デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

2部 実業・経済

5章 農・牧・林・水産業
1節 農・牧・林業
2款 十勝開墾合資会社(十勝開墾株式会社)
■綱文

第54巻 p.125-130(DK540036k) ページ画像

明治45年2月19日(1912年)

是日、渋沢事務所ニ於テ、当会社通常社員総会開カレ、栄一出席ス。大正二年二月四日、同所ニ於テ通常社員総会開カレ、同ジク出席ス。


■資料

渋沢栄一 日記 明治四五年(DK540036k-0001)
第54巻 p.125 ページ画像

渋沢栄一 日記  明治四五年         (渋沢子爵家所蔵)
二月十九日 晴 寒
○上略 午前十時事務所ニ抵リ、十勝開墾会社ノ社員会ヲ開キ、報告書ヲ一覧ス
○中略
午後六時浜町常盤屋ニ抵リ、石原北海道長官・床次内務次官等ト北海道行政ニ付談話ス、大倉氏ノ招宴ニ係ル関係者十名斗会合ス、夜八時半帰宿ス


(八十島親徳)日録 明治四五年(DK540036k-0002)
第54巻 p.125 ページ画像

(八十島親徳)日録  明治四五年      (八十島親義氏所蔵)
二月十九日 晴
朝兜町ニテ十勝開墾会社社員総会アリ、出席ス
○下略


渋沢栄一 日記 大正二年(DK540036k-0003)
第54巻 p.125 ページ画像

渋沢栄一 日記  大正二年       (渋沢子爵家所蔵)
二月四日 晴 寒
○上略 午前十時半事務所ニ抵リ、十勝開墾会社総会ニ出席シ、植村・内田・吉田諸氏ヨリ開墾ニ関スル実況ヲ説明セラル、畢テ午飧ヲ共ニシ
○下略


竜門雑誌 第二九七号・第七一頁大正二年二月 十勝開墾合資会社の総会(DK540036k-0004)
第54巻 p.125 ページ画像

竜門雑誌  第二九七号・第七一頁大正二年二月
○十勝開墾合資会社の総会 青淵先生・大倉喜八郎氏・植村澄三郎氏等の合資に係る同会社にては、去る四日渋沢事務所に於て定時社員総会を開き、植村社長の司会にて昨年度の営業報告及び計算書類の承認を為し、終て業務担当社員一名の補欠選挙をなせしに、八十島親徳氏当選就任せりと


渋沢栄一書翰 植村澄三郎宛(大正二年)九月七日(DK540036k-0005)
第54巻 p.125-126 ページ画像

渋沢栄一書翰  植村澄三郎宛(大正二年)九月七日   (植村澄三郎氏所蔵)
○上略
十勝地方事業之成蹟ハ如何之模様ニ候哉、本年之水害及早冷等ハ大ニ妨害と相成候事と存候、何卒充分御調査被下、将来之方針御立案奉頼候、右可得貴意如此御坐候 拝具
 - 第54巻 p.126 -ページ画像 
  九月七日
                         渋沢栄一
    植村澄三郎様
         梧下

「北海道札幌大日本麦酒会社札幌支店」 植村澄三郎様 親展 「東京兜町」 渋沢栄一
九月七日発


竜門雑誌 第三〇五号・第一五―一七頁大正二年一〇月 ○北海道の金融機関 青淵先生(DK540036k-0006)
第54巻 p.126 ページ画像

竜門雑誌  第三〇五号・第一五―一七頁大正二年一〇月
    ○北海道の金融機関
                      青淵先生
  本篇は青淵先生が『小樽新聞』記者の請ひに応じて語られたるものにて、九月十四日の同紙上に掲載せるものなり(編者識)
○中略
 開墾事業――但し是は金融上の関係はないが――は私も十勝の一部分に開墾をやらせて居ますから、多少の申分がある、今の道庁は農業者に対し牧畜を奨励し、且色々喧敷い事を云ふて居るが、私は所謂牧畜なるものが果して相当の利益を挙げ得るものなるや、又牧畜奨励は果して北海道の開拓を促進せしむるものなるや、甚だ疑はしいのである、或人は真実牧畜をする意志なく、唯土地を得んがために唯名だけの牧場を経営して、道庁の目を晦まし、道庁の役人も是れを知りながら、形だけの牧畜事業を見て是を認める、随つて北海道には羊頭を懸て狗肉を売る底の牧場が少くない、若しこんな事で土地を与へるなら寧ろ牧畜なぞと言はず、他の名義でもドシドシ払下げるがよからう、思ふに是等の事は所謂御役所主義の執務振から生じた結果であらう、開墾事業は私自身も従事して居る様に、漸次相当資産ある者が着手するに至つたから、今後も進捗する事であらうと信ずるが、所謂牧畜事業に就ては取締上多少の考慮を煩はす必要があるであらう。
○下略


渋沢栄一 日記 大正三年(DK540036k-0007)
第54巻 p.126 ページ画像

渋沢栄一 日記  大正三年          (渋沢子爵家所蔵)
一月二十七日 曇
○上略 午後五時、三本木農場主任金子熊一、十勝開墾会社農場長吉田氏等ト共ニ夜飧ヲ食シ、両農場ノ景況ヲ談話ス○下略


渋沢栄一書翰 植村澄三郎宛(大正三年)八月一八日(DK540036k-0008)
第54巻 p.126-127 ページ画像

渋沢栄一書翰  植村澄三郎宛(大正三年)八月一八日   (植村澄三郎氏所蔵)
○上略
十勝・三本木とも御実見之御模様ハ御帰京後篤と高案相伺申度候得共尤以御注意相願候義者、十勝ニ於て将来水田開墾之為、土木工事相起
 - 第54巻 p.127 -ページ画像 
候義者頗る慎重之調査を要し候事と存候、詰り北海道ニ於て米作相当と決定候哉否ニ関し、此問題も解決可致筈ニ候も、十勝之如きハ旭川地方ニハ一着を輸し候土地ニ付、能々御研究被下度と存候○中略
  八月十八日
                    函根小涌谷ニ於て
                      渋沢栄一
    植村賢台
       坐下
○下略



〔参考〕殖民公報 第七八号・第一九―二一頁大正三年五月 十勝開墾合資会社農場概況(DK540036k-0009)
第54巻 p.127-130 ページ画像

殖民公報  第七八号・第一九―二一頁大正三年五月
    十勝開墾合資会社農場概況
本農場は明治三十一年五月の開始に係り、東京渋沢栄一・大倉喜八郎同篤二《(マヽ)》・植村澄三郎等六名の合資十九万円を以て組織せる十勝開墾合資会社の経営にして、十勝国上川郡人舞村及河西郡芽室村に跨る十勝川流域にあり、農牧事業を行へり
地勢及気候 本地は上川郡の東南端、河西郡の北端の中部に位して、十勝川の両岸を占め、海抜三百八十尺に位せり、北は屈足村、西南はビバウシ川を劃して佐幌原野に界し、南東は美蔓原野及人舞村民有地に接す、三方山嶺を繞らし、南方開展す、間々高台ありと雖全地の約二割に過ぎす、其他は平坦にして広袤南北五里、東西一里余に亘り、河沿は沖積土、其他は黒色腐植質壌土に属し、地味概して肥沃にして檞・楡・梻・桂・柳・白楊多く、樹下に笹・萱・萩・木賊・虎杖・蓬密生す、気温は八月の平均摂氏三十度に昇る、風は夏期東南多く、其他は西風にして稍々強きも、三面山を負ふか為に風当り弱し、雨は七八月の交に多く、秋収期に少し、霜は九月下旬乃至五月上旬にして、雪は十二月上旬に始り積量二尺内外、四月上旬に融消す
沿革 明治三十一年二月東京渋沢栄一外二十七名は、本道開拓の目的を以て資本金百万円の本会社を設立し、同年四月十勝国上川郡十勝川の両岸なるニトオマツプ・熊牛及河西郡十勝川東岸の美蔓原野ケネ並に札内川東岸札内原野の二箇所に於て、未開地三千六百三十万四千二百六十一坪此の反別一万二千百一町四反二畝一歩の無償貸付を受け、農場を開き、静岡県人小田信樹を場長に挙げ、事務所を帯広市街及熊牛に置き、福井県より農民五十戸を募移し、開墾事業に従事し、爾来年々宮城県より五十戸乃至六十戸の小作人を募集したるも、密林天を蔽ひ、熊狼出没し、且交通頗る不便にして、物資の大部は大津港より供給輸送したりしかば、其困難名状すべからず、随て農作物の登熟相当なるに拘はらず、其価額低廉を極めたるを以て、移民の異動頻繁にして、随て募れば随て散し、常に小作人の募集に日も亦足らざるの有様なれば、事業の功程予期に達せず、明治三十四年八月より三十六年四月迄の間に於て札内原野全部、其他に於て土地を部分返還したるもの三回、五千九百六十九町八反二十歩に達し、又鉄道敷地として返還したるもの七町九反六畝歩あり、然るに社員中退会するものありて、遂に渋沢栄一外五名となり、資本額を十九万円に減し、三十六年更に三箇年間成功延期の
 - 第54巻 p.128 -ページ画像 
許可を受け、孜々督励の結果事業大に進捗し、四十年九月釧勝鉄道の開通と共に移民増加し、四十二年四月小作人田中竹蔵外百三十七名に対し、契約に基き七百四十町一反二畝五歩を分割して成功地の九割を譲与したり、其多きは十町歩、少きは三町二反余歩にして、十町歩のもの十一戸、五町歩のもの最も多きを占む、四十三年五月小田場長死亡し、岐阜県人吉田嘉市其後を襲ひ劃策する所多し、同年九月牧場全部千二百六十二町余歩の成功付与を受く、翌年四月小作人四百九十九戸に達し、全地成功を告けたるを以て、六月畑地付与検査を受け、四十五年五月道路敷地として百二十五町五反九畝歩を返還すると同時に成功地四千四十一町二反七畝余歩の付与を受け、次て小作人赤堀勇蔵外八十名に対し成墾額の九割を分割譲与したり、其地積八百四町四反五畝歩の内最多きは一戸五十八町九反余歩、少きは二町八反歩余にして、十町歩以上のもの二十二戸あり
地積 現在所有地積四千四百九十九町一反六畝六歩にして、内耕地三千二百三十六町八反余歩、牧場一千二百六十二町二反余歩あり、其内訳左の如し
一、耕地三千二百三十六町八反六畝二十七歩
   内
  田 五十二町八反三畝十歩 上川郡人舞村字ニトオマツプ
  畑 二千百二十四町八反四畝五歩
  未墾地其他 一千九十九町一反九畝十二歩  同郡同村字熊牛及ニトオマツプ
一、牧場千二百六十二町二反九畝九歩
   内
  放牧場 九十三町七反三畝八歩
  牧草畑 十八町七反九畝十七歩 同郡人舞村字ニトオマツプ
  放牧場 九百五十七町四反九畝十八歩
  牧草畑 百九十二町四反四畝二十六歩 河西郡芽室村大字美蔓字熊牛
農場 農場内を八区に分ち熊牛を一区より六区に、ニトオマツプを七八の両区とし、一区毎に住民及小作人中より組長一人、伍長五人乃至十人を選挙し、区内一般の事に当らしむ
事務所 現時の事務所は字熊牛にあり、所轄戸長役場所在地なる清水市街停車場を距る東南二里、佐念頃停車場を距る東北一里半とす
建物 建物の重なるもの左の如し
 事務所 一棟 三〇坪 倉庫 二棟 六五坪
 社宅  九棟 二一二坪 厩及牛舎 三棟 一三八坪五
 機械庫 一棟 一四坪
 此の他ニトオマツプに社宅・倉庫、清水市街に社宅・貸家各一棟あり、孰も柾葺木造なり
農具 農耕機械其他の重なるものは
 プラオ ハロー カルチベーター モーア テツター レーキ 荷馬車 馬橇
  但し小作の分を合すればプラオ、ハロー、カルチベーター各二百台以上、荷馬車・馬橇各百台以上なり
職員 事務員及常傭夫各六名を常置し、場長吉田嘉市之を管理せり、
 - 第54巻 p.129 -ページ画像 
事務分掌左の如し
  会計主任・測量係・水田係・牧畜係各一名、小作監督三名、農場に於ては耕馬及輓馬五頭を使役せり
戸口及作付反別 昨年の小作戸数三百六十二、人口二千百三十三、作付反別二千百五十九町七反余歩にして、前年に比し戸数二十四を減じ、人口七十、反別二百五十二町三反余歩を増加したり、最近三箇年の増減を示せは左の如し

         戸数    人口      作付反別
                         町  反 歩
  大正二年   三六二  二、一三三  二、一五九・七三〇〇
  同元年    三九五  二、一七一  一、九〇七・三九〇〇
  明治四十四年 三八六  二、〇六二  一、九二一・一七〇〇

作物 作物は大豆・小豆を主とし、燕麦・稲黍等之に次く、昨年の産額二十万一千二百余円に上り、前年より四万一千余円を増加せり、一反歩の収穫九円三十二銭余、一戸平均約五百五十六円に当れり、左の如し
○中略
小作配当反別 其多きは二十五町歩、少きは三町歩にして、孰も耕馬三・四頭を使役し、新式農具により馬耕を行ひ、一戸平均六町歩を耕作せり
水田 ニトオマツプにあり、明治四十三年の開作に係り、四十四年灌漑溝を開鑿し、四十五年春水田小作として、三重及富山県人二十戸を近文及神楽料地より転入せしめ、四十町歩を作付せしめたるに、其収穫一部分は反当一石六斗に上りしも、無収穫の箇所少からず、平均一石に過ぎざるを以て、昨年は約二十五町歩を作付したるのみ
排水溝 場内往々湿地ありしを以て、明治四十三年に四千八百七十四間、四十四年に二千百七十四間、四十五年に二千六十二間、大正二年に四千五百間の排水溝を鑿掘して土地を乾燥せしむ
作物販売 農作物中稲黍・大麦・馬鈴薯・蔬菜及蕎麦・玉蜀黍・燕麦の幾部を自家用に、薄荷は試作に供するの外は総て販売せり、販売先は農場附近の新得・清水・佐念頃及芽室の各停車場市街の仲買商にして、収納時に際し、各商人は農場に入込み購買するを例とし、農場に於ては何等干渉せず
小作概要 農場は最初小作人に対し渡航費の貸付は勿論種子料・農具料・小屋掛料を給し、又は食費を貸与し、配当地積の内其五割を会社にて開墾して之を与へ、更に残地を小作人に開墾せしめ、反当り草原地は一円五十銭、樹林地は三円、疎林地は二円の開墾料を支給し、成功の上は全地の九割を無償譲与するの契約なりしが、却て惰民を生ずるの傾向あり、其の成績良好ならざるを以て、四十三年之を廃止し、更に小作制度として其年限を十箇年と定め、新墾に対しては自費・給費の二種に分ち、自費は鍬下三年以上、給費は二年とし、給費には如上の開墾料を給す
小作料 小作料は毎年十月末日迄を納期とし、左の等級により徴収せり

      円 銭      円 銭      円 銭     円 銭
  一等 一・五〇  二等 一・二〇  三等 一・〇〇  四等 ・八〇
 - 第54巻 p.130 -ページ画像 
  五等  ・六〇  六等  ・五〇  等外  ・三〇

 水田は初年のみ畑を変更したるものには反三円、草原地は六円、樹林地及特殊のものには十円の造成費を給し、鍬下を三年とし、大正四年より小作料徴収の予定たり
 小作人中又小作を行ふものあり、其の料金は小作料の五割増なり、小作権売買価額は五町歩に付五十円乃至三百円とす
 小作料納入は其成績佳良にして、昨年の小作料総額一万四千六百五十七円十八銭八厘に対し、滞納僅に二百三十円二十銭四厘十二戸分即ち一厘五毛余に過きすして、期限前に完納するもの年々其数を増加せり、左の如し
   年次      小作料納入額  期限前完納者
               円        戸
  明治四十四年 一〇、三一五・七七三    二三
  大正元年    二、九五八・六一〇    五二
  同二年    一四、四二六・九八四    八三
生計状態 移住者は宮城県最多く、静岡・岐阜・徳島・福井・香川・兵庫の諸県之に次く、風俗概して淳樸にして、或一部を除くの外は勤倹にして貯蓄心に富み、地方商人の仕込を受け、又債務を負ふか如きものなく、生計概ね富裕なり、其資産の多きは五千円以上のもの十五戸、千円以上のもの百二十余戸を算し、他に土地を購入し、小作を入れ、良馬を有し牧畜を兼ね、又は附近商人に資本を供給するもの三十余戸あり、草葺家屋を木造柾葺に改築するもの尠からず馬匹七百二十頭、畜牛十五頭、鶏八百五十七羽を飼養せり
○下略