デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

  詳細検索へ

公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

2部 実業・経済

1章 金融
1節 銀行
5款 社団法人東京銀行集会所 東京銀行倶楽部
■綱文

第51巻 p.49-51(DK510010k) ページ画像

大正13年7月24日(1924年)

是日、内閣総理大臣加藤高明他閣僚ヲ招待シテ、東京銀行倶楽部第百九十六回晩餐会開カル。栄一出席シテ演説ヲナス。


■資料

銀行通信録 第七八巻第四六三号・第七一頁大正一三年八月 録事 東京銀行倶楽部晩餐会(DK510010k-0001)
第51巻 p.49 ページ画像

銀行通信録  第七八巻第四六三号・第七一頁大正一三年八月
 ○録事
    ○東京銀行倶楽部晩餐会
東京銀行倶楽部にては七月二十四日午後六時より、内閣総理大臣加藤高明閣下並に他の内閣諸公閣下を招待し、第百九十六回(臨時)晩餐会を開き、食後成瀬委員長の挨拶に次で加藤・浜口両氏、最後に渋沢名誉会員の演説ありて九時過盛裡会に散会したり


銀行通信録 第七八巻第四六三号・第二七―二九頁大正一三年八月 加藤総理大臣及諸大臣招待晩餐会演説(大正十三年七月二十四日東京銀行倶楽部に於て) 渋沢子爵の演説(DK510010k-0002)
第51巻 p.49-51 ページ画像

銀行通信録  第七八巻第四六三号・第二七―二九頁大正一三年八月
  ○加藤総理大臣及諸大臣招待晩餐会演説
        (大正十三年七月二十四日東京銀行倶楽部に於て)
○上略
    渋沢子爵の演説
私は主人と客との合の子で、申上げる事が少し両端に渉るやうな嫌がございます。又申上ぐべき何の考も持つて居りませぬけれども、詰り今晩は主人の方に賛同致して、来賓に対して謝辞を述べたうございますから、先づ主人代理と御看做しを願ひます
吾々の待ちに待つた好い機運が運つて来て、天下の輿望に副ふ内閣の成立したことは、銀行者ばかりではございませぬ、国民共に喜んで居るだらうと思ひます。是は決して加藤子爵が此処に居らつしやるから申上げるのではありませぬ。蔭でも言ふ言葉でありますから、真実の告白と御聴取を願ひたうございます。実に斯くありたいと思つて居つた内閣の組織されたことを、私共は深く喜ぶのでございます。左様に良い内閣が出来ましたけれども、御懇親の諸君に対しては、或る点からは御喜を申上げるが、或る点からは御気の毒だと御悔みを申上げざるを得ぬのであります。此意味は既に総理大臣も御演説中に一言御洩しになつたやうでありますが、当今は真に容易ならぬ時節だと申上げねばならぬやうに考へます。それに付きまして施政の大方針としては加藤総理大臣から、経済上の要点は浜口大蔵大臣から御示しになりまして、誠に其要を得たやうに拝承しました、但し近頃実務に疎い私には細かい事は分らぬけれども前来御演説の御方針でやつて下すつたならば、或は此狂瀾を既倒に廻し得られるかと思ふのでございます。蓋し其病源が重大と云ふことは、御任じなさる閣臣諸公が御覚悟であらうと思ひますが、私の如き仮令聾桟敷に居る者でも、尚且つ苦心憂慮を致して居るのでございます。而して今日此改革が出来なかつたならば、或は恐る日本は褒め損ひの国にならぬとも限らぬと思ふのでございます。此事は政治界にある人、経済界にある人に論なく、総て国民の斉しく心配しなければならぬ時期だと思ふのでございます
 - 第51巻 p.50 -ページ画像 
倹約問題に就て奢侈税云々と云ふことは、近頃能く新聞にも見まするし、只今委員長から申上げました意見に対しても大蔵大臣から詳しく御説明下さいましたが、私抔は此点に付てはどうあつたら宜からうかと、近頃は実際に疎うございまするから或る場合は右が宜からうか、或る場合には左が宜からうかと、迷ふ位でございます。右に付て比較にならぬ昔の事を述べるやうでございますけれども、旧幕府の天明、寛政の頃に松平越中守が厳正に倹約を主張して、天明七年に確乎たる制度を布いたのでございます。詳細なる手続を玆に申上げる程取調べてもございませぬ、又それは余り煩瑣になりますけれども、越中守は一身を犠牲に供して、此改革をやつたのでございます。併し時の将軍徳川家斉は之を喜ばなかつた為に完全に其効を奏せずして、天明七年に老中上席に就職して寛政八年には職を解くに至つた。此政変に付ては徳川氏は為に命脈を幾分か縮めたかと思ふのでございます。驕奢淫靡の風を質素倹約に引直すことの如何に至難であるかと云ふことは、既に歴史に於て明瞭に示されて居るやうでございますから、現内閣諸公が今日の場合に之を矯正しやうと云ふことは、所謂難中の難事であると深く御察し申上げるのでございます。第二の倹約制度は天保の末に水野越前守が断行されました、此越前守の制度には貸借棄捐と称して或る種類の民間の貸借を棒を引いてしまつたと云ふやうな、随分野蛮な事までやつたのであるが、数年にして苦情百出して成功し得なかつた、私の聞いた歴史では、当時の越前守の心事が既に忠実でなく時の役人の所作も皆術数であつた、鳥居耀蔵と云ふ人などは途中に変節して、却て越前守を弾劾したと云ふやうな事があつて数年にして破れてしまつて却て害を残した故に、一般の気勢の奢侈に進行くのを抑へると云ふことの如何に難事であるかと云ふことは、徳川幕府の松平越中守、水野越前守両人の施政に見ても思ひ当るやうでございます。而して此両人の仕方には素より是非得失もありましたらうが、要するに其期念が大切だと思ひます。蓋し松平越中守は一意忠実至誠に出たから、其施設に多少の欠点があつたにもせよ、後々に至るまで東京市民が之を徳としたことは争ふべからざる所の事実でございます。之に引替へて水野越前守は我権勢を維持しやうと云ふ術策から発した為に結局物騒がせに終つたのであります。凡そ大勢の一方に偏するに当りて毅然たる法策を以て之を矯正すると云ふことの至難なるは、前に述べた二つの例に依つても明瞭と思ひまする故に今日の内閣諸公の此際にお尽力下さることはさぞかしと御察し申上げて、一・二の古い歴史をも考へ出して共鳴の情を寄せるのでございます。斯様に申上げますると何事も皆緊縮のみを希望する如く成りまするが、私は檀那寺の住職が檀家に御馳走を上げて後に御願ひをするやうな嫌がありますかも知れませぬが、現内閣に対しては唯々倹約ばかりを以て消極に此時勢を料理なさいとは申上げたく無いのであります。例へば歴代の内閣に於て仕掛かつて出来得ぬ仕事が幾つもあらうと思ひます。航海業即船舶の有様は如何でありませうか、既に数代の政府が力を入れて統一整理を計画せられましたが、私は今日未だ其終局が付いて居らぬやうに思ひます。又製鉄の一事でございます。此事に付ては私は毎度内閣諸公
 - 第51巻 p.51 -ページ画像 
に申上げた事もあつたけれども何時も空論に終つた、固より吾々にも良い方法も無いから希望を述べるに止まつて、唯々空論に終つてしまふのでございます。現に臨席の高橋農商務大臣が大蔵大臣たりし時に屡々申上げた事がございまして、当時の高橋君の御案と私の愚見とは稍々同じであつたと思ひましたが、一向其事が纏りませず今に至つても日本の製鉄事業は斯様だと人に向つて言はれぬ有様になつて居るのでございます。又農事に付ては如何なる政策がありますか私は大に憂慮するのでございます。或は農務省が出来ると云ふことでありますが農務省が出来たからとて完全の施設方法が無ければ無用の長物たるを免かれませぬ。抑々世の中の文明は学理と相応じて進展して行くものであるが農業の学理応用は未だ見透しが着いて居らぬのでは無からうか、是等の事に付ては其頃理化学研究所所長大河内子爵と意見を交換しましたが所長も一の意見を提出しました。まだ内閣諸公には御覧に入れぬかも知れぬが、要するに現下の農業は科学の応用が充分で無いから農業の利益を増す訳には参らぬことに帰着するのでございます。概括して之を論ずれば今日の儘で農業は唯々農民の扱ふべきものだと抛つて置くならば益々衰頽に傾かざるを得ぬと思ふ、左りとて政事家の説の如く納税を減じてやるとか、耕地整理をしてやるとか、云ふやうな表面的の救護方法のみでは真正なる挽回は出来ぬと思ひます。故に一方には消極的に倹約を希望すると同時に国家の力に依つてやらなければ出来ぬ事だけは、どうしても相当なる着手を為さらなければならぬ事と思ひます。唯々緊縮さへすれば宜いと云ふならば、過刻総理大臣の仰しやる如く所謂角を矯めて牛を殺すことに至るかも知れぬのであります、是等の事は私が申上げぬでも諸公は百も御承知であらうと思ひますけれども、前陳の二・三の事は当面の急務と思ふ為に此機会に於て敢て申上げるのでございます。終りに臨みて今一つ申上げたいのは是迄のやうに三月経つと内閣が変るのでは困ります。私共は三年の間に四人の総理大臣に宜しくと御願ひ申上げて居るのでございます。どうぞ此内閣には斯様の事のなからん事を希望して止まないのでございます。蓋し是は私が申上げませぬでも内閣諸公にも御同感と存じますが、何卒将来充分に御辛抱を願ひたいと思ふのでございます。玆に御礼と共に満腔の衷情を申述べたのでございます(拍手)