デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

2部 実業・経済

3章 商工業
2節 蚕糸・絹織業
1款 社団法人大日本蚕糸会
■綱文

第52巻 p.311-320(DK520026k) ページ画像

明治45年3月27日(1912年)

是日、小石川植物園ニ於テ、当会第七回総会開催セラル。栄一、大蔵大臣山本達雄等ト共ニ来賓トシテ出席シ、式後、蚕糸業ノ発達及ビ将来ニ関シテ講演ヲナス。


■資料

渋沢栄一 日記 明治四五年(DK520026k-0001)
第52巻 p.311 ページ画像

渋沢栄一 日記 明治四五年       (渋沢子爵家所蔵)
二月十一日 晴 寒
午前七時起床入浴シテ朝飧ス、畢テ加藤知正氏ノ来訪ニ接シ、製糸業者ノ大会ニ臨席シテ一場ノ講話セラレン事ヲ請ハル、依テ承諾ノ旨ヲ答フ○下略


大日本蚕糸会報 第二四四号・第五四―六五頁 明治四五年五月 第七回総会(DK520026k-0002)
第52巻 p.311-312 ページ画像

大日本蚕糸会報 第二四四号・第五四―六五頁 明治四五年五月
    第七回総会
      △式場の光景
 三月二十七日、本会第七回総会を東京市小石川区帝国大学附属植物園に開く。夜来の空密雲凝つて動かざれども、時や春、園内既に紅白の梅花繚乱として雪の如く、桜も南枝笑を催して午下春光坐ろ人に迫るの概あり。会場正門は園の西門に設けられて大国旗高く翻り、式場には紅白段々の幔幕を繞し、実質の装飾先づ人の眼を曳きて床し。泉水を隔てたる中の小島には、陸軍戸山学校の軍楽隊或は高く或は低く律呂の彩を浅緑の樹の間に響かせて、遠来の参列者を迎ふるが如し。かくて定刻前に到れば、朝来引も切らざりし来会者は早くも会場に充ち充ちて席寸地をも余さず、或ひは石に踞り、或ひは花下に興じ、或ひは水辺に散策して静に開会を待つ。
      △式前の講演
 此日今上陛下には、新宿御苑へ貴衆両院議員を召させられ午餐を賜りたるが、大勲位功二級貞愛親王総裁殿下には御名代として臨ませ給へるを以て、予定の時刻午後零時三十分に挙式する能はず、於是乎式前に講演会を開きたり、前大蔵大臣男爵阪谷芳郎氏、松平会頭の紹介に依り登壇、我生糸の世界貿易上及我経済上に於ける位置より説き起し、尚将来発展拡張の余地極めて多きことより、之が統一機関及施設の改善に於て遺憾の点少からずと説及し、最後に当業者は横浜市場の相場にのみ懸念せず、益々精良の生糸を多く且つ安く生産することに努力せんことを望むと結び壇を降られたり、時恰も警蹕の声聞ひて南植物園の正門へ
      △総裁殿下着御
 あり、松平会頭・吉川副会頭を始め職員一同恭しく迎へ奉れば、殿
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下には御機嫌麗はしく会頭の御先導にて、御休憩所に入らせらる。斯して御休憩中会頭・副会頭・理事等を御引見あらせられ、厚き御諚をさへ賜りたり。
      △総会開会
 当日来賓の主なるものは牧野農商務大臣・山本大蔵大臣、船越・渋沢・阪谷の三男爵、各省の高等官、貴衆両院議員等無慮二百余名なるが、時辰進みて二時三十分に至るや第一鈴、第二鈴にて会員及来賓一同着席、軈て場の一隅より嚠喨たる君が代の楽起れば、殿下は会頭の御先導にて御歩み静に式場に臨せ給ふ。会頭開会の陳告を為すや総員起立、最敬礼の裡に、殿下には玉音朗かに左の令旨を読上げさせ給へり。○令旨略ス
      △業務成績報告○略ス
      △評議員の選挙
 続いて本年は本会評議員の改選期なるを以て、松平会頭は之が選挙を満場に諮られたるが、鳥羽久吾氏の発議にて会頭の指名と決したり
○中略
      △式後の講演
 殿下御退場あらせらるゝや、式後の講演は開かれたり。先づ山本大蔵大臣登壇して、我財政の現状より海外発展の急務を説き、更に我蚕糸会の現状に及び、将来拡張の余地極めて多しと断じ、一転我勁敵として伊・仏・清国糸の外、人造絹糸をも挙げて深く来会者の猛省を促したり。場に溢るゝ聴衆粛として動かず、只折々咳声の洩るゝあるのみ。次に登壇せられたるは実業界の巨頭渋沢男爵なり。開口、先づ我養蚕製糸発達の経路を略述して、最近十年間の産額及糸価の統計を挙げて警告し、更に蚕業金融に関する希望を述べ、最後に益々努力して廉価に世界の強大なる需要に応じ得らるゝ方法を講じ、来るを待たず進んで供給するを念とせざるべからずと結論し、急霰の如き拍手の裡に降壇せられたり。時正に午後五時、会頭即ち散会の旨を述べ、恙なく光輝ある会場を閉じたり。此日来会者千余名と註せられ近来稀れに見る盛況なりき。
○下略


竜門雑誌 第二九三号・第二二―三一頁 大正元年一〇月 ○生糸貿易の過去現在及将来 青淵先生(DK520026k-0003)
第52巻 p.312-319 ページ画像

竜門雑誌 第二九三号・第二二―三一頁 大正元年一〇月
    ○生糸貿易の過去現在及将来
                   青淵先生
  本篇は本年五月四日《(三月廿七日)》大日本蚕糸会総会の講演会に於て、青淵先生が講演せられたるものにて、九月一日及十月一日発行の同会々報に連載せるものなり(編者識)
△予と蚕糸業の関係 満場の閣下、諸君、今日の蚕糸会に当つて私も此処に出まして蚕糸業に関する愚見を陳述するやうにと過日会頭から御嘱託でございまして、喜んで出席して諸君に御目に懸るのでございます、御式の中に農商務大臣並に会頭の御訓示、又前席に於いて大蔵大臣山本閣下から此蚕糸に対して内外に係はる懇切なる御演説がございました、最早私の申上ぐべき余地はございませぬ、さりながら私は
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蚕業に付きましては、随分古い関係を有つて居ります、今日は直接に其業は営んでは居りませぬけれども、尚且つ一部間接の関係を致して居りまする、如何にも只今大蔵大臣の仰せの通り、輸出貿易の四割以上の高を占めて居ると云ふ程の大切な品物でございます、仮令人造絹糸が恐るべき敵と申すにもせよ、海外に此蚕糸の需要地はまだ頗る広いと考へますれば、諸君と共に研究し、諸君と共に良い方法を講じて此進歩を図りたいと思ひます、玆に私が申上げて見たいのは、頗る古めかしい事でありますが、是は老人の繰り言と御聴き下されたい、又蚕業の沿革を知る材料にもならうと思ひますから、先づ二・三の事柄に付て、自分の経歴を述べますと同時に、今日の進歩が斯の如く相成つたと申すことを喜び、且つ斯業の将来を如何にしたら宜からうかと云ふ愚見をも諸君の前に陳述して見たいと思ふのでございます、御集りの諸君の中には種々なる方面の蚕業に御関係なされて居らつしやると思ひます、養蚕をなさる方もありませう、製糸をなさる方もありませう、又蚕種の事業に関係の方もありませう、私は総ての方面に亘つて申上げることは出来ませぬ、殊に未来に於て此業を大いに進めて行かうと云ふには、斯くもあれかしと思ふ拙案は、今日は関係が薄ふございますから、果して肯綮を得るか、又は正鵠を得難いかと云ふことは自分ながら疑ひますけれども、思ふ儘の愚見を呈して見るのでございます。
私は旧里が埼玉県でございまして、群馬に近いものでありますから養蚕の本場ともいふべき地方であつて、青年の頃は蚕種の商業をやつて居りました、種函を背負つて歩いたこともございまするで、蚕の事には、さう諸君に恐れ入つたことは申さぬ積であります、稚蚕の飼育から上簇までの手続、蚕種の製し方、又其出来上つた繭を以て糸を製するには如何なる方法と云ふまで一通り心得て居ります、それは昔の事であります、而して私は二十四・五歳の頃は、攘夷説を唱へたから糸の海外に出るのは宜しくないと、頻りに反対したことすらあります、此程も或る人から昔時斯う云ふやうな詩を作つたことがある、お前は昔は大変な輸出貿易に反対の人であつたと言つて、青年の時に作つた詩を見せられて大いに詰られて、私は閉口したのであります。
△昔の年寄りも それから第二に、此製糸業に大いに力を入れましたのは、明治政府に相成りましてから私も暫時の間政府の役人の末班に居りました、明治二年から六年まで、腰掛役人を勤めました、其役人の時分に、此製糸に付いて聊か尽力したのであります、今は横浜の原富太郎氏の経営に属して居る富岡の製糸場、あれは明治二年頃に出来ました、当時大蔵大少輔たりし今の大隈伯爵、故伊藤公爵などが頻に蚕業の伸張を企図し維新以後の輸出品として日本に適応するものは蚕業であるから、此蚕種・製糸を盛んにして伊太利・仏蘭西の嗜好に応ずるやうな方法に致したい、而して製糸に付ては速に機械製糸を拡張したいと言つても、直に之を一般民業に望んでも出来ないと思ふ、斯る事業をして政府の力にのみ俟つと云ふことは面白くないけれども併ながら其進歩を図るには、今日の場合官で此仕事をするよりほか無からう、といふて終に富岡製糸場を模範工場として作らうと云ふ事にな
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りました、故に輸出貿易には専ら生糸を目的にしたと云ふことは、決して今日の人の智慧ばかりでない、其時から十分の注意を有つてやつたのである、諸君は己ればかり怜悧だと思召しませうが、昔の年寄りも相応に智慧があつたと云ふことの御認定を願ひたいのであります。
                       (拍手起る)
△所謂躄貿易 併しそれは只一箇所である、なかなか一つの場処で此生糸を拡大する訳にいかぬ、況や官でやつても民業がそれに続いて伴ふて来ることが出来ないからして、其間の困難と云ふものは容易でございませぬ、其時に傭ひ入れた人はブリユナと云ふて、其頃和蘭八番と云ふ横浜に独逸商館があつた、其「エンスヘクトル」(鑑定役)であつた、其人を教師として初めて富岡製糸場に於て欧羅巴式の製糸法が日本に開けたのであります、爾来信州或は奥州の各地で各々製糸法の改良を図るやうに相成りましたが、物の成就と云ふものは一夜作りに参らぬ、或は大なる希望を以て進み掛けたるものも、途中で挫折して損害を生じたり、種々なる経歴を以て進んで参つたのでございます又此生糸の売買に於ても、其頃は甚だ微々たるものであつた、前に申上げた富岡の事は明治の初めでありますが、爾来漸次に進んで参つて明治十三年頃の海外輸出の高は例の五十三斤梱、即ち九貫目の梱にして三万何千梱位しか無かつた、而して其頃の貿易の仕方は所謂躄貿易であつた、それは足が無くて貿易したと云ふ俚言であります。(拍手起る)
△明治十四年の紛擾事件 今日は横浜で生糸を買取る商館は内外の商店で有力なものがたんとございますが、其頃の生糸の購買者は総て外国人ならざるなく、斯う申すと何やら昔の攘夷家になつた口吻で、諸君の誤解を来たしては相成らぬが、明治十三・四年頃の生糸貿易の有様は対等貿易でなかつた、先づ信州・奥州・上州等の各所の製糸家が横浜に生糸を持つて参る、横浜の取引店、即ち委託販売店でありますが、今日本会の理事たる原君の先代は善三郎君と言はれて重立たる委託販売店でありました、又理事の一人たる益田君の管理する三井物産会社も其委託店の一でありました、ところが此頃の取引の仕方は、生糸荷物を外国商館に引込んでも受取証書も与へず、火災保険もして呉れない、荷物を引込まして置いて、本国へ電信を打つて景気が好いと早く受取り、景気が悪いと拒斥する、此拒斥を「ペケ」と称へる、さう云ふ取引であるから、どうしても売買の有様が割が悪い、之を改正したいと外国商館に向つて種々引合を致しましたけれども、なかなか承知せぬ、遂に売込商店一同申合せ、此方法を改良せぬければ生糸の売買をせぬといふて生糸荷預所を作つて一種の金融法を立つて外国商館と相対峙した、こちらの注文通りにならなければ売らぬといふ、外国商館ではそんな我儘をするならば買はぬと、互に相睨合つたのが八月から十一月頃までゝあつた、今日は極く詳細なる数字を覚えて居りませぬが、其為に各地から集るものに金融が付かぬければ荷物を其処へ留めて置く訳にいかないから、余儀なく金融を便利にせぬければならぬので、御承知の通り其頃の銀行業は此等の金融に対する事を大に尽力致しました、併し乍ら銀行の力が不充分なるが為めに大蔵省に願
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つて金融の助力をして戴いて、其集り来る荷物に一時の荷為替金を融通して、彼れと相対峙して其解決を待つたのであります、結局十一月の末に至りて亜米利加公使の「ジンガム」と云ふ人が大層心配して、此様な有様にて内外の為めに重要なる生糸に付て葛藤を継続するのは実に惜しいから、何とか仲裁致したいと云ふことで、益田君と私とは直接の相手でなかつたから、亜米利加公使から相談されました、又外国人では、英吉利一番の「ウルキン」と云ふ人と、亜米利加の商人の「トーマスウォールス」と云ふ人と都合四人仲裁の位置に立つて、日本商人と外国商館とに調停を試みまして、種々の骨折で漸く生糸荷預所と云ふものゝ団体を解いて、従来の有様に依つて売買すると云ふことに相成りました、其時に協定した条件は、第一、引込んだ荷物には必ず外国商館にて火災保険を付け、第二、外国商館の蔵に入れたる生糸には預り証書を出す、第三、取引所の事は場所が無くては困ると云ふことから追つて場所を建築したら其通りにしやうと云ふので、詰り双方の申分を折衷して、どちらにも少々の道理ありとして調停したのであります、其時の売買は日本人の手では一梱でも買ふと云ふことが無かつたから、大層力んで見たけれども、結局は所謂大山鳴動して鼠一疋を出すと云ふ有様であつて、我々の心配が其為に充分なる効を奏さなかつたのであります、それは明治十四年の事でありました、其頃の輸出の高はどの位でありましたらうか、十三年に三万余梱でありましたから、多分五・六万梱に進んだかも知れませぬが、当節の売買の微々たることは察知せらるゝのでございます。
△蚕糸業の趨勢 然るに爾来此事業も進んで参りまして、只今大蔵大臣の御演説中に詳細なる数字も御述べになりましたが、私も玆に蚕糸に関する一の統計を調べて参りましたけれども、之を悉く申上げては却つて諸君の御退屈を来しますから、委しいことは略しますが、此輸出高が四十四年と三十五年と、どれほど違ふかと云ふことは、大蔵大臣の仰せの如く実に莫大なる高を増加しまして、横浜への入荷が昨年は総体で二十七万八千百六十一梱で、売却高が二十一万六千梱である之を三十五年に比べて見ますと、入荷に於て十三万梱の増加であり、売却に於て十一万梱の増加である、即ち荷物に於ては九割、売却に於ては八割を増した割合であります、そこで総ての増加の有様を地方に照して見ますると、長野・群馬・愛知・埼玉・山口・岐阜・福島と云ふ順序でありますが、其増加の仕方に於ては区々であります、長野は四十四年と三十五年とでは十四割も増して居る、群馬は僅に増して三割一分である、愛知は四十五割増して居る、埼玉は十三割増して居る少しく減つて居るのは福島であります、是等の有様を見ますると、新規の場所では良い方法によりて着手せらるゝか、又は其土地が頗る養蚕に適して居るか、或は其地方の人々が養蚕の注意が厚く且つ便利が多いか、各地一様と云ふ様には見受けられぬのでございます、其昔養蚕の本場と云ふものは福島と長野と群馬と云ふ地方であつて、其他の場所では養蚕をしても寧ろ労して効が無い位に思つて居つた、賢い人は私のやうな考へは有たぬかも知れぬが、古老の養蚕家に聞いて見ますと、大抵さうであります、然るに追々進んで参りまして、今日では
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現に先刻も承りまするに、九州で養蚕に付て褒賞を受けられた人も沢山にあります、又山陰の方にもありまして、殆ど全国何れの方面に於ても養蚕の出来ぬことは無いのであります、殊に只今申した愛知県などは其当時は分量が少かつたが、増加の割合は甚だ強い、詰り愛知県或は岐阜が増加したと云ふのは、東海道の養蚕が大いに進歩した所以であります、而して福島の余り進まぬのは、生糸の製し方の工合が違つたものと考へらるゝのであります。
△内国商の輸出高の増加 海外輸出高も玆に調べてありますが、既に新聞にも出て居りますから、煩を避けて御話申しませぬ、昔の輸出は殆ど外国人のみに依つて居つた、然るに仮に四十三年と三十七年との二つの比較を出して見ますと、大分に内国商売人に依つて輸出されるやうに相成つたのを喜びます、四十三年の割合を申しますと、内外商の輸出高を七年前の三十七年に比べると、我が輸出業者が三割八分増加した、七年の間に内国人に依つて取扱はれた高が二倍も三倍も増したのであります、就中三井物産会社とか、原輸出商店とか、或は生糸合名会社などの生糸輸出が段々進みつゝあります、横浜に在る海外商店からの輸出も追々増しますが、併し内国商の輸出高が最も殖えて来ました、今日を御覧になつた人は当り前だと思召しますが、明治十四年の事を知つて居る私共の嬉しさ愉快さは、諸君より一層強いと云ふことを御領承を願ひたいのでございます。
△生糸価格に就て 玆に一つ申述べたいのは生糸の価格でございますが、永い年月中に一高一低するのは相場でございますから、多少上つたり下つたりは免かれませぬが、今日の所では大いに其価を減じて居ります、最も高かつたのは四十年で、今日と比較しますと四十年は平均百斤で千二百十七円まで進んだのが、今日は八百何十円と云ふのであるから、殆ど四割も価を減じて居ります、是は大に注意すべき点でありまして、果して未来に四十年の如き価を増し得るか否や、増すことが出来ぬとしたならば、是から先き製造に於て余程御注意せねばならぬと思ひます、是は単り生糸ばかりでなく、其他の織物に付ても、熟考を要します、又海外養蚕、景況、海外製糸の有様などに就ても玆に取調て置きましたから、之を本会に差出して置きます、必要な部分は本会の雑誌に御掲載を願ひます、長時間斯る数字的の御話をして諸君を煩はす必要も無いと思ひます、殊に新聞にも出て居ります、又只今大蔵大臣からも御述べになりましたから、私は先づ概略に止めて置きます。
是より将来に向て斯くなつたら宜からうと云ふ愚見を二・三申し試みたいと思ひます、どうしても養蚕は農家の副業たらざるを得ぬのでありますから、之をして海外に在る大工場方法にして、大なる資本を以て大会社を起してやると云ふことは如何であらうか、先づさう云ふ事業でないと思ふ、さすれば此養蚕事業と云ふものは、之までの有様で継続して進めて行くほか無からうと思ひます、農家をして養蚕をするに付ても、又繭を拵へて之を売るに付ても、或は糸を製するに付ても成るべく良い方法を以て其価を廉く売つて他の業よりも利益であると云ふ方法に進めて行くほかないのであらうと思ひます、海外の状態が
 - 第52巻 p.317 -ページ画像 
追々に高いものを好んで需要が増して価が高くなるならば、それは至極都合が宜いが、併し日本の品ばかり高くすることは出来ぬから、其高いと云ふことは他の国にも及ぼして、他でも高いものを作る訳になる、故に需要が多くなつて価の点からも他に打勝つと云ふには、矢張り己れの製品が良くて其割合が安いと云ふ一つの根本義が立たぬければならぬ、其根本義を進めて行くには、今申した通り是までの有様を大いに変化してやるべきであるかと考へます。
△新旧養蚕地に対する希望 併し此輸出表を見ますると、従来盛んな場所は格別進歩致しませぬ、之に反して新しい養蚕地は長足の進歩を為して居る、蓋し之は其土地の工合とか、或は其人が養蚕業に力を尽すに於て大なる関係があらうと思ひます、故に私は玆に希望する所は新進の場所は余り精密なる方法を先きにせず、成るべく割合の廉く出来る手段に依つて、専ら多数の製造を努めたいと思ひます、例へば此表に見えて居る愛知県の如き新しい所――愛知県が新しいといふ意味ではありませぬけれども、養蚕の新に進んで来る場所では余り高尚な考を有たずに、成るたけ割合の廉い品物を余計に作ることに注意するのが必要である、又此養蚕製糸事業の進んで居る場所に於ては、只其量を増してそれで割合を廉くするのは不可能ではないか、故に左様に一歩進んだ土地に於ての心掛けは品物を改良すると云ふことを必要と思ひます、此品物を改良すると云ふ事は、唯単に目的無しに予期すると云ふことは面白くない、即ち外国の事情を能く知つて、織場でどう云ふものを好むか、此生糸を如何に使用するかと云ふことを熟知して其需めに応ずる、即ち米国の「バタソン」工場にて、日本糸は横糸が多くて縦糸は少いと云ふことは今以て憂ひとして居る所であります、爰を以て此蚕業に従事せらるゝ方々、殊に熟練な製糸家に於ては自身が之を売捌くか、委託販売に依るか、其方法は何れが宜いと云ふことは申上げませぬが、自家の生糸はどう云ふ向きに用ゐられるかと云ふことを研究すると云ふことが、甚だ肝要ではないかと思ふのでございます、品物を沢山拵へて割合を廉くすると云ふことは工業の原則として居ります、例へば紡績事業の如きものでも同様であります、併し養蚕に於ては、単に多く拵へれば割合が廉くなると云ふことは出来ない製糸と雖も唯量を増しさへすれば宜いと云ふことを考へると、却て失敗した場合に大なる挫折を惹起すと云ふことも亦顧なければならぬ、故に私が玆に申上るのは、新進な場所は余り高尚な考へをせず、成るたけ廉く拵へて品物の量を増すことを心掛るがよい、又熟練なる場所に於て且つ製糸業者の機械的製糸に於ては、成るたけ其品物が外国の購買地の需要に適切なるを心掛けて、今日の改良に最も意を致さねばならぬと思ひます。
△蚕糸業と金融との関係 私は己れの経営する銀行が製糸に対して金融の勤めを為して居ります、微力ながら私の銀行が生糸の為に金融致します高は小額ではございませぬ、主としては横浜正金銀行でございますが、それに次では、先づ私の銀行が生糸に対する金融者の主要の位地に居ると申しても宜いと考へます、此製糸業者と銀行業者との間は、余程親密にして相共に充分の注意を要することゝ思ふのでござい
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ます、私は将来に於て之を如何したら宜いかと云ふことを、玆に具体的に申上げることの出来ぬのを遺憾と思ひますが、従来製糸業者が出来繭を買入れて取扱ふ業体が単に工業でなくして、大いに商業の性質を含んで居る、商業の性質を含んで居るのみならず、其商業が少しく投機的になる憂ひがあります、いやでも製糸の原料たる繭は出来たる際に仕入れを致して、其先きは相場の景況に拘らず、それを以て製糸をして行くのが製糸家の今日に於て已むを得ぬ方法に相成つて居ります、又金融者は成るたけ製糸家に力を仮して多分の金を貸すと云ふことになつて居る、固より必要な商品でございますから、銀行業者も大いに此金融に力を入れて居ります、けれども此製糸業が或は大いに進み、或は大いに退く、換言すれば一年は利益があつたが、一年は損害があつた、甲が非常に発達して、乙が非常に衰頽すると云ふ不健全なる有様がございます、若し出来得べくんば農家で作る繭を一時に売買する方法でなく、例へば一の組合が出来て、其生繭に相応する乾燥法なり殺虫法なり総ての仕組が整頓して其繭を一時の売買とせず、徐々に取引する事として、農と工と金融との調節を得る方法が出来ると製糸業に盛衰が少くならうと思ひます、但し斯う考へても果して其の事が行はれ得るかどうか疑問でありますが、今日の儘では十歩進んで又五歩退くと云ふことが生じはせぬかと深く憂ひて居るのでございます幸に前述の方法を講じましたならば、出来ぬことでは無からうと思ひます、今日は各地に於て完全の欧羅巴式の製糸場を組立つた場所が多いが、上州の如きは、碓氷社・甘楽社・下仁田社ともに固有の製糸法に一部の改良を加へて共同的に製糸を経営して居ります、斯様な地方も有るから、場所に依つて製糸の組合法も攷究して組織し得らるゝことゝ思ふのでございます。
△彼を知り己を知るの必要 如何にも大切なる養蚕事業であつて、仮令人造絹糸があるにもせよ、又海外に同じ事業が盛んに起るにせよ、是まで進歩して行つた有様に依つて考察しますれば、世間の進むに従つて自国の産出も亦進んで来たから、世界の絹織物を需要することは益々望みありと言ひ得られると思ひます、故に我国に於ても此事業をして益々増進することは勿論望むべきことであらうと思ひます、唯其事業に対しては、前にも申上げました如く、挫折を惹起せぬやうに心掛けるのが肝要と思ひます、約して申上げますと、成るたけ其価を廉くして多く売ると云ふことを心掛けねばならぬ、来らざるを待たないで待つあることを努めねばならぬ、敵が来ねば宜いと云ふ丈けの防備は成ても之に応じ得るといふ防備には及ばないから、成るたけ価が廉くて品物の良いのを拵へるよりほか無い、但し其価を廉くして品物を良くすると云ふことばかりでは充分に他に対抗する訳にいかぬから、充分に海外需要者の事情を知ることを努め、即ち彼を知り己を知るまでに至るのが必要である、製糸家又は製糸地方では直接販売を取扱ふ者と図つて之を研究なされるやうに致したい、更にもう一つの私の希望は、繭を作る農家と製糸業者との間をして今日の如き危険多からしむる商売法でなくしたならば、必らず此の事業が永久健全に発達して行くことゝ信ずるのでございます、斯くは申上げるものゝ、私も製糸
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事業を経営致した身でございませぬから、果して斯くすれば行けるとまでの確信は持ちませぬが、此大事な事業が今日の儘で果して安穏かと云ふことは、聊か杞人の憂ひか知れませぬけれども、玆に一・二の愚見を呈して、誠に有望にして且適順に発達し来つた事業に対して弥が上の進歩を望むのでございます、もしも私が述べました愚説が聊かにても斯業を裨補することゝなつたならば、此上も無い光栄で又幸甚の至りでございます、因て此事業に御熟練の諸君の前をも憚らずして此愚見を呈して御参考に供した次第でございます。(拍手)



〔参考〕日本蚕糸業史 第四巻 大日本蚕糸会編 政策史・第三一一―三一四頁 昭和一〇年六月刊(DK520026k-0004)
第52巻 p.319-320 ページ画像

日本蚕糸業史 第四巻 大日本蚕糸会編
                  政策史・第三一一―三一四頁 昭和一〇年六月刊
 ○第四章 蚕糸業団体
 (一)大日本蚕糸会
 本会は本邦蚕糸業の改良進歩を図る目的を以て、明治二十五年四月四日創立せられ、同三十八年八月十四日社団法人として設立認可せられたものである。
 本会創立の動機は明治十五・六年の頃、蚕糸業者団結の必要が識者の間に唱導せられたのに其端を発し、明治二十四年五月星野長太郎・八田達也・徳江八郎・大里忠一郎・小野惟一郎・河瀬秀治・風間金八丸山孝一郎・町田菊次郎・斎藤正二郎・木村九蔵等が発起人となり、中央蚕業協会創立主意書を発表し、同年六月十五日星野方(麹町区飯田町四丁目八番地)に事務所を置いて創立に著手したが、不幸其成立を見るに至らず。次で同年十二月一日小畑岩次郎・吉池慶正・柿沼平吉・児玉実詮・安井悦之輔・御法川直三郎・毛呂正容等が神田明神社内開花楼に創立会議を開き、同二十五年二月全国蚕糸業者及斯業関係者を糾合創立に著手し、同年四月四日前記の如く大日本蚕糸会の設立を見たものである。
 本会は其目的を達する為左の業務を行ふ。
 一、蚕糸業ニ関スル諸般ノ調査ヲ為スコト。
 二、本邦生糸ノ海外販路拡張ヲ図ルコト。
 三、内外ニ於ケル蚕糸業ノ団体ト気脈ヲ通ズルコト。
 四、蚕糸業ニ関スル品評会・講習会・講話会及其他ノ集会ヲ開設スルコト。
 五、蚕糸業ニ関係アル者ノ功労ヲ調査シ及表彰ヲ為スコト。
 六、蚕糸業ニ関スル共同事業ノ発達ヲ図ルコト。
 七、蚕糸業ニ関スル図書及雑誌ヲ発行スルコト。
 八、前各号ノ外蚕糸業ノ改良発達上必要ト認ムル事項ヲ実施スルコト。
 右の内主なる事蹟を摘記すれば左の如くである。
 (一)恩賜金
 本会が多年蚕糸業の改良進歩を図り、国家富力の発展に貢献せる所尠からざるの故を以て、会資の補助として大正四年御内帑金弐万円を下賜せられた。本会は此利子を以て表彰の資に充て、毎年蚕糸業界の功績者を選抜して恩賜賞を贈り、又同支会に於て開催の蚕糸品評会に
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於ける出品者に特別優等賞を授与し、皇室の恩沢に浴せしめてゐる。
 (二)政府の助成
 政府は本会の養蚕組合設置及奨励事業を助成する為、大正七年度に於て金弐万円の補助金を交付した。本会は之に依り爾後引続き優秀なる養蚕組合を表彰しつゝあるが、昭和四年度以降更に桑園改良に関する調査宣伝に関する事業助成の為、昭和四・五両年度は各五千円、同六年度は四千二百九十円、同七年乃至九年度は三千二百八十円の補助金を交付した。本会は之に依り毎年各地に桑園改良講習会を開催する外、昭和四年度に於ては活動写真フヰルムの調製(桑園改良劇)及優良桑園経営調査、同五年度に於ては稚蚕共同桑園調査、同六年度に於ては桑園能率調査を行ひ、同七・八両年度に於ては桑園経営競技会を開催し、同九年度に於ては自給肥料調査を行つた。
 (三)会報及図書の刊行
 本会機関雑誌として創立以来大日本蚕糸会報を発行してゐたが、後蚕糸界報と改題し今日に及び、又明治四十五年以来蚕糸の光を発行し支会版を設けて汎く読者を有してゐたが、全国養蚕業組合聯合会成るに及び、本誌の刊行を同会との共同経営に移した。尚随時図書・講義録・講習・講演集等を刊行して広く頒布してゐる。
 (四)調査
 蚕糸業に関する一般調査は勿論、学術的なるものに付ては特に学芸委員を嘱託し、慎重なる調査を行ひ、其結果を随時発表しつゝある。
 (五)建議又は答申
 蚕糸業に関する当業者の意見は本会の決議を経て政府当局に建議し又は議会に請願し、又政府よりの諮問に対し審議攻究して答申を為し努めて上下意思の疏通を図りつゝある。(第二章(六)参照)
 本会は 皇族を総裁に推戴し、明治三十八年 伏見宮貞愛親王殿下を奉戴し、爾来会務を御総攬あらせられたが、大正二年御都合に依り御退任、閑院宮載仁親王殿下を奉戴し今日に至つてゐる。
 本会々員は名誉会員・特別会員及通常会員の三種とし、現在に於て其数約三十万人に達してゐる。又大阪府を除く各府県に支会を置き、四十六支会は府県知事を支会長とし、蚕糸業主任技師を幹事長とし、会務の発展を期しつゝある。
 本会の役員は理事五名、監事二名にして、理事中より会頭一名、副会頭一名を選任す。
 現在役員左の如し。
 理事 会頭 牧野忠篤  副会頭 本多岩次郎
       今井五介  芳賀権四郎  加藤知正
 監事    渋沢治太郎  渋沢義一
○下略