デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

2部 実業・経済

1章 金融
2節 手形
1款 東京手形交換所
■綱文

第51巻 p.157-164(DK510038k) ページ画像

大正5年1月18日(1916年)

是日栄一、銀行倶楽部ニ催サレタル、当交換所組合銀行新年宴会ニ出席シテ演説ヲナス。


■資料

銀行通信録 第六一巻第三六四号・第一一三頁大正五年二月 ○内国銀行要報 東京交換所新年宴会(DK510038k-0001)
第51巻 p.157-158 ページ画像

銀行通信録 第六一巻第三六四号・第一一三頁大正五年二月
 ○内国銀行要報
    ○東京交換所新年宴会
東京交換所にては一月十八日定時総会閉会後、同日午後六時より銀行倶楽部に於て新年宴会を催し、来賓水町日本銀行副総裁及渋沢男爵の臨席あり(三島日本銀行総裁・木村理事・深井営業局長及豊川良平氏は差支欠席)晩餐後池田委員長の挨拶に続いて水町副総裁及渋沢男の演説あり、一同歓を罄して午後九時散会せり、当日池田委員長及水町
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副総裁の演説左の如し(渋沢男の演説は追て掲載する所あるべし)
    池田委員長の挨拶
 今夕は例に依り手形交換所新年宴会を開くに当りまして、水町日本銀行副総裁並に今回米国旅行を終へて無事御帰朝になりました渋沢男爵の御尊臨を得ましたことは、会員一同の深く喜ぶ所でございます。玆に一同に代りまして御礼を申上げます
 昨年は御承知の通欧洲の戦乱より致しまして我商工業に非常なる影響を及ぼし、又未曾有の現象を現はした次第でありまして、それが為めに一般の経済界に影響を及ぼしましたことも少なからぬのであります。当交換所に於きましても、経済調査会を設け、内外各方面に交渉を致しまして、それそれ調査をし、又海外からして帰朝された諸君の実見談も承つて居る次第でありますが、何分にも区域広く且重大なる事柄でありまして、充分未だ其調査は完了致しませぬ。調査の較々完了に至りましたものは順次印刷に附して諸方に配布を致して居る次第であります
 又交換所の成績に致しましても、或は此戦乱の為めに貿易は一時大に減退する傾もありましたので、或は昨年の交換高の如きは、大に減じはしないかと云ふ最初は考でありましたが、予想に反しまして昨年は一昨年に比較しまして約七億円ばかりも増加したと云ふ次第であります。就きましては今年は如何でありませうか。又経済界並に吾々金融業者に取りまして、今年の状況が如何であらうかと云ふことが第一吾々の懸念する所でありますが、其如何はやはり戦争の如何に依ることで、其戦争如何と云ふことは、今日予め測り知ることの出来ないことではありますが、仮に今年中も尚片付かないことがありと見ますれば、今日の現状に照して又昨年の如く輸出の超過と云ふ結果が起ることもありはしまいか。若しもあつたとするならば、一般の商工業は勿論、吾々金融業者に取つて大に攻究すべき事柄であらうと考へるのであります
 戦争以来中央銀行に於かれましては、特に種々御苦心御研究になつた事も少なからぬことであらうと考へます。若しも其御薀蓄又吾々の注意すべき事柄をお示し下さることが出来ますれば此上もない仕合せと考へるのであります
 又渋沢男爵に対しましては、先づ以て御無事御帰朝を祝し上げ、又同男爵が壮者を凌ぐ勇気を以て御渡米になりまして、各所に於て歓迎せられ、又各所に於て日米親善の為めに御尽力を下すつたと云ふことは独り吾々が感謝をするのみならず、国民挙つて大に感謝すべき事柄であると思ひます。此機会に於きまして吾々は厚く感謝の意を表する次第であります、重ねて玆に御多用中御繰合せ御出席下さいましたことに対し厚く御礼を申上げ、盃を挙げて来賓閣下の御健康を祝します(起立乾盃)
    水町日本銀行副総裁の演説○略ス


竜門雑誌 第三三三号・第八四頁大正五年二月 ○東京手形交換所新年宴会(DK510038k-0002)
第51巻 p.158-159 ページ画像

竜門雑誌 第三三三号・第八四頁大正五年二月
○東京手形交換所新年宴会 東京手形交換所にては一月十八日午後五
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時半より銀行集会所に於て新年宴会を催せり。当夜の来賓は青淵先生・豊川良平・水町日銀副総裁・深井営業局長等にして食後委員長池田謙三氏の挨拶あり。次で水町副総裁は昨年以来経済界の推移に関し其所見を開陳し、最後に青淵先生には渡米所感の一節、即ち米国銀行聯合準備制度に関する問答其他重要の顛末を詳述せられ、右終りて午後九時頃散会せる由。


竜門雑誌 第三三六号・第四三―五〇頁大正五年五月 ○米国の経済事情 青淵先生(DK510038k-0003)
第51巻 p.159-164 ページ画像

竜門雑誌 第三三六号・第四三―五〇頁大正五年五月
    ○米国の経済事情
                      青淵先生
 本篇は本年一月十八日東京手形交換所晩餐会に於ける青淵先生の演説なりとす(編者識)
 当交換所の新年宴会に、恰も米国旅行から帰りました為めに、特にお招を頂戴致したことは、寔に愉快に感じますのでございます。
 交換所の会は年々にあることで、而して年と共に進歩します。一昨年来の欧羅巴の戦乱は吾々経済界に大なる影響を与へて一時は頗る憂苦しましたのは、諸君も御同感であつたと思ひます。併し其憂苦は何時までも継続せず、昨年から事態が大に変化しつゝあるやうに思はれます。此点に付ては只今委員長からお申述になり、又是等の既往将来に就て当交換所の最も信頼する日本銀行に於ては如何にお考慮なさるるか、吾々は成べく其御説を聞かむことを望むと云ふ企望に対し、水町君から御懇切なる御演説は吾々拝聴して其当を得たるものと感佩致します。蓋し今日の場合は鬱積したものが大に発展しかけたやうに見えます、故に悪くすると、此景況は却て誉め損ふやうになりはせぬかと、既往の経験に照して杞憂を抱くのであります。世の中の事は必ず歴史は繰返すとばかり申されませぬから、或は変つた状態が生ずるかも知れぬけれども、寒去り暑来ると云ふ数理を考へると、やはり歴史は繰返すと思ふても宜いのである。例へば染料会社の株の申込が八百倍になつたと云ふことは、明治三十八年に南満鉄道株の申込が千倍になつたと同じ道を辿るのではなからうか。水町君の注意的なる御演説は蓋し其辺にあらうと思ふのでございます。是等の点に対して愚見を呈せば色々ありませうと思ひますが、既に委員長からも水町君からもお述になりましたから、私の蛇足は見合せまして、毎年に交換高も進み、金融市場の発達するのは寔にお芽出たいことゝ、此新年の宴会を祝しまして、私は別に昨年の旅行に就て亜米利加の経済事情を或は皮相の見たるを免れませぬけれども、出立の際にも諸君の御送別を戴きましたから、仮令短い時日に於て米国の表面のみを一覧したにもせよ凡そ斯く観察したと云ふことを陳上するのは、素よりお土産と云ふ程の価値はないにせよ、私の責任として此お芽出たい席に一言申述べることに致さうと思ひます。
 旅行の時日が短いのと、紐育は僅々五日間しか居りませぬ。尤も其途中市俄古に二日、ボストンに一日、費府にも一日、桑港には十日間居りましたが米国の金融及商工業の趨勢を仮令飛沫にもせよ一通り見て参つたのでございます。紐育滞在の五日間には銀行家商工業家又は
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政治家にも会見致しましたが、亜米利加の今日は欧羅巴の戦乱が殆ど亜米利加の富を増すが為めに致して居るが如く見受けられる。私は亜米利加の人に向つて諸君は内心では必ず此戦乱の長く継続することを祈らるゝかも知れぬが、如何に自国の富を増すからと云ふても、世界が斯の如き修羅道に相成つて居ることを喜ぶ程の利己の国民ではあるまいと思ふから、やはり米国人も平和を希望するであらうと云ふ悪口を申しましたが、さう云ふても宜い位に見えるのであります。鉄材の売れ行、穀物の捌け方、其他百般の事物が総ての方面に於て亜米利加に仕合せを与へて居ると云ふても決して過言でないやうでございます種々なることを取摘んで申上げても切々になりますから、御同業者の集会でもありますから私が一見して先づ斯うかと思ふた亜米利加の銀行制度の改正即ち近頃制定されたる「ヒデラル・レゼルヴ・バンク」の有様に付て極く表面の観察を玆に申述べて見やうと思ひます。
 昨年出発に際して横浜正金銀行の井上君は、私の旅行中出来得る時間に於て、研究して見るが宜からうと云ふて、聯合準備銀行の制度に関する細かい書類、謂はゞ一冊の案内書の如きものを送られた、且私の必要と思ふ時には紐育の同行支店は充分助力しやうと言はれた、又大蔵次官に面会しましたときに、経済上金融上の事は勿論此聯合準備銀行の実況は出来得るだけ調査して来て欲しいと云ふ注文をも受けましたけれども、前に申しました通り、時日も少いし実に通訳に依つて事物を調査すると云ふことは其要領を得兼るものであるからお受は申上げ兼ますけれども、出来るだけ調べて見ませうと答へて置きました併し幸ひ正金銀行の指南書を持参致したに就て先づ船中で熟読致し、条例の条章と比較研究して、色々意見を加へて参りました。桑港にも準備銀行が設立されて居つたのでございますが、是はまだ研究する程の力がないと申す事であつた。準備銀行の設立は十二箇所に分つてある其の場所を尽く記憶しませぬが、先づ紐育、市俄古、ボストン、費府、桑港、ミネヤポリス、ダルス、カンサスシチー、ボルチモール、セントルイス、尚ほ二箇所を思出せませぬ、而して此十二の外に中央局が華盛頓の大蔵省の中に一部局として据えられてあつて、此所は銀行実務を執るのではない。十二の銀行に対して命令を発する一の中央局である。例せば船長が船を彼方へ向けろ、此方へ開けと云ふが如き職務を執る重要の場所である。元来亜米利加の国立銀行と云ふものは千八百六十年に出来まして、不換紙幣を兌換にする為め制度を作つたもので、公債証書を政府に納めて銀行紙幣を受取りて営業する方法で日本の国立銀行も全然之に傚つて出来たのであります。其時は日本にも中央銀行はなかつた。国立銀行条例は明治五年に発布されて、六年に第一銀行を創立しましたが、九年から十一年頃迄に段々発達して百五十六まで出来ました、其頃は松方老侯が大蔵卿であつて、どうしても亜米利加の制度を其儘に置くことは金融の統一上面白くない。是非中央銀行がなくてはいかぬと云ふので、明治十五年に日本銀行が創立されたのであります。而して各国立銀行の発行紙幣を整理する方法は其翌十六年決定した故に、日本では銀行の開始より十年目に中央銀行制度が制定されたから、未だ其根差の若かりし代りに、移植が都合好
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くいつたのである。然るに亜米利加は之に反して国立銀行の営業年月の長いのみならず、国風として痛く中央集権を嫌ふよりして、屡々金融上の不統一なる為め不都合を惹起し逼迫を来すにも拘らず、幾度論じても中央銀行が出来ない。明治四十二年に私が渡米実業団の団長として渡航した時にも、市俄古市に於て同地の銀行者が会同して私を歓迎され、其午餐会の席に於て私は少しく揶揄の意味にて、日本の銀行は亜米利加の制度から伝習したが、弟子なる日本にては今日は中央銀行制度を取つて居る。師たる米国は未だ其方法を採用せぬのは蓋し弟子の過誤にして中央制度ならざるのが宜いのかも知れぬ。といふ演説をしましたら、来会の各銀行者は異口同音にそれは大違ひである、悪いと信じても亜米利加では改正が出来ぬので困つて居ると言はれたことがあります。爾来中央制度の説が進んで、遂に一昨年共和党政府のとき其案が提出され、民主党政府となつて種々研究の末に、今日の聯合準備銀行と云ふものが成立したといふことである。要するに統一は欲するも中央集権は嫌ふ処から合の子のやうな制度が出来て、之を中央局が支配し依て以て統一的金融の緩和を図ると云ふ仕組のやうでございます。数字の詳細は記憶しませぬが、亜米利加の国立銀行の預金に対する準備金は二割五分と定めてあるのを一割六分に減じ、其他にも何か軽減するものがあつたと思ひますが、聯合準備銀行の株主は主として各国立銀行である、而して国立銀行は預金準備の軽減されたのを悉く準備銀行に預金とし、準備銀行は又其資本高により払込まれた資本と、前にいふ各国立銀行からの預金との此二つを以て営業をするのであるから恰も一種の特殊銀行が出来たやうなものである。而して其取引の区域は各国立銀行を主とするけれども、一般に向つても自由に取引するのである、大体の仕組が前に述べた通りで、未だ創立の日浅き為めに、各地の準備銀行の共に充分に発達をして居らぬからどれ程の範囲に取引されて居ると云ふことは審かに承知しませぬが、準備銀行の受け入れた預金の高が幾許で貸出金が何程と云ふことは横浜正金銀行に於て昨年九月頃の数字は取調になつて居つて、これに依りて見ても預金の高は大きいが、取引の分量は極く少い様でありました。私は市俄古に於て第一国立銀行を訪問して、尤も前年参つたとき其頭取に面会して識合になつて居りましたから、今の準備銀行の市俄古に於ける現況を承つて見ました。私はそれに就て二・三の疑問を質しました、但し此事は紐育に於て承つて見やうとも思ひましたが、却て市俄古の直接経営をせぬ人で、聯合準備銀行の新組織を傍観して居る人に聴いた方が事実が明瞭になるかと思ひまして、第一国立銀行の副頭取アノルドと云ふ人が実務に精通して居るから此人に就て廉々の質問をして見たのであります。其質問は三項であつて、第一は十二の準備銀行が出来たのは中央制度を行ふと云ふ趣意のやうであるけれども、併し十二の銀行は全く境域を異にして居るから、華盛頓に中央局があつて之を指揮監督すると云へば制度上からは出来るやうに見えるとも若し其地方が大に金融逼迫とか又は恐慌とか云ふ場合になつた時には中央の命令が果して各地に敏活に通じて、各地の銀行が皆己を棄てゝ一致の態度を取り得るものであらうか、要するに十二はやはり十二で
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あつて一ではない、一と十二とは、十二と一と違ふほど違ひはせぬかさすれば中央と云ふ名はあつても実はなくなりはせぬかと恐れると云ふことを問ひました。然るにアノルド氏は答へて、中央局の人々は此制度で満足だと云ふけれども、未だ行けるか行けないか事実に際会して見ぬから確言は出来ぬ、併し私は貴下の懸念する如く思うて居る。詰り之を統一するには如何に中央集権を亜米利加の政治家が嫌うても是非一銀行に修正せざれば真正なる統一は為し得られまいと思ふ。十二の銀行は皆別々の一個人であるから事実の働きの違ふことは論を俟たぬのであると云うて居りました。それから私の第二問は此十二の銀行が中央局の命令に依つて、一方の金融が不足するときには他方から補足し、一方に剰余あるときは他方から需用するものとして、総て中央局の指図に依つて有無を相通ずるやうに制度の中に定めてあるが、是等は若し中央局の指図が其当を失すると其十二銀行の間に大争論を生ずる恐れがありはしないか、詰り不用のものを受取り必要のものを遣らなければならぬと云ふ不都合を生じて、十二の銀行が互に軋轢扞格を生ずるやうになりはせぬか、此疑問に対してもアノルド氏は必無とは期し難い、或は生じ易い事と思ふと私の懸念する如く同氏も懸念すると答へられました。それから第三問は此十二の準備銀行は六分の利息を株主に配当して、それ以上の利益は政府に収入する制度であるから、所謂半官半民の経営に属するのである。而して重役の選任は政府である故に銀行の資本は国立銀行が主であつて、其事務を担当する人は政府の人選であるから其営業に国立銀行、即ち株主と相争ふやうな有様が生ぜざるを得ぬと思ふ。試に金融緩慢の時といふとも準備銀行は其預金に二歩の利息を払ふことになつて居るから唯々金を保管して利足を払ふ訳にいかぬ、勢ひ其金を貸したいと思ふことになる、殊に一般の取引を許されてあるから、国立銀行の得意に向つて競争することになる、是に於て国立銀行は自分の預けた資金に依つて競争を受けると云ふやうな傾向を生じて来はしないか。此質問に対してはアノルド氏は今日現に大迷惑を蒙つて居る。市俄古市に創立せる準備銀行が頻に国立銀行の妨げをしてならぬのである。此点は目下吾々の苦痛を感ずる所だと申して居りました。私がさう思うて聴いた為めに先方の答も強く響いたのか分りませぬが、兎に角もう少し実際に立入つて審かに聴かなければ確とした事は別りませぬが、此準備銀行と云ふものが、果して亜米利加の金融を統一し得るかと云ふことは、疑問に属すると言はねばならぬやうでございます。市俄古の談話は夫れ位で、紐育に着してから同地の準備銀行の総裁たるストロングと云ふ人を訪問して市俄古に於る疑問を繰返しました。併し此ストロング氏は市俄古のアノルド氏の如くには言ひませぬ、氏の言ふ処は準備銀行は創立の日も浅いから色々と苦情を云ふ人もあるけれども――それはお互に譲合はなければならぬ、さう議論ばかりで行けるものではない。多少の面倒は起るべきも其処は中央局と云ふものがあるから、必ずしも故障が除き得られぬとは思はぬと答へましたが、私が思ふには此ストロング氏は新任せられたばかりの人であるから、其制度に重きを置かれ事物を楽観して居らるゝが、遣つて見たら真に一体の働きを為し得ら
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るゝか、併し此上余りに立入つて質問するのも宜くございませぬから他の話に移りて準備銀行の質問は止めました
華盛頓に於てブライアンと云ふ曾て大使として日本に駐在した人の午餐会で、米国の大蔵大臣も同席で少く準備銀行談を試みて見ましたが午餐会で長い談話も出来ませなんだ、大蔵大臣はもしも私が企望するなら、中央局の総裁に紹介するといふて頻りに勧誘せられましたけれども、其夜の汽車で華盛頓を出立する筈であつて時間のない為めに、中央局の総裁には面会しませなんだ。聯合準備銀行の制度及其営業の現状は前に申し述べた通であつて、私の皮相の観察は是で止めて置きます。尚此事に就て日本銀行若くは横浜正金銀行に種々実際のお調もありましやうから追々に御了解になる点もあらうと思ひます。更に一つお話をして置きたいのは、前にも申す如く欧羅巴の戦争から、大に亜米利加の富を増すに就て同国の商工業の勢力が各方面に発展すると云ふことである、既に紐育の「ナシヨナル・シチー・バンク」の総裁ヴヮンデリップと云ふ人が中心となつて「セントル・ナシヨナル・コルポレーシヨン」と称する一大会社を造られた。其資本額は五千万弗である。是は一昨年日本に於て設立した中日実業会社のやうな性質のもので鉱山でも鉄道でも工業でも銀行でも何でもやると云ふ仕組である。而して其発展の方面は南米と東洋であつて、東洋と云ふのは即ち支那であります。実に怒濤の如き勢を以て支那に向つて進発して来ると見えます。私は之に就て大に将来を懸念しましたから、紐育に到着する前から支那に対する商工業には亜米利加人と日本人とは宜しく共に注意して、競争にならぬやうに心懸けねばならぬといふことを論じた。是は両国の実業界に実権を有する人々の大に注意すべき事と思ふ日本に於ては自分も努めて我同業者に忠告しやうと思ふと云ふことを先づボストン市にてエリオツト博士に話して、夫れから紐育に行つて前の大統領ルーズヴエルト氏を始めとし其他二・三の人にも私の意見を披瀝した、前に述べたヴヮンデリップと云ふ人は其会社の中心に立つとの事であるから、一日同氏の宅で午餐会を催して私を饗応して呉れた時に、私は切実に其事を述べまして彼れも私の言ふことを道理と認めたやうであつた、併ながら其談話の続きに彼の云ふには、日本は目下支那に対して甚だ不評判である、直言すると嫌はれて居る。故に米国で日本と提携すると支那で仕事をするに付て不利益になりはせぬかと云ふ説が吾々の仲間にもある、是等の点は御互に能く攻究して双方誤解のないやうにしたいものであると斯様な意味を以て答へられました。依て私は大に其説を弁駁して支那人が左様に云ふかも知れぬが其言を信じて支那人を遇すると大なる間違の基となる、是は余程お考なさらぬといかぬ。支那人の他に対するのは多くは同様にて、日本に向つても同じ事を云ふ。それを軽信して両国の実業家が卒爾に手を伸すと終に相方の間に誤解が生ずる、第一に亜米利加人に注意して貰ひたいのは其点である、而して日本にても是は大に用心しますと云ふことを呉々談話致しましたが、ヴヮンデリップ氏は是非当春東洋に旅行して見たいと云ひましたから、私は一遊を企望すると云ふて切に勧誘して置きました。御会同の諸君は御同様金融に従事する者で、商工の
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実務に着手するのではございませぬけれども、将来支那に向つて亜米利加の商工業者が潮の寄せるが如き勢で来られると、必ず衝突が起ると思ひます、故に私の亜米利加に論弁しましたのも必ずしも杞憂とのみ見るべきことではなからうと思ひます。支那関係の人々は能く此点に注意して、敢て他に譲れといふではないけれども、加州に於ける紛議が減ずると又東洋にて飛んだ面倒が起つて為めに日米の不親善が湧出するは真に好しからぬことでございますから、我も用心しなければなりませぬが彼にも注意を促したのでございます。総じて亜米利加の国情全体を観察すると壮快なる事もあり敬服すべき事もあり面白いこともあり羨むべきこともあるが、其間或は厭ふべき事、同意の出来ぬ事もある、単に桑港の博覧会を見ましてもお話すべき事柄が数々あると思ひますが、余り長くなりますから今日は聯合準備銀行の事と、東洋に於ける発展の為めに衝突を避くる事は注意すべき点と思ふて諸君の御参考に供する為め愚見の大要を述べたのでございます(拍手)


中外商業新報 第一〇六八九号大正五年一月一九日 ○交換所新年会 渋沢・水町両氏演説(DK510038k-0004)
第51巻 p.164 ページ画像

中外商業新報 第一〇六八九号大正五年一月一九日
    ○交換所新年会
      渋沢・水町両氏演説
東京交換所は別項総会終了後、銀行集会所に新年祝賀晩餐会を開き、三島日銀総裁(欠)・水町同副総裁・木村同理事(欠)・深井同営業局長(欠)・渋沢男・豊川良平(欠)の諸氏を招待す、食後池田委員長簡単に挨拶を述べ、次いで水町副総裁大要左の如く演説す
 昨年一月諸君の招待を辱ふせし際、聊か欧洲戦乱中の我経済界の将来に関し卑見を陳じ置きたるが、幸にも此言の如く其後経済界は漸次好調に向ひ、我が国民の屈伸自在にして且反撥力を有するを裏書せり、其顕著なる事例を挙ぐれば、正貨の激増、輸出の好況、交換高の増進等明かに之を証明し、本年の経済界を昨年に比すれば其差霄壌も啻ならず、而して輸出の好況の如き単に一時的現象に止まらず、国民の注意及奮発如何に依り、之を持続せしめ得るもの少なからざるなり、特に吾々金融業者は斯る機運に際し最も熟考を要すべし、而して昨今金融界は資金の横溢に苦むの感を呈し、之を如何に処分すべきやは当面の急務となり、又事業界も大に活気附き新事業の計画又前年の比に非ず、同時に従来外国に仰ぎたる物資を内地に於て製造する傾向をも発生せり、即ち我が経済界は今や一大変化を生ずべき状態にあり、此機運に乗じ一面に積極的に産業の発展を助成すると共に、他面に相戒めて慎重の注意を払ひ、益々財界の異彩を放つに至らんことを望む云々
次ぎに渋沢男は渡米談として、聯邦準備制度に関する概要を述べ、次いで戦時米国の富力が非常に増進すると共に、海外発展の気勢益々昂まりつゝあり、就中ナシヨナル・バンクが資本金五千万弗を以て、南米及東洋方面に於る金融上の発展を計画せるは、我国金融業者の大に注意すべき事なりと述べ、又対支貿易に関しては日米両国が互ひに提携の必要ありと信じ、彼地に於ては極力日米両国民の思想上の融和に努めたりと述べ、盛会裡に九時散会せり