デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

2部 実業・経済

1章 金融
1節 銀行
5款 社団法人東京銀行集会所 東京銀行倶楽部
■綱文

第51巻 p.51-56(DK510011k) ページ画像

大正13年7月(1924年)

栄一、是月発行ノ「銀行通信録」ニ『加藤内閣に望む』ト題スル一文ヲ寄稿ス。


■資料

銀行通信録 第七八巻第四六二号・第一七―二一頁大正一三年七月 加藤内閣に望む 子爵渋沢栄一(DK510011k-0001)
第51巻 p.51-56 ページ画像

銀行通信録  第七八巻第四六二号・第一七―二一頁大正一三年七月
    ○加藤内閣に望む
                   子爵 渋沢栄一
新内閣の成立は輿論の順に帰したのであつて、国民としてお目度い事であるとお祝辞を申さねばならぬのであります。憲法布かれて以来、政治は多数の人民の意思に依ると云ふことで、必しも政党内閣と決まつたものではないか知らぬけれども、一般輿論の帰嚮する所に政治の
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中心が座るのが適当であらうと思ふ。然るに一昨年から昨年まで二・三回、中間内閣の成立したのは、申さば少し順当の径路を踏違へたやうに見える。已むを得ぬことに出たのであるか、或は一つの行違ひでもあつたのか、又或は或点から言へば、政党にそれ程の信を置かれぬと云ふから起つたとも言はれるだらうし、又一方からは政党をもつと信頼しても宜からうと言へるかも知れぬ。其点は何れが適当であるか其当否を判断することは今の問題ではないと思ひますが、兎に角順に帰つて玆に政党から内閣が組織されるやうになつたと云ふことは、至極適当な成行と思ふのです。殊に憲政会が多数党になつたと云ふことは、即ち衆望が其処に帰した訳でありませう。随つて所謂憲政擁護を唱へた各政派の御連中が、申合せて所謂三派合同で新内閣を組織されたと云ふことは、訽に結構なことで、此間に於て例へば政友会の高橋さんの如き、又革新倶楽部の犬養さんの如き、自ら一歩を譲つて加藤さんの組閣に賛同して、閣臣の一人に列つたと云ふことは、頗る謙譲の美徳とも云ふべき訳で、私共度々総理大臣の御披露に招かれて出たり、又昨日は商業会議所で歓迎の宴会がありまして、其処へも招かれて度々お目に掛かつて喜びを述べて居るのであります
新内閣の任務は甚だ重要である、単り私が色々の註文を申上げるのみでなく、天下の希望が繋がれて居るのであるから、此間も私は総理大臣にお話をしたことですが、物が順に帰して玆に至つたのを深くお喜びを申上げる、お引受なすつた当局の皆様が、吾々の喜ぶと共にお喜びなさるであらうと思ふが、それと同時に此世の中の事は名誉に伴ふ義務、憲政に対する責任は免れぬのであるから、お喜びの言葉を申上げると共に、寧ろお気の毒だと云ふ一言を添へねばならぬやうに思ひます。別に綱紀が頽廃したとか、人心が紊乱したとか、取立てゝ喋々は申しませぬけれども、併し一体の思想界と申し、言論界と申し、所謂政治上に属する部分に、真に緩弛を来したやうに思ひます。誠に私共から言ふと、孝悌忠信と云ふことは、世の中の最も重要なることで是なくては殆ど真実なる安定は得られぬ位に思ふ。大詔渙発せられて頻に質実剛健と云ふ文字を使はれますけれども此質実剛健は孝悌忠信の基礎の上に立たなければならぬ。質実剛健の本は即ち孝悌忠信である、孝悌忠信の観念があつて初めて質実剛健が望み得られると思ふ。孔子は、夫子の道は忠恕のみと言つて居る、今日は基本を成す所の徳が全く紊れて居るやうに思ふ。政治も甚しきは術数だ、策略だ、或は政治は力なりなどゝ唱へて、勝ちさへすればそれで宜いと云ふやうになつてしまつた。政治は公明正大なるものである、政治は道徳に拠るべきものであると云ふことを、完全に唱へる人がない、唱へる人がないから行ふ人もない。さうして唯々策略を以て政治の要諦の如く考へるに至つたのは、何たる歎かはしい事でありませうか。それ故に益々人心が弛緩廃頽に趨くやうに考へます。之を改革すると云ふことは、どうしても政治の衝に当るお方が身を以て之を率ふると云ふ覚悟を以て下さらなければ、真正の改革は出来ないやうに思ひます。併し又当局者のお方にのみ望むことは甚だ無理な註文であり、余り過当な責任をお負はせ申すやうに或は誤解されるかも知れませぬけれども、どう
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しても政治と云ふものが誠実に完全に出て行かぬと云ふと人心の弛廃を引直すことは出来ないと思ひますから、勢ひ重きを荷ふ人に多くを望むと云ふことは已むを得ぬ数であると思ふ。敢て私の極端論ではなからうと思ひます。幸に今度の内閣に列したお方には、何れも至誠政治に任ずるお方と思ひまするので、是非此趣意を貫徹して、今迄のやうに俗に言ふ一時的間に合せの政治でなく、根から生えたやうな政治をなすつて、所謂政治は道徳なりと云ふことを、仮令小部たりとも臣民一般に示すやうに是非して戴きたい。所謂至誠忠実なる有様を是非政治の形に現はすやうにして戴きたいと思ひます
次ぎに、どうも此経済界が危殆に瀕するとまで、極端に言ふならば評したいやうに思ひます。少し褒め損ひの経済界で、元来維新以後、日本古来の仕組を改めて、欧米のそれに倣うて、世界的の経済にするの外はないと云ふのが、識者の皆唱へた所で、私共其一人に加つて、微力ながら金融界に相当な歳月を費して、政府の大なる力を籍りてやると云ふやうな事には携らなかつたが、全く民間の私設銀行として微力を尽したから、其経営は至つて小規模であつたけれども、併し先づ合本法としては幾らか端緒を開き、又組織立つた経営を致した積りである。単り金融ばかりでなしに、他の運輸であれ、工業であれ、種々の事業に立入つて、追々に文明式に進みつゝあつたと云ふことは、私の仕事がさうだとは言はぬけれども、一般に随分著しかつたやうに思ふ其間に或は日清の戦争と云ひ、日露の戦争と云ひ、又最近には欧羅巴の大戦があり、随分大なる変化を経済界に与へた。能く行くとそれが刺戟となつて世の進みをなす。是迄の例が何時もさうである。併し其進歩をするには種々の面倒が生ずる、それを能く料理し、節度を誤らぬやうにして、玆に初めて行過ぎた事が程好く縮んだり、足らぬ事が伸びて行つたりして、好い調停を得るやうに見えたが、どうも近頃の有様は、中々にそこに至る事が難くないかとまで懸念される。殊に平和克復、即ち休戦条約の出来たのが大正七年の十一月であつたが、其以後経済界の余勢が一年以上も続いて、もう終熄かと思うた事が中々に止まぬ為に、まだ何時までも続くだらうと云ふやうな惑を人に与へて、為に過を多からしめた。大正九年頃から其有様が全く一変して、経済界が大不況を来した。此に鑑みて官民挙つて収縮を図らねばならぬものと、私共は思うたのだが、どうも勢の走る所、殊に政治上にも経済上にも、唯進む一方にのみ傾いて、之を完全に収縮することがなかつたから、殊に官業の申さば根拠の乏しい発展を図つた為に、大に緊縮すべきを反対に膨脹せしむると云ふやうな傾が、今日に至つては悪く申せば収拾すべからざる有様にまで陥らしめたのである。一般の民間の有様を見ると、一体の気勢が大変に弛緩して、さうして生活の程度を進めたいと云ふことは誰も希望する所であるが、其進みには自己の力を量つて行かなければならぬ。一方に生活の程度を進めたが、之に伴ふ個々の力は反比例に却て減退したと云ふやうに思はれる。随つて其結果として輸出が段々に減退して、輸入は益々超過する。大戦に関係して数年の間に、一国の経済として聊か余裕を生じたものは、今や全く其跡を絶つてしまふと云ふやうな有様になりはしないかと思
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ふ。而して又其虚栄に走る方面に於ては、東京などでは、昨年の震災の為に殆ど昔の面影を見ることの出来ぬやうな大破壊を受けつゝも、尚ほ其驕奢の名残を捨てずに、直さま「バラツク」の中に、私共から見ればあんな事は無くもがなと思ふやうな、無暗に外観を飾つて虚栄を衒ふ姿が見える。人心弛緩と、事業の根拠の薄くして上辷りに走つて居る有様が、相因んで見えるのが甚だ心苦く感ぜられる、質実剛健と全く反対の軽佻浮薄の有様を現出して居ると言つて宜いやうである私が年取つた為に特に左様に感ずるのかも知れませぬけれども、若い人でも極く健実な考を持つ人であつたら、必ずさう云ふ考が起るに相違ないと思ふ。それが為に一方には生産力を減じ能率が下つて行く、さうして贅沢品が這入つて来る。斯う云ふ有様であるから、どうしても一日々々に差引いて損耗の経済と言はざるを得ぬやうに私は思ふ。此場合に経済を改革すると云ふことは、今の人心の弛緩頽廃を挽回するに比べて、更に一層困難ではないかとまで言ひたい。是に至つて全体の政治家に向つてお気の毒と御挨拶を申上げると同時に、浜口大蔵大臣の御苦心をお察し申上げざるを得ぬ、私はさう浜口君と共に仕事をしたこともなし、又別に経済政策に就て何等良い知識を持つて居る訳でもないから、特にお話を申上げたことはないけれども、至て健実なひどく言責を重んずるお方のやうに察する。大蔵大臣は此困難なる重荷を脊負はされて、未来はさぞ御苦心であらうと深くお察し申します。要するに斯かる重大なる事は、今日言うて今日直に効験を現すことは出来ないと思ふ。成るべくお気長に改革をなさつて下さる外なからうと思ひます。又他の方面からもそれに助力して、仮すに時日を以てしなければ行くまいと思ふ。併ながら唯時日を仮すばかりが能ではない、それを果すには目的があつて初めて時日が必要になるので、どうしても大方針を立てゝ、此制度に依つて改革する積りだと云ふことが決まらなければならぬ。それには私共は已むを得ぬ、政府の事業を手を詰める外なからうと思ふ。どうも官業が余りに力が延び過ぎて居りはしないかと思ふのです
それから金利の点についても、己れ自身も長い間銀行に勤めた関係上余り高くしてはいけないと云ふことを、私は日本銀行を始めとして、重立つた銀行者に、或る機会には老人の繰言で忠言をして居るけれども、中々安くならぬ。是も無理はないことだが、此姿ではどうしても私はいけないと思ふ。吾々の銀行を始める時分には、一般に大きい取引で一割若くは一割二分、甚しきは五両一歩と云ふのもあつた。事業の進歩をせぬ間に金利の高いのは、是は一般の道理で、其時分四分乃至六分位の英吉利の金利を聞いて羨しく思うた。是非金融の便を図り金融制度の調節を得させて金利を安くしたいと云ふことは、もう殆ど銀行者一同の深い覚悟で、段々に金利を下げて行つたやうに思ふ。或は公債を六分にしたのは自分等の力だと云ふやうな感じを以てやつたこともあつた。重立つた取引は八分或は其以下に引下つたやうにも見えたけれども、今日はそれに反して大取引が一割と云ふやうな有様になつた、是では迚も事業の進歩を見ることは出来ぬと言はざるを得ぬやうに思ふ。今俄に金利を引下げることは出来ぬかも知れぬけれども
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此姿では置けぬやうに思ふ。殊に先頃聞く所に依ると、特殊銀行などが高いコールを取る為に、市中の金利が高くなつたと云ふことであるが是等に対しては最も政府の注意の悪かつたものと言はざるを得ぬ。何故に特殊銀行がそんなに高い「コール」を取るのか、何れそれには理由があるだらうが、若しそれが事実とすれば、手短かに言へば大蔵当局の眼が充分に一般に行渡らぬことを示すものではないかとまで言ひたい。斯かる事は余り露骨に言ふは宜くないかも知れぬが、或は一二の銀行が苦し紛れに高いコールを取つた、さう云ふ者が始終目先の金利を高からしめたと云ふこともあるやうである。銀行に向つて取締法なども、私が今銀行の職をやめて居るから言ふではないが、是ももう少し相当な方法がありはしないかと思ふ。それと同時に大蔵省に向つて望む所は、今の商法に依つては監査役と云ふものがあつて営業上の監査をすると云ふことになつて居りますけれども、私のやつて居つた時分もさうではあつたが、どうも此監査役の監査が完全に行はれて居ない。若し充分に行はうとすると喧嘩になる。監査役のある為に其会社なり銀行なりに物議があつてはならぬ、物議のないやうにすると唯名のみになつて監査役の効能が無くなる、監査役の効能を多からしむると、始終角突合になつてしまふ。どちらも困る。銀行などに就いては英吉利などでやつて居る「オーディトル」の制度があります。東京でもこの制度が段々に拡張されて行つたら宜くはないかと私等は思ふ。何分会社の内部の事を他人に見せると云ふことは仕悪い事情もありませうが、どうしても監査を充分にする為には英吉利の「オーディトル」の制度などをもう少し一般に採用したら宜くはないかと思ふ
何としても目前日用の事から、もつと倹約の仕組をせねばならぬと思ひますが、之を如何にしたら宜いかと云ふことは、甚だ吾々の乏しい知識では其法立を言ふに苦しむ。或は政府の官吏なり其他民間の各営利会社なり事業会社なり、総て報酬を節約して、随つて家政を少し縮めるやうにするが宜いと云ふやうな説を為す人がある
若し之を急激に挽回しやうと思へば、それ位の英断は已むを得ぬかも知れぬ。果して屹度行はれるかどうかは分りませぬが、政府を初め全体に向つて少くも二割位の減額を行はうと云ふ説です。随つて労働者に向つても賃銀を下げなくてはならぬ。さうすれば自然物を買ふことを遠慮して倹約が行はれて来る。丁度水野越前守のやつたやうな大倹約をやるが宜いと云ふのです。今日の文明世界に昔の倹約論を引くでもないけれども、幕府時代には頻に驕奢の行はれた反動として倹約を励行した例は、私共一・二記憶をして居る。即ち天明の田沼の驕奢制度に反対してやつたのが白河楽翁――松平越中守の倹約制度、所謂寛政の改革です。それから文化文政の徳川十一代将軍家斉と云ふ人の驕奢に反対して倹約を行つた水野越前守の所謂天保の改革、どちらも随分深刻に倹約を行つたやうです。私も丁寧に調べて居る訳でないから細なお話しは出来ぬけれども、何れも甚しい驕奢の後を受けて、之を挽回する為に過激な倹約法を行つたやうです。松平楽翁公は孝悌忠信を重んずる人であつて、其倹約の仕方は洵に道理正しい思案であり、且つ実に忠君愛国の情から発したのであつたけれども、其時の将軍家
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斉には遂に気に入らぬ為に七・八年の後程好く職を辞して、後を家斉自身の政治に移してしまつたので、退けられた形には見えず、和かに閑散の位置に就いて、余り物議はなくて済んだ。而して其倹約の害は余りに現さずにしまつた。之に反して水野越前守の倹約政治は、余りに深刻にやつた為に、幕僚中の鳥居耀蔵などと云ふ人の反駁に遭うて遂に自身も大なる譴責を受けて、さうして其制度は途中で蹉跌してしまつた。軈て之に続いて外交問題が起つて来て徳川の末路と相成つたのであるが、此驕奢の嵩じて行つた揚句に、或る政治を執る人の覚悟から、倹約を唱へたと云ふ例は随分近い既往にも、幕府の末に右申すやうに二つ程あります。それらの古風な事を此処へ引合に出す訳ではないけれども、此頽勢を本当に改革しやうと云ふ財政家のお骨折と云ふものは実に容易ならぬものであらう。大蔵大臣は必ずやり遂げられる事だらうと期待しますが、併し其困難をば深くお察し申します
終に一言、今の内閣に対し御注意を願ひたいと思ふのは、古人の句に成名毎在窮苦日、破事多因得意時。と云ふ事があります。洵に尋常一様、青年の行動に就いて戒むる如き言葉であるけれども、是は単に個人の行状動止について戒しめたものばかりではない。之を広く論ずれば、国家の上に於ても、尚ほ斯う云ふ場合が多からうと思ふ。私は今日の政治界経済界に対しても、此事に思当らざるを得ぬのである。例へば三国干渉を受けたとか何とか云ふ時には、余程日本の苦心が多かつた。即ち窮苦の日に寧ろ名を成したかも知れぬ。其反対に五大国の一だとか何んとか言はれて得意がつて居る時に、寧ろ事を破る因を造るかも知れぬ。今日斯の如く人心が弛廃し、経済が紊乱するやうになつたのは即ち事を破る得意の時であつたが、併し今は又窮苦の日になつたのだから、此際お互に奮励一番して禍を転じて福と為す覚悟を極めねばならぬ事と思ひます