デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

2部 実業・経済

1章 金融
2節 手形
1款 東京手形交換所
■綱文

第51巻 p.143-152(DK510034k) ページ画像

明治44年1月20日(1911年)

是日栄一、東京銀行集会所ニ開カレタル当交換所第百五十一回定式集会ニ出席シ、議長トシテ定例議事ヲ司宰シタル後、委員改選ニ際シ池田謙三・佐々木勇之助・三村君平ヲ指名ス。尚、先ニ委員ヲ退任セル豊川良平ニ感謝状並ニ記念品ヲ贈呈ス。次イデ新年宴会開カレ栄一演説ヲナス。

十二月三十日、栄一、創立以来委員・委員長トシテ尽力セル功ニ対シ当交換所ヨリ記念品ヲ贈ラル。


■資料

渋沢栄一 日記 明治四四年(DK510034k-0001)
第51巻 p.143 ページ画像

渋沢栄一 日記 明治四四年       (渋沢子爵家所蔵)
一月二十日 雪 寒
○上略 五時銀行集会所ニ抵リ、手形交換所総会ヲ開キ委員ヲ指名ス、畢テ宴会ニ列シテ一場ノ食卓演説ヲ為ス、食後松尾男爵・豊川・池田其他ノ諸氏ト維新当時ノ商工業者ニ関スル懐旧談ヲ為ス○下略


青淵先生公私履歴台帳(DK510034k-0002)
第51巻 p.143 ページ画像

青淵先生公私履歴台帳          (渋沢子爵家所蔵)
一東京交換所委員              明治四十四年一月廿日辞任


会議録 第二号 従明治卅六年一月至同四十四年十一月(DK510034k-0003)
第51巻 p.143-144 ページ画像

会議録 第二号 従明治卅六年一月至同四十四年十一月 (東京手形交換所所蔵)
    第百五十一回定式集会兼新年会録事
明治四十四年一月二十日午後四時三十分、東京交換所組合銀行第百五十一回定式集会ヲ開キ、来会シタル銀行二十七行ニシテ其出席員三十三名ナリ、委員渋沢男爵会長席ニ着キ開会、監事山中譲三氏ヨリ四十三年下半期手形交換ノ成績並ニ経費決算ヲ報告シテ其承認ヲ得、次ニ四十四年上半期経費予算ヲ協議シテ原案ノ通可決シ、次ニ委員任期満了ニ付改選ノ議ニ及ビタルニ、豊川氏ハ旧臘三菱会社管事ニ栄転ノ結果既ニ辞任セラレ、渋沢男爵モ今回ハ絶対ニ候補者タル事ヲ固辞セラレタレハ、今回ノ改選ハ渋沢男爵ヨリ指定セラレタシト満場一致ノ希望ニヨリ、男爵ハ池田謙三・佐々木勇之助・三村君平ノ三氏ヲ指名シ異議ナク之ニ決定セリ
次ニ渋沢男爵ハ豊川氏ガ当交換所ノ発展ニ対スル多年ノ功績ヲ頌シ、爰ニ感謝状並ニ紀念トシテ軍艦形置時計一個、銀製花瓶一対ヲ贈呈スト述ベ、之ニ対シ豊川氏ノ謝辞アリ、五時下閉会
更ニ銀行倶楽部ニ於テ日本銀行正副総裁・理事・営業局長及豊川良平氏ヲ賓客トシテ新年宴会ヲ開キ、渋沢男爵ノ挨拶ニ次ギ松尾日本銀行総裁及豊川良平氏ノ演説アリ、八時下散会セリ
 - 第51巻 p.144 -ページ画像 
当日出席者
 第一   渋沢男爵   新潟   上田弘教
 同    石井健吾   第十   山本彦吉
 第三   清水虎吉   明商   伊沢竹衛
 十五   松方巌    同    長谷川千蔵
 同    成瀬正恭   同    鼈宮谷清平
 二十   山口荘吉   十九   内藤尚
 第百   池田謙三   四十   新井錠三
 三菱   矢野芳弘   正金   松尾吉士
 三井   二宮峰男   肥後   杉原惟敬
 安田   小笠原鑅治郎 住友   北条恭五郎
 浪速   大倉国造   丁酉   清水宜輝
 帝商   長崎竹十郎  村井   村井貞之助
 川崎   安藤浩    同    綾井忠彦
 東海   吉田源次郎  同    村井五郎
 中井   岩田音次郎  森村   田代勇次
 東京   伊藤恕一   台湾   山成喬六
 八十四  中沢要輔


銀行通信録 第五一巻第三〇四号・第六三頁明治四四年二月 ○内国銀行要報 東京交換所組合銀行第百五十一回定式集会(DK510034k-0004)
第51巻 p.144 ページ画像

銀行通信録 第五一巻第三〇四号・第六三頁明治四四年二月
 ○内国銀行要報
    ○東京交換所組合銀行第百五十一回定式集会
明治四十四年一月二十日午後四時三十分より東京銀行集会所に於て開会、出席銀行二十七、会員三十三名にして委員渋沢男爵議長席に着き昨年下半期事業成績及経費決算は異議なく承認を得、本年上半期予算は原案の通り可決し、委員満期改選の件は、前委員たる豊川氏は曩に三菱会社管事に就任の為め退任せられ、渋沢男爵も今回は絶対に候補者たることを辞退せられしより、満場の希望に依り渋沢男爵に後任者の指名を請ふことゝなり、男爵より池田謙三・佐々木勇之助・三村君平の三氏を指名し、夫より渋沢男爵は豊川氏の交換所に於ける功績を叙し、感謝状並に紀念品軍艦形置時計一箇及銀製花瓶一対を贈呈する旨陳述せられ、之に対して豊川氏より謝辞を述へ、右にて議事を了り午後五時過閉会せり、尚新委員たる池田・佐々木・三村の三氏は一月二十五日を以て委員会を開き其互選を以て池田氏を委員長に推選せり
○下略


銀行通信録 第五一巻第三〇四号・第六〇―六三頁明治四四年二月 ○内国銀行要報 東京交換所新年宴会(DK510034k-0005)
第51巻 p.144-149 ページ画像

銀行通信録 第五一巻第三〇四号・第六〇―六三頁明治四四年二月
 ○内国銀行要報
    ○東京交換所新年宴会
東京交換所にては一月二十日定式集会閉会後同日午後六時より銀行倶楽部に於て新年宴会を催ほし、松尾日本銀行総裁・高橋同副総裁・木村理事・土方営業局長並に今回交換所委員を退任せられたる豊川良平氏を招待し、席上渋沢男爵の挨拶に続きて、松尾総裁・豊川良平二氏の演説あり、一同歓を尽して午後九時散会せり、渋沢男爵以下の演説
 - 第51巻 p.145 -ページ画像 
左の如し
     渋沢男爵の挨拶
 閣下並諸君、今夕は東京交換所の新年宴会に付まして日本銀行正副総裁其他諸君を御招き申しましたる所、御多忙中御繰合せ下され御来臨を得ましたことは会員一同の深く感謝致す所でございます
 抑々此手形交換所なるものは明治二十年に自分が創立委員として、又二十四年規則改正の際にも多少の心配は致しましたなれども、要するに今日の隆盛を見るに至りましたのは時運の然らしむる所であると思ふのでございます、故に若し比例を以て申しまするならば、時勢七分、人力三分と申して宜からうと思ひます、併し其時勢を助長せしめたのは即ち御列席の皆様であると申上げて決して過言ではなからうと思ひます、然らば時勢のみで人力は与からぬかと斯様申しますると、委員として何だか自ら衒ふやうな嫌がございますが、私は委員として甚だ其尽力が少なかつたといふことを残念ながら自白せざるを得ぬ、併し従来委員長たりし豊川君又委員である所の池田君は、交換所の事務に付ては勿論精通老熟と申上げて宜しい、常に充分に其力を尽されて居ります、斯る委員のあらしやつたことが即ち手形交換所をして今日の盛大に至らしめたといふことは、前に申す人力が三分といふならば其の三分の中の二分八厘は両君の力に依ると申上げても決して過言でなからうと思ふのでございます、併し左様に担任者其人を得て居りましても、若し絶大なる援助を持つて居りませぬと交換所の発達は決して斯様には参りませぬのであります、而して交換所設立以来今日に至るまで日本銀行の御助力を戴いたことが頗る多いのであります、交換所の事務所又は其差引尻の決算等に付ても、別して御厚意を以て御扱ひ下さることが即ち交換所をして此の如く繁盛ならしめた所以であると存じます、これは決して諛言ではございませぬ、諸君と共に皆衷心より感じて居る所であります、斯る御援助に浴する交換所でございまするで、弥増しに繁盛を期しまするために玆に新年宴会を開いて日本銀行正副総裁両君の尊臨を請うて尚更に御厚情を戴きたいと希ふのでございます
 昨年の下半期は既に先刻決算報告に就て申上げました通り稀に見る所の成績でありますが、下期の交換高の上期に及ばなかつたことは蓋し水害などの関係もありませう、又経済界の進まんとして進まなかつたことも多少与つて居るでありませう、併し其四十三年は過去つて、玆に四十四年の極く喜ぶべき新年を迎へたのでございます、年に因みて唯々無闇に突進ばかりすることは銀行者として慎まなければなりませぬが、さればと申して彼方を見たり此方を見たり、徒らに䠖跙躊躇することも好ましくありませぬから、真直ぐに方針を定めて順々と進んで行くといふことは猶亥年の如くありたいものと考へます、素より無法の突進は銀行者として慎まねばならぬ、況や本年の如き追々経済界が回復の機運に向ひますれば、是から先き又世間の突進者は吾々をして少し躊躇せしむるといふ時機が来らぬとも申せぬのでございます、其間に処して銀行者は宜しきを制し、亥年だから突進するといふやうな心は御同様に持たぬが宜からうと思
 - 第51巻 p.146 -ページ画像 
ひます、蓋し日本銀行総裁の御意思も或は其辺にありはしないかと推せられるのでございます、どうぞ此年の始めに御互に十分の注意を以て好い年を迎へ、此交換高をして二十億以上にも尚其上にも進めたいと希望致すのでございます、蓋し是は今申上げる脂肪的の増加でなく真実の増加を期するのでございます
 更に申上げたいのは交換所委員が先刻通常会に於て議決になつた通り、豊川君は資格の御変更から已むを得ず御退任になりました、私は又資格でなくて体格の変更から已むを得ず辞任せざるを得ぬ(笑)二つの格が少々違ひますれども、併し新委員は池田君・佐々木君並に三村君、此三君が新任せられましたから、諸君が十分此新委員を御助力下さいまするならば、豊川君に対しては鉛に代へるに銀とは言へませぬけれども、私に対しては真鍮に代へるに金を以てしたと言ひ得るであらうと思ひます、尚此新委員にも旧委員同様に御助力あらんことを只管希望致します、玆に臨場を辱う致しました日本銀行正副総裁及其他の諸君に対し会員一同に代つて謝辞を呈し併せて新年を祝します(拍手)
     松尾総裁の演説
 座長閣下並会員諸君、今夕は手形交換所新年の宴会に付きまして、日本銀行より私始め一同の者御招待を戴きまして、御鄭重なる御饗応を戴きましたことは厚く御礼を申上ます
 毎年此の新年宴会の席上に御招待を受けまして御馳走に相成りまするが、本年は別して新春らしく愉快に感じます、此の数年来我経済界は兎角陰鬱なる空気に充ちて居りました、年の始の春になりても春らしい感じが余程抑へつけられて居たかの様な心地が致しました然るに本年は世間も何となく春めく様な心地がいたします、承はりますれば昨年中の当交換所の手形の交換高は参拾八億四千万円と申す巨額に上りましたさうであります、私の記憶致して居りまする所では手形の交換高は年々増加して参りまして、近年では四十年が三十五億余円で之が最高であつたと考へます、それが四十一年には著しく減少致しまして四十二年になつても四十年の高には少しく及ばなかつたと存じます、然るに四十三年になりては今申す如く三十八億四千万円になつたと云ふことでありますれば最高の四十年よりも三億四千万円の超過を見るに至つた訳でござります、手形の交換高と云ふものは信用取引の状態を示すものであつて、信用取引を以て基礎とする今日の経済界の気運の消長を最も明に示すものであるとしますれば、此の交換高が去年に於ては今までになく増加したと云ふことは四十年に起りました我経済界の動揺、之に引続いて参りました一般の沈睡、不景気と云ふものが最早過ぎ去つたと云ふことを示すものと考へられます、外国貿易の様子を見ましても海陸汽車汽船の荷動の模様を見ましても、又諸般の事業の計画、諸会社の新設若くは増資の状況を見ましても皆同様の勢を示して居ります、昨年中世間では尚不景気の声が絶えませなかつたに拘はらす、実際我経済界は回復繁栄の気運に向つて居りまして、此の気運は本年に於ても特別のことがなければ一層其の歩を進めて参ることであらうと考
 - 第51巻 p.147 -ページ画像 
へます、御互に誠に御同慶のことに存じます、此の御席へ御招待を受けまして本年は別して愉快に感じまするのは之が為めであらうかと存じます、過去数年の間経済界の動揺引つゞきての沈睡の際に各種の困難ありたるに拘はらず、今日回復繁栄の気運に向ひますることゝなりましたに付きては、我銀行家諸君の此等困難の時期に信用取引の維持に努められたことが与りて力ありたることを疑ひませぬ諸君に於ても自ら顧みて愉快に感ぜらるゝことであらうと存じます
 扨て愈々我経済界が発展の気運に向ひ来りましたに付きて我共衷心の希望は其の発展進歩と云ふものが秩序的に漸進的に行はるゝことであります、左もなければ吾々は前に経験した苦き経験を又再びしなければならぬことゝならうかと思ひます、其れ故に事業の計画をなし商工業実際の取引に従事せらるゝ人々に対しては、能く需要供給の関係に注意をして仕事をなさるゝやうに希望致します、而して吾々銀行者たるものは能く事業と資金との関係に注意して実際の仕事をさるゝ人々を幇助もし又相当の注意を与へもして行くことが必要であらうと考へます、それから尚ほ我経済界の気運が繁栄進歩に赴むきまするに付きては金融も之に相応じて緩急其調節を謀らなければならぬことゝ考へます、又是と同時に何時でも引出さるべき預金を預りて居ることを忘れてはならぬと存じます、毎度申上ることでありますが、世の順潮なる場合にも、自ら多少の拘束を加へて恣に其の潮流に乗ずることを得ませぬのは、私共銀行業に従事するものゝ職分として遺憾には存じまするが止むを得ぬことゝ考へます
 終に臨みまして唯今会長閣下又豊川君よりの仰せに、交換所の委員でござつた渋沢男爵閣下・豊川君は御引退になつて、是まで委員で居らせられた池田君が代つて委員長となられ佐々木・三村の両君が之に代られますることの御報告を得ましてございます、一方渋沢男爵閣下・豊川君、永々此の交換所のために御尽力あらせられて今日の盛況に至りましたことでございますから、今御引退になると云ふことは、甚だ惜む所ではございますが、併し両君共に矢張此の経済界に専ら従事せらるゝ方々でございますから、此処に御名が出ませいでも、矢張以前の如く此の交換所に付ては御心添もあることでありまして、其御意見が時々此交換所の業務の上に現はるゝことゝ考へますから、此点に於きましては御引退になりましても交換所の為めに一も損失はありませぬことゝ考へます、そこで又池田・佐々木両君並に三村君の如き老熟の御方々が後任として之に当らるゝ上は益々此交換所が発展をすることゝ考へますから、御引退になりました方を御送り申すと同時に又新たに御就任になつた方を御迎へ申すことは、此交換所に取つて益々利益のあることゝ祝します、今夕は誠に御鄭重の御饗応を蒙りまして有難う存じます、御礼を申上げます(拍手)
     豊川氏の演説
 渋沢男、来賓諸公、御挨拶申上げます、明治初年に吾妻艦といふ船が出来ました、是は一千噸足らずの軍艦である、所が丁度其通りに日本丸といふものがあつた、段々其日本丸が大きくなるに従つて明
 - 第51巻 p.148 -ページ画像 
治十六年に日本銀行丸といふものが出来た、何故に日本銀行丸が出来たかと云ふと、是は政治の然らしむる所で、其前に第一銀行丸とか三井丸とか第三丸とか種々ありましたけれども、其制度がどうかと云ふと、亜米利加式であつた、之をどうぞ英吉利式にして日本銀行丸が他の船を率ゐるやうにしたい、言換へて見れば丁度三笠が指揮艦で朝日・富士・八島其他の巡洋艦、水雷艇が之に附いて行くやうにした、所が二十四年になつて手形交換丸といふものが生れた、其乗組員は誰れかといふと、渋沢さんが艦長、私も代理をしたことがあるが事実上は渋沢さんが艦長、私は副長、池田謙三さんが航海長である、それで此手形交換丸といふものを暗礁にも乗上げずコリーグもせず無事に今日まで航海し来つたといふものは、艦長・副長・航海長否其他の砲術長・主計長それそれの乗組員の協力の結果であると思ひます、若し之が艦長一人であつて副長・航海長其他の乗組員が居なかつたならば到底艦を動かすことは出来ない、又副長・航海長其他の人があつても艦長に其人を得なければ矢張任務を完うすることは出来ない、丁度富士の如き三笠の如き暗礁にも乗上げずコリーグもせず、日露の戦役を立派に仕遂せて来たのは総て八百人なり千人なりの乗組員が心を一にし東郷大将・上村中将の如き人が之を率ゐたからである、手形交換丸といふものも是と同じやうに遣つて来たのである、所が私は海軍省の命令で陸へ上つた、渋沢さんも元帥となつて陸へ上つた、其後司令官は池田君、是は多分艦長、三村・佐々木の両君は副長・航海長、之が皆将官となつて其任に当る此諸君は是まで既に潜航艇にも乗り、水雷艇にも乗り、巡洋艦にも戦闘艦にも乗り、或る時は佐世保へ上り、或る時は呉に上つて十分に経験を積んで来て居る、斯ういふ諸君が乗込めば決して此交換丸といふものを暗礁に乗上げたり、コリーグすると云ふことはない、是まで渋沢男爵、又私も役員の一人であつたが、此連中が其船を一方には乗組将校の御蔭を以てコリーグもせず、暗礁にも乗上げぬで無事に遣つて来たのは何かといふと、日本銀行丸といふ後で差引くものがあつて、之が灯台となり、海図となつて導きをして呉れたからである、若し此導きがなかつたならば必ず暗礁に乗上げてしまつたに相違ない、そこで今度此手形交換丸の乗組員であつた渋沢男と斯く申す豊川は去つたが、矢張海軍大臣が之に代るべき所の立派な熟練なる人を乗せた以上は、今後は尚一層安全に航海をして英吉利の戴冠式に立派に宮様を守護して行かれるに相違ない、是は第一に日本銀行丸の引立と一方には会員諸君の後援に依ることゝ思ひます若し粗相をすると積んである荷物が沈没してしまふ、が渋沢さんが指名した以上は後の船の傷まぬやうに遣られるといふことは信じて疑ひませぬから、どうぞ先刻渋沢さんが仰しやいました通り本年からは手形交換丸の乗組員は池田君・佐々木君・三村君、其他の人はそれそれ持分を持つて大に遣りますから、日本銀行丸の艦長・副長はどうぞ此手形交換丸を衝突するとか暗礁へ乗上げるとか、若しさういふ危険のある場合には灯台の光を照して間違のないやうに御注意下さることを御願ひ申します、又会員諸君に於かれても彼処へ黒
 - 第51巻 p.149 -ページ画像 
い船が見える、あれは潜航艇ではないか、水雷艇ではないかといふことを常に艦長・副長に注意あらんことを希望致します、是は前委員として吾々銀行界の灯明台たる日本銀行正副総裁、それから会員諸君に御礼を申上げると同時に御願を致して置きます(拍手)


交換所委員廻議 第拾弐号(明治四十三年同四十四年)(DK510034k-0006)
第51巻 p.149 ページ画像

交換所委員廻議 第拾弐号(明治四十三年同四十四年) (東京手形交換所所蔵)
明治四十四年一月三十一日    東京交換所監事(印)
  渋沢様(印)
  池田様(印)
  佐々木様(印)
豊川良平君ヨリ感謝状並ニ紀念品ニ対シ別紙挨拶ノ書面到来致候ニ付供回覧候也
(別紙一)
拝啓 時下冱寒ノ候益御清適欣慰ノ至ニ候、陳者貴下去ル三十一年ニ於テ東京交換所委員ニ御就任相成候以来毎回ノ改選ニ再選セラレ、玆ニ十有三年鋭意本務ニ御尽瘁被下事業漸次発展シ今日ノ盛運ニ赴キ候処、客冬三菱会社管事ニ御栄転ノ為メ、当委員御退任相成候ハ組合銀行ノ深ク遺憾トスル所ニ候、依テ此ニ総会ノ決議ヲ以テ感謝ノ意ヲ表シ、記念トシテ軍艦形置時計一個、銀製花瓶一対致贈呈候、御受納被下候ハヽ本懐ノ至ニ候、右可得御意如此御坐候 敬具
  明治四十四年一月二十日  東京交換所
                   委員 渋沢栄一
                   委員 池田謙三
    豊川良平殿
(欄外記事)
 [渋沢男爵自筆奉書半切 明治四十四年一月二十日
(別紙二)
拝啓 冱寒之候ニ御座候処愈御清適奉恭賀候、陳ハ老生事各位之御援助ニ頼り多年交換所委員之職を汚し、今般転任之為退職仕候処、組合銀行一致之御決議を以て在任中之微労ニ対し却而過分の賛揚を賜ハりたる御書状被下、且紀念品として軍艦形置時計壱個並ニ銀製花瓶壱対御寄贈ニ預り候段、深く感銘致し難有受納仕候上家宝として永久相伝可申候、玆に書面を以て謹みて感謝之意を表し候 敬具
  明治四十四年一月廿八日
                      豊川良平
  東京交換所
   委員
    男爵 渋沢栄一殿
   委員
       池田謙三殿

会議録 第二号 従明治卅六年一月至同四十四年十一月(DK510034k-0007)
第51巻 p.149-150 ページ画像

会議録 第二号 従明治卅六年一月至同四十四年十一月 (東京手形交換所所蔵)
    第百五十二回定式集会録事
明治四十四年三月六日午後五時ヨリ東京交換所組合銀行第百五十二回
 - 第51巻 p.150 -ページ画像 
定式集会ヲ開キ、来会シタル銀行二十六行ニシテ其出席会員モ亦二十六名ナリ、委員長池田謙三氏会長席ニ着キ開会○中略
一渋沢男爵ヘ紀念品贈呈ノ件
池田会長ヨリ渋沢男爵当交換所委員辞任ニ付、豊川氏ノ例ニ依リ相当ノ紀念品ヲ贈呈スヘキ件ヲ諮リタルニ、満場一致ヲ以テ之ヲ賛成シ、特ニ同君ハ創立以来多年ノ功労アレハ可成鄭重ナル物品ヲ択ミ之ヲ贈呈センコトヲ希望シ、而シテ其選定ハ委員ニ一任スヘキコトニ決セリ
○下略


交換所委員廻議 第拾弐号 (明治四十三年同四十四年)(DK510034k-0008)
第51巻 p.150-151 ページ画像

交換所委員廻議 第拾弐号 (明治四十三年同四十四年) (東京手形交換所所蔵)
明治四十四年十二月三十一日    東京交換所監事(印)
 委員長(印)
 委員(印)(印)
    別途支出ノ件
一金九百弐拾五円也
  前委員渋沢男爵ヘ紀念トシテ東西二十四家画状出来上リ一式ノ代価別紙ノ通
右ハ差向経費残高不足ニ付経常積立金ノ内ヲ以テ支払致度、此段御承認可被下候
(別紙一)
      記
一金七百弐拾五円也  東西二十四大画家揮毫
              大画状御引受金
      内
  金八拾円也大画状仕立料及箱代
 差引金六百四拾五円也
   外ニ
   金七拾弐円也   画家画料増金
   金弐百八円也   画状仕立及箱代
    此内訳
    金百七円也    中奉書外鳥子紙張画状仕立代
    金拾九円拾銭   画状用二丁杼絹代
    金弐拾六円九拾銭 同用表紙極上金欄代
    金拾七円五拾銭  同内箱代
    金四円五拾銭   同内箱用銀製金具代
    金拾六円五拾銭  外箱木地塗料共
    金五円      鳴鶴筆題字潤筆料
    金五円      右蒔絵料
    金六円五拾銭   羽二重製服紗及紐代
 通計金九百弐拾五円也
 右之通リニ御座候也
  明治四十四年十二月三十日 美術店 生秀館
    銀行集会所
         御中
 - 第51巻 p.151 -ページ画像 
(別紙二)
収入印紙    領収証
一金九百弐拾五円也 東西二十四大画家揮毫
          大画帖日月二冊帙入壱個
          別紙請求書ノ通リ
右之通リ正ニ領収仕候也
  明治四十四年十二月三十一日
                  美術店 生秀館
    東京交換所
         御中


(池田謙三)書翰 渋沢栄一宛 明治四四年一二月三〇日(DK510034k-0009)
第51巻 p.151 ページ画像

(池田謙三)書翰 渋沢栄一宛 明治四四年一二月三〇日
                    (渋沢子爵家所蔵)
謹啓 時下冱寒之候倍々御清適欣慰之至ニ御坐候、陳者閣下去ル明治二十年東京交換所創立已来其委員及委員長トシテ御就任相成、爾後毎回ノ改撰ニ再撰セラレ二十有四年鋭意本務ニ御尽瘁被下、事業漸次発展シ今日ノ盛運ニ趣キ候所、明治四十四年一月ノ改撰期ニ際シ其候補者タルコトヲ御辞退相成シ事ハ組合銀行ノ深ク遺憾トスル所ニ御坐候依テ玆ニ総会ノ決議ヲ以テ感謝之意ヲ表シ、紀念トシテ東西二十四大家揮毫ノ画帖壱帙贈呈致シ候、御受納被下候半ハ本懐ノ至ニ御坐候
                           敬具
                   東京交換所
                    委員長
  明治四十四年              池田謙三
    十二月卅日
    男爵 渋沢栄一殿


渋沢栄一書翰控 池田謙三宛 (明治四四年)一二月三〇日(DK510034k-0010)
第51巻 p.151 ページ画像

渋沢栄一書翰控 池田謙三宛 (明治四四年)一二月三〇日
                    (渋沢子爵家所蔵)
華翰拝読 益御清穆抃賀之至ニ候、然ハ今般小生東京交換所委員辞任いたし候ニ付従来之微功存録せられ御心入之紀念品御恵贈被下忝奉存候、昨日御品拝受之上一覧仕候処、東西諸名家之手腕一画帖中ニ光輝を競ひ候観有之、恰も春風二十四番之花一度ニ相開候心地いたし別て興味ある事と感謝仕候、尚拝眉御礼可申上候得共、不取敢御答如此御坐候 匆々敬具
  十二月卅日
                      渋沢栄一
    池田謙三様
         拝復
   ○右ト同文前掲「交換所委員廻議第拾弐号」ニ収ム。



〔参考〕明治商工史 渋沢栄一撰 第一〇四―一〇五頁明治四四年三月刊(DK510034k-0011)
第51巻 p.151-152 ページ画像

明治商工史 渋沢栄一撰 第一〇四―一〇五頁明治四四年三月刊
    第五章 経済機関の起源
 - 第51巻 p.152 -ページ画像 
                    男爵 渋沢栄一
○上略
      二 手形交換所
 手形の研究 凡そ手形に関する智識を広め、且つ商家並に銀行をして之を取扱はしむることは極めて必要なるを以て、択善会設立以来、屡々之が設立を試みんと欲したりしも、商家は皆現金取引の旧習を墨守して手形取引の効用を知るもの殆んど絶無なるに加へて、銀行の之を取扱ふこと亦大に困難なるものあり、依て明治十二年頃なりしと覚ふ、当時大蔵省の重なる役人として、又学者として有名なる田尻稲次郎氏に依嘱して、銀行集会所に来り此手形に関する講義を聞くことゝなし、又経済雑誌を発行したる田口卯吉氏は其紙上に於て銀行の取引をして今少しく実用的に発達せしめざるべからざる旨を論じたるが、予輩も疾く之を感知したることなれば両々相俟ちて手形に関する智識の普及に努力したり、予の如き亦之に関する演説を試みたること其幾回なるを知らず、且つ印刷物を配布して銀行者若くは銀行と取引関係ある人士をして相当の智識を得せしむることに努めたり。
 東京交換所沿革 明治十一年頃銀行集会所即ち択善会なるものを設立したるが、銀行業者は既に手形交換の必要を認め速かに之が実行を期したるも不幸にして手形の交換は未だ広まらず、其後明治十六・七年来、多少其の取引の道行はるゝに至りたるを以て明治二十年紐育手形交換所の規程を参酌して手形交換所を設立することゝせり、予は其創立委員に推選せられ、同十二月始めて東京手形交換所を設立したり
交換所既に設立したるも意の如く拡張せざるを以て、二十四年に至り再び其組織を変更し、玉石混淆を避け能く之を陶汰する方策を講じたり、東京交換所の開始則ち是にして実に二十四年三月一日なり、予は其委員長に挙げられたるが、此改正に依り組織・方法共に其の宜しきを得、金融社会をして有益なる機関たるを知らしむるに至れり、予の手形交換所に尽力したるは此の改正当時に至る迄にして、爾来銀行業者は一致協力之が為めに尽すことゝなり、特に豊川良平・池田謙三の両氏を以て其の最とすべし、予は既に十年以来相談相手たるに止まり手形に就ては主として豊川氏之に任ぜり、今日に至りては手形交換の拡張発達頗る盛大を極め、五十億又は七十億の交換高を見るに至れるも時勢の進運の然らしむる所と云はざるべからず。