デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

2部 実業・経済

1章 金融
1節 銀行
5款 社団法人東京銀行集会所 東京銀行倶楽部
■綱文

第51巻 p.37-42(DK510008k) ページ画像

大正13年4月(1924年)

栄一、是月発行ノ「銀行通信録」ニ『復興第一年の年頭所感』ト題スル一文ヲ寄稿ス。


■資料

銀行通信録 第七七巻第四五九号・第二五―三〇頁大正一三年四月 復興第一年の年頭所感 子爵渋沢栄一(DK510008k-0001)
第51巻 p.37-42 ページ画像

銀行通信録  第七七巻第四五九号・第二五―三〇頁大正一三年四月
    ○復興第一年の年頭所感
                    子爵 渋沢栄一
 本篇は本年一月七日王子邸に於て子爵の談話せられたるものゝ速記にして、一月号通信録に掲載する予定なりしが、当時子爵の多忙にして右速記を校閲せらるゝ余暇無かりし為、今日まで遅延したる次第なれば読む人之を諒せよ
大正十三年を迎へ恒例に依つて銀行通信録に私の意見を徴されるのは老衰してもまだ幸に健康を維持するからのことゝ、先づ第一に我身の上を喜びます。私は政治界の事は昔から頓と関係を致しませぬし、経済の事とても直接の関係を謝絶して、玆にもう八年の歳月を経過します。物は遠ざかると疎くなる、況や老衰した体で、今日の進歩する経済界に迚も充分な観察の届く筈はない。故に私の玆に申述べることは唯々抽象的の所謂老人の繰事たらざるを得ぬと思ひますけれども、年来の例として私の一言をお求めなさるにより、無用の弁を玆に述べるのであります
古人の句に年々歳々花相似、歳々年々人不同。是は唐人宋之問の長篇の詩にある句でありますが、何時も思ひ当ります。殊に今年は花は相似たのが咲くでありませうが、人不同はいつもの人不同とは違ひまして、東京及び関東の方面は、誠に著しき変化を見ましたことは何たる惨事でありませうか、真に春も春ならずと云ふ感想が起ります。私は元日に斯う云ふ詩を作りました、余りお目度くない詩であるけれども自己の感想であるから先づ冒頭に其拙作を記して、如何に老衰して居つても歳月を大切に思ふか、又此惨状を復興するには仮令お役に立たないでも、如何に努力をして居るかと云ふことを御察しを乞ひたいと思ふのであります
      甲子元旦所感 時年八十又五
   恢復何時見革新   劫余文物奈灰塵
   又驚節序怱々去   歳月無情不待人
右様な心を以て夜を日に継いで働いて居りますが、何等此復興に対して寄与することも出来ないし、又私一人位でなんぼ思つて見た所が、斯かる大事を如何ともすることは難事であるけれども、何か微力を尽さうと思うて頻に苦心を致して居ります。唯々斯様に申すと世間を謗るやうに聞えて甚だ穏当を欠く嫌がありますけれども、願はくは世間がもう少し事物を切実に且つ親切に考へて、斯かる場合には一方からは制度上充分なる注意を為し、一方からは誠実勤勉之に応じて両者相呼応して復興を図るやうにありたいと私は切に望みます、どうも政治家も経済家も兎角自己本位で、俺がと云ふことを主として考案を立てるものですから、一方の俺がと他方の俺がと衝突して衝突又衝突、終
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に悪戯ツ児がおまゝ事でもするやうに、仕舞にはむしり合つて壊してしまふと云ふやうに成りはせぬか、斯かる大切な時節に対して爾来軈て半年を経過しますけれども、まだ其復興の着手も出来ず、行かんとしては躓き、走らんとしては立停ると云ふやうな姿で、実に心許ない歩みを為しつゝあるやうに思ひます。震災早々に外国の人々などは深く同情を寄せて呉れ、殊に亜米利加では其迅速なこと、又其物質の豊富なのと、真に至れり尽せりである。而して各国民の同情と其評論する所を聞けば、日本の災害は大であつたけれども、其罹災人民の挙動を見ると、生々として殆ど災害の何物たるを知らぬ位の勇気を以て回復に努力をして居る。誠に心地良い国民だ、是でこそ日本が五十年の間に欧米に肩を双べる迄に進んだ所以であるなどと賞讚する人もある左様に讚められると、己がさう云ふ位置に立ち得ずとも我国民にさう云ふ気力があると思ふて実に嬉しいが、併し其讚められた言葉が事実に適合せぬと思ふと、又甚だ恥しいやうな感じがする。果して其讚辞に日本が当るであらうか、己自身も副はないが、隣の人はどうであるか、誰も彼も副はないのみならず、事に依ると喧嘩ばかりして居る、自己も其中の一人なりと思ふと、省みて何だか是では相済まぬやうな感じが致して、更に一生懸命に努めねばならぬやうな気が致します。申す迄もなく昨年の震災は一時的の災厄であるから、悲観して一体の勇気を萎縮してしまふなどと云ふことは、あられぬ筈である、又まさか左様な意気地のない日本人は無からうと思ひますが、併しながら事物は唯々一時の意気だけではいかぬ、実際が進まなければならぬ。此実際を進めるには順序好く徐々にやつて行く外はない、其手続としては既に山本内閣の時代に色々の心配をして、復興院も出来た、其の施設の方法も立案された、審議会でも修正した、臨時議会では縮小した此修正に対しては結局新に出来た政府が如何なる方法で之を実施して行かれるか、仮令内閣が代つたからと云うても、前々の有様を無視してまるで白紙にして書直すと云ふ訳ではなからう。又さうなつては善くないと思ふから、大体の仕組はどこ迄も尊重して、相当なる程度に終始あらしむるやうにするだらうと思うて居ります。唯々両様の説を結合する所に面倒がある、甲説に遍すると無限に拡大するやうになり乙説によると成るだけ費用が掛からぬやうにと云ふ、私は審議会の席上でも愚見を述べましたが、両者の調和宜しきを得る所に於て、此復興事業と云ふものは最も困難であるが又妙味もある、未来を考へると完全な都市たらしめたい、殊に帝国の首府であると云ふ点から思ふと永久的の経営を望むは誠に無理ならぬ事である。斯かる機会に其基礎を成さなければ、是から先又進んで行つた場合に大に後悔することが起る。例へば市街の区劃であるとか、地下鉄道であるとか上下水道であるとか、総て百年の後を考へて文明的施設を完全にしやうと思ふと斯くありたいと云ふ希望の起るのは尤のことである。左様に未来を思はぬ唯々目前の事のみを考へる人でも、尚且つさう云ふ望を起すのは人情の常である、然るに一方現下の有様を見ると、今日のやうな「バラツク」で此東京を何時迄置くか、せめては相当なる家屋を造らせて早く住居の安定を得させたい。あの儘では差措けない、斯う云ふ考を
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持つならば、誰がそれだけの家屋を造営して呉れるか、東京市民が自力でやらなければならぬと云ふたら、市民にそれだけの力があるかと云ふことも考へねばならぬ。どうも此処が色々と或る場合には相悖る事がある。一方は未来を考へた拡張施設をしやうとする、一方は現在のみを見て、目前を間に合せて行きたいと云ふ、此両者の調和を得るのが所謂宜しきを得るのであつて、復興院の設計と雖も唯々無暗に拡大を力めた訳ではない、又私共が之を節約しやうと云ふのも、唯々小規模を望む訳ではない。両者の間を程好く調和してやつて貰ひたいと云ふのである。昨年末の彼の恐入つた出来事から、山本内閣が倒れて清浦新内閣が出来たが、此新内閣が果して長く続くか或は短命に終るか、それ等は私の関する所ではないが、せめては此復興事業が何時迄もふらふらと途中に徨つて居ると云ふ有様に在るのは、東京を如何にせむ、我帝都を如何にせむと斯う私は歎声を発せざるを得ぬ。定めて新に職に内閣に就かれた人々は、東京は東京の東京であるから、市に委せて置けば宜いと云ふやうな考はお持なさらぬであらう、若し左様な事ならば是程の大騒をなさらぬでも宜かつた筈である。既に国家的の事務と認めたからは、是が善後に付ては政府者たるものは充分に処理せねばならぬと思ひます。政治上の事は私は言ふことを好みませぬから、仮令意見があるにもせよ寧ろ言はぬが宜いと思ひます。唯々不祥事の為に斯う屡々内閣の更迭されると云ふことは、国民として憂慮に堪へぬのであります。而して新に出来た内閣が果して鞏固のものであるかどうか、又今日の政治上の径路から考へて見て、適当のものであるかどうか、所謂疑問を存するではないかと思ひます、果して然らば此間に又種々なる物議を生じ、変態を見ると云ふことが免れぬではないかと思ふ。さりとては彼れ此れと心配の多い世の中である。是は全く時勢が悪いのか、関係する人が悪いのか、何れ両者其一に居らうが、私をして言はしむれば、時勢よりは人の方が悪いのではないかと思はざるを得ぬのである。仮令一時的の内閣たりとも、どうぞ諸公の努力を以て、せめては此復興事業に、力を竭して貰ひたいと希望して已まぬのであります
次に経済上の事も、前に申す通り実務に暗いから、申す事が肯綮に当らぬだらうと思ひます、さりながら大体から論ずればどうも今日の有様は総て事業の能率が挙がらぬ。生産費が余計に掛かつて仕上が拙い悪いが高い。何品とは申しませぬ総てさう云ふ嫌がある。能率が挙らぬと云ふのが今日押並べての現状である。さうして原料も少なければ手間賃も高い、今日のやうな有様ならば輸入超過は当然であつて、即ち昨年は五億円以上の輸入超過を見たと云ふのは、さもありさうな事と言はねばならぬ。此姿で行つたならば終に日本は貧乏になつて大逼塞をせねばならぬと云ふことになるだらう。例せば勤勉節約して家産を起した先代の後が、其子の時代は中位であつたが、孫になると驕奢放逸から其家が衰へて「売据と唐様で書く三代目」と云ふ川柳があるが、今日の経済界も少し其気味がある。此姿で行くと欧羅巴の大戦に依つて、数年の間に得たる成金的の富力が殆ど雲散霧消するやうに見える。丁度大学に言悖而出者、亦悖而入。貨悖而入者、亦悖而出。と
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云ふ、孔子の述べた経済の原則が適切に当るやうである。私は孔子に対して気恥しいやうな気が致します。要するに経済の各部分に付て色色な悪いことがあると思ひます。政治上の緊縮がまだ足らない、足らないのみならず或る部分には要領を得ぬ所がありはせぬか。又軍備縮小に付ては大に考慮を要する。或は兵制を縮めたいなどと云ふことは私は希望せぬ、兵備はどこ迄も必要なるものと考へるけれども、さらばと云うて国力不相応に費用を武事に充つるのが、果して軍備拡張とは言へないのである。一国の富力を充実させるのも即ち軍備の必要である、万一の場合に唯々軍艦や大砲だけで国が維持出来るものではないと云ふことは、軍人でも能く御承知であらうと思ふ。兵は精を以て最も好しとすると同時に、財政経済も亦精練しなくてはいかぬ。今日の有様は百事皆悪く言へば箍が弛んで居る、楔が締らぬと言はざるを得ぬ。さうして大きな仕事に対しては国家の力を以て助けたいことが幾らもある、例へば鉄道の如き船舶の如き其他国家が力を添へなければならぬ要務が数々あらうと思ふ。私は敢て国家主義の経済をやつて行きたいとは言はぬ、経済上の事は成るべく民業に委ねて行かなければならぬと思ふが、事柄に依つては国家の保護を或限度まで必要なりと信じて居ります。さりとて何も彼も国家が力を添へると云ふことは大なる謬見である。若し果して左様になつたならば甚しきは米屋も酒屋も国家が保護しなければならぬと云ふことになるでありませう。それは最も嫌ふ事であるが特種銀行の制度などにも或は幾らか改正を要することがありはしないか、日本銀行・横浜正金銀行などは別として他の特種銀行中には、少しく改良を加へる必要がありはせぬかと思ひます。又普通銀行ももう少しく合同が行はれるやうにさせたいと思うて、先年から言うて居るが、未だ時勢が其処まで来ぬのか、人の注意が乏しいのか、私の希望する程に合同が行はれぬやうであります。併し此震災に付て続々と破綻でも起りはせぬかと懸念したに拘らず、左迄の事のなかつたのはまだしも僥倖と言つて宜いと思ひます。銀行の事に付て甚だ遺憾に思ふのは、金利の高きことである、過日銀行倶楽部の晩餐会に、井上・市来の大蔵大臣と日本銀行総裁との御就任の祝賀会があつて、高橋政友会総裁もお出で、政治上の意見を述べられました。私は時間が無かつたから長い事は妨げと思つたけれども、銀行者仲間に対して失礼の言葉であるが、三百人の高利貸が此大会堂に集つて、日本の金利を無暗に引上げて居ると世間から言はれてはなりませぬぞと一言注意を致しましたが、後に高橋子爵が三百人の高利貸とは酷いことだと笑話がありました。私は世間がさう云ふと云つたのではない、他人にさう言はれてはならぬから能く注意をなさい、全体の人を高利貸と言つたではないが、丁度其頃、人造肥料会社が五百万円の社債を、三井と第一と興業銀行とに整理して貰つたと云うて喜んで居るから、一体どれ位の利率であると問ふと、日歩二銭八厘だと云ふ日歩二銭八厘と云へば一割ではないか、五百万円の社債を大銀行で引受けて貰ふに二銭八厘の日歩を仕払ふて嬉しいと思ふのは、会社も会社だが銀行も銀行だ、能くそんな高利を取つたものだ。私は往年此金利の低下に苦心して何とかして年六分位に止めるやうにと尽力した、
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蓋し金利が下らねば日本の興業は進歩せぬ、興業が進歩せねば国富を増進することは出来ない、此見解が果して真正なる経済の原理に合うかどうか分らないけれども、現在富める国の金利は低いが、貧しい国の金利は高い、唯々原理から論ぜずに、形の上から見ても英吉利や仏蘭西は其頃の金利が甚だ低かつた、之に反して日本は高かつた、反対に云へば金利の低い国は富むが金利の高い国は貧しい、明治初年の取引でも数万円といふ纏つた貸借の金利は、まさかに一割以上のものは少かつたが、高利貸の小取引は甚しきは年利五割も七割もあつた。成程小取引は金利が高かつたが、大取引の金利は安かつたと云ふことは実際である。故に金利の下ることを力めるのは、取も直さず国を富ます所以である、斯う私は確信して、どうぞして我邦も一割以下の金利たらしめたいと云ふのが、銀行を始める時の期念であつた。其後追々予期が進歩して或る場合には公債証書などは六分位で大抵取引が出来た、大きい取引では二銭五厘と云ふのが高い利率であつた。二銭五厘と云ふと年利九分に当る、それですら高いと思つたのに、五百万円の取引が二銭八厘であつたから、高利貸と云ふ過激の言を発したのであります。畢竟是は何が原因であるかといふと、大取引を為す特種銀行抔で皆金利の高きを競ひ、而して一方には預り金の利率をせり上げる預り金を高歩にすれば、貸すにも亦高くせざるを得ぬ。順押しに押して行くから益々金利が高くなる。金利が高くなれば生産費が上るに相違ない。高い金利に依つて事業を経営すれば製品が高くなると云ふは当然である。銀行者は一般の諸物価が高いのに金利ばかり下げられるものでは無いと言ふでありませうが、併し米が高いから手間賃が高いと云ふ場合に、手間賃が高いから米が高いとは言はぬ。私の希望は此際力めて金利を安くしなければならぬと考へる。之が為には銀行は株主に対する利益配当を多少減じても宜いと思ふ。何故に各銀行協力し思切つて金利を下げる事に力めぬか、何時迄経つても我邦の金利は、大取引すら一割以上と云ふのは実に情けない事である、是では生産事業の進みやうがない、随て諸式も高いし、手間賃も又高いから、輸入超過はさもあるべきことである。低い所が湿るのは当然で、湿りが嫌なら高い処へ行くが宜い、湿を悪んで低きに就くのは、真に愚の至りではないか、是故に現今の経済界の有様が私には敬服が出来ないと思ふ。要は大蔵省を初めとして、財政に経済に相聯絡して、生産力を増進し得るやうに、事業資本の利率を低廉になるやうに、而して其生産事業に於ても大に能率の挙つて来るやうに改良したいものであります幸にさう成つたならば、自然の結果、輸入が段々減つて来るに相違ない、遂には輸入超過は転じて輸出超過となるに至るであらう。故に先づ其根本から改革せねばならぬ。斯の如く種々考察すると、此大正十三年の政治界も経済界も何分楽観が出来ぬやうに思はれて、つい愚痴を並べるやうになります。併し人の希望と云ふものは少し強く言ふて其中を得るのである、況や私が此銀行通信録に依つて銀行者諸君に注意するのは、将来を善くしたいと云ふ熱心から苦言するので、無理な事を言ふやうになるかも知れぬけれども、それが即ち衷情の溢れる所である。私の現在は震災の復興ばかりに努力をして居るのではない、
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仮令今日一身が其局に当つて居らぬでも、国家百般の事に憂を抱いて居りますが為に、政治・経済に亘つて斯く批判がましい事を言ふのは其局に当る諸君に対して過言の嫌が有るかも知らぬが、幾分にても御参考と成ることがあるならば、此上もない幸福と思ひます
私は世に立つてから玆に六十年、甲子と云ふのは干支の始めである。私が二十四歳の冬京都へ行つて、百姓から身を転じて一橋の家来になつた、それが二十五歳の春であつて、それから丁度六十年を経て今年又甲子を迎へた。随分長い歳月であります。百姓が武士になつて、更に又色々と変化をしたことは今此処に喋々はしませぬが、十干と十二支とが一周して六十年の歳月を経て、まだ昔を忘れずにお話の出来るのは、自分ながら仕合せと思ひますが、京都で正月を迎へて、徒迎二十五年春と云ふ詩を作つたことを覚えて居ります。其時も歳月が早く経過する気がしたが今年も又歳月不待人と云ふ詩を作つた。人と云ふ者は何時迄経つても世事を憤慨ばかりして居るのであります。それは種々の事物に接触して、幸であるか不幸であるか、例へば地震に遭遇したのも用心次第では幸とも言へる、縦令不幸であるとしても見られぬよりは宜いかも知れぬ。幸と不幸とは自分の関する所でない。要は国家の為に微力なりとも尽したいと云ふのが満身の希望であります。鞠躬尽瘁死而後已、成敗利鈍非臣之明所逆覩也、とは諸葛孔明の出師の表にある辞であります。私も青年の時から国の為と思うて、六十年前に、唯々鍬を担いで農業を営むは余りに小なる国家の御為であるから、身を致して国家に尽す所がありたいと斯う思うて家を出て以来玆に六十年、今日も矢張同じ考で、自己一身に付ては何等求める処なく其観念を一貫して、一刻片時も渝つたことは無いのであります。それ故に歳月の短いのを始終感じて居るので、今以て満足だと言ひ得ぬ為に、勢ひ言ふことが愚痴になる嫌ひがあります。是は決して世を怨んだり、人を誹つたりする積りではない、世事が思ふやうに行かぬことを歎息の余りが其処に至らしむるのでありますから、聴く人、宜しく御諒察を請ひたいのであります