デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

2部 実業・経済

3章 商工業
7節 造船・船渠業
4款 船鉄交換問題
■綱文

第52巻 p.594-600(DK520086k) ページ画像

大正8年5月(1919年)

是月栄一、アメリカ合衆国政府ヨリ日米船鉄交換ニ関スル争議仲裁人タルコトヲ委嘱セラレ、之ヲ承諾ス。


■資料

浦賀船渠六十年史 浦賀船渠株式会社編 第一七六―一七八頁昭和三二年六月刊(DK520086k-0001)
第52巻 p.594-595 ページ画像

浦賀船渠六十年史 浦賀船渠株式会社編  第一七六―一七八頁昭和三二年六月刊
 ○第四篇 第三章 日米船鉄交換
    一、船鉄交換の経緯
○上略
 政府当局は米国の鋼材輸出禁止発表に先だち、英国から船舶の援助を求めて来た際、英国に対していわゆる船鉄交換の内交渉を開始したが、英国は造船材料の余力なきため、この交渉を日・米政府間に移すことを提議して来た。政府は、できるだけ多数の船舶を提供すべきことを条件として米国政府と交渉したが、進展せず、同年○大正六年十一月一応交渉を打切つた。
 本邦主要造船業者は直接米国大使と交渉を開始し、大正七年四月第一回日米船鉄交換契約の調印を見、次いで五月第二回の契約が成立しさらに第三回契約の計画があつたが、休戦のため立消えとなつた。
      第一次交換契約要領
 一、提供船舶は当時竣工せるものまたは建造中の十五隻十二万七千八百トンにして、引取る鋼材は既約鉄材十二万七千八百トンとする
 一、提供船舶建造者およびその重量トンは株式会社浅野造船所一隻一万一千五百トン、株式会社川崎造船所七隻、六万三千トン(うち三隻は追加)、帝国汽船株式会社三隻、二万二千三百トン、日本汽船株式会社三隻、二万四千二百トン、浦賀船渠株式会社一隻、六千八百トン
 一、鉄価は既約の値段により、船価は引渡時期によつて異なり、重量トン一トン当り二百六十五ドルないし二百二十五ドル。
      第二次交換契約要領
 一、交換条件は重量トン二トンに対し主要材料一トンの割合をもつて米国より新規材料の供給を受け、これにより船舶を建造し、引渡しをなす。米国沿岸における船舶引渡価格は重量トン一トン当り百七十五ドル、材料価格は米国太平洋岸または大西洋の一港において
 - 第52巻 p.595 -ページ画像 
鉄道貨車渡し鋼板一英トンにつき七十二ドル八十セント、型材同六十七ドル二十セント、棒材同六十四ドル九十六セント。
 一、船舶提供者は左の通り。
 株式会社東京石川島造船所二隻、株式会社大阪鉄工所四隻、三菱造船株式会社二隻、株式会社内田造船所二隻、横浜船渠株式会社三隻、株式会社浅野造船所二隻、浦賀船渠株式会社三隻、株式会社藤永田造船所一隻、株式会社播磨造船所二隻、株式会社川崎造船所五隻、新田汽船株式会社一隻、三井物産株式会社二隻、株式会社旭造船所一隻、合計三十隻、約二十四万六千トン。
   注 旭造船所の分は都合により、当社で建造した。
 右の第一次および第二次の船鉄交換により、わが国から米国へ提供した船舶は合計四十五隻、重量トン約三十七万三千八百トン、当業者の取得した材料は合計約二十五万八百トンであつた。なお補助材料として第二次交換新規材料の分に関し銑鉄約二万三千八百トン、錨百八十六挺、錨鎖一万六百五十尋、火炉四百二十三箇その他を、また第一次交換既約材料分に関しても銑鉄その他の供給があつた。
 右交換材料により、あるいはこれを補充して完成した船舶は、重量トン約九十万トンにのぼり、提供船舶を差引き約五十万トンの船舶は本邦に残留してわが船舶増強に寄与した。わが造船業者は外国のため多数の船舶を建造して海外に声価をあげたばかりでなく、鋼材不足による窮境を脱し、少なからぬ利益をあげることができた。
○下略
  ○右ハ刊行ニ際シ追補ス。


渋沢栄一 日記 大正八年(DK520086k-0002)
第52巻 p.595 ページ画像

渋沢栄一 日記  大正八年        (渋沢子爵家所蔵)
五月十二日 曇 暖
午前七時起床入浴朝飧畢リテ、浅野良三氏ノ来訪ニ接シ、米大使ヨリ内話ノ船鉄交換ニ関スル仲裁ノ件及小倉関係ノ事ヲ談ス○下略


中外商業新報 第一一九〇三号大正八年五月一五日 渋沢男の重任 米国財団から依託さる 造船契約紛議の裁断役(DK520086k-0003)
第52巻 p.595 ページ画像

中外商業新報  第一一九〇三号大正八年五月一五日
    渋沢男の重任
      米国財団から依託さる
        ◇造船契約紛議の裁断役
米国臨時船舶建造財団は曩に我国の諸造船所に注文して卅隻の汽船を建造せしめてゐるが、同財団は我造船所との間に予期しない何等かの紛議が起つた場合の裁断者として、曩には米国大使館附武官ホン中佐を指名してあつたが、同氏が転任になつたので、人選の結果今度は我が渋沢男に依頼すべく、先月中から交渉があつたが、同男は愈々之に内諾を与へた、渋沢男を推薦したのは米国大使モリス氏で、米国政府に於ても、同戦時局及船舶局に於ても、大いに賛同したと云ふ事である、畢竟之は同男が最もよく米国に於て知られ尊敬されてゐるからの事で、又此絶対裁断の任務が日本人の手に委せられたと云ふ事は、日米親善の上に於て一種の意味のある事であらう

 - 第52巻 p.596 -ページ画像 

渋沢栄一 日記 大正八年(DK520086k-0004)
第52巻 p.596 ページ画像

渋沢栄一 日記  大正八年       (渋沢子爵家所蔵)
五月十八日 晴 軽暖
○上略 午飧後和田画師○和田英作来リテ肖像ノ絵画ヲ為ス、秀雄モ同伴シテ米大使ヨリ依頼セラレタル船鉄交換ニ関シ、各造船工場ト米国船舶局トノ契約ニ付他日意見ヲ異ニシタル時ニ仲裁ノ事ニ付、其契約書ノ逐条ニ付調査ノ事ヲ報告ス、依テ共ニ其逐条ヲ会読吟味ス、且不分明ノ点アルニ付浅野良三ニ諮フテ之ヲ明瞭ニスル事ヲ指示ス、午後五時頃秀雄・和田二氏帰京ス○下略
  ○栄一、五月十六日ヨリ同月二十五日マデ大磯明石邸ニ滞在。


竜門雑誌 第三七二号・第三六―三九頁大正八年五月 ○青淵先生と造船争議仲裁人(DK520086k-0005)
第52巻 p.596-598 ページ画像

竜門雑誌  第三七二号・第三六―三九頁大正八年五月
  ○青淵先生と造船争議仲裁人
青淵先生には今般米国政府より日米船鉄交換に関する争議仲裁人たることを依嘱せられ、之を引受けられたる由なるが、之に関する米国大使モーリス氏よりの依頼状は左の如くなりと。
      米国大使モーリス氏よりの書翰
拝啓 過日非公式に御話申上候会談の引続きとして、小生は玆に一書を呈し、以て米国船舶管理局事変船隊組合と日本の幾多造船会社との間に一年前に締結したる契約中の明細箇条及遅延に関する事項に就き当事者間に争議の発生したる場合、之れが居中裁決をなすべき仲裁人に御就任の儀を公式的に御承諾被下候様致度旨を玆に拝陳仕候
仲裁人としての閣下の御権限は、右契約書中の第二十一条並に第二十三条に明記致しあり、其条文は各契約書とも皆同一に御座候
本件は米国政府の国務省戦時貿易局及び船舶管理局の請求に従ひ、小生より日本造船会社側へ閣下を仲裁人として推薦致度旨照会致し申候処、此照会に対し小生は此程左の如き返書を落手致申候
 拝啓 ボーン海軍中佐の代はりとして渋沢男爵を米国船舶管理局事変船隊組合と日本造船業者との間に締結したる契約中の仲裁人に推薦したき旨、本月八日貴大使館に於て貴職より御相談有之候件に対し、小生は玆に日本造船業者側が、御提案に就き孰れも満足致居る旨を御回答申上ぐると同時に、同業者側を代表して貴職の御厚配に対し、深く御礼を申上候 敬具
  一九一九年四月二十四日         浅野良三
   米国大使館にて
    ローランド・エス・モーリス殿
又た前記契約は船舶三十隻建造の件、鋼鉄十二万二千九百二十一噸を日本へ売渡す件、及び約四千三百二万三千七百五十弗の造船代価を日本造船業者に支払ふの件等を規定致しあり候
小生は此機会に於て閣下の人格及閲歴が啻だに日本国民の間のみに止まらず、遠く米国民の間に於ても深き信用を博し居られ候ことを、小生箇人として玆に謹んで御祝ひ申上候
前陳の次第に就き何卒仲裁人として御就任の儀御承諾被下度奉願候、尚小生は右に関する契約書一切を御手許に御送付可申上候間、御査収被下度候 敬具
 - 第52巻 p.597 -ページ画像 
  一九一九年五月七日
            在東京
             米国大使館にて
                ローランド・エス・モーリス
  東京
    渋沢男爵閣下
尚右に関しジヤパン・アドバタイザー紙は先生の感想談なりとして左の記事を掲げたり。
      ○造船契約に関する仲裁人となられたる渋沢男爵の感想談(大正八年五月十七日ジヤパン・アドバタイザア記事和訳)
這般米国より渡来のウオレス・アレキサンダー氏は過日銀行倶楽部に於て開かれたる歓迎晩餐会の席上に於て、渋沢男爵を呼ぶに世界的老偉人なる語を用ゐたるが、此は洵に適当なる用語と云はねばならぬ、而して過般米国政府と日本造船業者との間に締結したる造船契約中に規定せる紛議仲裁人として、此老偉人が此度米国政府より嘱託を受けられたる件に就き、本社記者は其感想を聞かんが為め男爵を其邸に訪問した。
元来右造船契約なるものは合計三十隻、二十四万五千八百五十噸の汽船を米国政府より若干の日本造船会社へ其建造方を請負はしめ、之れに対して米国政府は総計四千三百二万三千七百五十弗の代金を支払ふ旨を約束したるもので、斯かる巨大なる請負事業に関し、契約当事者間に発生すべき紛議の解決を全然外国の一市民たるに過ぎざる仲裁人に委任したるが如きことは、実に米国の歴史に於て破天荒の処置であつた、而して此異例なる信任に対し所謂「世界の老偉人」は通訳者を通ほして左の如く語り出でられた。
 余は造船事業に関する知識もなく、又た政治家にもあらず、且つ又た先年実業界を退隠せし以来今や実業家と呼ばるゝ資格をも有せざれど、然かも余は日米両国間の商工業的関係を密接ならしめんことを年来深く意としつゝあるを以て、仮令目下の立場が実業家に非ずとするも、日米二国の交誼を深うするが為めには、如何なる場合に於ても常に其微力を尽すことを寸時も念頭より棄てたることなし、特に今回米国政府より造船契約に関する紛議仲裁人として嘱託を受けたるは、平素余が理想としつゝある日米親交増進の為めに努力し得べき新らたなる一の機会を与へられたることゝ信じ、深く自から本懐とする次第である。
 余が今般右の嘱託を受けたるは如何なる事情に因るかを知らざれど過日余は米国政府よりの造船註文を引受けたる日本の造船業者に対して、余一己の見地より種々忠言を与ふる所ありたるが、其節彼等造船業者も余の注意に対して深く満足感謝の意を表せられた、而して其後此話はホーン中佐の耳に入り、ホーン氏は更に之れをモーリス大使に語り告げられたりと云ふ、余が今回の嘱託も恐らく此辺に淵源を有する次第なるやも知れず、多分米国政府の船舶管理局と国務省とが協議の結果に外ならざるべしと思ふのである。
 余は今や仲裁人となりたりと雖ども、余は其職務を執行するの機会
 - 第52巻 p.598 -ページ画像 
なからんことを寧ろ希望して止まざるものである、要するに仲裁人としての余の位置は、鞘を脱せざるの利刃として終はらんことを望むのである、然りと雖ども、若し夫れ一朝当事者間に紛議の発生するあらんか、余は造船事業に於ける素人たるの故を以て、人一倍慎重なる調査を遂げ、紛議の真相を明かに為したる後ち、極めて公正なる裁断を下ださんと欲するものである。
斯くて男爵は今回の嘱託によりて日米親善の為めに尽くし得べき新らたなる一の機会を与へられたることを喜ぶ旨を繰返へし述べられたる後ち、又た左の如く語り出でられた。
 余は仲裁人として其職務を執行するの必要あるが如き紛議の発生することなかるべきを信ずと雖ども、然かも余は今回米国政府より此重大なる任命を受けたることを名誉として、深く其好意を謝するものである、余や年歯既に高く、然かも実業界より退隠したる身なりと雖ども、苟も其職務を執るの必要ある場合には、奮つて最善の努力を尽くすの覚悟を有す、余は身日本人なるも心に於ては日本の益を図かると同じく、米国の益をも図からんと欲するものなれば、事苟くも日米相互の利害に関係ある問題に就ては、極めて公平正当なる措置を採り得るの資格を有するものなりと自から信じて居る云々
渋沢男爵は先年既に実業界より退かれ、且つ先般来病蓐に在られ、今や幸に全快したりと雖ども、尚ほ静養を要せらるゝ身なるにも拘はらず、目下不相変日本に於ける各般の大事業に関する用務に就き多忙を極はめられて居る。
尚ほ男爵は医師の勧めにより、十日間の予定を以て不日大磯に赴かれて充分静養の上、帰京後は再び平素の劇務に就かるゝ筈なりと云ふ、此老偉人今や八十の高齢に在りて尚ほ逸楽安居を欲せず、孜々として天下公共の為めに尽瘁せられつゝあるは真に景仰の至りである、而して此老偉人の名声と人格とが米国に於て認識せらるゝことは、総ての他の日本人に勝さり、今回同国政府より懇ろに仲裁人たる事を依嘱せられたるが如きは、洵に然かるべきことなりと云ふべしである。


渋沢栄一書翰 控 ローランド・エス・モーリス宛大正八年五月(DK520086k-0006)
第52巻 p.598-599 ページ画像

渋沢栄一書翰 控  ローランド・エス・モーリス宛大正八年五月
                     (渋沢秀雄氏所蔵)
    モーリス大使への返信案 (印)
拝復 爾来閣下益々御清適奉賀候、然ハ曩に貴大使館に拝趨之際御内示有之候一案ニ付、此程御送附被下候造船契約書添附の貴翰正に落手熟読仕候、貴翰によりて御委嘱相成候大任に対し、小生果して能く其任務を完ふし得るや否を自ら之を危ぶむ者に候得共、深甚之御意義を寓して御懇切なる閣下の御推薦に対し、且つ日米船鉄交換同盟会の勧告も有之候に付、敢へて自起つ之覚悟を以て、公式に御引受申上候間此段御領掌被下度候、勿論這般之造船契約に関してハ、両者間に紛争を生ずるが如きこと無きを期し候得共、万一にも中間に介立せさるを得さる場合に於てハ、唯正義に基き公平を持して最善の解決に努力すへき所存に御坐候間、予め御聞置被下度候、右貴翰に対する拝答迄如斯御座候 敬具
 - 第52巻 p.599 -ページ画像 
  千九百十九年五月十七日
        発状之日附ニ改むへし
                      渋沢栄一
    米国大使 ローランド・エス・モーリス閣下
  ○右書翰ノ発信日不明。傍点ノ三字抹消シアリ。


竜門雑誌 第三七三号・第五一―五二頁大正八年六月 ○仲裁員としての感想(DK520086k-0007)
第52巻 p.599-600 ページ画像

竜門雑誌  第三七三号・第五一―五二頁大正八年六月
    ○仲裁員としての感想
 青淵先生が日米船鉄交換に関する争議仲裁員を委嘱せられたることは、前号既に報導し置きたる所なるが、右に関し此程米国雑誌「パシフイツク・マリン・レヴユウ」の需により一文を起稿せられたる由にて、之を得たれば左に掲ぐることゝしたり。
 余が此度米国大使モーリス氏よりの依頼に応じ、米国政府船舶管理局と日本造船会社との間に締結したる船鉄交換契約の規定に拠る争議の仲裁員たることを承諾したるに就ては、必ずしも余自身に其能力あるを信じて之れを引受けたるに非ずして、寧ろ却つて其の適任に非ざるなきやを恐れたるなり、然かも余が敢てホーン大佐の後任として之れが就任を諾したるに就ては、蓋し一条の歴史ありて存するなり。
 抑も日米両国間の親交増進を図るは余の多年努力する処にして、特に千九百九年本邦実業視察団を率ひて渡米し、米国各地を巡遊して幾多の代表的人士と会見したるの際、深く此感を強くし、爾来日米両国民の相互的理解を一層深からしめんことに満腔の熱心を傾注したり、次で千九百十四年桑港に於て開設せられたる巴奈馬太平洋万国博覧会を観覧の為め渡米したる際の如きも、遠く東部の諸都市をも訪問して、旧友との交情を温ため、彼我国交の親密を図かるが為めに腹蔵なき意見の交換をなしたり、当時余惟へらく、二国交情の親善を永続せしめんには、須らく其基礎を彼我相互の経済的利害の共通に置かざるべからずと、乃ち余は此事を紐育其他に於て幾多の有力なる実業家に告げ、且説くに支那の富源開発に関する日米共同投資の必要を以てしたり、而して余が此卑見は幸にして米国実業家等の賛襄を博し、爾後着々両国の経済的連鎖を深うするの結果を生じたるは余の欣幸とする所なり。余や実に日米の親交を増進せしめんが為めに、出来得る限りの努力斡旋を尽くすを以て自己の天職なりと信じ、苟も機会ある毎に常に此目的の達成に意を用ひざりしこと非らざるなり、而して這般米国大使よりホーン大佐の後任として船鉄交換契約に関する仲裁員たらんことを需められたる際、余は自身が其任に適当せざるの理由を以て、之れを辞退せんと欲したるも事苟も日米両国の利害に関する重大案件なるを思ひ、再考の末遂に其就任を諾するに至りたるなり。
 今や余は船鉄交換に関する仲裁員たり、然りと雖も、余は毫も仲裁員としての任務を執行するの機会に逢着せんことを期待するものに非ざるなり、換言すれば余は船鉄交換の契約に就き、今後当事者間に意見及解釈の相違を来たさゞらんことを切望するものなり、然り
 - 第52巻 p.600 -ページ画像 
と云へども将来不幸にして何等かの異論が相互当事者間に惹起せらるゝことありとせば、余は其任務を完全に執行する為めに満腹の熱誠を捧げ、極めて公平に事件の紛乱を匡し、以て日米両国の利益を維持するに努めんと欲するの決心を有す、余は仲裁員として米国政府の任命を受けたる身なりと雖も、必ずしも米国側の利益を曲庇するの挙に出づるの心なく、又日本臣民たるの理由を以て、必ずしも日本造船業者の利益のみに偏する事なく、唯だ至誠至公の態度を持して、以て事を裁断せんと欲するのみ、至誠至公之れ実に国際交誼の基礎的条件に非ずして何ぞや、余は玆に此任務を受くるに当り、其職責が更に一の方面に於て間接に日米両国の交誼を増進するの便宜あるべきを思ひ、心私かに満足の感を懐くものなり。

渋沢栄一伝記資料 第五十二巻 終