デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

2部 実業・経済

1章 金融
1節 銀行
5款 社団法人東京銀行集会所 東京銀行倶楽部
■綱文

第51巻 p.42-48(DK510009k) ページ画像

大正13年5月20日(1924年)

是日、横浜正金銀行副頭取一宮鈴太郎ヲ招待シテ、東京銀行倶楽部第百九十四回晩餐会開カル。栄一出席シテ演説ヲナス。


■資料

銀行通信録 第七七巻第四六一号・第八二頁大正一三年六月 録事 東京銀行倶楽部晩餐会(DK510009k-0001)
第51巻 p.42 ページ画像

銀行通信録  第七七巻第四六一号・第八二頁大正一三年六月
 ○録事
    ○東京銀行倶楽部晩餐会
東京銀行倶楽部にては五月二十日午後六時より、最近米国より帰朝せられたる横浜正金銀行副頭取一宮鈴太郎氏を招待し、第百九十四回月例晩餐会を開催し、食後成瀬委員長の挨拶に次で一宮氏、並に名誉会員渋沢子爵の演説ありて、午後九時盛会裡に散会せり


銀行通信録 第七七巻第四六一号・第三七―四一頁大正一三年六月 米国に於ける排日問題の沿革(大正十三年五月二十日東京銀行倶楽部晩餐会演説) 子爵渋沢栄一(DK510009k-0002)
第51巻 p.42-48 ページ画像

銀行通信録  第七七巻第四六一号・第三七―四一頁大正一三年六月
 - 第51巻 p.43 -ページ画像 
    ○米国に於ける排日問題の沿革
       (大正十三年五月二十日東京銀行倶楽部晩餐会演説)
                   子爵 渋沢栄一
委員長満場の諸君。昨年串田さんの委員長の御時代と思ひます、私は此処に出て皆さんに大変失礼の言を申上げまして、御譴貴を蒙つたやうな次第でありますから、爾来数箇月遠慮を致して居つたのでありますが、又玆に罷り出でて或は悪まれ口を申上げるかも知れませぬ、どうぞ宜しく御容赦を願ひます
今日の月次晩餐会には、亜米利加帰りの一宮君をお招きになりまして今エドワード・ボックの珍しいお話を諸君と共に伺ひました。亜米利加の国が広いだけ方々から色々の人が参つて、亜米利加の大を成すのを誠に羨しう感ずるのでございます。私は数年前にアンドリュー・カーネギーの自叙伝を出版致しました。是は彼地で其奥さんの宜しいと云ふ許を受けて出版しましたが、カーネギーは蘇蘭の人であつて、殆ど今のエドワード・ボックと同じやうな有様で、家貧にして十四歳の時に亜米利加へ来て、初めには糸屋の小僧になつて、それから石炭火夫になり、追々に進んで色々な書記などにもなつて、最も面白い話は多分十六・七の時ですか、特に其伝記中に書いてあります、郵便の配達であつたか何か物の配達をする一つの事務員になつて働いて居つた其事務員中に数名の同僚がある、月の二十日であつたか二十五日であつたか、月給の渡る日になつた所が、自分は何時も能く働いて居る積りであるのに、主任の人が其日に限つて他の数名には月給を渡したけれども、自分には渡らなかつた、はて変だなと思つて少年ながらに心に危んで居ると、他の者に月給を渡してから、お前は此方へ来いと云うて、其主任が自分の部屋へ連れて来て渡されたのが、他の者は皆十一弗五十仙であるのに、カーネギーには二弗五十仙増して十四弗ばかりのものを渡された。且曰くお前は平素能く働くから増してやる、けれども直さま皆の前で月給をやると自らお前が人に嫉まれる、お前が人に悪まれるやうな事があつてはならぬと思つて、それで特別にお前を此処へ呼んだのだ、是から注意して一層能く働けよと言はれたので其時の嬉しさに殆ど何も言へなかつた、其金を手に握つて暫時暇を呉れろと云うて、宙を飛んで家へ帰つて来て母親へ其話をして、且それを日本で云うたら神棚へ上げて喜んだと云ふことが書いてあります。其の忠実さ加減が誠に思ひやられるやうであります。蓋しエドワードボックと丁度似たやうな話で、私はカーネギーの伝を翻訳させた其中の一、二を覚えて居りますから玆に申上げたので、是はホンの附たり話、玆に申上げやうと思ひますのは、其亜米利加が如何に日米の関係とは申せ、唯さうお讚め言葉ばかり申して居られないやうな事柄が現在あるのであります。此事は斯かるお席には何等効能のないお話でございますけれども、其事に就てお役に立たぬにも拘らず微力を致しつつある私が、玆に其行掛りを一言申上げて置くのは、或は何かの時に御参考にならうと思ひまして、あなた方には甚だ御無用の弁でございますけれども、亜米利加話の続きでございますから、一寸申上げて置きたいと思ふのでございます
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御承知の通り排日的移民法案が遂に亜米利加の議場に上つて、ジョンソンの提案が四月十二日に下院を通過し、上院に於ては多少躊躇するであらうと思ひきや、直に其案が同月十四日に上院をも通過して、其後国務卿及大統領が種々に心配して此案に付き再考を求めましたけれども、議会は如何なる故か大統領若くは国務卿の注意にも頓着せず、何処迄も七月一日から此法律を実施すると云ふ有様になつて居ります併し大統領が之を拒否するか或は裁可するかは、吾々にはどうも能く分りませぬけれども、兎に角日本に取れば甚だ心苦しい問題である。若し之をやかましい理窟で申すと、吾々に対し差別待遇を与へると云ふのですから、如何に左様に尊むべき偉い人のある又大きな国であつても、国が大きいから差別待遇をされても、唯恐入るとは我大和民族は思うて居られないと言はなければならぬのであります。決して諸君の前で誇大の事を言うて煽動致す心ではございませぬけれども、蓋し此事に就て私の関係を簡単に申上げますると、斯様な事は実は外国の言葉も出来ず書物も読めぬ私が、殊に職務もなし利害関係もないのですから、申さば余計なお世話でありますけれども、併し是もまるで好き好んでと云ふ事ではないのでございまして、お申訳ながら其沿革を一言申上げて置かうと思ひます。日米の国交は「コンモンドル」ペリーが開いたと云ふばかりなく、爾来政治に経済に都合好く進んで行くことは御同慶の至りであつて、此有様を継続して行つたならば、別して仲好く東西両国相提携して行けるだらうと斯う私共喜んで居つたのであります。明治四十年例の日露戦争以後から其前にも多少加州に於ては移民に対する不快の感を持つた趣でありますけれども、殊に現れて来たのは三十九年頃でございます。日本人学童離隔の問題が起り段段に亜米利加側の日本嫌ひの人が多く出たのであります。之を大別すると二つの要点に帰するのであります。一つは所謂人種問題、色の違ひが向ふの嫌ふ所となると申しても宜いやうであります。今一つは経済問題、即ち此方の賃銀が安い、能く働いて代償が安い、必ず白人労働者から睨まれる、随て多数から悪まれる、そこで色々面倒が生じて来ると云ふのが原因のやうでございます。遂に千九百七年と覚えますが故小村侯爵が外務大臣たりし時に、紳士協約と云ふものが出来て、玆に移民に就ての申合せが両国の間に出来た、今では亜米利加の議員連中には密約だなどと言うて非難するやうでございますが、お互の申合せが出来て、之に依つてやつて居つた。其時から外務当局のお人々が、どうも亜米利加は唯政治の局に当る者の所謂樽爼折衝ばかりでは工合が悪いから、もう少し国民的に相知合ふことをして貰ひたいものだと云ふのが、私共の其処へ関係を惹起す原因になつたのでございます。殊に加州方面或は太平洋沿岸の人が成べくお互に相知るやうにするには、日本商業会議所の数箇所が申合せて、向ふの太平洋沿岸の商業会議所の人々と相往来して、意思の交換をするやうにしたが宜からうと云ふので明治四十一年、東京商業会議所が主唱者となつて太平洋沿岸の八商業会議所の代表者を招いて、所謂観光団が参りました。其翌四十二年には、向ふから招かれまして、此方から参つたのが同じく五十有余人の大旅行でございました。それから続いて何かの機会ある
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毎に来る人に接触し、又人を出すと云ふやうなことで、相交つて居りましたが、一時的の事柄であつたものですから、どうも是では完全な事が出来ないと云ふので、大正二年に丁度土地制度を設けられた時にも人を出して心配した事がありますけれども、思ふやうに行かなかつた、遂に大正四年には桑港にパナマ運河開通博覧会があつた機会に於て渡米し、彼地の有力者と屡々会談した結果、桑港に日米関係委員会と云ふものが出来、次で大正五年に東京に同名称の一会を組織致しました、此二つの会は別に何処から命ぜられたでもなければ、何等指揮を受ける等の事はない、全く有志申合せでやつて居るのであります。東京には三十二人、桑港には二十二人の会員があります。此両者が提携協議して常に加州に於ける移民問題の解決に尽力しつゝあるのでございます。数年前に「イニシアチーヴ・レフェレンダム」、私は英語を能く解しませぬけれども、国民投票と私共は訳して居ります、土地法に付て甚だ日本の移民に不利益なる制度が布かるゝだらうと云ふ事から、或は面倒の事が勃発しさうでありましたので、桑港から今お話ししました同地日米関係委員の主なる人々、即ちアレキサンダー、リンチ、ムーア、ホヰラー、ジョルダンと云ふやうな学者・実業家等を東京に招待致しまして色々相談をしました、其頃には唯単に西の方面ばかりでなしに、東の方面即ち紐育側の人々にも実業界に日本人に快からぬ種類があつて、それは何事かと云ふと、丁度大正四年の例の支那に対する二十一箇条に対し、支那人から段々亜米利加人に向つて苦情を吹聴する、亜米利加側では支那に対する事業に日本が先取権を持つが如く思ひなして嫌ふ。此有様からして頻に東部の方にも不快の念を抱く者があつた為に、西部の方の人と協議するばかりでなしに、東部の人とも充分な協議会を開いたが宜からうと云ふので、即ち大正九年の三月、先づ第一に前記西部の人々と協議会を開きまして、それから更に四月に東部のヴァンダーリップ氏の一行と協議会を開いて、此日米関係を成たけ調和せしめたいと今申した東京日米関係委員会が努めたのであります。種々なる評議の末に、是はどうも加州移民の問題に対しては、彼方で云へば国務卿、此方で云へば外務省、此間だけの申合せで所謂紳士協約ばかりではいけない、もう少し細かい事に立入つて廉々を成べく協議して一般の人にも稍々解釈し得るやうにした方が、或は面倒を解決する捷径であらう、例を申せばズツト昔英米の間に起つた「アラバマ」事件の如き、両方から委員を設けて協定せしめた例もある、それ等の例に傚つてやつたら宜からうと云ふので日米聯合高等委員を両国の政府が任命して問題の解決を講じ、而して其結果は可成公開したら宜からうと云ふ議案を日本側から提出して、今お話ししました桑港関係委員会の人々と熟議し引続き、又東部より特に来会した諸君と種々協議の結果、参列者一同は至極宜からうと云ふことに意見が一致しました。併し一方にそれを持帰つて共に政府に運動して見たが、日本の方も同意して呉れず向ふも応じなかつた為に、謂はば議成つて事挙らず、遂にそれは労して効はなかつたと言はなければならぬ。遂に其年の冬即ち十一月の二日、大統領の選挙日と同じ日に今の「イニシアチーヴ・レフェレンダム」は通過して、到頭現在ある
 - 第51巻 p.46 -ページ画像 
所の土地を最も日本の移民に取つては不利益なる有様に議決されたのであります。私共折角労して見たが効のないのみならず、何等得る所がなかつたのは甚だ残念に思ひましたが、如何とも致方がない。殊に右の最終に出た加州に於ける土地法では、日本から参つて居る移民には余程困難があるものですから、折角世話をした吾々としては、是等の人々に対しては真に気の毒に堪へませぬので、何とかする途はなからうかと思ひつゝある所へ、其翌年即ち大正十年に華府会議が開かれる事になりました。華府会議は皆様御承知の通り、先づ海軍の軍備縮小、それから太平洋問題若くは支那の山東省の始末、それが重要の廉である。吾々共は願はくは此加州問題を是非其中に加へて、華盛頓で協議して貰ひたいと思つて、其時は原敬さんの内閣の頃でしたが、金子子爵などと打合せて屡々官邸に臨んで、是非華盛頓会議の一項目に加へるやうに原さんにお勧めしたけれども、日本の内閣はそれに対して不同意を云ふではなかつたらうが、何分其場合に至らずして、到頭華府会議は軍備縮小以外は支那問題とか太平洋問題とか云ふだけで、其太平洋問題も広い範囲で、加州若くは太平洋沿岸に於ける所の我移民に対する処置、即ち前に言ふ紳士協約に依つて成立つて居るものを修正すると云ふやうな事には協議が及ばずに仕舞ひました。華府会議に何等関係のない身でしたけれども、願くはさう云ふことに立ち至らせたくないと思うた為に、特に華盛頓に罷出てまして、頻に加州問題の議案になるやうに加藤さんなり徳川さんなり埴原氏なり、又は向ふに居つた幣原氏などにも勧めましたが、到頭其望を達せずして、他の事柄は大体都合好く進んだが、加州問題は何分要領を得ませぬから、更に私は帰りに桑港を中心として日本人の多く居住する地方を丁寧に歩きまして、ロスアンゼルスにも行きサンチアゴにも行き、シヤトルにも行きポートランドにも行き、丁度二週間ばかりあの地方を巡廻しましたが、桑港に於きましては同地の関係委員会の連中が、其前年に日本から提案した聯合高等委員問題を反対に向ふ側から提案して、自分等は之に依つて解決する外ないと思ふから、日本でも是非同意して呉れ、共に働かうと云うて協議をして東京へ帰りましたのが十一年の一月三十日。爾来頻に其事を心配しましたが、我外務省も数月を経て亜米利加が同意するなら同意しても宜からうと云ふことになられたので、吾々は稍々仕合と思うて亜米利加の方へ照会して、此聯合高等委員会の組織を今日か明日かと待つて居ると、亜米利加側が薩張り同意して呉れぬ。色々な方面から突ツついて見ても中々相応ずる有様はなくて、遂に其事が荏苒と日を送つて居る中に彼の土地問題に付て大審院の判決を受けることになりました。其結果は原告たる日本人が敗訴をしました。此敗訴は悪くすると所謂霜を履んで堅氷至る、何か排日問題が更に勃発しはせぬかと云ふ徴候を私共は恐れたのです、果して然り、ジョンソンの移民問題、又ジョーンスと云ふ人の憲法改正問題是は今在る所の亜米利加で生れた子供は仮令種はさうでなくても亜米利加の市民である、然るに此ジョーンスの案であると、其権利を取つてしまはうと云ふのでそれには憲法を改正しなければならぬと云ふ意見である。今の移民問題よりは更に憶劫な法案であります。是等の案
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が亜米利加の議会に提出されたに付て、果して斯うなるだらうと懸念しました吾々は、頻に駐米大使以外に人を一人出したら宜からうと云うて、外務当局に進言致しました。外務大臣ばかりでなく総理大臣にも御協議になつて、数回私共も其方に呼ばれて意見を申上げましたけれども、遂に其事は成立たずにしまつたのであります。但し人を出すと云うて、之を阻止するとか攻撃をするとか云ふ趣旨ではなく、相当に事情も知つて居り言葉が出来る人が参つて、或る方面から窃に之を抑止する途があるであらうがなと斯う思うて、派遣の事を協議して見ましたけれども、到頭其事も行はれずに、前に申しました通り遂に四月十二日が来て現在の有様に及んでしまつたのであります。但し是より先に移民問題は独り政府ばかりではいかぬから、もう少し輿論に訴へるやうにしたら宜からうと考へて居る中、丁度ギューリク博士が昨年六月此方へ来られた。博士は紐育に於て吾々と同様に有志者を集めて日米関係委員会を組織して居るのでありますが、即ち吾々と同じやうに日米の間の阻隔を防ぎ、且つ国交の親善を飽迄も進めて行かうと云ふ趣旨に依つて努めて居る人で、此人と相談をしまして、聯合高等委員問題は独り日本ばかりでなしに、もう些と亜米利加の多数に知らせるが宜からうと云ふ打ち合せが出来まして、私の知つて居る向ふの人に三百通ばかりの書面を発しました。ハツキリ数字を覚えませぬけれども、五十通ばかりは至極宜からうと云ふ回答を得て居ります。其の多くは実業界若くは宗教界の人で或は政治界、新聞界などにも多少はございます。左様であつたが併し不幸にも、極く率直に申せば国務卿のヒューズが、どうも時が悪いと云うて頭を振つて居る。現に以前のワーレン大使も余り賛同しなかつた、現ウッヅ大使も事柄は同意だけれども、時期が悪いから、もう少し待つて呉れと云うて、何分其の事が実際に行はれるに至らぬ中に今申上げる通りの案が提出された。併し其時には今申すやうな阻止の仕方が表面から行かずにあらうと思ひましたが、是以て吾々の希望が外務省の容れる所とならずに遂に今日の有様に相成つた。之が先づ移民問題に於ける概況であります。然らば未来はどうであるか。私は玆にハツキリ申上げる事を難んずる。先づ今の所では大統領が必ず拒否するとは申されますまい。果して然らば七月一日からあれが行はれると云ふことになる。其結果が今ある所の移民に対してどれ位の困難が及ぶか玆に予め申上げられませぬが定めて難儀も多からう、独り難儀のみならず、どうしても吾々は全く亜米利加からは差別待遇を受けると云ふことになるのですから条理論から言ふたならば、実に慨歎すべき有様と言はねばならぬ。然らば之を如何にするか、余程処置し難い所であつて、斯かるお席には斯う云ふ事を申上げても、皆様が極く思慮あり、深思黙考する方々でありますから宜しうございますが、迂かりした場所で申上げますと、渋沢は戦さをする積りだらうなどと云ふ誤解を招いて、とんだ間違を惹起します。私はさう云ふ乱暴の口は利きたくないが、さらば亜米利加の態度に対して喜ぶかと云ふと、亜米利加の国は尊い、亜米利加の人は偉いと云うても、此事柄に対しては私飽迄も不同意を言はざるを得ぬのでございます。併ながら此事が如何に落著するかは、未だ予め申上げ
 - 第51巻 p.48 -ページ画像 
兼るのであります。左様にジョンソンとかジョーンスとか、某々と悉くは上下両院の排日主義の論客の名は知りませぬけれども、加州に於ける排日の頭目フイラン、インマン、マクラッチー、シャーレンベルグ、是等の人々は大抵私は知つて居りますが、随分悪どい排日論者で第一日本人には同化性が無い、あの人間は偉い人間ではあるけれども亜米利加に取つては是くらゐ困つたものはない、と云ふのがシャーレンベルグ及マクラッチーなどの議論である。私はマクラッチーと其為に特に三遍ばかり論を戦はせましたが、到頭論が乾きませなんだ、乾く筈はない向ふは白此方は黒である。さらば左様な人があるから果して亜米利加人は皆さうかと云ふと、実に意外にも現に今日も事務所に手紙が参りましたが、布哇の主立つた或はアサートンなり、クックなり、ウォーターハウスなり、こんな連中が申合せて、是非こんな事をしてはいかぬと云うて大統領に電報を発したと云ふことであります。それ位に申して居る者もある。布哇の人のみではございませぬ、桑港のアレキサンダー、リンチ、是等の人々も切に其事を申して居る。尚そればかりではなしに、現に御承知の通り「ウォールド」新聞でも、紐育「タイムス」でも「シカゴ・トリビューン」でも、ハースト系を除いたる主なる新聞は大抵今度の上下両院の議決は実に間違つた事だと云ふて、悪魔が人類を妨げると云ふ漫画まで書いて批評して居る。此点から見ると亜米利加人は中々人道を弁へる人だ、情誼ある人だと斯う言はざるを得ぬ。併し上下両院の所作を見ると、埴原さんの言ふた重大事件と云ふ事を楯に取つて、それ程の余地もなからうと思ふのに、九十幾票の中二票か三票の日本贔屓があつただけで、他は残らず排日に同意したと云ふことは、殆ど狂気の沙汰とまで言ひたい位、今後の事は如何になるか此処では分らぬと申す外はありませぬが、未だ私は全く脈が切れた、天日が濛晦に陥つたと言はぬでも宜からうと思ふ。仮令如何にならうとも、未だ十日ばかりの間があります、此間に或は拒否になるか、何等かの方法が講ぜられはすまいかと思ひます、兎に角加州に於ける移民問題は経過が左様であつて、何が故に左様に相成つたかと云ふと、此亜米利加の国柄が或点には最も喜ぶべき最も感ずべき廉の多い国と思ひますが、又或る点には今現在申上ぐる如き点もある。悪く申せば非常に平仄の揃はぬ突飛な国柄であると云ふことは、どうもさう論ぜざるを得ぬやうに思ひます。只今一宮君のエドワード・ボックのお話を伺つても、是は和蘭人だと云ひますから、全くの亜米利加人ではないかも知れない。先づ亜米利加人の中には善い者もあり悪い者もあると云ふことを理解せねばならぬと思ひます。亜米利加の日本移民に対する関係が私の知つて居る限り今の有様であつて、斯う申すと脈が切れたやうにお感じなさるか知れませぬが、未ださうではございませぬから、仮令万一に之が思ふやうに行きませぬでも、又未来に望みないと申せぬであらうと思ひます。成べく短気を起されぬやうにお願をしたうございます。以上は私の知つて居る限りを包まず隠さず申上げたので、どうぞ言葉を以て意を害せぬやうにお願ひ申します(拍手)