デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

2部 実業・経済

1章 金融
1節 銀行
5款 社団法人東京銀行集会所 東京銀行倶楽部
■綱文

第51巻 p.95-100(DK510020k) ページ画像

昭和6年2月(1931年)

栄一、是月発行ノ「銀行通信録」ニ『往時を回想して切に将来の社会に望む』ト題スル一文ヲ寄稿ス。


■資料

銀行通信録 第九一巻第五四一号・第一九―二二頁昭和六年二月 往時を回想して切に将来の社会に望む(昭和六年一月十四日王子の子爵邸に於て) 子爵渋沢栄一(DK510020k-0001)
第51巻 p.95-100 ページ画像

銀行通信録  第九一巻第五四一号・第一九―二二頁昭和六年二月
    往時を回想して切に将来の社会に望む
           (昭和六年一月十四日王子の子爵邸に於て)
                    子爵 渋沢栄一
    辛未元旦書感
  九十二齢神気新
  屠蘇又作太平人
  皇恩無限身忘老
  稽首朝窓拝紫宸
毎年元日には拙い詩を作るのを例として居りますので、今年も責塞ぎに右のやうな詩を作りました。是は未だ未定稿ではありますが、丁度
 - 第51巻 p.96 -ページ画像 
九十二になりましたから、九十二の年を迎へて心新たなり、屠蘇を飲んだら矢張太平の人となつた、皇恩の忝いことを思ひ、太平の民たることを喜ぶ、窓を開いて遥に拝謝の辞を述べる――要するに国恩を忘れぬと云ふ心情を書き露したに過ぎないのであります
そこで新年の感想談をお需めでありますけれども、世間の事物に接触せぬ身でありますから、お話しすることが何時も自分の世に立つの心事――心に思うたことを繰返して又同じ事を言ふかと云ふやうな嫌ひがあるかも知れませぬが、或る事柄に就て是非善悪を論ずると云ふ場合に全く無関心とも云へまいと思ひますから、自分が世に立つの初めまた今日は斯うなつて来たが、此後どう思ふかと云ふやうな事に就て少しお話しして見たいと思います
埼玉県の農民の子が少年の時から多少田舎の百姓に安んじないで、幾らか国家の為になりたいと云ふ慾望を起して、それが為につひ家の相続が出来ないで、諸方を流浪して歩いて今日に至つたと云ふのですから、唯々単に金持になりたいとか、一身の栄達を図りたいとか申すやうな思案でなかつたことは、自分から申す事ではありませぬけれども御推察下さるであらうと思ひます。併し己れの家を出かけるときの志は、今日の境遇を望んだのではなくて、大きな政治家にならう――当時は西洋の模様が解りませんでしたから、其の考は著きませなんだが第一に徳川の政治を天子の御代に引直さう、幕府の政治が悪いと云ふことを深く思ひ込んで居りました。この政治家にならうと云ふ考は少年若しくは青年の頃には中々に強かつたのです。けれども事、志と違うて皆蹉跌してしまつた。京都に往つてゐる間に、危難が身に迫つて捕縛されさうになつたのを一つ橋の家来に助けられて、遂に慶喜公の家来となつた。申さば事窮つて死ぬより宜からうと云ふやうな事から初の精神と違つてしまつたのです。それから追々世の中が変化して、慶喜公が将軍になるとか、また民部公子のお供で仏蘭西にやられるとか、続いて大政奉還と云ふやうな事から、自分の政治家にならうとした考は大に過てりと覚つて、それからは政治家になる考は全く断念してしまつたのです。併し仏蘭西から帰つてから、田舎へ引込んで百姓をすると云ふことも余り好ましくない。何か自身の力で少しは国家の為に尽す道がありさうなものだ、所謂官尊民卑の弊害を直さうと云ふ考――其の思案だけは今思ふて見ても能く気が着いたと考へる位であります。其の実は道理から考へ著いた事ではない、意地から来たのでと云ふのは其の頃の役人の威張り方と云ふものは今日の人々には迚も想像が出来ぬ位で、青年の自分には酷く口惜しかつた。正しき道理と云ふよりは、腹が立つ口惜いと云ふ観念が其の念慮を余計強からしめたかも知れない。所謂中正の心でなしに憤怒から起つたことですから余り褒られる話ではないが併し其の気著きは間違ひないやうでした。而して之を如何にすれば宜いかと云ふことに就て、初めは官の方から進まうとしたのであるが、民の方の事業が進めば必ず其の事業に就て官民の接触が生ずる、此接触によつて目的を達し得るであらうと思ひました。其の頃の官尊民卑の弊は、詰り民の方が余りに智慧が無い為め余計に軽蔑されると云ふ実情でありましたから、民業に従事する人
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が相当の智慧を持ち、実力を持つ様になれば、さう軽蔑されるものではない。随て民間に相当の人が居れば其の接触によつて此弊を匡正することが出来やう。斯う考へたのであります。一体世の中の事は人為的に与へたものを取除いてしまへば、賢い人が先へ立つと云ふのが普通の有様であり、人類の集りの常態であるから、民の方に相当の知識を持つた人があつて、官の方が之に及ばぬと云ふことに成れば、如何に官が差図すると言つても、其の差図は物を知らぬ奴のする事だから遂には能く知つて居る民官《(間)》の人々が先に立つやうになる。さうすると官尊民卑の弊害は事実に於て無くなると云ふやうな考を起したのであります
それに就て酷く私の頭を刺戟した一の例は、私は維新前後にかけて一年程慶喜公の親弟民部公子のお供をして仏蘭西に居りましたが、此旅行は半ば公けのものであつた為め、日本の将軍から仏蘭西の三世ナポレオンに手紙をやつて事を頼んだのですから、向ふは非常に親切にしました。仏蘭西の力に依つて日本の制度を追々欧化させやうと云ふ位の意気組であつたから、其の力の入れ方も強かつたのです。そこで民部公子の教育の監督として騎兵の「コロネル」のヸレットと云ふ人を附けて呉れた。固より向ふの皇帝が人選した位の人ですから立派な人です。毎日も来ませぬが三日置き五日置きに来て学問上の世話をする唯々文字ばかりでなしに鉄砲も稽古するとか、馬も稽古するとか、測量も習ふ、長い間居るなら本筋に稽古するが宜からうと云ふので、其の「コロネル」が監督をして呉れる。併し内々の世話をする人が無くてはならぬと云ふので、日本の総領事をしたことのある商人のフロリヘラルドと云ふ人を頼んで、是は家を借りるとか、金の始末をするとか云ふやうな事の相談相手、詰り「コロネル」ヸレットと云ふ官の人と、フロリヘラルドと云ふ民の人と相談をしてやる。私は日本人として民部公子の俗事のお世話を致しましたが、仏語も満足に出来ず、海外の事は分らず、唯々年が若くて何事も勉強すると云ふので、初は私より上の人が居りましたが、都合に依つて其人が日本へ帰りましたに付て、後は自分が当ることになりました。そこで常に接触して二人の様子を見ると、ヸレットの方が筋を知つて居る、条理上からは尤もらしいけれども幾らか形容が混る、フロリヘラルドの方は至つて穏和で利害得失を能く弁別して所謂実利主義である。私は此人に多く相談して、少しでも金が残つて居れば利殖法を考へる、公債を持つとか株を買ふとか、随つて銀行はどう云ふものだ、鉄道は斯う云ふものだと云ふやうな、所謂民業の組立などを、さう丁寧に学問的には知りませぬけれども、追々言葉も少しは分るやうになるに連れて朧気ながら知るやうになりました。所が其の二人の間に時々説が違ふ、争ふと云ふ程ではありませぬが、互に意見を述べて理のある所に就くと云ふ其の様子が、一方が官だから、一方が民だからと云ふやうなことは一向に無い。成程是でなくてはならぬ、日本の官尊民卑は確に間違つて居ると云ふことを深く感じたことがあります
此ヸレットと云う人は至つてお国自慢の人で、銃鎗――銃の先へ剣を附けて闘ふ彼の戦術を非常に自慢して、日本の剣術などは一と堪りも
 - 第51巻 p.98 -ページ画像 
あるまいと云ふやうなことを言はれたので、私も血気の時分ですから口惜くて、少しは腕に覚えがあるから、それなら論より証拠一つ試合をやつて見ませうと言つて口論したことがある。其後三十年も経つた後にヴェルサイユで再び此人に会ひましたときに、其の時の事を話し出して、お前はあの時に本当に試合をする積りだつたかと言つて笑つたことがあります
それ等の目先学問から、日本の官尊民卑の弊害を直すには初は官から行かなければならぬと思うたが、なに!民業を盛にすればさう我儘ばかり通るものではない、詰り智恵と勉強が根本になる。権利には附智恵が多い、其の証拠には二百年三百年続いた徳川氏も斯の如く消滅してしまつた。権利と云ふものは智恵から生ずる、決して資格とか命令とか云ふものから生ずるものでないと云ふやうなことを深く感じまして、官尊民卑の弊害を改めるにはどうしても民業を起すに如くはないと思ひました。民部公子の仏蘭西留学は本望を遂げず、唯々見物に止まつて何の効果もなく引揚げたけれども、私は其の間に一つの精神だけは押へ得たやうな気がして、帰ると早々前将軍慶喜公の蟄居して居られた駿河へ行つて、其の時に大久保一翁と云ふ人が駿河の政治を執つて居りましたから此人に自分の心事を打明けて話しました所が、相当に理解して呉れまして石高拝借金を私に委せて呉れましたから、玆に官民の資本を集めて商法会所と云ふ名に依つて一つの会社組織を始めたのです。之に依つて金融・殖産・貿易等の事にまで及びたいと云ふ考であつたのですが、十箇月ばかり経つた明治二年の十月に大蔵省へ呼出されました。当時の仕方は身軽の者だと其頃弁官と云ふ者からして直接に「御用があるから出て来い」などと云ふ達が来る。私は直接に呼ばれたのではなく、藩庁を経て呼出されました。東京へ出て来ると大蔵省租税正と云ふものを言付けると云ふ。幾ら辞退しても肯かない。様子を見ると大輔には大隈重信、少輔には伊藤博文があつて、一人は佐賀、一人は長州、此の二人は近頃入つた人だけれども中々に勢力がある様子であつた。と云ふのは郷誠之助氏の先人郷純造と云ふ人があつて、之が私は会つたことはないけれども幾らか知つて居る人で、幕臣の出であつたものですから、此人に就て大隈・伊藤の様子などを聞き知つたのです。大隈さんと段々話をして見ると、私も多少論客の積りであるけれども、どうして側へも寄れない位の大論客で、一寸話をしたら直ぐ揚足を取られて弱らせられました。君も評判の弁説家だと云ふが、此処へ来ちや少し遠慮が過ぎるぢやないかなどゝ揶揄されて、酷く説付けられて、到頭静岡へ帰ることが出来ず、政府へ仕へることになりました。そこで私は大蔵省で頻に苦情を言うて、大隈伊藤あたりには、是非民業に相当の人を出してやるやうにしなければいけない、自分は駿河で斯う云ふ事を始めたからと言つて、二人に官尊民卑の弊を説いた。併し其頃は政治の目鼻も著いて居ない時分でしたから、お前も未だ年が若い、政府に居つてモウ少し内を整へてからでも遅くないぢやないかと云ふやうな話で、大蔵省に引留められて仕事をして居る内に改正掛と云ふものを申付かつて、租税のこと、幣制のこと、公債のこと、色々の調べをやつて居りました。其中に銀行も
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是非立てなければならぬと云ふことになつて、伊藤さんが亜米利加へ行つて調べて来て国立銀行条例と云ふものが出来た。初は民業を進めるには相当制度上からも官民の接触を能く著けたいと云ふ考を以て進んで来たけれども、仲々私共に好い思案が著かない、丁度銀行問題が生じて来た折も折、其の頃の大蔵省は大隈さんが罷めて井上さんが実権を握つて居りました。私などは井上さんの謂はゞ書記官長位の格で細かい取調に就て専ら骨を折つて居つた。所が其の井上さんに反対して江藤新平・後藤象二郎・大木民平等の人々が首脳位置に立つて排斥運動をやつた。丁度明治六年に井上さんは廃藩置県と云ふて、藩と云ふものを名前だけ郡県の有様にしたけれども実質には手を着けずに居つたのを、是非名実共に本当の郡県にしてしまはなければ真正の制度改正でない、名だけ変へて藩主を藩知事とした位では駄目だと云ふてやりかけたが、中々旨く行かないで心配して居る。それに就て井上さんが大変苦心して、昔の本にも無いこと、支那の書物を見ても参考にならない、悪く言へば行き当りばつたり、其の場で当意即妙、思案を出す奴でなければ此改正に当られぬ訳、それで幾らか文筆もなければならず、さればと云うて支那、欧羅巴の学問に通じて居るから其れで宜いと云ふ訳にもいかない。中々適当の人が得られぬ。それには井上さんが幾らか私を調法がつて居られた。然るに其の井上さんが一年半ばかり勢力を張つたものですから悪まれて遂に明治六年に追出された井上さんが罷めるに就ては、私は迂つかりして居ると袋を背負はされるから、早く逃出す方が宜いと考へて、そこで明治六年に井上さんと連名で『奏議』と云ふものを差出して罷めた。私も韓退之の文章位は読んで居るから筋を書いて、丁度大蔵省に江幡五郎――後に那珂通高と云つた人が居つて、此人が文章を良く書く所から文飾して貰つた。それが後に新聞に出た為に官の秘密を漏したと云ふので、私は叱られなかつたが、井上さんは幾らかの罰金を取られた。其の文章は今読んで見ても中々能く出来て居るやうに思ふ。「国家の隆替は固より気運の然らしむる所と雖も亦未だ政府挙措の当否に由らずんばあらざるなり」と云ふ事から筆を起して、自分等の考は斯々であると云ふことを反覆論じて、其の形のみを主として其実を重んぜざる今の政治は駄目だと云ふやうな趣意を書いたものです。そこで役人を罷めて直に第一国立銀行を創めて爾来四十四年勤めました。其間に大蔵省に入つて来た人は松方・大隈・渡辺、其他色々の人が来たけれども、官尊民卑の弊習は今日も猶ほ無いとは言へぬが、併し第一銀行などに於ては、左までに官の勢力を以て民が唯々圧迫されると云ふことは無い、そんな事はいけませぬと云ふことを民からも言ひ得る為め――多少無理を言はれた事もないことはありませぬが、併し昔の官尊民卑の甚しい状態から脱することが出来たのは、詰り最初政治上から行かうと思うたのが、中頃から変じて事実から行かうと決心した其の希望が稍々達せられたやうに思ひます。丁度一昨年であつたか、帝国劇場で私の八十八の御祝をして下すつたときに――主催は民間実業界の人でありましたが、陪賓として内閣の大臣方、外国の大使公使は勿論其他全国的に立派な方々が集まられた席上で時の総理大臣田中義一さんが、渋沢の実
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業界に於ける功労は云々だと言つて賞讚して下さつた。そこで自分は其の昔日本の官尊民卑の余りに甚だしいのに憤慨して、最初は政治上から行つて之を矯めやうと考へたが、一身上の変化から寧ろ実務に就て民業を盛んにして――民間の力が張れば自ら官尊民卑の弊は無くなる道理だからと考へて、爾来其の方針で一貫して来た積りである、敢て自分の力と云ふではない、時勢の然らしむる所ではあるが、其の希望が実現して、今日何等の官職を持たない一介の野人たる渋沢の八十八の祝ひに一国の総理大臣が親しく臨んで祝辞を述べて下さると云ふのは、官尊民卑の弊害の無くなつた何よりの証拠であつて、こんな嬉しい事はないと云ふやうな趣旨を申述べたことを記憶して居ります
併し自分が明治六年大蔵省の役人を辞した当時に比べれば、今日は民業の進歩、民業の重きをなすことは決して同日の論ではない、其の頃は理窟ばかりであつたが、今日では根柢が出来て居るから大いに安心ではあるけれども、さればと云ふて、其の当時を顧みて真に豆人形のやうなものが、今日は大きな仁王様になつたと云ふ程には変化しないと思ふ。なぜモウ少し確かりした人が世に出て働いて呉れないかとまで言ひたい。日本の今日の有様がどうも此儘ではいけない。国も小さし物資も少ないから、えらい富を持つて誇る訳には参らぬと思ひますが、併し誠に地の利を得て居る。支那・亜米利加を西東に控へて居るので働けば幾らでも働ける国柄だと思ふのに、今日の実業界の人々が余りに沈着過ぎて――さらばと云うて己れさへ好ければ宜い、不道理に己れ一個の富を図ると云ふ主義では困る。何処までも道理正しく経済道徳を重んじて発展して行かなければならぬが、それにしても親のする事だけしか出来ぬのが経済道徳とは言はぬ。私は親とまるで別の事をしたけれども経済不道徳とは思はぬ。其の人の働きに依つて、働く方面は変つても、道理と云ふものは万古不易であるから、如何に智恵が進んでも、智恵の進むために道徳の破壊されると云ふことは無い筈である。若しさう云ふことがありとすれば、それは真の智恵ではなくして邪智である。邪智などは無い方が宜い。斯う考へて見ると、どうも日本の経済界の人々――独り経済界の人々に限りませぬが、此好位置、此好時代にありながら余り奮発が足らぬぢやないか。余り意気地が無いぢやないか。自慢らしく云ふではないが、どうも自分の国柄に対し、又他の国の有様から見て、モウ少し力ある人が出て、モット大きな考を以て進むと云ふ思案が出さうなものだ。少し小成に安んずると云ふか、飽きが来たと云ふか、それとも疲労したと云ふか、老人の先が短くなつた為に特にさう感ずるのかも知れませぬが、社会に向つて一層の奮励を望みたいのであります