デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

  詳細検索へ

公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

2部 実業・経済

3章 商工業
17節 貿易
5款 栄一ノ貿易ニ対スル意見
■綱文

第54巻 p.30-43(DK540013k) ページ画像

 --


■資料

竜門雑誌 第二七九号・第四九―五〇頁明治四四年八月 ○外米輸入減税に就て 青淵先生(DK540013k-0001)
第54巻 p.30 ページ画像

竜門雑誌  第二七九号・第四九―五〇頁明治四四年八月
    ○外米輸入減税に就て
                      青淵先生
  本篇は青淵先生が読売新聞記者の請ひに応じ語られたるものにて七月卅一日の同紙上に掲載せるものなり。(編者識)
 外国米の輸入税を撤廃したりとて、内地の農民が疲弊し、若くは苦痛を感ぜざる以上、斯る関税は寧ろ全廃して其輸入を容易ならしむるに如かず、由来余は、極端なる保護貿易の弊多くして、自由貿易の寧ろ利多きを認むるもの也、現に朝鮮に於ける五分の移出税が如何に同地の農業を萎靡せしめつゝあるかを知らば、我国に於ても人為的の関税政策が、直接間接に我が農業発達を沮害しつゝあるかを知らむ、此意味に於て七月二十九日発表せられたる外米の関税軽減は、其挙頗る妥当なるを信ずと雖も、其実施期を九月三十日までと限りたるに至つては、蓋し姑息の弥縫策たるを免かれず、左れど目下の危急を救済せむとする一時的方法としては、固より無きに勝れり云々。


竜門雑誌 第三四二号・第二二―二八頁大正五年一一月 ○戦後の貿易発展策 青淵先生(DK540013k-0002)
第54巻 p.30-34 ページ画像

竜門雑誌  第三四二号・第二二―二八頁大正五年一一月
    ○戦後の貿易発展策
                      青淵先生
  本篇は十月一日発行の雑誌「実業之世界」に掲載せるものなり
                        (編者識)
      △貿易政策の二大派
 今更事新しく私より説明するまでもなく、貿易政策には、由来二大派がある。自由貿易論と保護貿易論とが即ち其れで、自由貿易論は一名を「マンチエスター」学派と称せられ、大隈侯の如き、当初に自由貿易論者であつた。民間の学者では故法学博士田口卯吉氏が主として其の主宰せる『東京経済雑誌』に拠つて、自由貿易論を唱道したものだ。英国は昨今稍々保護貿易政策に傾きかけては来たが、主義として自由貿易を国是とする国家である。
 貿易は自由政策を是とするか、将た保護政策を利ありとするか――全世界を通じて一列一体に之を決すべきものでは無い。国内の産業が既に充分の発達を遂げた英国の如き国家にあつて、猶ほ極端なる保護政策を維持すれば、之が為に却て産業の進歩は阻害せられ、品質の競争に於て、内国製品は絶えず外国製品の威嚇圧迫を受け、内国の産業に保護を加ふる事愈々多くして、却て外国製品の輸入を誘致する如き奇観を呈するに至る憂無きにしも非ず。
 さればとて、産業の猶ほ幼稚なる国家に於て、英国の如き自由貿易政策を維持すれば、内国製品は常に外国製品に圧倒せられ、国内の産業は如何に長歳月を経るも遂に発達の余地なく、為に年々歳々多額の輸入超過を以て終らねばならぬやうにもなる。
 - 第54巻 p.31 -ページ画像 
 要するに、自由貿易政策を是とするか、将た保護貿易政策を是とするか――之は其国の産業状態如何によつて決せらるべき問題で、米国の如き国民の自由を愛求すること遥に英国人に勝るものあるに拘らず猶ほ自由貿易政策を取らず、保護貿易を以て国是とする所以は、全く其の国情を異にするの致す処である。幼稚なる種類の産業に対しては国家が多少の保護を之に加へぬと、その産業は遂に発達進歩の機会を失ひ萎縮してしまふやうになるもの。この点が、私と故田口博士と意見を異にしたところで、同博士とは明治十二年『東京経済雑誌』の創刊当時以来久しく議論を戦はしたものであるが、私は国情を無視せる保護貿易政策にも亦同様の自由貿易政策にも共に反対で、国内の産業が猶ほ幼稚なる間は、その種類に応じ国家より適当の保護を加ふる必要を認むるものである。これは、禿山に樹木を植付けるに当つて、種苗の間は之に適当の保護を加へねばならぬのと同じ道理である。種苗でも既に成長して大木に成つてしまへば、もう保護の必要無く、保護が却て蛇足になる。
      △器械工業と理化学工業
 日本の貿易も近年頗る殷賑を極はめ、海外輸出の如き著しき増進を見るに至つたが、日本よりの輸出品には、依然として欠工の材料品多く、充分に加工した上で製品として輸出せらるゝ物貨は、まだまだ少額である。器械工業の如き、理化学工業の如き、猶ほ幼稚の域を脱し得ぬ。欧洲戦争の勃発以来、染料・薬品の如き化学工業品が、独逸よりの輸入を絶たれて、一時戦前に於ける市価の五倍或は十倍に騰るに至つたのは、是れ明に本邦の化学工業が頗る幼稚の状態にあるを語るものである。器械工業の如き又素より然り、斯く日本の器械工業と理化学工業とが、幼稚の状態にある間は、之に適当の保護を国家より加へるやうにせぬと、決して充分の発達を遂げ得らるゝものでは無い。
 一国を富まし、国民の利益幸福を増進するには、加工の少ない材料品を輸出するのみでは駄目である。器械工業或は理化学工業によつて加工せられた製品を、自国用は総て国内にて供給し、且つ之を巨額に輸出し得るやうにならねばならぬ。器械工業品乃至は理化学工業品が国民の利益幸福と如何に重大の関係を有つて居るものであるかは、染料や薬品が欧洲戦以来品薄の為め甚しく騰貴せる一事のみによつても之を知り得られる。然し日本に於て将来之が発達進歩を望まうとすればどうしても当分の内多少の保護を国家より之に加ふる必要がある。
 欧洲戦の結果、独逸の海外貿易が中絶してしまつたので、日本は其虚に乗じ、従来独逸製品の得意先であつた地方を日本の貿易勢力圏内に収め、独逸製品に代つて日本製品を売り込み得らるゝ事となり、之に軍需品の輸出なども加つて、近時日本の輸出貿易は著しく増進し、輸出超過に次ぐに輸出超過を以てする盛況に達して居るが、これは一時の変態で、戦後も猶ほ依然として今日の盛況を持続し得らるゝや否なやは疑問である。当業者も政治家も、日本の輸出貿易をして、欧洲戦争の終局後に於て猶ほ今日の盛況を続持せしめんとするには、大なる調査攻究を要する。
      △日本雑貨と印度方面
 - 第54巻 p.32 -ページ画像 
 先般、印度ボンベイの商人で、その父の代より日本と関係あるラタン・ターター氏と会見して聞知せる処によれば、欧洲戦勃発以来、日本製の雑貨類が大分多く印度方面に輸入せらるゝに至つたさうだが、例によつて粗製濫造の評判が高くなつて困るとの事であつた。同氏の言によれば、かく日本製品殊に大阪・神戸方面の製品が、粗製濫造の譏を受くるに至つた所以は、日本商人にも欠点はあるが、又印度商人にも欠点があるからだとの事である。はじめ、独逸品の輸入が印度に杜絶えるや、印度商人は独逸製品を見本として日本に送り、之に代るべき日本製品を注文したのだが、仕入値段が従来の独逸製品と同一では、印度商人に利潤が少ないので、多少低下するやうにと懸合つたものである。日本商人も新に販路を拡張し得らるゝ利益があるので初めのうちは見本通りの品を独逸品よりも安価に引受けて輸出して居つたものだが、印度商人のうちには更に安価に仕入れて、更に多くの利潤に浴せんとするものが現れて、之を日本商人に懸合つて試ると、又日本商人のうちにも之を引受けたものがある。然し、見本通りの製品を引渡したのでは、結局引合はぬことになるので、自づと見本と違つた粗製濫造の商品を送り出すことになつたのだ、斯くして、益々安い原価の注文が入り込むと共に、品質は最初の見本と甚しい距離のある粗製濫造品に堕落し、それが遂に日本製品は粗製濫造なりとの評判を高からしむるに至つた原因である。日本に若し輸出商人の堅固なる組合があつて、見本通りの製品を安い引合はぬ値段で懸合はれた時には、何れの商人も引合はぬから注文に応じ得られぬと断然跳ねつけてしまひさへすれば、日本製品は今日の如くに声価を落すやうな事が無かつたらうとは、ターター氏の言であつた。日本の輸出商人は、大にこの点に就き考慮し、初めから引合はぬと思はるゝやうな注文は一切之を受付けず、引合ふ範囲内に於ける最低値段に於て注文に応じ、見本と違つた品質の悪い物貨を輸出せぬやうに心懸くべきものである。
      △日本製品の不利益
 物貨を低廉の生産費で仕上げて売り出さうとするには、申すまでも無く、大仕掛の生産を行はねばならぬものである。米国の如きは世界に稀なる大国で、何か一つ売行の好いものを製造すれば、国内の需要だけでも、既に驚くべき巨額に達する。その結果は頗る非常の大仕掛によつて、その物貨の生産を経営し、単価を最低限度まで、引き下げて安く売捌き得られることになる。随つて、外国市場に於て他国製品と競争しても、その値段によつて、優に勝利を占め得らるゝ利便がある。例令ば鉄道機関車の如き、何か一つ新型を案出して之が見本を作らうとすれば、為に少なからぬ資本を要するが、米国の如く鉄道の幹岐線に完全なる聯絡があつて、同一列車を如何なる線にも引き込み得られ、且つ全国の鉄道に亘り機関車の需要盛んなる大国にあつては、一つの型が旨くアタリさへすれば、優に見本の製造に費消した資本を取り返へし得るのみならず、大なる利益をも占め得られる。随つて、外国にも安い値段で輸出し、他国の機関車と競争して勝を制し得らるることにもなる。
 独逸や英国は米国の如き大国では無いが、欧米の諸邦と人種を同ふ
 - 第54巻 p.33 -ページ画像 
し、又風俗習慣等をも略々等ふするので、内国の需要に応ずる製品を以て、欧米他邦の需要に応じ得らるゝ利便がある。随つて、大仕掛の生産業を起しても、優に之を経営し得られ、その製品が自然安くなり他国の市場に於て勝を制し得らるゝ利便を持つて居る。そこにゆくと日本は頗る不利益の位置にあるもので、自国の邦土が狭くつて内国の需要が少額なる上に、隣国には未だ欧米に於けるが如き購買力無く、欧米諸邦とは人種及び風俗習慣を異にする不便があるので、一々各国に就き充分の調査攻究を重ねたる上、その邦々の需要に投ずるやうな物貨を製造せねばならぬことになる。随つて、日本では、如何なる種類の産業でも、米国或は独逸或は英国に於けるが如き大仕掛の生産を営み得られず、その結果は生産費を多くし、日本品は他国の市場に於ける価格の競争に於て、敗けてしまはねばならぬ事になる。これが日本製品の外国市場に於て不利益な位置に立たねばならぬ所以である。それにつけても日本は、益々器械工業と理化学工業とに力を注ぎ、欧米諸国に於て未だ行はれざる如き新しい器械的乃至は理化学的方法により、よし欧米に於ける如き大仕掛を以てせずとも、猶ほ安く生産し之によつて海外の市場に於て欧米品と競争し、優に勝を制し得らるゝやうにせねばならぬのである。
      △米国貿易を如何にすべき
 更に国別にして、日米貿易を如何にすべきかに就て稽ふるに、米国に対しては、日本より今後も従来の如く、同国に需要のある生糸及び生糸製品を、成るべく良質のものにして、成るべく安く売るやうにすべきである。同時に又、日本も米国製品を買つてやるやうに心懸けねばならぬ。私が米国で同地の商人などに会見すると、兎角、日本貿易は片貿易になり、米国は買ふばかりで、日本が買つてくれぬので困ると訴へられたが、米国側の斯の不平は、到る処に於て能く耳にする声である。私は斯る不平の声を聞く毎に何時でも、弁解して置いたが、米国は其の本国の邦土が広い為め、生産者は国内の需要に追はれ之れを充たすにのみ急で、外国の市場にまで注意が及びかね、日本の実情を調査し、日本に売込む方法を充分に講究して居らぬ怨みがある。日本に於て米国製品の売行思はしからぬものあるは、之が第一原因である。米国の商人が今少しく日本の市場に注意し、その需要状態を詳細に調査し、之によつて売込みの法を講ずるやうになりさへすれば、米国製品も今後日本に於て大に需要せらるゝに至るべきは必然である。
 又、米国人は、日本より輸入せらるゝ物貨は生糸及び生糸製品を主とし、贅沢品なる如くに稽へても居るが、今日の時代に於て生糸及び生糸製品は決して贅沢品で無い。生活に必須の物資である。加之、日本より輸出する生糸及び生糸製品は、孰れも充分に人工を加へざる材料品たるに過ぎぬ。米国では日本より輸入した生糸及び生糸製品に、更に幾段の人工を加へて立派なる加工品に仕上げ、米国人は之を売買して其間に利益を占めて居る。つまり、日本より輸入せらるゝ生糸及び生糸製品は、米国を富ます材料に供せられて居るのである。されば日本は生糸及び生糸製品を米国に輸出するからとて、之によつて決して米国の富力を削減する憂なく、寧ろ米国の富を増殖しつゝある。斯
 - 第54巻 p.34 -ページ画像 
くして日本は米国よりお礼の言葉を申受くることになりこそすれ、小言を申し渡さるゝ所以は無い……と斯う私は何時でも米国人の日米貿易に関する不平の声を耳にする毎に、弁解して居るのである。
      △支露貿易を如何にすべき
 支那と日本との貿易関係は、逐日良好の域に進み、日本製品は益々多く支那に需要せらるゝ状況にあるは、誠に欣快の至りであるが、如何せむ、支那は政体の動揺激しく、今なほ完全なる平和を見る能はざる状態にある。政体が確立し、平和の保障が安固となり、文物が進歩しさへすれば、日本製品に対する支那の需要は、勃然として湧くが如くに起り、日支貿易の殷賑は期して待つべきである。依つて、日本製品を多く支那に売込むやうにするには、日本の実業家が政治家と協同一致して、支那の政体を確固なるものとし、国内が完全の平和状態に入り、文物の発達進歩し得らるゝやうに力を添へてやるのが、何よりも肝要である。この先決問題が解決されて、支那の政体が確立し、国内が平和になつて文物が発達進歩さへすれば、日本製品に対する需要の如き、求めずとも沛然として喚起せらるゝに至るであらう。
 露国貿易に関しては、日露戦争後間も無く、日露両国の重要個所に対手国の商品陳列館の如きものを開設し、日本の陳列館では露国の製品を陳列し、露国の陳列館では日本製品を陳列し、互に見本を示し合ふと共に、委托販売の委任をも受けて、その陳列館で互に対手国の製品を売捌く事にしたら、両国の貿易関係増進に貢献する処が多からうなぞとの意見を齎らして、私の許に来たものもあつたが、昨今となつては、斯る姑息策ではもう駄目である。日本は須らく露西亜を標的とする専門の生産会社を起し、充分に露国の実情を調査したる上、その需要に応ずべき物貨を製造し、之を露国に売込む手段を講ずるやうにせねばならぬ。
 然し如何に製造家や商人ばかりが意気込んで、種々の計劃を立てゝも、貿易に重大の関係ある(一)運輸(二)金融(三)関税の三者が之に副ふて良好なる状態にあるに非ずんば、取引は決して円滑には行はるゝもので無い。如何に安くつて良質の物貨を製造しても、関税が高いやうでは、到底巨額の輸出を見難く、又、運輸の便利が悪ければ往々にして機会を逸したり運賃が高くなつたりする。それから、適当の金融銀行があつて、両国の間に介立し取引の円滑を計つてくれなければ、結局、生産費を高めることにもなる。
 日本と露国との運輸関係は、之を英・米・印度等に比すれば、今なほ幼稚で不便が少なく無い。露国との貿易を盛にするには、日本たるもの須く先づ運輸の便を増進する事に意を用ゐねばならぬ。関税なども、猶ほ日本製品の輸出に利益あるやうに協定の余地があらうかと思はれる。一層金融を円滑にする方法としては、是非日本銀行及び正金銀行等の当路者に一考を煩してもらひたいものである。要するに、日露貿易の増進に就ては、実業家のみならず、政治家の協力をも要し、官民一致之に当るやうにするのが最も肝要の事である。


竜門雑誌 第三五〇号・第一〇〇―一〇二頁大正六年七月 ○財界の元老渋沢男(DK540013k-0003)
第54巻 p.34-35 ページ画像

竜門雑誌  第三五〇号・第一〇〇―一〇二頁大正六年七月
 - 第54巻 p.35 -ページ画像 
    ○財界の元老渋沢男
  本篇は本年一月一日発行の実業之青年誌上に掲載せられたるもの也(編者識)
○中略
     慶喜公の寵愛を受く
○中略 斯くて巴里に駐まつて、親しく同地の風土文物あらゆる方面の観察を遂げられたが、殊に男は志せし実業に就て切瑳琢磨し、且つ其の商況及制度とを調査して得る所が多く、明治元年十一月帰朝したのである。扨て帰朝して見ると、王政復古の後で尚ほ世間は騒しい。此時男は此態を見て『余は武では無い。又政治家にならうと思はぬ。既に天下の大勢の定まる時に当りて、徒らに兵を挙げて、世を擾乱せしむるが如きは、国家的観念なき徒輩である。欧米文化を聞かざる没暁漢である。之から後は日に月に西洋の文明に化するは論を待たぬ。然るに彼等は之れ等を顧みずして血気にはやる如きは、危険千万、誠に遺憾に堪へない。此上は一意実業に従事して誠心誠意国運の伸張を画策するに如かず』と、只管経済学を修め、且つ実地に就て研究したのであるが、此間に於ても始終慶喜公を佐けて居つた、兎角する内に明治五年を迎へて外人は続々渡来する、貿易事業も益盛んになつて来て、玆に対外的商業関係を開くの趨勢とは相成つた。
     男の役人時代
 予期の時期は来れり!男は直ちに横浜に赴いて、有力なる商人をして貿易店を開かしめた。然し当時外人は日本商店とは直接の取引をせぬ為め、男の予定は外れて閉店するの止むなきに至つた。其うちに政府は人才登用の方針を取り、頻りに民間より人才を抜擢して役人に採用してゐたが、男も今は無一物、他に営業なすの資本もなき故、止むなく一時は糊口の途を立てん為め、之れを機会に選ばれ大蔵省に入り大蔵小丞と云ふ役を授けられた。何にしろ男は総てに卓絶して居るので、忽ち三等出仕となり、時の大蔵大輔たりし故井上侯も男の秀才を認め、殆んど侯の秘書役となつて、省内に其の才腕を縦横に振つた。然るに男が任官当時に於ける財政主義は、専ら民力を休養して国家の富強を謀り、一般の政務は国庫歳入の中に応じて之を拡張し、決して出入の平均を失はぬやう、然かも事業を中途で蹉跌することの憂なきを期した。夫れが為めに各省より要する経費が、若しも国庫の力に及ばぬと見れば断然拒絶して応じなかつた訳である。処で其時分の大蔵卿は今日とは事変り、純然たる財政の外に種々の政務を司つて、殆んど明治政府の中心は大蔵省にあつたやうなもの、其の結果は勢ひ各省との間に物議を起し、井上侯は辞表を提出する、男も亦玆に断念辞職した。○下略


竜門雑誌 第三六五号・第四四―四八頁大正七年一〇月 ○商人と常識 青淵先生(DK540013k-0004)
第54巻 p.35-36 ページ画像

竜門雑誌  第三六五号・第四四―四八頁大正七年一〇月
    ○商人と常識
                      青淵先生
  本篇は青淵先生の談話として商店雑誌第五巻第八号に掲載せるものなり(編者識)
 - 第54巻 p.36 -ページ画像 
○中略
△非常識の商行為 諸君、眼を転じて我が商業の現状を詳覧せよ。之れを欧米のそれに比べて何故に其の進歩の遅々たるか、何故に海外貿易の不評なるか、それには勿論種々なる原因はあるであらう、併しながら所謂孝悌の心無き、至誠の観念に欠けた、即ち善良なる常識の乏しき処から来たる影響も亦必ずしも鮮少であるまいと思ふ。凡そ商業は一身一家の繁栄の為めではない、有無相通じ、需用供給の便を拓いて、世の生活を便利幸福ならしむるにある。然らば商業は一種の公共的事業である。我を利すると共に、より多くの利便を他にも施すの観念がなければならぬ。此の観念の伴はぬ商業は、原則として既に不具者である。不具の商業の円満に発達し得ざるは寧ろ当然である。但し自分は決して我が国の商業の全部が、爾かく我利一片の不具者だと云ふのではない。中には推称に価すべき立派のものもある。併しながらそれは要するに例外に数へらるべきものだ、大体的には猶未だ此の商業の意義さへ理解し居るや否やを疑はしむる程のものも尠からぬやうである。這は一般商業進歩の為めに甚だ悲むべき事である。殊に海外貿易の如き、今日は実に千歳の一遇とも称すべき発展の好機に際して居ることは、自分の故らに説までもあるまい。此の得難き機に処して我が輸出商業に不評を招きつゝあるは何故か。彼の地に於ける我が商品の粗製濫売の悪声は、毎度海外より帰朝する処の同胞に依つて齎らされつゝある事実ではないか。之れ等の悪声は、要するに我が商人が一時的の奇利を博さうと企てられた結果である。而して斯くの如き企図は、すべて孝悌なき至誠なき即ち常識なき不具なる商業の欠陥から生じ来るものである。然り而して此の不良なる商業行為は、行為者自身は元来一時的の不正利得の覚悟を以て敢てするのであるから、其の後の信用の如何あるべきことなぞ顧慮せぬのである。従つて彼等の前途の閉塞さるゝも自業自得であるが、唯だ其の影響が延いて我が国商業全体の真価を疑はるゝに至つては、断じて許すことが出来ない。之れは何うしても改革しなければならぬ。
○下略


竜門雑誌 第三七四号・第二七―三一頁大正八年七月 ○商人と国際 青淵先生(DK540013k-0005)
第54巻 p.36-39 ページ画像

竜門雑誌  第三七四号・第二七―三一頁大正八年七月
    ○商人と国際
                      青淵先生
  本篇は青淵先生が「商店雑誌」社の懇談に応じて語られたるものにて、第六巻第十号に掲載せるものなり。(編者識)
△商業の領域は広大 抑々商業は観方に依つては広くも狭くも考へることが出来る。若し商業は物の売買にのみ任ずるものであるとせば、その範囲は割合に狭きものになる。又た若し商業は大体の経済を意味するものとして観る時は、極めて広き範囲を領する事になる。而して予は後者の方を取るものである。此の解釈に就いて誰の説であつたか記憶して居らぬが、兎に角商とは生産及び取引等を一切意味するものであると云ふ定義を下して居る書を読んだことがあるが、予も亦た左様あるべきものだと信ずるのである。果して然らば商業は、国の経済
 - 第54巻 p.37 -ページ画像 
を実地に行ふを以てその職能とするものであると云ふことが出来る。斯く断定すれば商業は如何にも広大なものになつて来るが、併しそれは範囲の広さで、商業個々の実体に就いては大小いろいろなることは勿論である。例へば数百万円若しくは数千万円の生産又たは取引をするのも商業であれば、僅かに一荷の芋や大根を背負つて売り歩くのも矢張り商業たるに相違ない。されば商業の範囲領域は測るべからざる広さを有すると共に、その内容個々の状態は大小限りなき分子を包容して居るものと申してよいのである。
 往時は――と云つてずつと昔の事は知らぬが少なくも予の青年時代即ち徳川幕府が政権を執つて居た頃――商業の範囲を故らに制限したものである。徳川幕府以前には支那や朝鮮その他の国々とも直接間接の通商があつたやうだ。併しそれ等の通商が如何なる程度のもので、又たそれが国際的に如何なる程度の働きをして居たかと云ふやうなことは玆に説明するまでの穿鑿を遂げて居ないけれども、兎に角海外貿易の行はれた事実は史上明かに立証されて居る。然るに徳川氏の世となつてからは極端の鎖国主義を固執された結果、全く海外貿易の跡を絶つて仕舞つたのである。換言すれば幕府が自家の政策上商業自然の発達を阻止し強圧したことになる。
 然り封建時代の商業は、海外貿易ばかりでなく内外大小の商業を挙げて武門の御都合主義の下に制限統轄して、自家の便宜に供し、容易に自然の発達に委することを容さぬものがあつた、即ち昔の商業は権力者の勢力を保持し伸張する道具に使はれたものであつて、国民の生活を本位として考へられて居なかつたと云ふことが出来やうと思ふ。尤も国ありて民あり、民ありて国あり、観方に依つて何れにも理窟があつて、武門本位の昔時にあつて、商業を左様に制限しておくことが国家国民に利福ありと信ぜられた当時には、格別それを不合理なり、不都合なりと考ふる者も少なく、君主の為めの忠実なる商人として寧ろ満足して居たのである。
△自給自足は不自然 併しそれは時代を異にした昔の商業であつて、斯の如き商業は開明の今日、限なき聖代の恩沢に浴しつゝある商人には通用しない一場の昔話に過ぎぬ。亜米利加娘の裳の短かくなつた事までが、直に我が国の生糸相場の差響きを生ずると云ふ現下にあつては、当然商業は世界的でなければならぬ。世界的の商業を我が物として経営する商人は亦た国際的に多大の考慮を払はなければならぬ。諺に曰く『経済に国境なし』短けれども商業自然の約束使命を最も痛切に云ひ現はしたる言葉である。若しも商業を国際的に考へざるものがありとせば、开は未だ旧幕時代の古き商業の鋳型を脱せざる人であつて、斯う云ふ商人には到底輝きある将来を期待することは出来ないであらう。
 然り然らば国際的商人たらんとするには何う云ふ具合に働くべきかの問題が起る。格別面倒な事柄ではない、一言にして申せば世界の有無を相通するに在る。凡そ国と云ふ国の産物に相同じきはなく、過不足なしと云ふ事はない。否或る国には在るが、或る国には全く無いと云ふ物もある。即ち商業は此の有無を相通じ、過不足を調節して、人
 - 第54巻 p.38 -ページ画像 
類共同の利福を増進するにあるので、国際商業は国境を隔てた遠き有無の疎通を計ると云ふのである。即ち外国貿易を円満隆昌ならしむるにある。而して斯くの如きが商業自然の約束であつて、所謂経済に国境なき所以であると共に、之れに依つて世界の文運は上進し、人類の福祉は増加される訳である。
 然れども国家の政策上の必要からして、此の商業自然の機能を妨げる場合がある。开は今回の欧洲戦乱以来の事実に於て何人も明知する処で、斯る非常特別の場合は、事実已むを得ざる事情に基くものが多いのであるから、之れを以て平時を律する訳にはゆかぬけれども、兎に角国家は時に商業を束縛して、その職能に制限を加へる場合のあることは疑ひを容れぬ。然り而して、此の制限は吾人の経済生活上極めて重大の関係を有するものであつて、一歩誤れば由々敷事態を招徠することになる。例へば欧洲戦争の為めに、我が国への重要輸入品が杜絶した、そこで国民は大に狼狽して今更の如く自給自足を絶叫するに至つた。自給自足必ずしも悪しき事ではないが、世界的流動の経済を調節しやうとする商業の立場から見れば、恰も商業の鎖国を行はふとするも同様である。即ち自給自足は、或る意味に於て商業の退歩となすべきものである。是れ寔に已むべからざる国家の事情に由来すると雖も、商業自然の機能を妨げ、人類の利福を減じ、その能力を低下せしむることは事実である。若しも斯くの如き状態が長く持続したならば世の文運は或は却つて後退の結果を見るに至るやも知れぬ。故に商業は主義として制限するものではなく、否出来得る限り之れを広大し伸長せしめなければならぬ、之れ実に国を富まし、民を安からしむる所以である、従つて商人たるべきものは、須らく世界的国際的の覚悟と態度を持して、其の本来の賦能を発揮することに努力しなければならぬ。
△徳義欠乏の弊害 斯く云ふたからとて、総べての商人に海外貿易をせよと云ふのでなきことは勿論である。商業には広狭大小あることは前述の通りである。広く大なる商業を営むも、狭く小なる商ひをするも、畢竟人類生活の必要から生じて居るのであるから、何れも大切なる職能に任じて居るので、その間何等の貴賤を認めないが、唯だ直接海外貿易の衝に当らざる者と雖も、商業と国際とは爾く緊要密接なる関係にある理解だけはして置く必要があらう。況んや当面の海外取引を行ふ商人にあつては、能く自分の立場を了解し、国際的商業の真意義の発揮と効果の収得とに努力されたいものである。
 右に関し予に一つの希望がある。开は国際的商業に従事する商人に於ける徳義上の問題である。凡そ人の徳義とか礼譲とか云ふ美風は平素知合つた仲には比較的よく維持されるが、何うも隔つた者に対しては之を無視するの傾きがある。所謂路傍の人なる言葉さへあるやうに未知の人に対する徳義を考慮する人は甚だ少ないのである。尤も近きより遠きに及ぶが物の順序でもあり、人情の自然でもあるが、それも果して近きより遠きに及べば結構であるが、大抵は遠きに及ばず仕舞ひになりはせぬかと気遣はれる節がある。斯うした徳義の厚薄があると、これが軈て国際商業の上にも現はれて甚だしき不都合を生ずる、
 - 第54巻 p.39 -ページ画像 
即ち内地に売る商品には相当親切に気を注けるが、外国へ売る物になると、何でも構はず儲けさへすればよいと云ふ無責任の事を敢てすることになる。之れは大に間違つた事である。経済に国境なしと同様、道徳にも亦た障壁のあるべき筈はない。唯だ近きに対する道徳と、遠きに及ぼす道徳とでは、自らその姿を異にするものがあつても、精神に於ては毛頭相違あるべきでないのである。
 縦令政治上の関係から国と国との利害を異にし、一時通商を停止する場合があつて、之れに服従することは当然国民の義務であつても、その為めに人類共通の祝福である道徳が亡びたのではないから、如何に非常特別なる場合と云つても、自国にばかり都合よく、他国に不都合でも構はぬ商売をして宜いと云ふ理はない。然かも今日現在の国際的商業を観るに、或る例外は別として、動もすれば徳義を外にして取引を敢行して怪まぬ向きがないではない。而して這は政治上の働きから起つて来る現象のやうにも見えてゐるが、其の実主として商人の徳義欠乏から発生して居ると信ずべき理由がある。斯くの如き欠陥は、要するに未だ人文が明かに進歩せぬ結果に外ならぬと思ふ。嘆ずべき事である。
△あわて者の失策か 上述の意味からして、予は自給自足の主義には絶対の賛成を表することを躊躇する。一時的若しくは已むを得ぬものに於てのみ之れを容することは差支へないが、国民生活に必要なる万般に亘つて、自給し自足せしめんとするは、世界人類共進の大潮流に逆行するものであつて、左様なる希望の到底実現し能はざるは勿論、却つて自国民に不利なる事情を誘起して、意外の困窮を生ずる結果に逢着し様と思ふのである。換言せば、斯くの如き企図は、恰も鎖国時代の昔に立ち帰らしめ様とするのと同じ事で、我が商業今日の繁栄を由来した原因及び理由を忘れたる人の空望に過ぎぬ。


竜門雑誌 第四三六号・第五三―五五頁大正一四年一月 ○青淵先生説話集其他 新年の初めに言ひたい事(DK540013k-0006)
第54巻 p.39-40 ページ画像

竜門雑誌  第四三六号・第五三―五五頁大正一四年一月
 ○青淵先生説話集其他
    新年の初めに
      言ひたい事
     一
 乙丑の年頭に際し、私は例年の如く中外商業新報紙上を通じ、社会に向つて希望を述べ得ることを光栄とする、処がこれまで毎年述べ来つた私の希望は一つとして達せられたことが無いといふ嫌ひがあるので、甚だ心苦しく感じて居るが、達せられなければ更にこの希望を繰返していはずには居られないのである、しかも年内不幸にして病気のために、一ケ月以上もほとんど社会へ顔出しをせず、その出来事も伝聞する程度であつたから、自然経済界の実情にも迂遠なるを免れない訳である。
     二
 さて私の最も憂慮に堪へないのは、信義の心を以て商工業に従事する者の依然少いことである、換言すれば商業道徳が重んぜられないこと、経済と道徳との合一が進歩しないことである、就中海外貿易上こ
 - 第54巻 p.40 -ページ画像 
の弊害が多いと聞く、例へば印度・南洋等に輸出する商品が粗製濫造で、かつ約束を守ることが堅くない事実である、同地方へは欧洲から戦争のため商品の輸入されなかつた当時、本邦品が頻に需要されたが今日の如く欧洲から漸次供給されるやうになつてからは、輸出が激減したといふ。
     三
 その原因は商品の生産費が不廉で、勢ひ商品の高価となるに依るであらうが、また一半は必ず道徳上の欠点に責があると思ふ、曾て明治三十五年私が東京商業会議所会頭として日本商業会議所を代表し英国に赴いた時、彼の地の重な商工業者会合の席上で、ある一人から「日本人は約束を固く守らない、またインボイスを二枚書けといふ、これは非常に困ることで、後者の如きは税を避けるための強要であるから不法の行為である」と非難せられ、漸くサミユル・サミユル商会のミツチエル君から「それは、日本人のみではないから、お互に注意しやう」と取りなされて、やつと答弁し得た苦しい経験があるが、最近の海外取引には、この種の弊がなほ多いと聞くのは慨歎に堪へない、殊に今日海外貿易の均衡を失してゐる事態に鑑みて、当業者個々はよく自覚しなくてはなるまい。
○中略
     五
 第三に貿易の不均衡と対外為替相場の下落に就ては、学者や識者の研究が旺んである、私は今その対策を具体的にいふを得ないのを遺憾とするが、何とか解決の方法を講せねばならぬ、といふことを力説する、更に日本輸出品中の大宗である生糸に関しては、今の取引上の仕組に改善を要すべき点が多々ある、例へば近く著手されるらしいが、検査方法、また売込み方法である、売込み方法は昨年来私共も相談に預かつて改善に尽したけれど、まだ行はれるまでに到つて居らぬものである、以上の外主な商工業上の考慮すべき点は尠なくない、かの紡績の原棉輸入の方法、あるひは石炭に代る水力電気の真正なる経済的発電施設、引続いては農村救済の第一著手段たるその電化に安価な電力を供給することなど挙げ数へるならば、重大事項のみで実に十指を屈するともなほ足らないであらう。
○中略
                (一月一日中外商業新報所載)



〔参考〕竜門雑誌 第二七五号・第三五―三九頁明治四四年四月 ○昔時の夢 青淵先生(DK540013k-0007)
第54巻 p.40-43 ページ画像

竜門雑誌  第二七五号・第三五―三九頁明治四四年四月
    ○昔時の夢
                      青淵先生
  本篇は四月一日発行の雑誌実業界に掲載せる『青淵先生百話』の一なりとす。
 何人も現在といふ地点に立つて自分の経来りし過去の径路を追想すれば、必ずや悔恨の情に堪へざる事が何か一つ二つはあるであらう。之れは必ずしも其人の真意から出たことゝのみ限らず、時代の風潮の感化を受けたり、或は四周の情実に纏綿して勢ひ左様なつたことが、
 - 第54巻 p.41 -ページ画像 
後日に至つて大に後悔の種となるやうなことにもなるので、斯く云ふ自分の如きも、既に其の一人たるを免れない、自分の所謂悔恨とは、青年時代に抱ける思想や目的が老後の今日に至つて全く異つたものとなつたことで、少くとも形式に於ては右に行くべきを左に歩んだといふことになつたのである。
△思へば滑稽なる矛盾 度々云つたことではあるが、自分の青年時代には政府に志を抱き、彼の幕末に於ける政界の狂瀾に投じて頻りに尊王攘夷を主張し廻つたものである。
抑も自分攘夷論を唱ふるに至つた動機を稽ふるに、勿論忠君愛国の思想が其の根柢ではあつたけれども、海外貿易の不利にして無益なるを思ふの念が切であつたことも、其の条件の一であつた。当時に於ける自分の意見では、貿易の如きは国家の富を徒らに外人に吸収せらるゝ以外、何等自国に利益あるものでない。それが証拠には、外国から輸入される品物は皆つまらぬものばかりであるのに、日本から持つて行かれる品物は孰れも立派な実用品である。例へば生糸の如きものが出て、翫弄物に近いものばかりが這入つて来る。若し此まゝに打捨て置いたならば、百年後の国家は蓋し想像に余りあるの結果に逢著するであらうとの杞憂を抱いたもので、それと同時に、外人が頻りに日本の沿海に来て交通貿易を迫るのは、要するに其等の表面的事実を口実として、遂には国家を奪はんとするものでは無からうかとの邪推もあつた。而して今より五十年前は、確かに此の渋沢の口から其れ等の説が吐かれ、其れ等の頭脳を擁して其れ等の為めに奔走したものであつたが、今日の渋沢は果して如何、自ら陣頭に立つて海外貿易奨励を絶叫し、或は身自ら泰西の地に入つて其の文明に浴沢し、而して亦た之れを実際に行ふて大に自ら徳として居るではないか。此の間の思想、此の間の目的の変化、矛盾も亦た甚だしいと詰責せられても、自分は弁解の辞に窮せざるを得ない。併し乍ら、今も昔も根本精神たる忠信孝悌の道に変化のなかつたこと、又た径路は異つて居ても、忠君愛国の情に変りの無かつたことだけは、明らかに云ひ得る積りである。
△非通商貿易論の動機 当時自分は何故通商貿易に反対した意見を抱くに至つたか、不急の問題ながら後世の為に其の動機を説明して置きたい、今から五十年前に遡つて当時の天下の形勢を考ふるに、一般国民は未だ海外の事情に通ぜず、漫りに外国人に対して一種の恐怖を抱き、彼等の来航は一に国家を掠奪せんとする野心に外ならずと一途に思込んだもので、斯く云ふ自分も実にさうした一人であつた。といふのは、日本に於ける過去の歴史が之れを証明して居る。即ち元亀天正の頃から日本は早くも馬来半島其他の南洋地方と交通して居たもので其の交通の目的は単に通商貿易のみではなく、あわよくば土地を侵略しやうと心掛けて居たものである。山田長政や浜田弥兵衛などの伝記を見ても判る。日本人が既に左様であつたから、従つて外国人の一挙一動も疑はずに居られぬといふ場合に当つて、外国人にも亦恰かも同一の目的を以て日本に侵入した者がある。彼の『西教史』を繙けば此の間の消息を詳かにすることは出来るが、足利氏の末路から織田・豊臣時代へかけて、頻りに天主教を日本へ弘めやうと力めた。其頃日本
 - 第54巻 p.42 -ページ画像 
へ来たのは、彼の有名なるジェスウィト教の宣教師フランソア・ザウイェーといふ人で、当時の布教は単に宗教を世界に弘めて普く済民に力めやうといふばかりでなく、同時に一種の野心を抱いて、領土を拡張しやうといふ目的もあつた。徳川氏は此の禍根を未発に防がねばならぬといふので天主教を厳禁し、鎖港主義を取ることになつたのである。即ち自分は歴史に於て外国人の心中斯の如く恐るべきものあることを知つた。
△精神は今も変はらず 水戸の学者は一斉に此の事を論じ、天下に禍するものは海外人の来航であると唱道して、鎖港主義の張本を以て任ずるの風があつた。自分の青年時代の学問は実に此の鎖港論の製造元たる水戸学派を継承したものである。故に自分は当時西洋人が日本へ来て通商貿易を求めるのは、必ず元亀天正の昔を追ふものに相違ないと思ふの外、更に他を顧るの余地がなかつた。若輩の悲しさには活眼を開いて天下の大勢を観ることを知らず、先輩から教へられた所を一途に信じて、深く心に銘した為め、十七・八歳にして遂に道を踏み誤るに至つたのである。併し乍ら忠君愛国の至情に至つては、今も昔も変らない。鎖港攘夷を以て忠君愛国と心得たのと、今日の如く広く知識を世界に求めて、国家の発達進歩を図り国力を強大にするのが忠君愛国であると心得て居るのと、一は消極的、一は積極的の別こそあれ其の真情の存する所は一である。
△渋沢のみを笑ふ勿れ 併し之れを今日自分の立場から見ると、如何にも社会に対して面目次第もない。鎖港論を主張した者が急転直下して開港の必要を説き、排貿易論者が今は一変して頻りに貿易の必要を説くに至つては、無定見と云はれても、不透徹と云はれても仕方がない。去り乍ら、一歩を退いて当時の社会に遡つて考へ廻らせば、必ずしも渋沢のみが無定見でも不透徹でもなかつたかの様に思はれる。当時の社会は挙つて鎖港論を唱へたもので、当局者が進退谷まつた結果只だ一条の遁げ道として開港を主張した以外、何人も之れに賛成を表する者は無かつた。故伊藤公を始めとして、今の元老諸氏の如きも亦た多くは攘夷鎖港党であつた。社会の空気が既に左様であつたから、其の中に生息して居た吾々が之れに感化されたのは寧ろ当然である。
△井伊大老必らずしも偉ならず 先年自分は渡米の際、某地の歓迎会の席上で、グリフイス氏が井伊掃部頭を日本に於ける開港の元祖として称揚したのに対し、寧ろ反対の演説を試みたことがある。即ち『グリフイス氏の言は一を知つて二を知らぬもの、表面を見、裏面を見ないものと云はねばならぬ。其の当時井伊を斬らんとした一人が、今日は却つて諸氏と手を握らんとするの一人となつた。而して井伊を斬らんとした者必ずしも不明でない、自分は寧ろ井伊の不明を笑はんとする者である。当時に於ける井伊は何事も洞観して開港をやつたものではなく、足元に迫れる問題の解決に苦んだ結果、無茶苦茶に開港を断行してしまつた迄である。攘夷論者とて強ち咎めることは出来ぬ、当時事実に於て諸外国中には日本を掌中に収めんと図つた者もあつた。米国の如きは心からの好誼を以て日本を誘導せられたのであつたが、他には左様いふ親切な国ばかりでは無かつた。攘夷党の起つたのは寧
 - 第54巻 p.43 -ページ画像 
ろ当然の現象で、彼の気象あつたが為に日本も今日の発達を遂げたのである。井伊が外交の元老なぞとは吾々の腑に落ちない所で、井伊は唯だ善にも悪にも畏服してしまふたのである。其際吾々が起つて善悪共に斥けんと試みたのは、善意の国に対してはお気の毒であつたが、実に已むを得ざるに出でたものである。』と云ふ様な意味で饒舌つた、而して之れが自分の衷情である。孰れにせよ、五十年前を顧みれば何事も夢である。併し乍ら、昔も今も自分の根本精神に於て変らなかつた一事だけは、特に弁明して置きたいのである。