デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

2部 実業・経済

1章 金融
1節 銀行
5款 社団法人東京銀行集会所 東京銀行倶楽部
■綱文

第50巻 p.557-566(DK500133k) ページ画像

大正5年7月26日(1916年)

是日栄一、東京銀行集会所会長ヲ辞ス。翌二十七日当集会所通常総会ニ出席シ、総会終了ニ際シテ
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告別ノ演説ヲナス。


■資料

銀行通信録 第六二巻第三七〇号・第七四頁 大正五年八月 ○録事 会長及副会長更迭(DK500133k-0001)
第50巻 p.558 ページ画像

銀行通信録  第六二巻第三七〇号・第七四頁 大正五年八月
 ○録事
    ○会長及副会長更迭
当集会所会長男爵渋沢栄一君は第一銀行頭取辞任の故を以て、七月二十六日当集会所会長を辞する旨申出あり、因りて八月七日臨時総会を開き、補欠選挙の結果現任副会長早川千吉郎君会長に昇任し、第一銀行佐々木勇之助君副会長に当選就任せられたり
  ○「竜門雑誌」第三百三十九号ニモ同様ノ記事アリ。
  ○本資料第六巻所収「東京銀行集会所」明治二十九年三月十六日及ビ本款明治四十三年八月二十七日ノ条参照。


銀行通信録 第六二巻第三七〇号・第七四頁 大正五年八月 録事 東京銀行集会所社員通常総会(DK500133k-0002)
第50巻 p.558 ページ画像

銀行通信録  第六二巻第三七〇号・第七四頁 大正五年八月
 ○録事
    ○東京銀行集会所社員通常総会
大正五年七月二十七日午後四時五十分開会、出席社員五十八行、人員五十九名、即ち総社員の四分の三以上にして、理事(副会長)早川千吉郎君議長席に着き、渋沢会長第一銀行頭取辞任と共に当集会所会長辞任の次第を報告し、夫より大正五年上半期事務報告書、同上決算、大正五年六月末財産目録は異議なく承認を得、当集会所定款改正の件経費分担金の特例に関する件は原案の通り可決し、大正五年下半期予算承認の件は一部金額を修正の上之を可決し、最後に渋沢前会長より一場の演説あり、右にて議事を了り午後六時閉会せり


銀行通信録 第六二巻第三七一号・第二七―三〇頁 大正五年九月 ○渋沢男爵告別の辞(DK500133k-0003)
第50巻 p.558-562 ページ画像

銀行通信録  第六二巻第三七一号・第二七―三〇頁 大正五年九月
    ○渋沢男爵告別の辞
 本篇は渋沢男爵が東京銀行集会所会長辞任隠退に付去る七月二十七日の当所総会席上に於て告別の為め演説せられたるものなり
殊更に申上げます程のことではございませぬが、私も段々老年になりました為めに第一銀行の頭取を辞職致しました、其結果として永年諸君のお助力によりて当集会所の会長を勤続致しましたけれども、玆に御免を願ふことに相成りまして、只今早川君から諸君に御報道を頂いた訳でございます
此銀行集会所の歴史を回想しますと、最早四十余年を経過しました、明治六年に国立銀行が創立しましたけれども僅に第五行に止つて、其進歩を見るに至りませなんだ、而して此銀行の仕組は政府発行の太政官札を兌換しやうと云ふ計画であつたが、是は後から考へますると、恰も底のない袋に物を容れるやうな方法で、立案した政治家も、経営した実務家即ち私共も、自ら顧みて斯の如き思慮のない人間が事物の処理が出来るかと、慚愧に堪へぬのであります、東洋の天地に僅か数百万円の兌換紙幣を発行して、それに依つて金貨制度を維持しやうと云ふことは出来る事ではない、何故右様なる尻抜け案を以て当時の金融界を救済しやうと思ふたか、斯の如く智恵のない渋沢が、永年銀行
 - 第50巻 p.559 -ページ画像 
家を勤め得られたと云ふのは、私がそれから後に賢くなつたのか、又は日本の政治家銀行家が私と同じく愚かであつたのか、随分訝しな話であつたのです、而して其原案は誰が調べて来たかと云ふと、故伊藤公爵が米国の制度に摸倣して我邦の兌換制を創設しやうと企図されたものである、其際少しく大蔵省に於て詮議したら心附いたでありませうが、金銀比価のことなどは誰も知らなかつたものですから、今日斯く申しますと大層物識らしうございますが、私も当時の物識らずの一人であつた、そこで明治七年になりますと、第五まで出来た銀行の紙幣引替が却々激しくなつた、殊に第一国立銀行は多く紙幣を出しましたから、其引替の度も強かつた、是に於て此方法では兌換制度が維持し得られるものでないと云ふことを始めて心付きました、是は誰か智恵のある人が教へて呉れたと云ふのでなく、自然の必要上からして其発行した紙幣を自己の手にて引替へました、さうして大蔵省に強願して金札引替証書に依つて下附された紙幣を使ふことが出来ませぬから大蔵省の紙幣を借用して僅に銀行の営業をすると云ふやうな有様であつた、それが明治七年から八年に掛けての事であります、而して各銀行は此儘では到底継続は出来ぬと云ふ折も折とて金禄公債の一般下付があつたのであります、此金禄公債といふのは維新後政府に於ては各藩主藩士の禄制を改正せねばならぬ、又同時に租税も米納はいけないから之を金納に引直さねば真に財政経済の基礎を鞏固にすることは出来ぬ、蓋し各藩主藩士の多数の人が永久に禄を受けて、労せずして国家の貨財を得ると云ふことは財政の正則でない、但し今日悉皆之を廃止すると云ふ訳にはいかぬから、大なる制限法を設けて公債証書を以て一時に渡すが宜からうといふことになつた、此公債証書を発行するといふことも矢張伊藤公爵の亜米利加土産で、前の兌換制度法案と同時に持ち帰へられたのである、是より先明治三年の冬伊藤公は亜米利加に行かれて、種々調査された法案の中に国家として是非とも公債証書流通の働がなければ、一国の財政経済を調和することは出来ぬと懇切に申し送られた、是は寔に尤のことであるといふて大蔵省は其説を採用した、是は井上侯爵が明治四年から大蔵省の当局者となられて、是非此公債証書を発行しやうと言はれ、恰も廃藩置県が行はれて、各藩の借財を新政府が引受けて之を始末をすると云ふことになつたので是ぞ好機会と、此藩々の借金を公債証書にて交付しやうといふことにした、旧幕府に於ては天保十二年に水野越前守が棄捐と云ふ制を設けた、此棄捐と云ふのは一般の貸借を或る年度で区切つて、其以前のものは総て廃棄してしまふといふ制度であつた、故に廃藩置県の際にも加藤清正の貸金証書があるとか、日蓮上人の借用証書があるとかいふて古い証文などが出て来たけれども、それは棄捐に係つて居るから悉皆取上げぬ、其以後の維新までの藩々の債務は、利息までを附けるには及ばぬから之を旧公債として無利足償還の事とし、明治元年以後廃藩置県即ち明治四年までの債務を新公債として年四分の利足を附するものと定めた、斯様に新旧公債証書と云ふものが発行されて、始めて日本の経済界に公債証書と云ふものが出たのでございます、此公債証書の先例があつたから、前に申述べた各藩主藩士の禄を公債に引直す
 - 第50巻 p.560 -ページ画像 
と云ふことになつたが、是は其頃に於ての却々の重要問題として様々に論議されて居つたのが、終に明治九年に実施されて、其結果巨額の金禄公債証書が発行になつたのでございます、而して此公債を一般に下付すると同時に国家の政策として、其多数の藩士を如何に処置して家産を維持せしめ、安寧なる生計を得さするかといふことは当局者の大に憂慮せしことであつた、如何となれば禄制廃止は国家経済上の必要として行ひましたけれども、其公債を得た藩士が所謂士族の商法で一年二年の間に之を失くしてしまふと、今日の高等遊民より一層険悪なる種類の者が出来る、其結果或は国家の体面を傷けると云ふやうなことが生ぜぬとも限らぬ、政治家たる者最も玆に注意せざるを得ぬ、そこで此公債証書を取失ふことのないやうにさせたいと云ふのが要件で、前に述べました金札引替公債証書に依つて太政官札を兌換せんと企図したのが違却し、搗て加へて巨額の金禄公債を発行すると云ふことになつたから、仮令太政官札の兌換を完全たらしむることは出来ないにせよ、銀行制度が金融の便益を暢達すると云ふことだけは、出来得ることであるから、前の制度を継続して、後の金禄公債証書を以て成べく銀行を組織させるやうにするが宜からうと云ふのであつた、併し兌換制度は金銀比価の関係から到底行はれぬものですから、拠なく銀行の発行紙幣をば政府紙幣を以て引替へて宜しいといふことに改定し、前には金貨を以て引替へると云ふのを、紙幣を以つて紙幣を引替へると云ふ制度にしたのである、是が国立銀行制度の大変革と申して宜しいのです、形式から見ると小改正の様であつたのです、詰り一種の公債証書を政府に納入して銀行紙幣を受取り、其紙幣の引替を望まるゝ時は政府の紙幣で引替へると云ふのですから、詰り変体の不換紙幣を銀行が発行し得る訳になる、為めに銀行事業は寔に安穏になりまして、玆に始めて明治五年に発布された銀行条例が諸方に歓迎されて遂に百五十五・六の銀行が明治九年から十年に掛けて出来たのであります、併し此銀行紙幣兌換方法の改定は其時に於て完全に整理したのではなくて、他日又色々の波瀾があつたのであります
此銀行集会所の起原が何年何月であつたか確かとは申上げ兼ますが、多くは明治九年頃であつたと思ひます、詰り私は其主唱者の一人で、択んで善に就くと云ふ意味から択善会と命名して、各銀行者の会同を組立てたのであります、其初会は第一国立銀行で開き次は第二国立銀行といふ様に、所謂持廻りの寄合で、其開催の銀行にて幾分其日の饗応が相違すると云ふやうな有様で、其始めは十行ばかりの会同であつたやうに記憶します、而して明治十二・三年頃まで毎月打寄つて各自の意見を交換し追々に便宜も図りましたが、其頃は手形の取扱が今日のやうに一般の取引先が承知して呉れなかつた、銀行に当座預金をして小切手にてこれを引出すのは相互の便利だと云つても、却々小切手を使はぬ、預金を引出す場合は概ね小供を取りに寄越す、種々の説明によりて多少の預金をする人も、小切手の取扱を厭がつた、厭がると云ふよりは寧ろ其事情を知らぬからである、況や約束手形を出すことなどに至りては大変の恥辱と思うて居られた、苟も金銀貸借の証文などは、仏壇か金箱にチヤンと仕舞ひ込んで、甚しきは細君にも見せぬ
 - 第50巻 p.561 -ページ画像 
と云ふのが普通商工者の慣習でありましたから、借用証文が勝手に諸方に飛んで歩くなどゝ云ふことは怪しからぬと思つて居つたのであるそこで私抔は得意先に向つて、そんな訳のものではない、欧米の有様は斯様であると、色々の講釈をして、手形若くは約束手形・小切手等の使用を勧誘しました、夫れ等の取扱は当時の択善会の重要事務であつた、明治十三年であつたかと思ひますが、九年頃から引続いて出願して各銀行が追々に開業され、殊に十五国立銀行の如き大銀行が創立され、其紙幣発行高も今日から論じたならば、それが直に全体の金融界に影響を及ぼすと云ふ程ではなかつたらうが、実力の細い当時の金融界には大なる影響を与へて、銀紙の差が激しくなつた、当時横浜其他開港場の貿易に使用するは即ち貿易銀であつた、但し表面は金貨制度が明治五年確然と定められたけれども、それは紙の上の制度であつて、事実は金貨と云ふものは碌々ない、多少の準備は出来ましたれども、之を以て一般取引に融通すると云ふ程の事は出来なかつた、余儀なく貿易銀と云ふ一円銀貨を鋳造して、貿易上の取引に供した、而して夫れが貿易に関する唯一の通貨である、此通貨と内地に用ふる不換紙幣とが勢ひ差違を生ずる、即ち銀紙の差が段々に多くなる、多くなるに従つて其間に種々なる投機業が生じて同時に又弊害も起つた、今日の株式取引にも始終此弊害はあります、就中米穀の取引には最も甚しい、其頃もそれに就ては厭ふべき投機事業が起つて、香上銀行の蔵番たりしフイドーと云ふ人と田中銀行の創立者たる田中平八氏とが大に輪贏を争つて、一時大騒動を生じて其頃の人口に膾炙したのであつた、此銀紙の差が激しくなつたに就て、私は紙幣の完全の兌換を企望する処から、其際には択善会の記事を今も現存する東京経済雑誌が取扱ふた、此経済雑誌は田口卯吉氏の設立であつて、田口氏は自由貿易主義の英吉利生粋の学説を主張し、大蔵省の官吏を辞して操觚者となつた硬骨男児であつた、而して私とは別して懇親の間柄であつたから私は至極適当の人と思ふて、是と択善会とを連絡して、択善会の記事は東京経済雑誌に載せる様にして、恰も倫敦にある「エコノミスト」の様にしやうと思ふたのであつた、当時私は第一国立銀行の日常の事務を自ら執らねばならぬ身でありましたから、大抵銀行に泊り込みで仕事をして居り、田口氏も時々銀行に来られて、或る時は俄に病気になつて大騒ぎをしたこともありました、所が十三年から十四年に掛けて、銀紙の差が段々強くなつて来た、それは何に原因するかと云ふと明治十年の西南戦争は軍費支弁の為め勢ひ大に紙幣を発行せざるを得ぬ、王政維新も此不換紙幣に依つて政費を維持したのであるが、其以後は政府の収支が稍々権衡を得て居つたけれども、明治十年の戦争には、大に紙幣を発行せねばならぬ訳になつた、紙幣を余計に発行すれば其結果として銀紙の差が強くなる、銀紙の差が強くなつたから世間の議論が八釜敷くなつて、財政当局者と世間の経済学者間に意見の衝突が生じました、私は銀行者連中と再三集合して、是非兌換制度を完全にしたいと云ふて、特に田口氏と評議して一の意見書を発表したことがあります、夫れが当時の財政当局者の嫌疑を受けることゝなつて大に迷惑したのである、其為めに此択善会の名は変更して、遂に銀行
 - 第50巻 p.562 -ページ画像 
集会所と云ふものになりまして、爾来幾多の変遷はありましたけれども、集会所其者は名称に於ても事実に於ても余りに変りはない、唯々銀行事業の段々に増進するに従つて、集会所の人数も殖え、実力も拡大し、為すべき仕事も追々に盛大になつて、遂に現在に及んだのでございます
今日斯かる懐旧談を長々とお話する必要はありませぬけれども、抑々銀行集会所の起源及其経過は右様なる次第であつて、当初には種々の波瀾のあつたことを私は能う記憶して居ります、而して今私は第一銀行の頭取を辞すると共に、集会所の会員たることも自然に消滅しまするによつて、択善会以来永年御厄介になつた諸君とお手を別つに当りて、当時を回想して無量の感慨に堪へぬのであります、銀行集会所の起りは斯様でありまして、爾後引続き苦辛経営して段々に盛大になり明治十八年に此家が出来て、それから三十年を経て、遂に丸の内に壮大なる集会所の成立を見るに至つたのは、実に聖代の余沢と私は諸君と共に感泣するのであります、玆に集会所の会長を辞するに当りて往時を追懐しますと、真に今昔の感に堪へぬので、其思起した感慨を御記憶も少くお聴及びもなからうと思ふ新進の諸君に、所謂置土産として申上げたのであります(拍手)


竜門雑誌 第四八一号・第三六〇―三六八頁 昭和三年一〇月 青淵先生と銀行団体 山中譲三(DK500133k-0004)
第50巻 p.562-566 ページ画像

竜門雑誌  第四八一号・第三六〇―三六八頁 昭和三年一〇月
    青淵先生と銀行団体
                       山中譲三
      一、東京銀行集会所と青淵先生
 東京銀行集会所の初めて設立せられたのは、明治十三年で、東京手形交換所の創立は、同二十年でありますが、双方とも青淵先生が、其の創立委員長として統督せられ、私は先生の指揮監督の下に、其の創立事務に従事したのであります、爾来引続きて私は此の両団体の為めに働いて来ましたが、本年は恰かも青淵先生米寿のお祝がありますので、私に此の二団体の沿革を述べよとのことであります、此事は私に取つては誠に思ひ出で多く、且つ極めて光栄の至りと存じますので、敢て自ら揣らず、お受けを致した次第であります、多分遺漏粗忽の点も少くないことゝ思ひますが、此点は予め諸君の御諒恕をお願ひ致す次第であります。
 銀行集会所が出来ると云ふことで、最初私が雇はれましたのは明治十三年八月の事で御座いましたが、此の集会所は新たに創立せられたとは申しながら、実は択善会の事業を継承したのであつて、其択善会は明治十年先生が第一国立銀行外若干の銀行と謀り、同業者の親睦を厚くし、営業上の利害得失を談論商議し、勉めて銀行事業の発展を図らんとして設立せられたる我邦銀行団体の元祖であります、当時は尚ほ国立銀行創立中でありまして、銀行の数も漸く百を越したばかりでありました、従つて当時は何れの方面に於きましても、銀行に関する知識経験に乏しかつた為め、先生は欧米先進国に於ける銀行の実務及経済上に関し、苟くも我が銀行界に参考となるべき様のものは、悉く之を調査講究して、前途発展の資料に仕様と云ふ目的で、毎月一回同
 - 第50巻 p.563 -ページ画像 
盟銀行の会議を開き、会員を指導しつゝ、熱心に討議講究せられたのであります、其会議の記事は択善会録事として印刷に付し、其後理財新報又は東京経済雑誌の記事となり、其都度之を印刷して会員に頒ちて、大に裨益を与へて来たのであります、然るに会員中には之を無用とし寧ろ之れが廃止を主張するものが出来、之に反対して本会の維持継続を希望するものもあつて、暫く双方の間に議論があつたやうに聞いて居りましたが、此の択善会は創立以来僅かに三星霜を経たるばかりで、終に明治十三年八月二日の会議で解散することに決した次第であります、択善会の毎月の会議は或は十五国立銀行、又は第百国立銀行で開いたこともありましたが、大抵は第一国立銀行内で開き、且つ其事務取扱ひも亦第一銀行の人に嘱託し、別に事務所様のものも無かつたので、其事務を継承した銀行集会所は創立仮事務所として、差向き日本橋区万町第百銀行の倉庫を借り受け、必要の器具を買入れ、以て其の事務を取扱つて居りました、而し其の第一回組合銀行総会に於ては、創立委員七名が選挙され、又互選により先生を委員長に推し規程も出来ましたが、其事業は択善会の如く研究的のものでなく、唯だ毎月一回会同して同業者間の親睦を厚くし、営業上の利害得失を講究すると云ふ事でありました、従つて其規程も極めて簡易で御座いまして、毎月の集会場所は日本橋区万町柏木亭と云ふ寄合茶屋を利用して居りました、さうかうして居る内、日本橋区内にて最も便利な土地を卜して新築しようと云ふ議が起り、所々物色しましたが、場所が善ければ値段が高く、値段が安ければ場所が悪いといふので気に入らず、其内坂本町の空地を発見しましたが、東京府の所有地であつて、長く空地であつた為め、其一角は塵捨場になつて頗る不潔でありまして、此地所を東京府から払下げを受けました、其時の代価は一坪につき僅かに四円五十銭と云ふ廉価でありました。既に此地所が手に入りましたので、直に工部省に建築のことを出願し、其設計一切を同省に一任して、明治十六年五月工事に著手、同十八年七月外部の鉄柵に至るまで全部落成して、見違る様な立派な西洋館が出来ました、乃で落成式を挙げ、朝野の名士数百人を招待し、余興としては、今の坂本町公園の場所を打通して、本場所にも劣らぬ大仕掛の大相撲を二日間興行しました、当時は未だ東京市内に電気灯がありませんでしたが、祝典が夜に入りましたので、当夜は藤岡工学博士の研究中の機械を利用して燦然たる電気灯を点じましたが、来会者一同の目を驚かし、大喝采を博しました。
 前に申す通り此集会所の場所は、従前塵捨場同様でありましたが、集会所の新築で、俄かに壮麗な建築物が出来、電気灯を点じて、盛大なる祝典を挙げたといふので、大いに世人の注目を惹き、遠近より伝手を求めて参観に来るもの尠なからず、当方でも亦大に得意で案内したことでありますが、今考へれば実に冷汗を覚える次第であります、其後明治三十二年集会所構内に於て、食堂に充つる為め、木造家屋を一棟増築しまして、之を倶楽部として利用して居りましたが、不幸にして大正二年一月十六日自火で焼失致しました。斯様にして出来上りました坂本町の東京銀行集会所は、規模極めて小なるもので御座いま
 - 第50巻 p.564 -ページ画像 
したが、時勢の進歩変遷に随ひ、幾多重要なる問題を決議したることは枚挙に遑あらずで、其詳かなるは既に六十年史に載せて御座いますから爰に省略致します。
 爾来集会所も次第に狭隘を感ずる様になりましたので、適当の地を卜して移転新築するの必要を感じましたが、結局麹町区永楽町二丁目五・六番地に三菱合資会社の所有地を租借し、新築することゝなりまして、大正三年五月工事に著手し、同五年九月落成を告げました、之に先立ち組合銀行は新築を決議すると同時に、同年は恰かも青淵先生が喜寿に当せらるゝにより、我邦銀行創設者たる先生に対し、何等かの方法により銀行界、特に銀行集会所に離る可からざる深き縁故を有する先生将来の祝福を記念する為め、組合銀行は誠意の籠りたる記念物を設けたしと理事に懇請しましたので、理事は特に理事会を開いて協議しました、其結果、新館楼上に先生の寿像を建設するを以て最も適切なりと一決して之を建設し、而して新築落成式と同時に之が除幕式を行ふことゝ為し、大正五年九月二十五日組合銀行一同参集して、盛大なる除幕式を挙げました、其時故早川千吉郎氏が会長として一場の挨拶を述べられ、之に対して先生の懇篤なる謝辞がありました。
 先生の謝辞は当時の銀行通信録にも記載してありますが、今之を一読しますと、当時の銀行営業の如何に幼稚であつたかゞ判ると同時に此制度を我国に輸入して国民に之を利用せしむべく努力せられた先生の苦心の如何に尋常でなかつたかゞ判る、先生は先づ曰く。
  銀行業を日本に、又東京に創立致しましたのは、所謂兄は一段齢が上だといふ諺の如く、私が一番先であつたと申上げ得るので御座います、明治六年に第一国立銀行を創設しました後、引続き数行の創立は御座いましたけれども、其制度の整備せるに拘らず、完全に営業が出来ぬので、䠖跙逡巡して進み得られませなんだ、明治九年に至つて国家は更に他の必要上、如何なる方法を以てなりとも、全国に金融機関を設置し、且つ華士族の禄制変更に就て、其の財産の保護方法を設けなければならぬと云ふことからして、国立銀行制度に大なる改正を加へて、銀行を各地に設立せしむるに便宜を与へたのでございます、是に於て明治九年から同十一年にかけて、全国に百五十三の銀行が出来たのである(中略)。
 かくて銀行の数が殖えるに従つて、同業者公共の利益を保護するのみならず、銀行の必要及び経営の方法を、商工業者、即ち自家の顧客に伝習して、之を誘導し、殊に当時手形小切手の取扱方に於ては各商工業者の慣れぬのと、其の風習の異なる所より之を嫌ふといふ二様の意味に於て、一般から大に排斥せられたものである、之れにも拘らず、種々なる手順にて其の便利を説き公益を唱へて、欧米先進国の慣例などを講演し、遂に日一日、年一年と進んで、今日となつたのであります、而して今日は却つて手形小切手を濫用するものあるかのやうに承りますけれども、当時の苦心は実に容易ならぬものであつて、今申上げることは決して事実を誣ゆるものではございませぬ、此際各銀行共同の力を以て目的を達するが宜しからうといふので、今の銀行集会所が出来たのであります云々。
 - 第50巻 p.565 -ページ画像 
 かくて大正五年九月二十五日組合銀行が集まつて先生の寿像の除幕式を行つたのでありますが、是より先、同年七月先生は第一銀行の頭取を辞任せられ、同時に、銀行集会所の会長をも辞任せられましたので、同年十一月十五日、更に銀行集会所・手形交換所及び銀行倶楽部の三団体は、新築の銀行集会所に於て第一回の宴会を催し、鄭重なる慰労会を開きまして、其の多年の指導誘掖に対し厚く謝意を表しました。
 其時も矢張り故早川千吉郎氏が会長として主人側を代表して挨拶を述べられましたが、先生が如何に我経済界、就中銀行界の進歩発達を促進せられたかは、其時の挨拶の中に尽くされて居ると思ひます、早川氏は曰く、
  渋沢男爵(当時は男爵)が殆んど五十年に近き長き間、銀行業者として国家の為めにお尽しになりました御功労は、此処に私が喋々するまでもなく(中略)此間に於て渋沢男爵のお力を藉らざるものは殆んど無いと申上げて宜しい位に私は感ずるのであります、海外貿易でも、製糸業でも、紡績業でも、亦製紙業・海運業乃至鉄道等殆んど総ての事業が、渋沢男爵の創設に係るか、然らざれば其斡旋のお力を藉らざるものなしと断言し得るのであります、又啻に経済方面のみならず、教育・社会其他諸般の事で、男爵のお力によつて今日立派に成立つて居るものが多いのであります(中略)、我が国の銀行は或は政府の力によつて出来たかも知れませんが、銀行を実際に応用し、之を実際に運用されたのは渋沢男爵の力に外ならぬのであります(下略)。
 之に対して先生は鄭重なる謝辞を述べられたが、其中に先生は過去四十年間に於ける先生の所感を述べられた、其要点は畢竟我が国の経済界に於ては、銀行といひ紡績といひ、製糸業といひ鉄道といひ、若しくは保険業といひ、総ての産業が著々長足の進歩を遂げつゝあつて此点に於ては敢へて欧米先進国に対して甚しく謙遜するにも及ばぬが独り精神界・人格向上の点に至つては、寧しろ悲観せざるを得ないといふことに在つた、私は先生の此のお説に深く敬服するものであります、先生は曰く、
  実業界の今日から既往を回想しますると、唯悲観ばかりすべきものではなからう、或は之を楽観し、自ら愉快とし又誇りとすることが出来るやうに思ふ、第一に私の過去四十三年間職に居りました第一銀行に就て見まするも、同行は最初二百五十万円の資本で創立しなけれども、是は一般から資本を募つたのではなかつた、当時の有力者たる三井・小野・島田の力で大騒ぎで出来上つたものである、而かも此有力者の出資は、確か四十万円足らずであつたと記憶する当時の我財力は誠に貧弱なものであつた、かくて折角成立した銀行を、社会が如何に迎へたかといふと、亦実に心配もので、堀留・小網町、若くは富沢町あたりの従来の商人といふものは、今夕の皆様の如く時計を吊げて洋服を著た商人は、必ず直ぐ潰れるものと看做して、誰れも附合つてくれぬといふ有様でありました。
  又明治十三年と覚えます、紡績業を起したいと云ふので、迚も実
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業界だけでは資本を集めることが出来ぬと思ふて、丁度其時横浜の鉄道を華族の方々二十七名が申合され、政府から買取るといふ計画が齟齬して、一旦払込まれたる金が残つてある時であつたから、其金を以て紡績業を起さうとしたが、却々困難でありました、漸やくにして此の二十七名の華族の方々の資本金十数万円が這入つて、二万幾錘かの紡績が初めて出来上りました、是より先き明治十二年に海上保険会社を起しましたが、夫れは所謂国家的を大きな声で振廻はして、やつと出来上りました、然るに今日の海上保険会社の株は実に天下の宝物になつたと云ふやうな奇観を呈して居ります、斯かる奇観は其他にも沢山あります、随つて其当時の有様を親しく目撃し、親しく之に関係して参りました私共は、今日の現状に比べて将来も、我が経済界は左程悲観するに及ばぬと思ふのであります、(中略)斯ふ考へて見ますると、物質的文明は過去四十年の歳月が、お互日本人の能力に如何に進歩を与へ、又如何に発展を与へたか、随分喜ぶに余りありと申して宜しいことゝ思ひます、但し私は単に喜びを以て終るとは申しませぬ、或は悲観すべき点はと申しますれば精神界、人格の向上に就きましては、尚ほ少し悲観せざるを得まいかと思ふのでございます、試に政治界に問ひ、若しくは教育界に問ひ、或は社会上に問ひ、御同様の実業界に問ひましても、必ず今の各種の進歩と果して、同歩調を以て進んで居るといふことが、諸君は果して左様御覧遊ばし、又満場の方々には殆んど其位置に達して居るか知れませんが、世間一般から評論しますれば、他の満足に較べて、未だ地歩低落なりと云はざるを得ぬかと思ふので御座います云々。
 我が青淵先生が曩に第一銀行頭取を辞任せられ、更に各方面の銀行会社の重役を辞任せられ、全体の経済界から隠退せられて、爾来米寿の今日まで引続きて専ら精神界・教育界、若くは汎く社会上の為めに努力せられた、孜々として倦怠の色を示されざるは、全く此の深き御尊慮に基くものと、御推察申上ぐるのであります。
 尚ほ参考の為め、明治十三年東京銀行集会所創立以来最近に至るまでの東京銀行集会所社員銀行数の毎年の増減を左に示して置きます。
       東京銀行集会所社員銀行数一覧○略ス