デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

2部 実業・経済

2章 交通・通信
2節 陸運
7款 鉄道関係諸資料 5. 鉄道建設ニ関スル栄一ノ意見
■綱文

第51巻 p.546-552(DK510117k) ページ画像

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■資料

運輸日報 大正一〇年一〇月一四日 交通機関整備の急要と鉄道建設の積極政策 今昔の感に堪へざる五十年前の回顧 此盛典を記し将来の大策を樹立せよ 子爵渋沢栄一(DK510117k-0001)
第51巻 p.546-552 ページ画像

運輸日報 大正一〇年一〇月一四日
    交通機関整備の急要と
      鉄道建設の積極政策
        今昔の感に堪へざる五十年前の回顧
        此盛典を記し将来の大策を樹立せよ
                    子爵 渋沢栄一
 我国に於て初めて京浜間に鉄道の開通を実現して以来玆に五十年の歳月を閲して、此間我が国運の進歩発達の過程頗る急速なるものあり等しく内外驚異の裡に五十年の一大盛典を挙げらるゝは誠に聖代の慶幸事である、殊に当時鉄道計画の一端に参画し来り、物議騒然たる間に在りて臥薪嘗胆の苦を辛さに喫しつゝ、紛々擾々たる俗論を排除して、鉄道建設の大業に一意邁進した余としては
    一夢茫々五十年の往昔
を懐古すれば、感慨無量の情転た禁じ能はざるものがある、抑明治維新の宏謨成りて泰西の文物一時に輸入せらるゝや、鉄道敷設の急務を説くもの日に盛になり来つたのは当然である、況んや欧洲各国を歴遊して帰朝したる所謂新知識の連中は、親しく泰西の文物に接して其進歩発達に寧ろ驚愕して、交通運輸の利便を計るには職として鉄道に由らなければならぬ、鉄道の敷設は一日の急を争ふの要ありと説いたのである、而して太政官にても夙に其必要を認めてゐたので、内意を大隈大蔵大輔・伊藤大蔵少輔に下して
    鉄道建設に関する調査
研究を命じたのである、当時余は大隈大蔵大輔の配下に一属吏として勤務してゐたのであるが、大隈・伊藤の意嚮は最も積極的の鉄道論者であり首唱者であるから、進んで其命を奉じて着々として研究調査の歩を進め、既に東京横浜間、大阪兵庫間、琵琶湖より敦賀間の三線を予定して、先づ京浜間に敷設すべしと具申して、廟議亦之に決したのであつたけれども、之を敷設せんとするには莫大な経費を要するものである、当時は維新の大変革に逢つて、国帑の失費が多大なるものがあり
    財政窮乏の極に達して
ゐたので、国費を以て敷設する事は至難の業たらざるを得なかつたのである、随つて考究の結果として、之を横浜の商人に敷設経営せしむべしとの案を立て、種々勧説に努めたのであるが、未だ文明の何物たるを解せず、加ふるに未知未見の破天荒な新事業であるから、誰一人として応ずるもの無き状態であつた、政府は玆に大に当惑の色をなし
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て居た折柄、英国人にネルソンレーと云ふ人があつて、レーは専ら公債の仲買のやうな営業をしてゐたのであるが、此のレーが英国公使のサー
    パークス氏を説服して
京浜間鉄道敷設の資金調達に関しては種々と献策する処があつたのである、パークス公使は曩に大隈・伊藤等に説いて鉄道敷設の急務を力説した責任上、政府の鉄道資金に困窮してゐるのを無関心で居る訳には行かなかつた、即ち英国の銀行でオリエンタルバンクの支店が横浜に在つて、支店長にロベルトソンといふ人があり
    是等の英人協議を遂げ
た結果として、オリエンタルバンクが条件の如何に依つては資本を貸与してもいゝと言ふ意向ありといふ事を聞知した政府は、大に雲霓を得たるが如き歓びであり、且ロベルトソン氏は財政家として知られ、金融上に関して尽力する処尠からざるものがあつたので、大隈・伊藤の両氏も大に信頼して百万弗の資金を借受ける交渉を進め、無事契約をなしたのである、百万弗と云へば当時の我が貨幣に換算すると四百万許りに該当してゐたのであるが、即ち之が貸借の関係は、先方は之を公債法に依つて契約すべく主張したのである、処が大隈侯にしろ、伊藤公にしろ
    個人貸借で契約し得る
と信じてゐたものが、公債法に依らなければ貸与する事が出来ぬと主張して相持して下る処を知らぬと云ふ有様で、更に政府に於ても此の難関に困惑したのであつたけれども、如何に樽爼接衝懇に頼んでも頑として応ずるの色がなく、且一方には尚攘夷鎖国論を主張する者が余威を揮つてゐた際であるから、鉄道敷設にすら反対の声轟々たるものがあるに、かてゝ之が為に外資を仰いで日本政府が債務者の地位に立つと云ふことは、即ち国威を冒涜するものである、大隈・伊藤は売国奴であると云ふ
    論鋒鋭く反対の気勢を
挙げる、尚有識者の間にも大隈・伊藤は専断なりと唱ふるものなどあつて、物議囂然として真に鼎の沸くが如きものがあつた、玆に於て大隈・伊藤の両氏も、公債法に則る事は契約当初の成約になかつたのであるから大に抗議する処があり、遂に訴訟に及んだものである、其公訴の結果としては判然たる記憶はないが、当時に於ける両侯公が如何に難渋であり
    反対の俗論如何に猛烈
であつたかは略推察するに足ると思ふ、それには斯うした一挿話がある、即ち鉄道敷設反対の声が殆ど天下に充満してゐる際に、只一人谷暢卿と云ふ医者があつて、一日上申書を大隈大蔵大輔の下に送つて来た、上申書の内容は、交通運輸の便を計りて一世を文明に導くには鉄道敷設より急なるものはない、既に 明治陛下の下し給はりたる五ケ条の御誓文には何んとあるか、広く知識を世界に求めとある、御聖旨は即ち儼として玆に存するのである、然るに世の迂愚蒙昧の輩は此の大御心に悖りて
 - 第51巻 p.548 -ページ画像 
    徒らに短見浅慮の念に
駆られ乍ら、鉄道反対の愚挙を敢てするは慨嘆に堪へざるものである然も閣下の明識なる、万難を排撃して断乎鉄道敷設に邁進努力されつつあるは真に感謝に堪へない、願はくば一日も速かに鉄道を敷設して世を文明に導かれん事を切望するとの意味であつた、大隈侯は此の上申書を手にするや天下滔々として井の蛙大海を知らざる中に、谷の如きは実に千人に一人の活眼者である、世の先覚である、天下幸に知己ありとして大に歓んで余に語られた事があつた、それは確に明治三年頃で、以て当時の大勢を卜知する事が出来るであらう、斯くして
    大隈・伊藤の勇断に依て
愈京浜間鉄道敷設の起工に着手したのであるが、それには素より土工工事の必要がある、殊に其頃は神奈川から平沼の一円は浅い入江であつたから、之が埋立工事の必要を感じたのだが、是等の工事は大抵故人の高島嘉右衛門氏が進んで請負つて其衝に当り、其功労は没すべからざるものがあつた、勿論今から思へば、所謂「朝飯前の仕事」であるけれども、当時の未開の時代に於ては容易ならぬ難工事で、種々の困難に遭遇したものだ、斯様な訳で
    万難を排し漸くにして
明治五年竣工を見るに至つたのである、即ち今より丁度五十年前、明治大帝には親しく、玉駕を枉げさせられて、当時の新橋駅(今の汐留駅)に臨幸あり、外国使臣・文武百官扈従し奉り、プラツトホームの中央に玉座を設け、百官列座して玆に盛大な開通式を挙げ、優渥なる勅語を賜ふたのであつた、其当時は伊藤公は造幣局長に昇進して大阪に在り、大隈公は参議になられてゐて、大蔵大輔は井上馨侯之れを勤め、余も亦漸次地位の昇進を見て、当時は
    井上侯の下に参等出仕
の役に昇り、現在の次官の如き地位であつて陪席の光栄に浴し、日本最初の鉄道開通の模様を見て、転た文明の恩沢を讚へたのであつた、然るに当時の状況を追憶して最も印象の深いものは、外国使臣を初め文武高官の祝辞・祝詞に次で、東京商人総代の祝詞があつた事である斯の如きは日本に於ける新記録であり、一世一代の光栄であると云ふので、商人間にも種々の議論があつた結果、三井の主人が最も適当であると決したが、主人は固辞して受けなかつたので
    三井の一番々頭である
三野村利左衛門が祝詞を朗読したのであつた、過日も鉄道省の方から開通式当日の服装に就て種々の質問に接したが、当時に於ける宮中の儀式は総て衣冠束帯であつたが、開通式には区々たる服装などの厳達がなく、フロツクの礼装などもあつたと記憶すると答へた事であつた余は鉄道開通式の翌年、則ち明治六年に野に下つて銀行業者となり、現今まで終始し来つて居るが、明治八年に至つて漸く鉄道の利便なる事が民間にも熟知さるゝや
    鉄道熱が漸次頭を擡げ
んとする形勢となつた、則ち華族の間に於て其所有する秩禄公債乃至は財産を投じて、奥州に鉄道を敷設したいとの意向があり、余に詳細
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の相談があつたので、余は種々の調書及意見書を具申して鉄道敷設の急務を説き、而して内容を明示したのである、然るに岩倉具視公を始め有力なる華族間には、鉄道敷設よりも更に銀行の設立を以て急務なりと力説して各華族を説服したので、競ふて華族の出資があつて、明治九年に当時の俗称であつた華族銀行――現在の十五銀行――の設立を見たのである、之れが為めに余が
    微誠を捧げて献策した
奥州鉄道の議も、華族銀行に出資した関係上、華族の資力が乏しくなつて遂に遺憾ながら実現の域に達せずして沙汰止みとなつた。けれども鉄道熱は日に嵩じて来て、井上侯抔は、奥州鉄道の建設よりも寧ろ京浜線の払下げを受くるが得策なりとの意見であり、華族を説き、或は余に勧告する処があつたので、華族の意も稍動き、玆に九条公以下二十六華族を以て京浜線を三百万円で払下げを受け、七ケ年の年賦を以て
    上納すべき契約が締結
されたのである。之れ明治九年八月五日であり、余は真に寝食をも忘れて奔走したのであつた。然るに叙上の如くに華族銀行の設立の打撃が尚華族間に傷痍を残してゐて、資金の窮乏よりして之れ亦頓挫の止むなきに至つたのである。けれども期年ならずして国力の発展国富の増進と共に、十五銀行が中心となりて日本鉄道株式会社の設立を見たので、始めて我々の微誠も達した訳である。それから余は中央鉄道・北越鉄道・岩越線・参宮鉄道・京阪鉄道・九州鉄道・北海道鉄道等全国殆んどすべての鉄道に参劃し、或は之れが中心となり、或は補佐役となつて、交通機関発達の為めに微力を捧げて来たのであるが
    逐年驚異すべき発展を
呈したのは頗る快心に堪へざる処であつた。殊に朝鮮に於ける鉄道の創始者も、実は我々であり、文化の昂進と共に朝鮮にも是非鉄道敷設の要ありとして、研究調査の歩を進めつゝあつた折柄、日清戦役後、日本と朝鮮との間に暫定条約なるものが締結されて、条約中に鉄道敷設の権利をも明示してあるので、余は先づ京城より仁川間に鉄道建設の意図を抱き、当局に申請して既に許可を得た、けれども突として
    閔妃事変が起り俄かに
排日熱が昂つた為めに、朝鮮政府は之れを殊更にゼームス・アール・モールスと云ふ米国人に許可したので、種々の紛議が惹起されたが、遂に権利を奪取し得て、資本金二百五十万円とし同志十七・八名の合資的組織として三十一年に成立、三十三年に竣成を告げて朝鮮嚆矢の京仁線は斯うして無事開通するに至つたのである。更に京釜鉄道に於ては明治廿九年に敷設の申請をなし、三十一年に敷設許可に接し三十六年に竣工を見たのである。が其の
    苦心惨憺言語に絶する
ものがあつた、かくて漸く許可を見たけれども、日清戦後の財界変調の結果として、株式の応募は思ふに委せず、且つ露国の東方蚕食の勢ひが露骨になり来つて、我が朝野には恐露病に襲はるゝものがあり、井上馨侯の如きは恐露病者の第一人者として、露国の機嫌気褄を取る
 - 第51巻 p.550 -ページ画像 
べく尚到らざるを虞るの風があつたのである。此の天下の形勢を外にして敢て朝鮮に鉄道を敷設しやうとするので、政府当局では之れ我
    対露外交上の一大障害
なりとして、我々の企画に対して寧ろ阻止すべく努めても、何等の援助も便宜も与へて呉れなかつたものだ。即ち一方には財界の不況に依つて会社の経営意の如くならず、加ふるに政府の干渉に依りて事業遅遅として進まず、殊に肝癖な井上侯の如きは、特に余を膝下に呼んで「敢て露国の感触を害ふが如き、京釜鉄道の敷設速成を期するに至つては不届至極である」と云ふ意味で怒鳴り散らす有様で、京釜線の竣工は全く孤立無援の状態に在つて、万腔の苦汁を喫したのである。けれども一方露国の野望が日に赤裸々たらんとし、東亜の
    風雲将に暗澹たらんと
するや、余は固く京釜鉄道竣工の一日も速きは之れ帝国を裨益する事頗る大なるものであると信じてゐたので、百難に堪へて工事進捗に鋭意精励せしめてゐたのであつた。其の時、余は三十六年の盛夏八月の頃、下総の犬吠岬に暑を避けてゐた或る日、井上侯より日に三度の急電に接して、至急帰京する様との趣であるから、取りあへず直に帰京して井上侯(当時伯爵)に面語すると、井上侯は声も荒らげに「京釜鉄道の工事は何故に愚図々々してゐるのだ。何年迄掛つて竣成する積りだ」などと叱責されるので、余は内心では斯くあるべしとは思つてゐたが、表面色をなして、斯は
    井上伯にも有間敷言葉
を頂戴するものである。伯は曩に我々が京釜線竣工の為めに努力奔走しつゝあつた際、如何に仰せられたか、即ち露国の感情を害するが如き鉄道敷設は国家に対して有害無益だと詰責されたではないか、然るに今に至つて工事の遅延を難詰するとは余りと言へば余りの理不尽である。余は閣下には多大の恩顧を蒙つて居り、大抵の事は御無理御尤もと納諾しては居たが、斯の一条は余りの得手勝手の御詰責だと憤慨して詰ると、流石の井上侯も「さう怒つては困る。以前の事は以前の事で、実は政府としては一日も
    早く京釜線を竣工して
欲しいのだ。資金の不足で工事が遅延するのであれば、資金は政府が貸さう」との懇談であるから、玆に政府より資金の融通を受けて、火急工事を取急がせた結果として年末に竣工を告げ、斯くて日露戦役に際しては我が大軍の輸送に、聊か利便を附与して、国家に貢献するを得たのは、余の衷心愉快に堪えざるものゝ一である。それから京釜鉄道は一時古市公威博士が社長となつたが、三十九年に至つて斯の鉄道国有の議成つて、国家の
    鉄道政策に一大変化を
及ぼしたのである。素より鉄道国有問題は最も重大なりとして、朝野の間に喧しき議論となつたもので、余は当初より国有反対の議論を持して、終始国有論者と闘つたのである。即ち時の蔵相は阪谷芳郎男爵であり、余の女婿ではあるが、主義主張の為めには一切の情実を罷脱して鉄道国有の不合理なるを説破したのである。由来余は我国鉄道の
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初期時代より、鉄道建設資金は宜しく外資に仰ぐべしと云ふ意見を有してゐたのであつて、鉄道創始時代に於ては之れが益金は到底年一割を予想する能はざるものが通常である。然るに我国の金利は比較的に高利である関係上、低利なる鉄道に投資するものが勢ひ躊躇逡巡するの風あるは止むを得ないのである。玆に於て余は外資を仰ぐべしと唱導するものであり、当時に於ける外国資金に於ては、年六分の金利を以てすれば容易に投資する時代であつて、年五分利を以てしても尚且競ふて応ずるものゝある時代であつたのである。されど世の頑冥者流は外資に仰ぐと云ふ事は
    国家の体面を毀損する
ものであるとか、国運の発展に障害を来すものであるとかと云ふ固陋な意見に囚はれて、之に反対して敢て交通運輸機関の完備と、産業啓発の大眼目に想到するを知らなかつたのは、甚だ遺憾とするものである。而して一方に於ては鉄道抵当法を論じて政府当局に折衝を重ねた結果、漸く三十六年に至つて法律の発布を見たが、程なく鉄道国有の実現となつた為めに、之れが鉄道抵当法は画餅に帰して仕舞つたのである。斯くて
    日清戦役後長足の進歩
と発達を遂げた我が鉄道が、国有後果然遅滞敢て進捗せざるの傾きあるは、之れ何に起因する処であるか。惟ふに現下の地方鉄道の状態に鑑みても、政府は交通運輸上の要衝、又は利潤収益の目算ある線路は之れを敷設するけれども他は敢て顧みないので、地方辺陬の地は文化の恩沢に浴する事が出来ずに其の程度頗る低いものがあるのである。従つて有利なる線路は国家の手にて敷設せらるゝ以上、地方鉄道は今や驥足を伸ばすの余地なきは勿論、玆に新設して大規模なる計劃の下に地方産業の啓発
    交通運輸利便に資する
途絶えて実現せざるは固より其の処である。然も本年度歳出予算は十五億六千万円以上の尨大に上つて居るが、之れが大半の八億以上は、不生産的なる陸海軍備の為めに搾取せらるゝ現状であるに拘らず、国家産業の基調たるべき、最も生産的なる鉄道資金に幾程を支出して居るのであるか。斯の如くば真正なる国家の富を増進する事が出来ざるのみならず、国家文運の進歩をも遅緩ならしむるものであり、延ひて
    世界産業の舞台に立ち
列強と角逐する時を想像したならば、実に寒心に堪えざるものがあるのである。過日東北の某知事と面語するの機会を得たが、知事の談に依れば、「東北地方の農村の疲弊は甚だしきものがあるが、之を救済するの途は、只鉄道を敷設して埋蔵されつゝある饒多なる富源を開発し、地方産業の啓発に依るの他はないのであるが、今更子爵に御相談する事が出来ぬ」と語つたが、全く国富増進の根本は地方産業の啓発に俟たなければならぬ、地方産業啓発は
    交通機関整備に依つて
始めて庶幾し得るものである。玆に於て余は往年低利なる外資に依つて鉄道敷設資金たらしむべしと論じたものであつて、若し余の議論に
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聴従して居つたならば、鉄道の隆昌、産業の発達、文化の向上更に一段の光彩精焔を副へたであらうと確信するのである。然も之れ国運伸張の上に何んの暗影を投ずるものであるか。何の障碍を及ぼすものであるか、余は断じて
    斯かる憂なしと切言し
て憚らぬものである。尤も現下に於ける財界の状勢は之れを許さぬけれども、世の瞶者流が国運発展の上に禍する処多かつたのは甚だ遺憾である。然し、国運の進展は如何にしても交通機関の完備に倚頼せざるべからずとしたならば、之が発達完備の為には朝野を挙げて満腔の努力を捧ぐべきである。けれども現在の如く鉄道経費として充当さるべきもの甚だ僅少であつて、消極的施設に委して袖手為す処なき有様であつたならば、到底駸々たる世界の大勢に随伴する所以ではないのである。即ち余は之が施設の
    完備に関しては積極的
方針を持して、財界の状勢に適応考慮の上、鉄道公債を発行して大に交通運輸の利便を企図し、以て産業の開発、国富の増進に資さなければならぬと信ずるのである。鉄道開通以来玆に五十年、往昔を顧みる時に転た今昔の感に堪へざるものがあり、此間国運の発展誠に端睨すべからざるの概があつた、要するに明治四年廃藩置県の制を布かれて玆に初めて我が交通
    運輸機関の統一を実現
し得たのであるが、尚頗る幼稚の域を脱せなかつたのは勿論である、而して大正の今日に於ても、欧米先進国の夫れに比して、甚だ不備不完全のものあるに対しては此の国家的一大盛典を記念とし、之が改善を企図し、進んで将来の大策樹立に力めなければならぬのである、即ち此の光栄ある盛典に臨むに当りて、往年に於ける伊藤・大隈両公侯の功労真に偉大なりしを追憶し、之を讚美すると同時に、聊か卑見を述べた次第である(完)