外字新聞に謡はれつゝある場合でございますから、何か支那に於て事を為さうとするには、其疑惑其妨害は実に推測られぬことであります、故に折角企てました日支合弁会社も途中立竦まねばならぬ有様であつた、是に於て私の立場と致しましては切に是が弁解に努め、漸く昨年其疑惑は解き得たやうでありましたけれども、其事業の著手に到らぬのはいまだ疑懼の念に掩はれて居るやうに見えましたから、支那の官民に対して弁解する必要があると思ひまして、官から命ぜられたことでもなく誰れから頼まれた訳でもありませぬ、唯私の徳義上の任務としまして、曾て支那旅行を致したいと思つたことを遂げると共に、中日実業会社の誤解謬伝等があるならば、之を融解したいと思つて旅行したのであります、支那に於て各地方相会する人毎に中日実業会社設立の事情は斯くある、又吾々経営の目的は斯様であるといふことを詳細に説明応答致しました、上海を始めとして天津に参りますまで大凡十四・五の都市を巡回しまして、多くは官辺の人、又は商務総会の人にも会見して再三再四談話を交換致しました、幸ひ北京には一週間余居りましたゝめに、此会社の首脳に立つべき楊士琦氏とも数回懇談しました、此同氏は相当に政治界の勢力もあり年齢も耳順に近いのであります、北京滞在中同氏と屡々折衝致して漸く此会社の事業著手順序の相談が遂げ得たやうに思ひましたので、帰国の後日本に於る首脳者倉地氏にも懇々其事を申通じましたが、今日はまだ事実に現はれて来ぬやうであります、併し北京に於ける官憲も、商務総会等の人々も、上海其他の商工業者も、若くは外字の新聞紙等も、初め疑ひの目を注いだ程にはございませぬで、近来は余り喋々致さぬやうに見えますのは、仮令私の不敏不徳たるも、一箇月の旅行は只無能に了つたではなからうかと思ふのであります
此旅行中北京に於て楊士琦氏と種々談話をして居りましたるに、楊士琦氏が申しますには、日本と支那とが協同して追々仕事をしやうと思
 - 第50巻 p.531 -ページ画像 
ふのには、必ず要るものが経験と智恵と金だ、経験と智恵は日本人から貸して呉れるにしたところが、金は何処から出して呉れるであらう支那は御承知の通り貧乏だ、けれども日本も貧乏の点は似て居るやうである、さすれば金は他から借りなければならぬ、経験と智恵は日本から借りるが、金は日本から借りる訳にいかぬではないかと言はれました、先刻総理大臣閣下が日本も支那に対して資本の事ではさう意張る訳にはいかぬと仰しやつたのは、楊士琦氏の言葉を想ひ回して何んだが有難くないやうな感じが致しましたが、丁度先月の二十三日に北京に於て楊士琦氏と其談話をしたのであります、私は之に対して答へて言ふた、それは貴下の一を知つて二を知らぬのである、凡そ資本といふものは沢山あるからといふても無暗に来ない、何となれば資本は頗る臆病であるから危険と思ふ処には来ない、安心だと信用するので来る、沢山有るから来るといふ訳ではない、若しも多く有るから来るのならば、資本家の多い国からドンドン放資しさうなものだが、さうはいかぬ、支那にも金持があるが、試に相談をして見なさい、容易に出さぬであらう、何程の金持でも実情の分らぬ仕事には金を出さぬ、日本は欧米と比較をしたならば貧乏に相違ないが、併ながら日本は支那を能く知つて居る、故に支那にて此事が有望とあれば日本の資本家は必ず金を出す、詰り資本は事実を知るに於て初めて出るのだから、金が有りさへすれば出ると思ふのは一を知つて二を知らぬものであるといふて私は弁解致しました、私の此断案が宜いか悪いかは諸君の御判断に任せるとしまして、楊士琦氏と会つて一の談話を致しましたことを御聴に入れます、此他各地に於て談話したこともございますが、長々と此処で申上げる程の面白い問題はございませぬから、支那旅行の経過談は之に止めます
更に今一つ恰も総理大臣閣下が今夕尊来に付て、私が往事を回想して何やらん昔を偲ぶやうな心持が生じます、それは私の上海に参りましたのは今回で三度である、其初めは四十八年前即ち慶応三年であります、其次は明治十年西南戦争の時であります、三回目は大正三年の五月六日であります、最初の事は暫く措きまして、二回目に参りましたのはどういふ用務かと申しますと、大隈伯爵が大蔵卿で居られた時に支那の陝西省と甘粛省に一揆が起つて、此一揆を討伐するために時の将軍左宗棠といふ人が、其副将金順の兵に依て其一揆を討平げるといふので軍用金が要る、其金額を左宗棠の「札飭」を以て借り上げる、蓋し「札飭」といふのは左宗棠より許厚如といふ上海の道台に与へたる委任状の如きものであつたのです、依て日本から其金を借りたいといふ事を申込れて、支那中央政府の正確なる証書がなくても宜からうかといふことを、種々研究して見ましたところが、其時の滙豊銀行といふのが香港上海銀行である、又麗如銀行といふのが「オリエンタルバンク」である(其頃日本の横浜に於て十一番「バンク」と云つて居りました)、此二銀行に就て段々調べて見ましたところが、左宗棠の「札飭」なれば大丈夫といふことであつた、それならば宜しいといふので内実は大蔵省から金を貸すから、第一銀行の名に依て支那に金を貸しに行けといふのであつた、私は明治十年即ち三十七年前に於て既
 - 第50巻 p.532 -ページ画像 
に第一銀行の頭取として、支那に金貸に参つたものであります、明治初年に斯様な大仕事をした私程の者は、今日此お席には必ず無いに相違なからうと思ふのであります(拍手)、而して此内命を下された大隈伯爵閣下が今夕此処に御賁臨あられたのは最も妙である、過日私は此事を上海で思ひ出しまして或る支那人に話しましたが、其当時談判に与かりました許厚如といふ道台も、今日は影も形もありません、且其上海といふ土地も何れに飛んでしまつたか、今日の上海は全く新たに造営された様でありましたから、私の眼は昔の上海をどうしても認めるに由なくして去りましたが、併し眼は全く見忘れましたが心だけは確に存じて居ります、況や今夕此処に於て恰も其時命令をお伝へになりました大隈伯爵閣下が、当倶楽部の晩餐会にお出で下すつて、私が支那談を申上げるお席に列して、此三十七年以前の事を陳述しまするのは、是れ位愉快なことはないではございませぬか(拍手)、故に三十七年以前に支那に向つて既に金貸を始めた私でありますから、是から中日実業会社が追々と仕事を持つて来ましたときに、斯の如く有力なる銀行者が沢山居つてからに、些細なる金額に付ても彼の銀行に行くといけない、興業銀行に行くと他の銀行に行け、第一銀行に行くと何処の銀行に行けといふ様では誠に情ないと、私自身が銀行者としても尚嘆ぜざるを得ぬのであります、どうか是等の苦情を申上げさせぬやうに、私をして満足させて下さることを懇望して已まぬのであります
                         (拍手)
  ○本資料第三十二巻所収「中国行」参照。



〔参考〕渋沢栄一 日記 大正三年(DK500121k-0003)
第50巻 p.532 ページ画像

渋沢栄一 日記  大正三年          (渋沢子爵家所蔵)
五月一日 半晴 軽暖、風強クシテ砂塵多シ
○上略 十二時銀行倶楽部ニ抵リ、午飧会ニ列シ、食後一場ノ演説ヲ為ス
○下略
  ○栄一ノ演説筆記ヲ欠ク。栄一、五月二日中国旅行ニ出発シ、六月十五日帰京ス。次掲資料ハ「参考」トシテ掲グ。



〔参考〕銀行通信録 第五七巻第三四三号・第六六頁大正三年五月 ○録事 天機奉伺(DK500121k-0004)
第50巻 p.532 ページ画像

銀行通信録  第五七巻第三四三号・第六六頁大正三年五月
 ○録事
    ○天機奉伺
当集会所会長男爵渋沢栄一君は 皇太后陛下御重患に付、五月十日当集会所を代表し、宮内省に出頭の上 天機を奉伺せられたり