デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

2部 実業・経済

3章 商工業
18節 其他ノ商工業
4款 東京会館
■綱文

第54巻 p.56-57(DK540018k) ページ画像

明治44年10月19日(1911年)

是ヨリ先、福沢桃介・星野錫等ニヨリ、東京市ニ於ケル大食堂及ビホテル設備ノ不足ヲ補フタメ、当会館ヲ設立セントスル計画アリ。栄一、之ニ賛成ス。是日、日本橋倶楽部ニ於テ、市内有力者及ビ新聞記者ヲ招待シテ、右計画ニ関スル説明会開カル。栄一、賛成人トシテ出席シ、当会館設立ノ必要ナル所以ニ付キ演説ス。右計画ハ、実現ニ至ラズシテ熄ム。


■資料

--(DK540018k-0000)
第54巻 p.56 ページ画像

  ○後掲第十一款ノ「株式会社東京会館」トハ関係ナシ。

渋沢栄一 日記 明治四四年(DK540018k-0001)
第54巻 p.56 ページ画像

渋沢栄一 日記  明治四四年         (渋沢子爵家所蔵)
十月十九日 晴 冷
○上略 午後四時日本橋倶楽部ニ抵リ、菊池武徳・沢田半之助氏等発起ノ東京会館ノ事ニ関シテ来会者ニ意見ヲ陳述ス○下略


竜門雑誌 第二八二号・第五九―六〇頁明治四四年一一月 ○東京会館設立計画(DK540018k-0002)
第54巻 p.56-57 ページ画像

竜門雑誌  第二八二号・第五九―六〇頁明治四四年一一月
○東京会館設立計画 我東京市に於ける大集会所とホテル設備の欠陥を補はんとして、青淵先生・林伯・中野武営氏等の賛成を得て、福沢桃介・星野錫諸氏の発起に係る東京会館設立の披露式は、十月十九日午後四時より日本橋倶楽部に於て開会せられたり。
当日は賛成人なる青淵先生及び中野氏主人役として、市内の有力者及び各新聞社員を招待し、菊池武徳氏は発起人側を代表し、東京会館の設計に関し詳細なる説明をなし、次に青淵先生は大要左の如き演説を為されたり。
 近く日本大博覧会も目前に迫り、又近時市民の大集会及び外国貴賓の来遊頻々にして、多数を容るゝに足る大会堂の必要日一日に痛切なるに拘らず、今日迄我東京市に之に応ずる大会堂とホテル設備の欠陥せるは、東京市の面目上一大恨事なるを以て、吾等は曩に一大公会堂の建設を策せしも、諸種の障碍の為に遂行の運びに至らざりしが、今や有志の間に議熟し、壱百万円の予算を以て市内四通八達の地に一大会館を建設し、大集会所兼ホテル業を経営せんとの計画あり、是れ吾人が多年宿望せし所と同一の考案なれば、此挙を歓迎する余り、進んで賛成者の一人となり、本日吾々の名を以て有力者諸君を御案内して、従来吾々の計画せる所を述べ、今回の挙に賛成せる趣旨を開陳して、諸君の御援助を仰がんとするものなり
との挨拶あり、別室の食堂に於ては、中野氏又大集会所ホテル設備の必要を説き、此挙の成立の為に諸君の御援助を望むと陳べたり、其設計の大要は左の如しとなり。
 - 第54巻 p.57 -ページ画像 
 一、総予算一百万円払込金五十万円及社債五十万円を以て之に充つ
 一、社債は六朱以内の利付(一)建築に要する敷地は二千坪以上、(一)建築物は本館(座席三千人以上、立食七百人以上を容る)待賓館(ホテル)、貴賓館(貴賓の宿泊所)、美術品陳列館及附属館の五部とす


渋沢栄一 日記 明治四五年(DK540018k-0003)
第54巻 p.57 ページ画像

渋沢栄一 日記  明治四五年       (渋沢子爵家所蔵)
六月十四日 曇 暑
○上略
午後菊地武徳氏来リ、東京会館ノ事ヲ談ス
○下略


雨夜譚会談話筆記 下・第六二七頁昭和二年一一月―五年七月(DK540018k-0004)
第54巻 p.57 ページ画像

雨夜譚会談話筆記  下・第六二七頁昭和二年一一月―五年七月
                     (渋沢子爵家所蔵)
    ○第二十二回 昭和三年九月十五日 於飛鳥山邸
一、東京会館設立計画に就て
先生「東京会館設立に就ては、私は余り関係がない様に思ふ」
白石「現在の東京会館は帝劇の所有で御座いまして、場所は同じで御座いますが、先生が御関係になつた東京会館とは違ひます」
増田「東洋軒の主人伊藤耕之進氏が、東京市内各所に店を持つて居りまして、之を一ケ所に集め度いと云ふ考がありました。伊藤氏は先生の許へも始終出入して居りましたから、大きい会館を建てるに就て株式を持つて頂き度いと、頼んで来た事があります。其時の計画が詰り東京会館の設立でありましたけれども、之れは遂に実現せずに終りました」
  ○此回ノ出席者ハ栄一・増田明六・渡辺得男・白石喜太郎・小畑久五郎・高田利吉、岡田純夫・泉二郎