デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

2部 実業・経済

3章 商工業
14節 取引所
2款 大阪株式取引所
■綱文

第53巻 p.461-465(DK530084k) ページ画像

明治43年4月22日(1910年)

是日栄一、岩本栄之助等ノ懇請ニヨリ大阪株式取引所ヲ視察シタル後、灘万楼ニ於ケル招宴ニ出席シ、「本邦公債制度の起原」ト題シ演説ス。


■資料

渋沢栄一 日記 明治四三年(DK530084k-0001)
第53巻 p.461 ページ画像

渋沢栄一 日記 明治四三年       (渋沢子爵家所蔵)
四月二十二日 曇 軽暖
○上略 十時株式取引所ニ抵リ、中買人ノ立会ヲ一覧ス、定期取引ト直取引ト両所ニ区別セラレ、定期場ハ多キ時ハ二千人来会スト云フ、畢テ少ク休憩シ、十一時半灘万楼ニ抵リ、浜崎・田中其他ノ理事及中買中ノ委員等来会シテ一場ノ談話ヲ請ハル、依テ公債ノ必要ト、我邦ニ公債証書ヲ発行セシ沿革ト及之ニ従事スル人ノ心得方、且其人格等ニ関シ縷々訓諭的演説ヲ為ス、後午飧ノ饗応アリ○下略


竜門雑誌 第二六四号・第四七頁 明治四三年五月 ○青淵先生関西紀行(続)(DK530084k-0002)
第53巻 p.461 ページ画像

竜門雑誌 第二六四号・第四七頁 明治四三年五月
    ○青淵先生関西紀行(続)
  前号に掲載したる「青淵先生関西紀行」の中、名古屋までは随行員増田明六君の実記に係り、名古屋以後の分は予定の概要にて実際の紀行と違ふ所少からざるを以て、田中稔・西条峰三郎・松井万緑諸君の通信に基き更に実際掲ぐることゝせり
○中略
△二十二日○四月(金曜日)
大阪株式取引所仲買人岩本栄之助氏等の懇請により、午前十時株式取引所に到り、理事長浜崎栄三郎・理事田中太七郎諸氏の案内にて定期並に直売買の状況を視察の後、同所の招待に応し、灘万楼にて浜崎・田中・飯田・寺井各理事及阪口・浜崎(健吉)・岩本・柳・野村等重なる仲買人諸氏と昼餐を共にし、一場の演説を為し、終て午後二時半より大日本商業学会の懇請に応せられ、中の島公会堂に於て約一時間に亘る演説を為されたり。
午後五時半より当地銀行家諸氏の招待により、銀行集会所に於ける晩餐会に臨まれ、午後十時帰宿。
令夫人・令嬢には大川英太郎氏の案内にて文楽座及朝日座を見物せられたり。
○下略


竜門雑誌 第二六五号・第一〇―一四頁 明治四三年六月 ○本邦公債制度の起原 (附)銀行及取引所創設事情 青淵先生(DK530084k-0003)
第53巻 p.461-464 ページ画像

竜門雑誌 第二六五号・第一〇―一四頁 明治四三年六月
    ○本邦公債制度の起原
      (附)銀行及取引所創設事情
                      青淵先生
 - 第53巻 p.462 -ページ画像 
  本篇は四月二十二日大阪株式仲買有志者の招待会に於ける青淵先生の談話大要なりとて大阪銀行通信録に掲載せるものなり
只今も申上げた通り、私の此度の旅行は用事で無く、昨年亜米利加へ御一緒に参つた方々から渡米実業団の集会を名古屋で開くから来ないかとのお話で同地迄参り、夫より山田・芳野・高野・和歌の浦を経て久しく御当地へ来ないから、支店の営業の模様も一寸見たいと存じて来ました処が、昨日岩本君から取引所の様子も見て呉れとのお話でありました、私は日本の公債と云ふものには最初から関係して居たから日本の公債の起りはどう云ふものであつたか、又将来の覚悟はどうあつたらよいかと云ふ私の希望を序ながら申上げたいと思つて、出た訳で御座います、然し私のお話は悪くすると落語家の致す義太夫好きの家主の如く、自分にばかり愉快で、皆様方は百も御承知、却て御迷惑となるかも知れませんが、暫く御清聴を煩したいと思ひます、只今浜崎君の御案内で取引所を拝見致しましたが、其事務の整頓したる事は実に立派なもので、実際見たところでも二千人からの人が一堂の下に集まつて居て、公債株券の売買をやつて居るのは、世の進むと共に一方に於ては諸君の御尽力が大に顕はれて居るものと思いまして、国家の為めに悦ばしい次第であります。
日本の財政計画を完全に立て、公債証書の流通を盛にしたいと云つて立案されたのは故伊藤公爵です、公爵は明治三年に亜米利加へ行かれて、全国の財政状況に鑑み、我国にも是非公債政策を実行したいと云つてよこされた、私は其時に大蔵省に居りまして、伊藤公の此提案に大賛成を致しました、私の公債と云ふ事に考を持つた始めは、私が旧幕府の人として民部公子のお供をして仏蘭西へ行きました、一行は二十八人でしたが、慶喜公が政権を返上せられた為めに幕府は大変革があつて一行の多数は明治元年十月に日本へ帰る事になつたが、私の考へでは幕府は無くなつても日本が潰れる訳ではない、民部公子も折角出て来られたものであるから、四・五年は仏蘭西で学問をさして日本の為めに役に立たしたいと思ふた、其時に金が丁度弐万円程あつたから、是を如何したらよいかと云ふ事を、当時仏蘭西政府から民部公子に附けて居たコンマンダー・バンソンと云ふ人に相談をした所が、夫れは公債証書を買ふに限る、年々四分や五分の利息は呉れる、又売りたい時はブールスに行けば何時でも売れると云ふ事であつたから、同人とブールスに行つて公債を買入れた、其種類は半分が政府公債で、半分が鉄道公債であつたと思ひます。
夫れから暫く立つと、民部公子が水戸家を相続されることになつて、日本から迎ひに来たから、最初の計画を止めて日本に帰られるに付、自分も帰らなければならん、前に買入れた公債も売らねばならん、ブールスに行つて丁度買入れてから半年後に売た所が、政府公債の方は買入れた時と余り直段が変らなかつたが、鉄道公債の方は相場が上つて居て五六百円儲つた勘定になりました、此時に成る程公債と云ふものは経済上便利なものであるとの感想を強くしました、私は前後洋行を三度しました、最初が此時と、次が明治三十五年、其次が昨年の渡米実業団で、最初の四十四年前の旅行は非常に不便極まるものであつ
 - 第53巻 p.463 -ページ画像 
て、其次はいいかげん、第三回目の渡米実業団は到る処で非常なる歓迎を受けて光栄ある旅行をしましたが、自分の一身上一番効能のあつた旅は四十四年前の洋行と思ひます、此の時が銀行を起す事とか、公債を発行するとか、外国では役人と商人の懸隔が日本の如くでない、是は何とかしなければならぬと云ふ事に気が付た、是は余程効能のあつた事と思ひます。
夫れから前に戻つて、伊藤公の亜米利加から云ふてよこされた事に敬服した、亜米利加も南北戦争の財政困難を救ふ為めに国立銀行制度を起したが、日本にも之を起さねばならぬと考へた、其時には大蔵の大輔が今の井上さんで、私は井上さんに就て職務を執て居りまして、井上さんに御相談して、是非四つの箇条を実行したいと思いました、其第一は国立銀行制度を作る事、是と同時に公債を発行する事、是は福地源一郎氏等を相手に取調べをしました、次は明治四年七月十四日廃藩置県の始末を附ける事、是は頗る大問題で、此始末に付て先づ第一に、諸藩が物持ちから借りてある債務を如何に処分するか、是は天保八年水野越前守が、今日限り借用証文に棒を引て仕舞うと云う例を用ひ、其以後のものは元金年賦なしくづしとし、其次のものを利息つきの公債としようと云ふ事になつた、其が日本での公債の始まりで御座います。
是は今迄に有つた借金を形をかへたに過ぎないので、夫れと同時に士族に対しての禄制を変更したいと云ふ大問題で、井上さんも躊躇されましたが、是非共何んとか始末を付けねばならん、夫れには財源が無ければならんと云ふので、明治四年に吉田清成と云ふ人を英国へ遣つて外国債を起した、其前に明治二年に京浜鉄道を作るに付ヲリエンタル・バンクの手を経て倫敦のレエーと云ふ人に百万磅を借りた、是は借りた方の人は相対借用の積りで居た所が、貸した方の人はそうでない、夫れから訴訟をして公事は勝たが、矢張りレエーと云ふ人が公債として世間に売出し、其中間に入りて幾分の利益を取た、夫れからが前申した吉田清成と云ふ人の百万磅の公債で、是が即ち禄制変更の元資金となつたので御座いまして、諸藩の借金と引換へたるものを旧公債、新公債の二種にしました、夫れから内地の公債は明治十一年に始めて起したが、其初めには経済思想が至て幼稚であつたものだから、こんな書付を貰つて是が金になるかならぬかを疑つた位でありましたが、次第に価を増して信用も出来て来ましたから、是を拡張する事になりました、然し此頃には井上さんも罷められて私も民間に居りまして、此議に与かられたのは大久保さんと大隈さんとで御座いました。是より先銀行の方はどうなつたかと申しますに、明治五年に第一銀行が出来、横浜に第二、大阪に第三、新潟に第四、鹿児島に第五と云ふ順序に段々銀行も出来、政府も随分力を添へては呉れましたが、何を申すも其時に日本は金銀の比価が定まつて居りませんで、総て支那の銀相場に依て動くと云ふ有様で、支那人や外国人が此紙幣を買て遠慮なしに正貨と引換へに来る、是ではならんと云ふので、遂に紙幣発行を止めると云ふ事になりました、夫れから政府の紙幣を以て銀行紙幣と引換へると云ふ議が起り、明治九年には銀行条例の修正が出来まし
 - 第53巻 p.464 -ページ画像 
て、夫と同時に有価証券の売買をする処を立てると云ふ必要が起りました、然るに其頃司法省に玉乃と云ふ人があつて、なかなかの論客で取引所にて公債株券の延取引をするのは正当の商売でないと云ふ議論で、伊藤さんや井上さんは此論には反対でしたが、何分司法省で聞かんと云ふのであるから如何ともする事が出来ません、然るに明治七年頃司法省の御傭ひで仏蘭西人のボアソナードと云ふ人が来て、玉乃さんは第一番に予て懸案になつて居る延取引と云ふものに対する同氏の意見を聞かれた所が、ボアソナード氏は少しも差支ないと云ひ、玉乃さんはあらゆる反対議論をして見られたが、遂にボアソナード氏の為めに自説を破られて成程と感じられ、是れまで私は取引所は立てゝも差支ない、玉乃さんはいかんと云ふので、数年間に亘て議論をして居た事を思い出されたと見へ、其頃銀行者になつて居る私の所へ来られて、取引所の議論は私の敗けである、大ひに悪るかつたから今日は詫びに来たと云はれた事がある、夫から明治十一年に取引所を設立しても差支ないと云ふ御許可が出て、東京で私が発起人となつて取引所を起し、御当地は慥しか五代さんが発起人となつて取引所を起されたと思ひます、私の取引所の関係は種々の原因から暫くにしてやめましたが、明治の初年に公債と銀行の起りと、引続いて取引所の起因は只今申し上げた通りで御座います、而して斯る立派なる起因を持て居る取引所で、公債とか株券とか云ふ立派なる商品を扱ふ立派なる地位名望のある可き筈の仲買人の、現時の社会に於ける地位は如何でありますか、御当地のお方々には未だ御懇意も少なし、決して左様の事はありますまいが、東京の仲買人の内には往々識者の謗りを受ける様な言語行動をした人もある、是は決して商売の罪で無くして、従事する人の心掛けと行ひとにより、忌む可きものともなり、又立派なるものともなる、どうぞ皆さん思想行動を共に進めて行つて、財政上の活動力を益々敏捷堅実ならしむる様に願いたいと思ひます、私はふだんから感じて居ります所と斯くありたいと思ふ事を御遠慮なしに述べました、決して皆様の悪口を申上げるのではありませんから、呉々も其辺は誤解の無い様に願ひます。


(田中太七郎)書翰 西園寺亀次郎宛 (明治四三年)五月五日(DK530084k-0004)
第53巻 p.464-465 ページ画像

(田中太七郎)書翰 西園寺亀次郎宛 (明治四三年)五月五日
                (株式会社第一銀行大阪支店所蔵)
拝復 如仰新緑之砌御清昌奉賀候、陳れは貴行頭取御来坂の節ハ種々御配慮を忝うし御厚志奉深謝候、其際陪食乃栄を得候人名ハ左の通りニ御坐候間、貴諭に従ひ御通知申上候、右不取敢貴酬迄如斯御坐候
                           拝具
  五月五日
                      田中太七郎
    西園寺亀次郎様
          案下
  取引所
            *
   淡崎永三郎    田中太七郎
   *        *
   飯田精一     寺井栄三郎
 - 第53巻 p.465 -ページ画像 
   *
   増山忠次
  仲買人
            *
   坂口彦三郎    浜崎健吉
   小川平助     中村秀五郎
   岩本栄之助    柳広蔵
   井上徳三郎    野村徳七
   浅井辰蔵
   ○*ヲ付シタル氏名ハ鉛筆ニテ抹消シアリ。


(田中太七郎)書翰 西園寺亀次郎宛 (明治四三年)六月一日(DK530084k-0005)
第53巻 p.465 ページ画像

(田中太七郎)書翰 西園寺亀次郎宛 (明治四三年)六月一日
                (株式会社第一銀行大阪支店所蔵)
貴墨拝読益御清福奉大賀候、さて予て御配慮ニて渋沢男爵の演説筆記を掲載せる銀行通信録十五部御恵贈ニ預り難有落手仕候、不取敢右御挨拶迄如此ニ候 草々頓首
  六月一日
                        太七郎
    西園寺賢台
        侍史