デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

2部 実業・経済

3章 商工業
8節 鉄鋼
1款 日本鋼管株式会社
■綱文

第53巻 p.5-9(DK530001k) ページ画像

明治45年2月24日(1912年)

是ヨリ先、白石元治郎等、鋼管製造事業ヲ起サントシ、栄一ノ意見ヲ求ム。栄一、之ニ賛同シ、発起人ニ加ハリテ、会社設立ニツキ種々援助ス。是日、栄一ノ名ヲ以テ、京浜実業家三十余名ヲ帝国ホテルニ招待シ、該事業企画ノ説明会開カル。栄一、出席シテ挨拶ヲ述ブ。


■資料

渋沢栄一 日記 明治四五年(DK530001k-0001)
第53巻 p.5 ページ画像

渋沢栄一 日記 明治四五年       (渋沢子爵家所蔵)
一月三十日 晴 寒
午前七時半起床入浴シテ朝飧ヲ食ス○中略 大川平太郎《(大川平三郎)》・白石元次郎二氏来《(白石元治郎)》リテ鉄管製造会社設立ノ事ニ付談話ス○下略


青淵先生関係会社調 雨夜譚会編 昭和二年十月十二日 【日本鋼管株式会社 現在副社長 白石元治郎氏談】(DK530001k-0002)
第53巻 p.5-6 ページ画像

青淵先生関係会社調 雨夜譚会編 昭和二年十月十二日
                    (渋沢子爵家所蔵)
    日本鋼管株式会社
              現在副社長 白石元治郎氏談
                   大川田中事務所五階に於て
日本鋼管は私が主唱して創立する事になつたのです。其時渋沢子爵の御意見を伺ひに行つた事がありますが、子爵は「日本に於て鉄事業は何んなものだらうか。困難な事業ではあるまいか」と云はれました。併し私が「日本には若松の製鉄所と釜石との二個所以外民業としての製鉄事業がありませんが、日本として此の民営製鉄業を興す事は必要ではありますまいか。諸先輩が誰も此事業に手を附けて居ない所を見ますれば、困難だとは思はれますが、私は一つやつて見度い考で御座います。それで甘く行かなければそれ迄だと覚悟致します。或ひは誰か引受けて呉れる人も出て参るかも知れませぬ」と申しましたら、子爵も私の意向の竪い所を諒とせられて「それではやつて御覧なさい。私も援助して上げよう」と申されまして、発起人の一人となられて種種御心配下され、大橋新太郎さんに尽力方御依頼下されました。斯んな関係から大橋さんは此会社の創立委員長として尽されました。尚ほ創立に際しては子爵は五百株を引受けて下さいました。但し創立後役員にはお成りにならなかつたと思ひます。
其後欧洲大戦中子爵が東洋製鉄会社の創立に骨折りになつた際の事です。大川さんと二人で、私は湯河原の温泉に子爵をお訪ねした事があります。其時子爵は斯んな話をなされました。「第一回アメリカ観光
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団に加つて渡米の際、彼の地でゼームス・ヒルに会見したら、ヒルが云ふには、渋沢さん、貴家は多くの事業を興され、種々の会社に関係なさつたと聞いて居ますが、未だ貴家が鉄事業に関係された事を耳に致しません。私は此地で鉄と鉄道に携つて来ました。私の考では、鉄事業は国家に重要だと思ひますが……と云つたが、自分も成程と感じた。それで私は事業界引退した今日も鉄事業に関係した訳だ」と。


日本鋼管株式会社創業二十年回顧録 今泉嘉一郎著 第七三―八〇頁 昭和八年一二月刊(DK530001k-0003)
第53巻 p.6-7 ページ画像

日本鋼管株式会社創業二十年回顧録 今泉嘉一郎著
                     第七三―八〇頁
                     昭和八年一二月刊
    第三章 本格的の会社創立運動
○上略
 一月○明治四五年二十一日 浅野氏の意見として、税金などの関係上合資を止めて株式会社と致したしとの申出あり、白石氏の判断に従ひ、書類を凡て株式会社の形体に改めた。其夜浅野氏は渋沢子爵に面会して本計画事業の説明をなした。
○中略
 一月三十日 大橋氏の注意に基き、白石氏は大川氏と共に渋沢子爵を訪問、最後の説明をなし、鋼管事業の創立に対し大に賛同する、と云ふ確答を得られた。子爵は日本製鋼所が創立当初には幾多の困難に遭つたが、遂に今日の成功を見るに至つた事例などを引いて、鋼管事業も初めは色々困難のこともあらうが、将来はきつと良からうと言はれたとのことである○中略
 二月八日 帝国ホテルに於て、主要なる関係諸氏を招待して晩餐を共にし、意見を交換した。来賓は渋沢子爵・浅野総一郎・大橋新太郎田中善助・植村澄三郎・岸本竜太郎・広瀬憘一・安部幸兵衛其他諸氏であつた。主人側としての大川氏・白石氏・予及伊藤氏は各位に対し説明に勉め、尚ほ隔意なき意見を求めて応答した。此時渋沢子爵はマンネスマン穿孔機の機能に就て繰返し質問された。尚製鋼工場は勿論棒鋼製造工場を是非附属さして、万一鋼管が出来ない時は、棒鋼製造でやつて行くことの安全方針を立てては如何と忠告された。大川氏・白石氏とも兎も角其方針に従ひ度しとの事にて、又もや予算の立て直しをするやうにと予に望まれた。
 二月九日 白石氏・伊藤氏とも予の旅館に集まり、改正予算の編成を助けられた。然るに午後に至り、再び帝国ホテルに緊急会合を開くことになり、大川・白石・大橋・植村・岸本・伊藤の諸氏と共に、昨夜の渋沢子爵の忠言に就て審議した。其結果として製鋼工場を持つことは論は無いが、棒鋼は止めた方が良からうと云ふ、大橋氏の意見に従ふことに一決し、尚ほ創立以来第五期迄の事業予算を立て置く事、其他に就て協議した。
○中略
 二月十四日 予は大川氏・白石氏と共に渋沢子爵を兜町事務所に訪ひ、子爵の忠告通り製鋼工場は必ず附属せしむるも、棒鋼工場は止めると云ふ事に就て承認を受けた。尚ほ子爵の指名に従ひ、約百人の京浜実業家中の名士に招待状を発し、来二十四日帝国ホテルに会合を求
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むることに決した。
○中略
 二月二十二日 白石氏・伊藤氏共、早朝仮事務所に来会し、発起人承諾証・株式引受証・株式申込証等の印刷手配をなす。曩に渋沢子爵の名を以て招待状を発したる京浜知名実業家約一百名中、昨夕までに渋沢事務所へ出席通知をなしたる者三十名に達した。
○中略
 二月二十四日 予定の通り、帝国ホテルに於て、渋沢子爵招待者三十余名の為、晩餐会が開かれ、子爵の挨拶に次で白石氏より事業企画の要旨を陳べられ、最後に予は技術に関する説明をなした。
○下略


渋沢栄一書翰 西条峰三郎宛(明治四五年)四月九日(DK530001k-0004)
第53巻 p.7 ページ画像

渋沢栄一書翰 西条峰三郎宛(明治四五年)四月九日 (西条峰三郎氏所蔵)
拝啓 益御清適奉賀候、然者兼而大川・白石両氏より御依頼申上候日本鋼管会社之株式募集ニ付、貴方実業者間ニ御奔走御心配之事ハ、今日大川氏被参候処ニてハ明後十一日同人及白石共貴地○名古屋ヘ罷出、地方有力之諸君ニ会同を請ヘ賛成之義可頼入ニ付而ハ、尚更其間之御尽力相願度と申事ニ御座候、元来銀行業者ニ於て新創会社ニ対し余り立入関係いたし候ハ不好事ニ候得共、さり迚其会社成立之上ハ取引上之関係も余所ニ見候訳ニハ相成不申候義ニ付、本業ニ迷惑不相生程度ニ於て、相応之添心ハ可然事ニ候間、其辺御含之上可然御取扱可被下候
右可得貴意匆々如此御座候 不宣
  四月九日
                      渋沢栄一
    西条峰三郎様
          梧下


鋼管王白石元治郎 井東憲著 第一六七―一七〇頁昭和一三年一二月刊(DK530001k-0005)
第53巻 p.7-8 ページ画像

鋼管王白石元治郎 井東憲著 第一六七―一七〇頁昭和一三年一二月刊
 ○第七章 日本鋼管の誕生
    三、用意周到
○上略
 白石氏が日本鋼管事業に一身を打込む決意をするまでの経緯は、氏の自伝中に、次のやうに語られてゐる。
『東洋汽船会社の仕事の関係上、私は西洋に屡々出かけて造船所や鉄工場などに出入りして居るうちに、鉄鋼業が国策産業の発展、国防の充実の為に大切なものであると云ふ概念を得た。私の同期生に今泉嘉一郎君といふ人がある。この人は日本に官立の製鉄所が八幡に出来た時、留学生として独逸にやられ、後ちに製鉄所の技師長になつた。この人が私に会ふ度び毎に、『日本は官立の製鉄所ばかりではいけない君等の手で是非民間に製鉄所を造つて呉れ。』と云つた。私は鉄の専門家ではないが、この事業が国家に取つて重大な仕事である事だけは頭にピンと来てゐた。だから、今泉君の言葉がいつも頭から離れないのであつた。ところが、明治四十四年になつて、今泉君は八幡を辞めて閑散な身になつたので決意を固められた。是非製鉄業を始めたいか
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ら、君一緒になつてやらうと勧めて来た。私は予て浅野翁に、独立して仕事をして見たいから其チヤンスがあつたら許して呉れと願つてゐたので、浅野翁もその積りでゐて呉れた。丁度東洋汽船の仕事が一段落着いた矢先きに、今泉君から勧誘があり大いに気分が動いたので、浅野翁にその話をして許しを得たいと云つた。すると浅野翁は、『鉄鋼は結構な仕事で、自分も昔から釜石の払下げを受けて見ようとか、何をやつて見ようとか、色々な事を企て、多少鉄の研究もしたが、中中むづかしい仕事だ。八幡などは投資に対して金利も要らないし、税金も払はないで済むといふ気楽なものであるに拘らず、毎年莫大の損ばかりしてゐる。それなのに、君がナマな金を以てやるのは実にむづかしい仕事である。まあ、よく考へて見たらどうか。』と言はれた。渋沢さんに相談して見ても、同じやうな事を言はれた。私は算盤を何遍も弾いて見た結果、どうにか行きさうな見込がついたので、浅野・渋沢両氏を改めて訪問して決意を述べ、『私がたとへやり損つたところで、誰か後継者が出るだらう。どうせ新しい事業は二代三代と変つた後に、始めて基礎が出来るものである。自分は犠牲者になる積りでやります。』とキツパリ云つた。と、浅野翁は『それだけの決心ならやれ。幾らかの手伝ひをしよう。しかし君は予て独立でやりたいと思つて居たので、私が余り金を出したり、口を利いたりすれば、君の仕事にならぬから少し位の株を持つてやらう。』と云つた。浅野に沢山株を持つて関係して貰へば直ぐ出来たのだが、翁からさう云はれると自分が嘗て独立して仕事をやりたいと云つた手前もある。今更女々しい事を云ひたくない。そこで先輩・朋友に頼んで、四万株で二百万円の会社にして、愈々製鉄業のスタートを切つた。時に明治四十五年。浅野が千五百株、渋沢が五百株、大川が二千株、大倉が千株、大阪の岸本が二千株、千株が五・六名と云つたやうな訳けで、色々骨を折つたが三万五千株しか纏らない。あとの株を、浅野と懇意だつた大川平三郎氏が、私を引張つて名古屋・静岡まで一緒に行つて勧誘して呉れた。名古屋では名士を集めて頼んだが、僅々二千何百株、静岡でも千何百株しか集らなかつた。仕方がないから、残りの弐千株ばかりを私が借金をして背負ひ込んで漸く纏めた。』
○下略


鋼管王白石元治郎 井東憲著 第一八七―一九〇頁昭和一三年一二月刊(DK530001k-0006)
第53巻 p.8-9 ページ画像

鋼管王白石元治郎 井東憲著 第一八七―一九〇頁昭和一三年一二月刊
 ○第八章 創業から欧洲大戦前後まで
    二、万難を排して
○上略
 渋沢子爵は、先に浅野氏より勧誘してゐたのであるが、大川氏と共に子爵を訪問し、精細な説明をなして、鋼管事業の創立に対し大いに賛成する旨の確答を得て、一段の力強さを感じたのであつた。
 この折、子爵は、日本製鋼所が創立当初には幾多の困難に遭遇したが、遂に今日の成功を見るに至つた事例を引いて、鋼管事業も初めは色々困難にも遭はうが、将来は屹度良からうと云はれ、大いに激励されたのであつた。白石氏は、種々研究熟慮の結果、消極的の如くでは
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あるが、実は安全にして質実な方針を採り、機械代価は充分に見積り事業費を八十五万円に増加するが、配当は当分一割五分を超過せずと云ふ献策をした。充分な研究を以て確実な仕事をするといふのが氏の題目《モツトー》である。
 この新草案を賛成諸氏に届け、二月八日に帝国ホテルに於て主要な関係者を招待し、晩餐を共にしながら意見の交換をなした。来賓は渋沢子爵・浅野総一郎・大橋新太郎・田中善助・植村澄三郎・岸本竜太郎・広瀬憘一・安部幸兵衛その他数氏であつた。
 主人側は白石・大川・今泉・伊藤の諸氏であつて、白石氏らは各位に対して事業の説明に勉め、尚ほ隔意のない意見を求めてこれに応答した。
 この時、渋沢子は、マンネスマン穿孔機の機能に就いて繰返し質問された。猶ほ、製鋼工場は勿論棒鋼製造工場を是非附属さして、万一鋼管が出来ない時は、棒鋼製造でやつてゆくことの安全方針を立てゝは如何と忠告された。白石氏はこの案に賛成し、その方針で進むこととなつた。
 ところが、事務所に集つて予算を立てゝ見ると、もう一度この問題に就いて研究する必要を認めたので、翌日又帝国ホテルに緊急会議開き、白石・大川・大橋・植村・岸本・今泉・伊藤の諸氏の出席の下に渋沢子の忠言の審議を行つた。
 その結果、大橋氏の意見に従つて、製鋼工場を持つことは勿論だが棒鋼は止めることゝなつた。
 かくて、二月十二日帝国ホテルに於て、創立委員会議を開き、定款をはじめとして一切の書類を完成した。
 それと共に、白石氏は大川・今泉氏と一緒に、兜町の事務所に渋沢子爵を訪ね、棒鋼工場を止める件について承認を求め、尚子爵の指名に従つて、約百人の京浜実業家中の名士に招待状を発し、二十四日帝国ホテルに会合を求むることを決定した。
○下略