デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

2部 実業・経済

3章 商工業
10節 化学工業
5款 匿名組合志賀工業所
■綱文

第53巻 p.175-178(DK530032k) ページ画像

大正14年7月1日(1925年)

是ヨリ先、林学博士志賀泰山、木材防火剤ヲ発明シ、之ガ特許ヲ得テ志賀工業所ヲ設立経営シ来レルガ、是日、組織ヲ改メテ匿名組合トナス。栄一、資ヲ投ジテ之ヲ援助ス。

尚、当組合ハ昭和二年更ニ株式会社ニ改組シ、後、日本耐火防腐株式会社ト改称ス。


■資料

(増田明六)日誌 大正一三年(DK530032k-0001)
第53巻 p.175 ページ画像

(増田明六)日誌 大正一三年       (増田正純氏所蔵)
十一月十三日 木
朝、高松豊吉・志賀泰山両博士と、兜町事務処に会談す、志賀博士は木材防腐済発明《(剤)》を以て有名なるが、今般新に耐火木材注射液を発明したるニ付き、渋沢子爵の力に依りて、之を会社組織に為さんとの希望談あり
○下略


高松豊吉談話筆記(DK530032k-0002)
第53巻 p.175 ページ画像

高松豊吉談話筆記           (財団法人竜門社所蔵)
                 昭和十一年十二月十六日 於高松氏邸 山本鉞治・山本勇
    匿名組合志賀工業所設立に就て
 志賀工業所が創立されるに際しては、渋沢さんと浅野とで十五万円出されました。浅野の方は渋沢さんに勧められて幾らか出したもので主に出されたのは渋沢さんでした。
 しかし、十五万円では何も仕事は出来ず、地所を買ふといふ訳にもいかないので、深川の豊住町に或人が持つてゐる千坪ばかりの地所を借りて、最初は匿名組合で志賀工業所を作つたのです。
 志賀といふのは林学博士志賀泰山といふ人の名字からとつたものでこの人は永い間自分の家で研究をしてゐて、防火剤の発明をしたのです。そして方々で其の研究を演説して廻り、その内一番よくやつたのは帝国発明協会でしたが、此処では場所が狭いので、つけ木に防火薬を塗つて実験する位のことしか出来ない、つけ木ではなる程其薬を使ふと燃えない、これはよいといふことになつて、会長の阪谷男爵が之は大変有益なものだから、もつと大仕かけでやつたらどうかと私に御相談になつた。ところが私自身も防火剤については研究してをりましたので、志賀さんのものでもよからうと申上げ、尚ほ渋沢さんに相談してみると忽ち賛成になつて、知合ひの方々にも勧められ、自身も十五万円程出して下さいました。その折渋沢さんは大川平三郎さんにも出資して貰ふようにお話して下さつたが、大川さんは計画が粗雑だからとか、自分には分らぬからとか云つて出しませんでした。
○下略
 - 第53巻 p.176 -ページ画像 


株式会社志賀工業所設立趣意書(DK530032k-0003)
第53巻 p.176 ページ画像

株式会社志賀工業所設立趣意書 (日本耐火防腐株式会社所蔵)
拝啓 時下益御清祥奉賀候、陳者匿名組合志賀式防火防腐工業所ノ儀去大正十四年七月一日設立以来玆ニ約弐ケ年ヲ経過シ、其間幸ニ防火防腐共ニ相当ノ注文ヲ得テ毎期約壱割ノ配当ヲ継続致候ヘ共、唯資金不充分ノ為往々事業進行上ニ支障ヲ来タスノ遺憾アルノミナラズ、到底将来ノ発展ヲ期シ難ク、殊ニ匿名組合ニテハ事業経営上不便ノ点尠カラス候ニ付、此際資本増加ト共ニ株式組織ニ改メ、株式会社志賀工業所ノ名称ニ依リ確実ニ防火防腐ノ事業ヲ経営シテ、当初ノ目的達成ニ努力シ以テ其効果ヲ収メ度ト存候○中略
  昭和二年六月五日
                株式会社志賀工業所発起人総代
                     越山太刀三郎
                     高松豊吉
                     清水釘吉
                     山崎亀吉
                     清水一雄
                     倉田耿介
          殿


株式会社志賀工業所株式申込書(DK530032k-0004)
第53巻 p.176 ページ画像

株式会社志賀工業所株式申込書 (日本耐火防腐株式会社所蔵)
    発起人ノ住所氏名及其引受株数

  株数    住所○略ス      氏名
  六八五 …………………………… 清水釘吉
  四〇〇 …………………………… 山崎亀吉
  三五〇 …………………………… 清水一雄
  二〇〇 …………………………… 浅野総一郎
  二〇〇 …………………………… 越山太刀三郎
  二〇〇 …………………………… 倉田耿介
  二〇〇 …………………………… 渡辺得男
  二〇〇 …………………………… 高松豊吉
  二〇〇 …………………………… 小野金六
  二〇〇 …………………………… 山室方直
  一七五 …………………………… 武市泰輔
  一七五 …………………………… 島田乙駒
  一七五 …………………………… 今付賢太郎

   ○右ニ渡辺得男ノ名アルハ、恐ラク栄一ノ代理トシテ発起人タリシモノナラントイフ。(渋沢同族株式会社鈴木勝談)


日本耐火防腐株式会社書類(DK530032k-0005)
第53巻 p.176-177 ページ画像

日本耐火防腐株式会社書類 (日本耐火防腐株式会社所蔵)
拝啓 盛夏の候弥々御清栄奉慶賀候
陳者小生が初めて木材防腐工場を開始せるは明治卅四年に之あり、其後間もなく小生の発明を実施する木材防腐会社は二ケ所創立致され候も、初めて木材防火の特許を得たるは稍遅れて明治四十年であり、防
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火兼防腐工場たる志賀工業所を創立したるは漸く大正十三年なり、而して其工場は間もなく匿名組合志賀工業所と更め、之が営業主任及技術員には十数年間養成せる経験ある者を撰定して其衝に当らしめ候処海軍関係を始め諸官公庁及民間に於て其効果を認められ、不燃性木材の需用漸時増進せり、超えて昭和二年夏に至り、株式会社志賀工業所と名義変更と共に、同社と小生との間に契約を締結して、小生の所有に係る防火剤・防腐剤・防火防腐剤合せて九種及薬液注入缶等の特許権一切並に此後の発明をも一括して同社に実施せしむることゝ致し、工場長及技術員には従来の熟練者を据え置き、小生は会社の営業には一切関係せずして、専ら小生の素志たる発明の改良拡張に努め居りたり○中略
如上の次第に付、乍遺憾去る五月十日附を以て株式会社志賀工業所との特許実施契約を解除致候、従て此後同会社に於て製造販売する物品は小生発明のものには無之候に付此点御諒承を賜り度
○中略
 追白略
  昭和五年七月十日
                       志賀泰山


工学博士高松豊吉伝 高松博士祝賀伝記刊行会編 第三三五―三三六頁 昭和七年三月刊(DK530032k-0006)
第53巻 p.177-178 ページ画像

工学博士高松豊吉伝 高松博士祝賀伝記刊行会編
                    第三三五―三三六頁
                    昭和七年三月刊
 ○第十五章 会社
    日本耐火防腐株式会社
○上略
 高松博士が明治二十一年元東京大学の講義室で防火法と消火法とに就て講演を試みたとき、予て同博士が造つた防火木材の標本二・三種を一覧に供し、これに火を触れても燃えないことを示され、又其製法の概略を説かれたが、其当時何人も防火法の実施を試みるものはなかつた。
 其後二十余年を経て、林学博士志賀泰山氏は木材の防火法に就て研究し、其防火剤の特許を得て之を公表し、高松博士の賛助と帝国発明協会の援助に依り資金を調達して、大正十四年七月匿名組合志賀工業所を設立し、其工場を深川区豊住町に置き、防火・防腐の両事業を開始した。
 斯くて海軍省から軍艦用防火木材の製作、鉄道省から鉄道の枕木、民間から電柱の防腐作業等を引受け、熱心に其業務に従事したが、防火木材の多量製作に就ては充分の経験なき為め効果を奏せず、又資金欠乏の為め其試験研究が出来ないので、工業所創立二ケ年の後更に資金を増して株式組織に改め右両事業を継続した。然るに偶々志賀博士が病気に罹りて職務辞退の止むなきに至つたが、予て高松博士が同工場で純国産の原料を用ひて熱心研究の結果発明した防火法の特許番号第七九七三七号があつたので、昭和五年四月此特許を応用して横須賀海軍工廠からの依託に応じ、多量の軍艦用防火木材を製作し、同年十一月其全部を厳格な検査を受けて納入したが、其成績従前のものに比
 - 第53巻 p.178 -ページ画像 
し遥に優秀だと掛官から賞揚された。又本年も引続き同工廠から同様の註文を受けたが、是れ全く高松博士の学術的研究と実地指導の効果に依るものである。
○下略