デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

2部 実業・経済

3章 商工業
7節 造船・船渠業
1款 株式会社東京石川島造船所 付 株式会社石川島飛行機製作所 付、株式会社石川島飛行機製作所
■綱文

第52巻 p.580-582(DK520081k) ページ画像

昭和3年7月25日(1928年)

是ヨリ先、大正十三年十一月当会社設立セラル。是日栄一、当会社ノ増資新株ニ対シ、渋沢同族株式会社ノ引受株数ニツキ裁決ヲナス。


■資料

石川島重工業株式会社一〇八年史 同社社史編纂委員会編 第三六八―三七二頁 昭和三六年二月刊(DK520081k-0001)
第52巻 p.580-581 ページ画像

石川島重工業株式会社一〇八年史 同社社史編纂委員会編
                      第三六八―三七二頁昭和三六年二月刊
 ○治革史編 第二編 第四章 戦後反動不況期における当社
    第六節 株式会社石川島飛行機製作所の設立
〈航空機工業への着手〉
 - 第52巻 p.581 -ページ画像 
○上略 第一次世界大戦中から、航空機製作の意欲をもつていた当社は、それに着手する機会を求め研究を続けていたが、大正一三年(一九二四)航空機を新会社で製作することに決定し、同年一一月一日株式会社石川島飛行機製作所を設立した。新会社は資本金を一〇〇万円とし二万株全部を当社が取得、四分の一払込みで設立された。初代社長は当社の取締役渋沢正雄が兼任し、所沢飛行学校長の陸軍中将有川鷹一を顧問として迎えた。建物および設備は、現在の勝鬨橋のきわ、月島西仲通九番地にあつた当社の下請工場株式会社東京月島鉄工所を転用した。
○中略
〈新工場を立川に設置〉
 株式会社石川島飛行機製作所はその後も数種の練習機・偵察機を製作し続け、その努力が認められて昭和三年四月陸軍航空本部の指定会社となつた。○中略
 これよりさき大正一五年(一九二六)六月社長に渋沢武之助をむかえ、新工場の建設を計画して、同年一二月工場用地として立川の陸軍飛行五聯隊飛行場隣接地を購入した。八八式一型偵察機の生産にともない、繰業安定の見通しもついたので、工場の建設を急ぎ、新会社は昭和三年七月資本金を二〇〇万円に増加し、これを工場建設資金に充当した。同五年三月工事が完了し、新工場の整備も終わつたので工場を移転し、九月に本社も丸の内の海上ビルに移し、月島工場を閉鎖した。○下略
  ○右ハ刊行ニ当リテ追補ス。尚、右原本ハ横組ミ、数字ハ算用数字。


(増田明六)日誌 昭和三年(DK520081k-0002)
第52巻 p.581-582 ページ画像

(増田明六)日誌  昭和三年       (増田正純氏所蔵)
七月廿三日 月 曇                出勤
○上略
子爵より石川島飛行機製作所の株式を同族会社ニて引受数弐千参百株の内半数を、石川島造船所にて引受を請ふ様尽力せよと武之助・正雄両氏ニ談話し置きたるニ付き、承知し置く様との御話があつた
○下略
七月廿四日 火 晴                出勤
午前渋谷澄氏ニ来所を請うて、石川島飛行機製作所の営業状態及優先八分配当付新株引受者の状況を聴取した
○下略
七月廿五日 水 晴                出勤
渋沢子爵ニハ午前十一時事務処に出勤せらる
子爵は去四月廿日事務処ニ出勤せられ、同廿一日より病気引籠りとなられ、爾来約百日病床ニ送られたのである、今日御元気に出勤せられたのは誠ニ可賀次第である
敬三殿と共ニ、石川島飛行機製作所増資新株式の件ニ付き子爵に言上して、左記の通決せられた
 同社新株式弐万株の内弐千参百株を同族会社ニて引受けられたしとハ、予て同社長渋沢武之助氏の希望であつた、同族会社重役会では
 - 第52巻 p.582 -ページ画像 
武之助殿の為に略同意したのであつたが、子爵は夫れは同族会社ニ取り負担が過きるから、其内半数位は石川島造船所に引受けしむる様ニしては如何と、武之助殿及ひ造船所専務渋沢正雄殿ニ希望されたのであつた、然るニ造船所ニて之を引受くるには第一銀行の承認を要するのであるが、同銀行は先年製作所設立の際、造船所が其時出資して居た金額以外ニ出資する事ハ断然同意せすと言明してあつたので、今更子爵の希望たとて到底承認を与ふるものにあらさるは明かである、此際同銀行ニ此言明あるを知りなから承認を強ゆるは如何との意見を言上したので、子爵も斯の如き経過ある次第ならは造船所ニ引受を請ふ事は止めにして、全部を同族会社ニて引受くる様ニ決せられたのである
○下略