デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

2部 実業・経済

1章 金融
1節 銀行
5款 社団法人東京銀行集会所 東京銀行倶楽部
■綱文

第51巻 p.87-95(DK510019k) ページ画像

昭和5年1月(1930年)

栄一、是月発行ノ「銀行通信録」ニ『年頭漫談』ト題スル一文ヲ寄稿ス。


■資料

銀行通信録 第八九巻第五二八号・第一―九頁昭和五年一月 年頭漫談 子爵渋沢栄一(DK510019k-0001)
第51巻 p.87-95 ページ画像

銀行通信録  第八九巻第五二八号・第一―九頁昭和五年一月
    年頭漫談
                   子爵 渋沢栄一
 一月五日渋沢子爵を曖依村荘に訪うて新年所感談を需む、子爵は先づ択善会に其源を発したる銀行集会所が、今日の盛況に達したるを喜び、次で左の新年作一篇を示され、記者の問に応じて旧臘御陪食の御模様、日米問題、教育問題等に渉りて諄々として談論を試み時の移るを知らず、九十一歳の高齢を重ねて尚ほ尽忠奉公の及ばざるを憂ふ、至誠真に畏敬に値ひす(記者識)
      ○
  瓦全自擬古精忠
  愧我経綸未奏功
  山海殊恩何日報
  喜迎九十一春風
未定稿ではありますが、恒例に依り此のやうな詩を作りました。固より拙作たるを免れませぬが、其意は唯々一身一家の繁栄を図るでなしに、幾らか国家の為にならうと思うて家を出たのであるが、何も是と云ふ仕事も出来ないで、珠の如く砕けずに瓦の全きを存したやうな工合で、自らは古い忠義の人に擬へたいと思つて居るけれども、思ふやうにもならぬ、自分の経綸は未だ功を奏しない。併しそれにも拘らず種々なる特別の恩寵を受けて居る。殊に最近特殊の御待遇などを蒙つたことを思ふと、何時御高恩に報ゆることが出来るであらう、それを考へると斯く老衰しても、まだ身体が全く利かぬと云ふ訳でもないから、九十一になつて先は短いけれども、其の短い間に御恩を報じなければならぬ、それで老耄れても老耄れたとは言はない、子供と同じやうに喜んで又一年を迎へると云ふ積りであります。空元気《から》のやうにも聞えますが、決してさうではない、私は真にさう思うて居ります。斯く申した所で吾々風情、何と思つても国家の役に立つことは出来ませぬ、俗に申すゴマメの歯ぎしりではありますけれども、併し兎に角微衷をお認め下されたればこそ、旧臘十九日特にお召を蒙つて 上お直キの御下問でないまでも、御近侍から私の心事に就て幾分お尋ね下さつて、それをお聴き下さつたことゝ思ひますと、真に有難い極みに存じます。山海の殊恩何時の日にか報いん、丁度九十一になつて又春を迎へたのであるから、老先の短い身でも若返つて御報恩を努めよう、斯様な意味を籠めた積りであります
 - 第51巻 p.88 -ページ画像 
      ○
御陪食当時の模様をお尋ねでありますが、お上から御直々の御下問はありませんでした。御陪席なすつたお方は牧野内大臣と一木宮内大臣と鈴木侍従長、関屋宮内次官、其他に侍従武官がお一人、侍従がお一人、私と七人円卓子の会食でございまして、御一緒に談話をしつゝの食事でございました。丁度十一時五十分に宮内省に出ろと云ふ御沙汰でその通りに出ました。宮中の事は能く存じませぬが、色々大きなお部屋があつて、其処をズット通りぬけて 聖上のお居間近いと云ふことでありますが、休息すべき控所へ案内されました。其処には宮内官が大分居られました。其中に 陛下がチヨット出御になり、直に食堂へお立ちになりました、それから私にも行けと云ふことで御後について食堂へ参りました。控所は大きい部屋でありましたが食堂は小さい室でありました。円卓子の御座の右に私の席を賜はり、左に牧野さん其次が一木さん、私の隣が関屋次官、其右が侍従長、侍従と云ふやうな順序でありました。食事中に別段お直々の御下問等はありませんでしたが牧野さんでありましたか一木さんでありましたか、初に『渋沢は大層古い人だが、ズット昔、維新前に海外へ行つた頃はどんな風俗で行つた』と尋ねられましたから『矢張刀を差し髷を結んで日本風俗で行きました』。『をかしかつたらう』。『それが日本風俗ですから、自分では些ともをかしいとは思ひませぬでしたが、甚しきは仏蘭西などで見ず知らずの奴に著物を引張られたり何かして笑はれたことがあります。刀が中々厄介で初は差しましたけれども、何だか工合が悪いので後には刀を差さずに仕舞ひました』。『言葉はどうしたか』。『追々に語学を学びましたが、中々巧く行かないで困りました』。『何が珍らしいと思つたか』。『博覧会が八月にありまして、其の式典に際しナポレオン三世の所謂、勅語とも申すべき式辞がありました、其の一節に、斯の如き有様を見て此の国家の慶典を祝さぬ者は殆ど世界に在つて在り甲斐のない人だ、と云ふやうな、中々に宇内を呑んで掛かつたやうな強い言葉のあつたことを記憶して居ります』。『色々変つた有様に接して奇異の感を為したことがあつたらう』と云ふやうな点から、『其後五・六十年を経た今日に至つても、未だ解釈がつかずに居る事が一つあります』。『それはどう云ふ事であるか』。『白耳義に参りまして王様のレオポルド二世にお会ひしたときに、日本の――其頃は「プリンス」と言はれました徳川民部大輔、之に対して発せられた言葉をどう判断して宜いか、今に其の判断に苦しんで居りますから、其の顛末を玆に申上げます』と言つてお話ししました。それはレオポルド二世が六十余りのお人で、十五歳の民部大輔に接して、能く来た、何が面白かつた、お菓子を上げやう、と云ふ程度の愛情を持つての話であります、「此国に来て何を見たか」、「硝子の製造所を見ました」。「どう感じたか」、「面白うございました」。王様が硝子の事に精通されて居りまして色々の話をなされ、「今日はまだ東洋には無いであらうが、其中には追々東洋にも出来るであらう」。王様が立入つてそんな事を言はれるすら既に奇異の思を致すのに、リエージユに大きな製鉄所がありまして、其れを見たことを王様がひどく喜ばれて、「鉄の製造と云ふ
 - 第51巻 p.89 -ページ画像 
ものは中々むづかしいものだ、併し何処でも鉄の沢山出来る国は必ず富む、そして鉄を取扱ふ国は必ず強い、だから鉄と云ふものは国家の富強と大に関係のあるものと考へなければならぬ。白耳義は小国ではあるけれども鉄に就ては欧羅巴の他の国に負けない、今日は英吉利が中々製鉄が盛であるから、東洋に出るものは白耳義の名でなく英吉利の名に依つて出るものが多い」などと云ふ話から、「どうしても日本は将来鉄を沢山造るやうにしなければならぬ、併し鉄を造るには色々の設備を要するから相当の年限が掛かる。其間は他国の鉄を買はなければならぬ、其の場合は白耳義の鉄を沢山買ふやうになさい」、斯う云ふ意味の話であります。それを聴いて居つて変に感じたのは、王様が何も鉄の宣伝をせぬでも宜ささうなものだ、成程自国の鉄を成るべく他国に多く買はせると云ふことは悪い事ではない、善を人に勧めるのであるから結構と言へば言へるが、何だか卑劣らしくも聞える、之を卑劣と見てさげすむべきか、善事を人に勧めるものとして敬服すべきか、其時も判断に迷ひましたが今日に至るまで未だ判断がつきませぬと申上げました お上は何とも仰しやいませんでしたが、他の御連中は成程さう言はれて見れば一寸判断に困るねと、牧野さんなり鈴木さんなりはお笑ひになりました。別に取繕つた話でなく事実の話であります。中々に王様御自身が阿弗利加のコンゴーと云ふ所に鉱山を持つてござつて、鉄に対して色々苦労をなされた為にそんな話が出たものと見えます。其の話は別に何方と断案を下したと云ふこともなくそれで終りました
それから多分鈴木さんでありましたらう、私が仏蘭西から帰つてから銀行者になつたと云ふ経歴を聞いて居るが、どう云ふ事からさう云ふ考が起つたのであらうかと。私の行動に就ての問を起されましたに就て、『私は全体仏蘭西へ行く前から、日本の有様が余りに官尊民卑の強いのを厭うて居りました。官と云へば絶対の権力、民と云へば絶対の服従、其間に是非善悪の差別なく、唯々命維れ従ふと云ふやうな有様であつたが、海外に行つて見ると全く日本の有様とは違つて、官も民もない、其の事に精しい人が自ら先に立つ、些細な事に就ての是非得失を論ずる場合でも、一番精しい人が一番重きを為すと云ふやうな有様を見て、誠に結構だと思ひました。それで初は私も政治家にならうと云ふ観念を持ちましたけれども、丁度自分の仕へた一橋慶喜公と云ふお人が政権を返上するに就て大なる騒動があつて、甚しきは逆賊などと云ふ汚名を受けるやうな嫌ひもあつたので、海外に居つてもひどく心を痛めて帰つて参りましたが最早政治家になる考は無くなつた。併しながら百姓をやめて家を出た身が、為す事もなく空しく故郷に帰るのも残念だ、せめては何か国家的の仕事で自分の為すべき事がありさうなものだと考へて見ましたが、固より特殊の才能を持たない人間には是と云ふことも見当らぬ。併し今の官尊民卑の弊害、是れだけは海外の有様に倣うて直すことが出来さうなもの、それには民業を起して民間の知識が進んで行つたら、唯々官の圧迫だけに甘んずることは無くなるであらう、私一人で其事が完全に出来やうとは思ひませぬけれども、寧ろ其方に身を委ねるのが、ヘボ政治家になるよりは宜から
 - 第51巻 p.90 -ページ画像 
うと思つて、必死に其方面に微力を尽したのであります。それは四・五十年の昔と申上げて宜いのであります。先頃私が八十八歳になりましたので、人々が打寄つて米寿祝賀会と云ふものを催して、其会には政治家の方々、しかも内閣に居られる人々が打揃うて出席されて、時の総理大臣田中男爵が大層丁寧な祝辞などを述べて下さつたので、大変嬉しくて、吾が事を褒められて喜ぶのは子供らしいやうでありますけれども、真に官尊民卑の弊が斯くまでに変化したかと思うて、誠に愉快に感じて其の喜びを答辞として述べたことを記憶して居ります。今の私の銀行者になつた理由に就て、自分の存じ寄りを申上げます』。とお対へしました お上は聴いてござつて、あゝさうであつたかとお頷き遊ばしたやうに拝しました
更に『それは能く分つたけれども、併し其の官尊民卑の弊風を改めたいと覚悟した原因が何か有りさうなものと思ふが、それらに就て何か感想はないか』と、エライ立入つたお尋がありました。『それは斯うあゝと深く記憶は致しませぬが、併し一つ能く覚えて居つて、それらが其の念慮を強めた原因であつたらうと思ひますのは、丁度十七歳の時に、私は武州血洗島の百姓でありますが、領主から私の家に、用金と称して多少領内の資財ある百姓には出金を申付けることが、其頃幕府にもあつたが諸藩にも能くありました、只々取るのではない、借りるのだけれども、借りて返さなければ只々取るのと同じ訳になる、小さな大名ですから其の金高も誠に僅かなものであつたが、私の家も其れを言付かつたに就て、父の名代として直ぐ近所にある代官所へ出て折衝しました。其時に真に官民の不権衡の有様が斯くもあるものかと其頃は多少書物も読み物の道理も幾分理解しつゝあつた時ですから、国の政治が衰へると斯く迄に是非の区別が無くなるものかと云ふ感じを深く起しました。何でも五百円か用金を言付かつたので、チャンとした返答をするのでなく、唯々行つて聞いて来いと父から言はれたので、其の代官に御命令の通り宅へ帰つて父に申聞かせて御返事を申上げますと言つたのが余り迂遠だと云ふので、代官が私に対して侮辱的に、『十七にもなつてお前一存で、其のくらゐの返事の出来ぬことがあるか、領主の命令を何と心得て居る』と言はれましたから、私は『父から承つて来いと申されて来たので、私一存では是以上のお答は出来ませぬ』と対へましたら、代官がひどく怒つて『剛情な小僧だ』と言つてお叱りを受けました。其時にドウモ斯う云ふ無理を平気な顔をして言ふのは、それほど馬鹿な人ではないやうだけれども、全く政治の弊害の極度が此に至らしめたものであらう、是ではいかぬ、斯かる過つた政治は改めなければいかぬと云ふ念慮を十七歳の少年ながら強く起した。其後二十七・八歳のときに仏蘭西へ行つて其国の官民の接触の有様を見ると、そんな風は微塵も無くて、誠に順序立つた道理と知識が先立つと云ふやうな、極く吾々の意を得た事態でありましたから「さてこそ彼の時自分の憤慨したのは一時の疳癪ではない、其方が道理であるのだ、益々此の弊害は直さなければならぬ、此の弊害を直すには官の方を直すよりも民の方を直すが宜い、此方を進めれば向ふが引込むやうになる」と云ふ覚悟をしました、と斯様なお話を致しまし
 - 第51巻 p.91 -ページ画像 
た。『さうであつたか、さう云ふ事は能く聞いて見ると心得になることだ』と云ふやうなことから、尚ほ鈴木さんから、棍掘り葉掘り御質問がありました。食事に於てのお話は大体其のくらゐのことで お上は『さうであつたか』、『骨折であつた』、くらゐのお言葉はありましたが、特に或問題に就ての御下問はありませなんだ。主として牧野さん鈴木さんのお尋があつて、それに対して私がお答をしたと云ふのが当日の御談話の模様であります
      ○
先頃、私が春風楼遺稿と云ふものに序文を書いて置いたことから、其の関係を尋ねて来た人がありましたが、春風楼と云ふのは河野顕三と云うて、文久三年同志と共に時の老中安藤対馬守を坂下門外に要撃して命を殞した人であります。此の安藤と云ふ人は当時自ら外交の衝に当つて殊にタウンセント・ハリスなどとは最も接触した人でありますハリスに就ては一昨年下田に彼の人の碑を建てゝ、当時の追想講演などを致したことがありますが、私は彼の人に対しては真に敬服して居ります。外国にもこんな人があるかと思つて、それから亜米利加が好きになつたやうな気が致します。英吉利が阿片を支那に売つて其の為に林則徐と云ふ人が憤つて其阿片を焼いてしまつたことから、所謂道光の乱と云ふものが起つて、香港を英吉利に取られました。さう云ふ事を聞いて居りますから、英吉利に対しては、悪くすると国を取られる、油断は出来ないと思つて居りました。それに引替へて米国に対しては左様の考を持ちませんでした。それは米国の公使ハリスの為めであつたと思はれます。ハリスはそれこそ公明正大な人でありました。文久より少し前ですが、麻布の善福寺に亜米利加の公使館を構へたことがあります。其時分には頻に浪士連中が人斬りに出ると云ふやうな有様で、外国人に兎角危害を加へんとする傾がありました。遂に亜米利加の公使館に通訳官をして居つたヒュースケンと云ふ和蘭人を麻布の二の橋で斬つた者がありました。加害者は果してどんな種類の人であつたか分りませぬが、此種の間違はよくあつたものですから、外国公使等は徳川幕府の取締のつかぬことをひどく憤りまして、到頭一時公使館を引上げて横浜に在る自国の軍艦に移つたことがあります。其時にハリスは自分の通訳官が殺されたにも拘らず、幕府が夜分の外出を止めてあるのに出歩いた其の行動を宜しくないとして、幕府を責めるやうなこと無く且つ幕府は決して暴挙を勧めてやつたのではないと主張しました。又新らしい国へ来て始めて条約を結ばうと云ふ場合には種々の困難に遭遇するのは当然である。気概のある国民には其位の事は有り勝の事である。然るに旗を捲いて横浜に引揚げると云ふやうな不穏な行動を執るのは宜しくない。私は引揚げるのは厭やだと言つて独り善福寺の公使館に留まることを主張した。そこで他の公使等が若しあのヒュースケンを斬つた連中が又斬りに来たらどうすると詰つたら、ハリスは対へて、それはドウモ已むを得ない、幕府で相当の取締をしてそれで及ばぬ場合は一死あるのみだと答へた。当時私は此事を知りませんでしたが、其後身の変遷があり、遂に民部公使に随行して仏蘭西へ行きましたが、仏蘭西行の船中で同行の田辺蓮舟、当時の
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外交通で中々の人物でしたが、此人から聴いて大に驚きました。それでこそ亜米利加は仁義の国だと深く好感を持つやうになりました。是は慶応三年の事ですから、今より六十二年前の事です。そんな意味からして亜米利加に対しては国としても親しみを持つて居りますが、個人的にも親交の深い人があります。それから之はズツト後の事ですが米国西海岸の日本の移民が亜米利加人から嫌はれると云ふことに就て唯々無暗に亜米利加を誹る人が出たけれども、私は日本から行つて居る連中も善くない所がある、そこで一々非を上げると亜米利加人は日本人を誹り、日本人は亜米利加人を誹ることになる。そして結局は衝突と云ふことになつて来るが、さう云ふことはしたくない、其処に至らぬ前に自己自ら改善を加へなくてはならぬと考へました。そこで日米関係委員会と云ふものを拵へて、私が中心に立つて爾来引続いて心配して居ります。唯々謂れなく亜米利加に屈従して事勿れを願ふ意味ではありませぬけれども、悪くすると詰らぬ些細な行違ひから両国民の感情が阻隔し、甚しきは衝突に至らぬとも限らぬから、さう云ふ弊害のないやうにと努めて居る次第であります。例の加州の移民問題に就ても抑々の起りを言ふと、当時の移民が誠に出稼的の者ばかりで、悪く言へば其処らに落ちて居るものを、拾はうと云ふやうな極く厚かましい考を持つて行く人が多かつた。殊に日露戦争当時日本が露西亜に勝つたのを、何か己れ自身が強くなつたやうに考へて、労働出稼人が頻に大手を振つて歩くと云ふやうな風がありました。亜米利加人から見れば余り好い感じを持たないのは当然であつた。そんな事が排斥の原因に成りました。無理もない話で、地位を易へれば私共でも矢張排斥をするかも知れませぬ。唯々自分の言ふ事だけが尤もで、向ふの言ふことは総て悪いと云ふやうな考は宜しくない。日米関係委員会はさう云ふ間違つた争をさせたくないと思つて、其の時分から心配して居ります。今日はそれ程の事もありませぬが、日露戦争以後暫くの間は中々に心配でありました。唯々それらの結果が遂に千九百二十年の移民法の問題となつて、日本の移民をば野蛮国に対すると同じ待遇をして、欧羅巴に対しては「クォータ」(比率)で移民を入れるけれども、日本にはそれを適用しない。其の差別待遇に対しては誠に私共も腹が立つて是非直させやうと努めて居りますが、爾来十年近く経つても未だに其目的を達することが出来ませぬので甚だ残念に思つて居ります。さればと言つて向ふの内部の事ですから、外から之を直さうとすれば大変臆劫な議論を仕向けなければならぬ、寧ろ亜米利加自身から反省して移民法を改正して呉れるやうに祈つて居ります。軈てはさうなるだらうと思ひますが、今の所では甚だ心外の待遇を受けて居る訳であります。其の本を質せば今の日露戦争後日本移民の行動が少し穏当を欠いたことが原因をなして居ります。甚しきは総ての移民を還してしまへと云ふやうな論もあつたさうですが、一歩緩めて今のやうな有様になつたやうであります。斯の如く鳥渡油断をすると些細な事から飛んだ行違を生ずる虞がありますから、日米関係は余程注意を要することゝ今も猶ほ思うて居ります。殊に向ふの政治家は国民の意思を重んじますから、自国の国民の意思を重んずると共に、他国の国民
 - 第51巻 p.93 -ページ画像 
の意思を能く観察するやうであります。話は遡りますが、丁度明治四十年頃小村寿太郎氏が外務大臣で居られた事があります。小村氏は長い間外務大臣として外交に力を入れて居りましたが、其関係から『亜米利加に対しては政治家の外交ではいかない、所謂国民的外交によつて相互の感情が融和しなくてはいかぬが、そこに至ると吾々では力が足らぬ、どうしてもあなた方民間の人々の力を借りなければならぬ。どうか一つ心配して呉れまいか』と云ふ意味の話がありました。それは尤もであると云ふ所から、米国西海岸の六商業会議所の人々を招待し此方からは渡米実業団と云ふものを造つて米国に参つて意志の疎通を図りましたが、引続いて其趣旨で働いて来ました。前に申上げた日米関係委員会も亦同じ趣旨から造つたものでありまして、今日も猶継続して居ります。処が種々相談をしたり議論したりした米国人諸氏は漸次なくなられました。第一の年輩者ではボストンの「ハーバート」大学の総長を長く勤め後に名誉総長となつたエリオット博士、之は私より年長でしたから若し生きて居つたら百歳に近くなつて居るべき人です。それから紐育のジャッジ・ゲーリ、是も一昨年死にました。其他ピッツバーグのハインツと云ふ人も死にました。それから大北鉄道のジェームス・ヒルと云ふ人、費府の有名な百貨店創始者のジョン・ワナメーカーと云ふ人、嘗て大蔵卿をつとめ、ヷンダリップ氏を見出したライマン・ゲ―ジと云ふ人、何れも死にました。尤も皆高齢の人ですから死ぬのは当然でありますが、一寸数へても七・八人故人になりました。私共とは真に能く意見の合ふ人達で親友と申しても宜かつたのであります。さう云ふ人々が亡くなりましたことは甚だ残念でありますが、併し其人の子、孫と云ふやうな人に多少の知合が出来ましたし、又古くから知つて居る人で元気に活動して居る向も少なくありませんから、まるで新しい人ばかりではありませぬ。前に申した千九百二十年の移民法を何とかして直したいと云ふに就ては、外交談判を以てやる訳にはいかないから、只今申上げた国民外交に依つて目的を達したいと云ふので、出来るだけ機会を捉へて向ふの政治に携はらぬ人が其考を起して呉れるやうにと努力して居る訳であります
      ○
話は変りますが、今の文部大臣はどんな考を持つてござるか分りませぬが、先達て罷めた小橋さんが教化運動とか云ふことを考へて、私などの意見をも徴されましたから、思ふ所を認ためて差出しましたが、一体に私は今の教育の仕方が宜しくないと思ひます。ドウモ今の教育が唯々知識を進めることのみに専らで、精神的教育即ち人たるの道は斯くなければならぬと云ふ方面の教育を怠つて居る、尤も知識を進めることは人を善い方に導く一つの手段ではあらうけれども、一歩を誤ると其の知育が却て害を為すことがある、故にモウ少し今日の教育に徳育を加へて貰ひたいと自身は思ふけれども、然らば何うしたら宜いかと云ふ実行方法に至つて窮するのであります。知育偏重の弊害に就ては今日に始まつたことではない。古くから私は論じて居つて、私の聟の穂積陳重と意見を闘はしたこともあります。穂積は法律家ではありましたけれども学者であり教育家でありました。私は教育に就ての
 - 第51巻 p.94 -ページ画像 
学問もなければ経験もないが、ドウモ日本の教育と云ふものが果して是で宜いものか、教育を弘めて成るべく無学の人なからしめんとするには、今日の制度も已むを得ないと思ふけれども、余り知育にのみ走つて精神的教育・道徳的観念を忘れることは如何なものであらう。昔は誠に野暮な教育であつたが、地方などでは一番徳望もあり尊敬を受けるやうな人が教育上の世話をするやうになつて居つたから、幾らか其地方固有の道徳が多少伝はつたやうに思はれる。然るに今日は全く知育のみになつてしまつて道徳方面が閑却される傾きがある、所謂学問の切売になつてしまつたが是で宜いものか知らんと論ずると、穂積は教育を普及せしめる為めには今日の制度は已むを得ない、少し強弁のやうな嫌ひがあるが人は知識が進めば事の善悪が分る、善悪が分れば悪い事をしては損だと云ふ考が自然と生ずる、悪を為す者は不知なりと荀子も謂つて居る、善悪と利害とを同一に論ずるのは善くないがさう考へれば知識が進めば悪事は減ずると云ふ点は異議がないと思はれる。故に広く教へやうとすれば今日の制度は已むを得ないであらうと、私の懸念を駁する如くに度々言うて居りました。今日も学者の説を聞いたら蓋し同じ事を言はれるだらうと思ひます。私は之に対して事の理非曲直が分るまで学んで来れば宜いが、少しばかり物を知ると却て之を悪用する弊がある、寧ろ知らぬ方がましと云ふことになるだらうと論じたことがあります。先年政府で教育調査会と云ふものを設けたことがありますが、其時会員を命ぜられましたので、此徳育振興を主張しました。此精神教育の一案として、各地方の村落の学校に、学問は左程出来ても出来ぬでも、人格あり名望ある其地方の人を名誉校長にして、さうして其人の思ふ儘に何等かの方法を立てゝ精神的に導くと云ふ趣向は出来ぬものであらうか、斯う云ふ説を出したことがあります。同じ会員であつた菊池大麓・外山正一などと云ふ人達と話し合ひさう云ふ建議をしやうとまで運びましたが、他の連中からドウモそんな事を言つた所が其れに適当する人があるまい、言ふべくして行ふべからずであらうと云ふやうなことから、趣意には賛成であるけれども、教育調査会が其事を建議するまでには至らずに終りました
      ○
お話は色々に飛びますが、先頃来成るべく無駄な事のないやうにせねばならぬと云ふ趣意で、生活改善同盟会と云ふものを拵へた人がありますが、如何さま総ての事柄がシックリとしないで、トンチンカンの事が多く、又無用の費が多いやうで、そこらに気を付けてモウ少し事業上にも社会上にも直す工夫がありさうなものと思ひます。此処は斯うしたら善くはないかと云ふ成案は持ちませぬが、ドウモ子供が大きくなると著物のアゲを延ばさぬといかぬ、アゲが悪いのか脊の伸びたのが怪しからぬのか、兎角不権衡の事が多い、随て自然と無駄が多いと云ふやうなことがあります。だから物の変化に応じて相当の改善を図つて、成るべく弊害の出ないやうにしたいものです。之に関聯して申して置きたいのは権利と義務の関係であります。世の実情を見ますと甚しきは権利のみを主張して義務を尽さぬ、極端に言へば此姿で行くと銭を出さずに品物を取つて来るのが利巧だと云ふやうになつて来
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る恐があります。之は甚だ困つたことで、義務から先へ尽せ、さすれば権利は随つて来るものだと云ふのを力説したいのであります。私は真にさう心得て啻に口に之を称へるのみでなく自身之を行つて居る積りであります。併しさう言うてもお前は斯う云ふ事があるぢやないかと非難する人があるかも知れませぬが、心では何処までも義務を先にし権利を後にする、それが人間の世に立つ道であると云ふ位にまで自分は覚悟して居ります。皆がさう思つて呉れゝば世の中が道理正しくなり道徳が行はれるに相違ないのであります。論語に「吾道一以て之を貫く、曾子曰唯」。孔子様が席を立たれたので傍に居つた門人が曾子に問うた「あなたは承知しましたと言つたけれども一体あれはどう云ふ意味ですか」曾子答へて曰く「夫子の道は忠恕のみ」忠恕の二字に帰著する、吾道一以て之を貫く、其道とは何ぞや忠恕のみ、里仁第四にあります。それを註釈したやうな句で朱子に一つの対句があります「内自不欺、忠是体。推己及物、恕行焉」論語の一篇はツマリ忠恕のみであると孔子が言うたと云ふことを曾子が証拠立てて居るのであります。其の忠恕を又後に朱文公が解釈して能く分るやうに対句にしたのです。自分のしもせぬ事をしたやうな顔をせずに自分の力の乏しい人は乏しいなりに少しも飾る所なくやらなければならぬ、又我身を抓つて人の痛さを知らねばならぬ、其忠と恕とを程良く行ふのが孔子の教であります。其人に力の大小はあらうとも忠恕は誰でも行ひ得るものであります。私は世の中の人がモウ少し此忠恕の心を以て事に処して呉れたなら今日の時弊を矯めることが少しは出来やうと思ひます



〔参考〕竜門雑誌 第四九六号・第八七頁昭和五年一月 青淵先生動静大要(DK510019k-0002)
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竜門雑誌  第四九六号・第八七頁昭和五年一月
    青淵先生動静大要
      十二月中
十九日 天皇陛下の御召により参内午餐を賜はる