デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

2部 実業・経済

1章 金融
1節 銀行
5款 社団法人東京銀行集会所 東京銀行倶楽部
■綱文

第51巻 p.80-87(DK510018k) ページ画像

昭和4年1月(1929年)

栄一、是月発行ノ「銀行通信録」ニ『新年所感』ト題スル一文ヲ寄稿ス。


■資料

渋沢栄一 日記 昭和四年(DK510018k-0001)
第51巻 p.80 ページ画像

渋沢栄一 日記  昭和四年          (渋沢子爵家所蔵)
一月三日 晴 寒気昨日ト同シ
午前○中略 銀行集会所員来訪、速記者ヲ同伴シテ客年中ニ於ル余ノ経済界其他ニ対スル感想ノ口演ヲ乞ハル、即チ平生ノ所感ヲ縷述ス、約一時間余ナリ○下略

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銀行通信録 第八七巻第五一六号・第一―七頁昭和四年一月 新年所感 子爵渋沢栄一(DK510018k-0002)
第51巻 p.81-87 ページ画像

銀行通信録  第八七巻第五一六号・第一―七頁昭和四年一月
    ○新年所感         子爵 渋沢栄一
恒例に依り渋沢子爵の新年所感談を乞ふべく、一月三日曖依村荘を訪ふ、子爵は例の如く温顔を以て記者を迎へ「私は毎年年頭所感の詩を作る例になつて居るが、此二・三年は種々のことで作らなかつた。本年は九十になりましたので塩谷博士などの勧めもあり一つ作つて見ました」とて左の一篇を示され次て左の談話を試みられたり
  己巳元旦書感
 義利何時能両全
 毎逢佳節思悠然
 回頭愧我少成事
 流水開花九十年

      出郷当時の覚悟
新年の所感と云ふお求めでありますが、経済の事務に遠ざかつて居る私の経済談は迂遠に流れ易く、又時勢に就ては述べたい事も多々ありますが、老人の言ふことは兎角愚痴に陥る嫌ひがあります。斯く考へますと余り好い話題は持合はせませぬが、折角のお求めで御座いますから思ふが儘を申述べて見ます
一体私が経済界に長い間居りましたのも、大金持に成らうとか、大なる事業を自分の力でやり上げて見ようとか云ふやうな意思では無かつたのであります。先づ早い頃のことを思ひ返して見ますと、元々政治観念を以て家を出たものですから、後に至つて種々の事情で行違つたけれども、其意味に幾分か輔ける所の有るやうな務めを以て一生を終りたいと斯う考へたのです。其初は百姓ながらも国家の大事に対して己れ一人の力を以て一分の裨輔が出来ぬことは無からう、殊に対外の観念が有つたものですから強く考へました。別して日本国民のそれこそ勇躍奮起せねばならぬ時機と斯う考へて、父からも家業を抛擲して家を出るは宜くないと頻に叱られたり諫められたりしたにも拘らず、奮発して家を去つたので、烏滸がましくも時の幕政を変じて、――王政と云ふ完全な考は持たなかつたけれども、――天下の政治をして天子の明徳を充分に国内に輝かせるやうにして見たいと云ふところから当時の幕府の内外に対する政治の遣り方ではいかぬと云ふ、向う見ずでは有つたけれども、生意気な考を以て出かけたのです。然るに重ね重ね事が齟齬して、甚しきは自分の身が危くなつて来た為に、余儀なく人の勧めに従つて一橋の御家来になり、従来の思案を翻して、此君に依つて天下の大政を改革することが出来るやうに成るだらうと思ひきや、遂に一橋公は将軍に成られた。其時分には私も海外の有様を少しは知るやうになり、従来主張して来た攘夷論ばかりではいかぬと云ふことが分り、少し考が変つて来て居りました。折柄巴里大博覧会に出席する民部公子に随いて海外に旅行せよと命ぜられ、これは願ふても無き幸ひでありました。そこで外国へ行つて相当な学問をして帰つて来て、今度は最初の乱暴な思案を改めて順序に依つて政治に力を尽して見たいと思ふたのであります。然るに其予想が直に又外れて慶喜
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公は大政を奉還し、謹慎恭順する、而も朝敵と云ふ名を受けられることになつて僅かの間仏蘭西に居つたばかりで帰国しました。慶喜公がこの有様になつたのを誠に不思議に思うたのです。元来慶喜公が徳川家を御相続に成るのが間違ひである、幕府は長く続きはせぬと思うては居りましたが、海外に居つて其有様を聞いた時には、殆ど自分ほど不運な者は無い、こんな事なら家を出なければ宜かつたと後悔したけれども仕方が無い。日本へ帰つた時に思ひ悩んで、是から先き一身を何うしたら宜からうか、家に帰つて再び百姓に成るのも余り面目ないやうな気もするし、又それでは最初の思案をまるで没却してしまふことになるから面白くない。此有様で何か遣れることはなからうかと迷つたのであります。かくして種々考へた結果私の気付いたのは、其当時の政治の良く無かつたのは申すまでも無いが、そればかりでは無い日本の官民の間柄と云ふものが実に甚しく懸隔して居つた。今でも官尊民卑などと云ふけれども、中々今云ふ官尊民卑どころでは無い、治者は人間で有るけれども被治者は禽獣どころか殆ど器物同然の有様、是では何うしてもいけない。今日婦人に対する観念が甚しく間違つて居る。日本女子大学を創設した成瀬仁蔵と云ふ人が、日本の国民を六千万と云ふけれども、女を人として居らないのだから、其実三千万人しか無い。併し女も同じく人で有る、何うしても之を育てゝ行かなければならぬと頻に主張したことがあるが、是は女子教育を主張する人の説であつて一般の考は左様で無いと申しても過言ではありませぬ。併し私は如何にも尤であると聴き聊かながら援助もしました。成瀬君の論法を以て言ふならば、維新当時の有様は、治者だけが人間で、其他の者は器具くらゐに思はれて居つた。是ではいかぬと云ふことを、其前にも朧げには考へて居つたが、海外の実例を見るにつけ切実に感じたのであります
      仏蘭西に於ての印象
民部公子が仏蘭西留学と云ふことに成つたときに時の仏蘭西皇帝ナポレオン三世から教育家として特に附けて呉れたのが騎兵の「コロネル」でモッシュ・ヴヰレットと云ふ人、是は始終教育上のこと、修身上のことに就てお世話をして呉れた。私も亦内々の事柄に就ては其人以上にお世話を申すことも出来たけれども大体は其人がお世話しました
別にこちらから聘したのでは無く、我将軍から向うの皇帝に頼み、皇帝から其監督の為めに附けて呉れた人で、而も相当の身柄の人であつたから、民部さんの修学に就ては中々に権力の有つたものです。それから日常の家のことゝか、道具のことゝか、総て生活向に就ての世話方、即ち会計に属することは、――私も会計掛で始終お世話をしましたが、「コンシュル・ゼネラール」のフロリヘラルドと云ふ人が担当しました。此人は私立銀行を持つて居る人でありましたが、日本から頼んで担当して貰つたのであります。其ヴヰレットとフロリヘラルドとでは、一方は「コロネル」でお役人様、一方は銀行者で町人。斯かる二人が一緒になると日本の例で云ふと、町人は必ずお役人様の命令に唯々諾々たる有様だが、此二人の相接する実際の模様を見ると――私も幾らか仏蘭西語が分るやうになつたので側で聞いて居ると、――
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殆ど区別が無い。一方は斯う成さる方が利益で有りませうと云へば、さうですか、それぢやさうしませうと云ふやうな塩梅に、其二人の間に毫も尊卑上下の区別が無い、其有様を見て私は深く感じたのです。成程斯うなくてはならない。日本の例で云へば町人はいくら賢くてもお役人様の思召次第、事に依ると曲つた事が良くなつてしまふ。甚しきは鷺を烏と無理押付をされることが幾らもある。然るに仏蘭西にはそんな弊害は無い。国民全体が平等で、役人なるが故に威張ると云ふことが無い。これが本当であるべきであるのに、日本の従来の有様はさうで無い。日本の此有様は改良せねばならぬ。此風習だけは日本に移したいものであると深く感じたのです
      官尊民卑の打破
他の事も稽古して帰りたいと思つたけれども、取分け官尊民卑を打破すると云ふことに就ては、自分が一つ努力して見たいと心に期して居る中に、前に申すやうに維新の大変が起つて、其為に遂に民部さんが予定の修業をなさらずに帰らねばならぬことになり、随て御随身申した私共も遂に何等為すことも無く帰つて来ましたが、今申す官尊民卑を打破せねばならぬと云ふことだけは深く心に刻んで居つたのであります。それで帰る早々に考へましたのは、自分は智慧も無ければ学問も無い、色々の変化に遭遇して最早政治界に立つべき念慮も無い、さればと云うて家へ帰つて百姓をするのも残念である、それ以外に何か国の為めに尽すことが出来さうなものではないかと云ふ所から、今の欧羅巴の有様、官たり民たるに依つて尊卑優劣などは置かぬ、各人其の能力知識に依つて其職分を尽す、此風習を日本に移すことに努力して見たいと私は其時に深く覚悟したのです。そこで駿河へ行つて一種の半西洋式の組合事業――藩の資金を主として、民間の資金を加へて官民合同の商会を造つたのです。銀行もやれば商売もやると云ふやうな、申さば腰だめの仕事で、立派な順序を履んだものでは無かつたが併し其れは其仕事に依つて利益を得ると云ふよりは、今申すやうな治者・被治者の能力の働きから知識の使ひ方を従来の趣向と変つた新式を試みようと云ふ覚悟を以て取掛つたのです。其時分静岡藩では石高拝借金が五十万両以上ありました。石高拝借金と云ふのは各藩の石高によつて明治政府の紙幣を借りたのですが、それが静岡藩の分は五十万両あつた
此拝借金は長く其儘で済むものでは無い、何れ返さなければならぬ、若し此金を迂闊に使つてしまふ様なことがあつては返済の場合に甚だ困る訳になるから、是非相当の方法を講じて使ひ込をせぬやうにせねばならぬと云ふのが私の思案でした。此等の点をも考へ、前申した商社の創設を企て、頻に重立つた人を勧めて参りました。駿河藩の政治を執つて居た大久保一翁、勘定頭の平田準蔵、小栗尚三などと云ふ人人が私の説に賛成して呉れまして、愈々之を造ることになり、お前が其れを取扱つて呉れろと云ふので、私が之を引受けることになり、商法会所と云ふものを静岡に起しました
      不本意の政府出仕
此商法会所を創設したのは欧羅巴から帰ると直ぐのことでありますが
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明治の二年の十一月頃まで約一年ばかり之を経営しました所、又私の身が変ぜざるを得ぬことになりました。それは新政府に出て役人に成れと云ふ命令を受けたからです。私は全然不承知で藩で断つて呉れるようにと申しましたが、藩庁できゝませぬ。そんなことをしたら、朝旨に悖つて、有用の人才を隠蔽すると云ふ批難を受け、結局慶喜公に御迷惑をかけることになるから、何でも朝命を奉じて、政府に出仕せねばいけない、と云ふ事でありましたから、已むを得ず出京しました勿論断つて帰る積りであつたが、大隈さんに初めて会見して、大隈さんから悪く言へば大隈流儀の大風呂敷でまくし立てられ、大隈さん等の仲間になれと言はれて多少乗せられた。尤も勧められたから黙従したと云ふばかりではありませぬ。其時の大隈さんの説は中々に面白かつた。それは斯様云ふのでありました。今君が商業者となつて、商工業の改良と関係者の地位の向上とを図つて、治者と被治者の接触の有様を変へたいと云ふのは尤もだけれども、物には順序が有る、今直ぐ遣らうと思つても出来はしない。だからモウ少し辛抱して、下地を造つてから遣つた方が利益ぢやないか。高きに登るには梯子に依らなければならぬ、一足飛びに高い所へ上ることは出来るもので無い。君は農業を頻に説くけれども、試に其農業にしても地面さへあれば直ぐに物が穫られると云ふものでは無い、相当に耕して始めて種子を下すことに成るのぢやないか、まだ日本の土地は言はゞ荒蕪地である、荒ごなしさへ出来て居ないのだ。だから先づ荒ごなしをして掛らねばならぬ。商工業の荒ごなしをするには矢張役人としてやる方が都合が好いぢやないか。永くとは言はぬ、二・三年でも構はぬ、役人になつて呉れ、さうして時が来たら役人を罷めて君の考を実地に行つても遅くはあるまい。今直に駿河で其れだけの仕事をしようとしても、却て労多くして功は少ないと思ふ
極く打込んで言へばそれ位までに言はれたので、如何にも御尤と思うて、然らば驥尾に附して、余りお役には立ちますまいけれども努力して見ませうと云うて、大蔵省へ入りました。私が入つてから大蔵省に改正掛と云ふものが出来ました。是は大隈さんの考で造つたのだけれども、掛長は私が引受け、二・三年やりました。伊藤さんが明治三年に亜米利加に根本調査に行つたのも其起りは改正掛の立案に由つたのです。伊藤さんの調査に基いて、公債の仕組だとか、銀行の組織だとか、之に対する大蔵省の職分は斯くなくてはならぬとか、其本務を尽すには是だけの役所が無ければいかぬとか、其役所の基礎は斯う定めた方が宜からうとか云ふので、諸官省の官制、事務章程など云ふものを作りました、其中に明治五年に銀行条例が出来、明治六年には銀行を造ると云ふことになつた。其銀行は私が駿河で遣りかけた商法会所よりもズツト範囲がハツキリして、所謂分業式になつて居りました。駿河で遣らうと思つたのは商売と銀行を兼ねる仕組であつたが、この明治五年に出来た制度は銀行は銀行だけでやる仕組で有つた。けれども趣意は誠に能く似て居る。そこで明治二年から三年四年と大隈さんに附き、四年の冬から五年一杯六年の五月まで井上さん伊藤さんあたりに多く接触しました。明治六年五月に官を辞して始めて銀行者とな
 - 第51巻 p.85 -ページ画像 
り、年来の素志を実際に行ふやうになつた。勿論自分には資力も無し又大に貯めようとも思はなかつたから、相場をして儲けると云ふやうなことは絶対に無かつた。併し或る場合には此株は良いと思つて買つて所有して居ると、それが思の外良くなつて、仕合を得たと云ふやうなことがあつて、唯々普通の町人よりは幾らか収入が多かつたから、――勿論貧乏とは言はざるを得ぬけれども、――食ふに困るやうな生活はせぬで宜いだけになり得た。併し其れは私の本旨では無いので、前に申す官に在ると云ふだけの理由で、無い智慧が有りさうな形になると云ふやうな不権衡な制度を直したい、一般の人智が真に其分に応じて行はれると云ふやうな世の中にしたいと云ふのが本旨でありました。今も其事は堅く信じて居るのであります
      真正なる政治経済
老人が労少くして若い人から尊敬を受けると云ふこともあるが、是は又智慧に代るべき能力が有るからであつて、余り現金勘定のやうで有るけれども、良才智能の無い者が仕合を得て、良才智能の有る者が却つて其れだけの幸を得ないと云ふことは、何うしても正しい事では無い。世に功労のある人には其れだけの仕合が向いて来ると云ふ世の中に成らなければ、真正なる政治は行はれぬ、又真正なる富強も図られぬ、是は私の堅く信ずる所である。否私一人の説では無い、以前からの通説であらうと思ひます。之を学者的に研究して見たら、斯かる分り切つた道理は既に数々主張されて居ることが明かになるだらうと思ひます。併し幾ら言うても、後から後から始終壊れて来る嫌ひが有る甚しきは秦の趙高が鹿を指して馬と言つた、今日でも多数を以て可否を決する場合には、悪くすると鹿を馬にする虞が無いとは断言し得ないと思ひます。本当に善いのか悪いのか分らないけれども、唯々善いと言ふから善いとする。善い悪いと云ふことは、鷺と烏のやうに区別があれば誰にも分るけれども、それ程に明瞭で無い場合には、其善悪が分らぬのです。甚しきは多数を得る為には手段を選まない、鷺を烏と言ひくるめるどころでは無いのであります。さう云ふやうな弊害が政治界にも有れば或は実業界にも有ります。斯くの如く本当に其人の享けた天賦の能力を自由に発揮させることの出来ないのは、国家にとつて無上の不幸であります。幸に現在の有様が、官尊民卑の弊が一切無いとは言はないまでも、稍々少ない時代になつたと云ひ得るかと思うて喜ぶのです。併し之を押し拡めて世界の実情に就て論ずると、どうも政治の権力を得ると云ふことゝ実際の得失優劣とに就ては、前に申す平等的の智慧が先に立ち、善い事ばかりが先づ行はれるとのみは言ひ得ないので、思ひの外に今申すやうな弊害が或る場合には生ずるやうに思ひます。殊にをしなべて労を少なくし、而して報酬の多い事を望むのが人間の常であり、智識の乏しきに拘らず人の先へ立ちたがると云ふのも人の常であります。甚しきは金銭を遣らずに品物だけは取る、若しこれが出来れば其れが利巧だと云ふやうに誤解するに至るのであります。自分に何等の能力も無く、而して人の先へ立つて恬として恥ぢないのは、丁度銭を遣らずに品物を取つて来るやうなものである。更に推論して行くと、或は其能力なしに大なる貨財を親とか先
 - 第51巻 p.86 -ページ画像 
祖から譲られて、それを勝手にすることなども、経済上真正の道理から云ふたら同じ様であるとまで言ひたいのです
      道徳経済合一
さう云ふやうな弊害が多くなると共に、経済と道理とが兎角真直に一緒に道行せぬやうになります。道徳は経済を離れ、経済は道徳を伴はず、道徳に依れば損を招くと云ふやうなことがあり、又政治も其通りになり勝であります。政治上の力を充分に張らうとすると道徳が欠ける、道徳を余り顧みると政治が伸びぬと云ふやうな考がドウも有るやうになります。私の年来の主張である所の何事も道徳によらねばならぬと云ふ理窟が総て何処へ行つても能く貫徹するかと云ふと、時々迷を生ずる人か有るやうです。私などは若い時分からさう考へて自分は疑ひませぬけれども、此道徳経済合一並に道徳政治合一に就ては頻に私が主張しても、私の世話内の人々さへ、さうは言ふけれども斯うなる、斯うなると損ではありませぬかと云ふやうな疑惑を持つことすら有る位です。結局此真理は誰が見ても争ふべからざるもので、モウ少し世の中の知識が本当に進んで行つたら其辺が大に明かに成るのではないかと思うて、斯くの如く老衰したにも拘らず、前に申す主義、世の中の知識と云ふものを道理正しく働かせて、人に依つて無い智慧が有りさうに見えると云ふやうな弊を除きたいと努めて居ります。モウ一歩進んで俗に申す富と云ふものは真の道理に依つて成立つべきものだ、経済と云ふものは真の道徳に依つてのみ維持し得るものだと云ふことが、何うしても此世の中が進めば進むほど明かになるべきである又明かにならねばならぬと確信して居りますが、さらば事実に於て私の信ずるやうに明かに成つて来るかと云ふと、ドウもさうは言はれぬ嫌ひがあります。マア其点に就ては将来必ず斯う成るだらうと云ふことを断言することは出来ませぬけれども、是が善いと云ふことだけは断然明言して差支ないと思ひます。それで昨年十一月第十回休戦記念日の放送のとき、中庸の言葉を引いて申したが、その「誠者天之道也誠之者人之道也」、と云ふ文句は尊ぶべき金言であります。四季の変化、昼夜の区別、若し之が間違つたら大変であるが、少しも誤らずに道理正しく運行する、之が天の道である。此天の道を誠にするのは人である、然るに人は之を誠にするどころでは無い、之を維持することも出来ないと云ふのは誠に情けない訳であるが、まさかに人類と云ふものは、さう急に消えて行くもので無いとすれば、仮令其間に種々なる間違が生ずるとしても、其間違は追々に直し得るものであらう、道徳経済も結局は合一するもので有らうと私は信じて居ります。色々の学説を為す人がある、明日にも此世の中は消滅してしまふやうな説を為す人もあるが、さう云ふ変つた学説に就ては研究したことは無いけれども、自身の見る所では、どうしても人類は進んで行く、進んで行けば今申す通り間違つたことが有りとしても、遂に真理に到達するであらうと思うて居ります。其辺から考へると実に日本の国体などは誠に其れに適応する国で、喜ばしいことゝ思つて居ります
年頭書感の最初に「義利何れの時か両全せむ」と致しましたが、義利を両全せしめたいと思ふたのは三十歳の時でありますから、それから
 - 第51巻 p.87 -ページ画像 
でも星霜既に六十年を経過して居ります。其事に一貫して働いた積りでありますが、成る事は少ないのであります。流水開花九十年、世の中に何の効能も成し得なかつたことを歎息せざるを得ませぬ、而して未来を想ふ時焦慮を禁ぜざる次第であります