デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

2部 実業・経済

5章 農・牧・林・水産業
1節 農・牧・林業
9款 農・牧・林業関係諸資料 4. 埼玉県大里郡八基村農政談話会
■綱文

第54巻 p.285-295(DK540063k) ページ画像

大正14年6月26日(1925年)

是年五月、「八基村産業基本調査」刊行セラル。是日栄一、矢作栄蔵及ビ岡田温ニ対シ、書翰ヲ以謝テ意ヲ表ス。


■資料

八基村産業基本調査 同村編 第七―一〇頁大正一四年五月刊 【緒言 … 帝国農会幹事 岡田温】(DK540063k-0001)
第54巻 p.285-286 ページ画像

八基村産業基本調査 同村編  第七―一〇頁大正一四年五月刊
    緒言
治世ノ要道ハ、人々衣食足リ、礼節ヲ知リ、隣保相親シミ、平和ノ間ニ進歩ト幸福ヲ進ムルヤウ指導スルコトテアル。
現今国家社会ノ最モ重大ナ問題ハ、多数ノ国民ノ、衣食ノ満足ヲ求ムルニ根底スル生活問題テアル、而シテ衣食ノ満足ハ、際限ノナキモノ故、結局ハ、勤倹ノ良風ヲ養ヒ、物質的慾望ヲ、必要限度ニ自制シ得
 - 第54巻 p.286 -ページ画像 
ルヤウ、精神修養カ基礎テハアラウカ、然シ一面ニハ、現代ノ経済組織ニ順応シテ、可及的致富ノ道ヲ講シ、世間並ノ物質文明ノ恩恵ニ浴スルヤウ、所謂文化生活ニ進ムコトヲ条件トセネハナラナイ、若シモカヽルコトハ、無用有害ノ贅沢ナリトシテ、全然之レヲ排斥シタナラハ、恐ラク多クノ人ノ努力ハ停止サレ、世界ノ文明ハ退化スルテアラウ、而シテ致富ノ道ハ、産業ノ改良発展ニ求ムルノ外ハナイノテアルカラ、産業ノ奨励ハ実ニ村ヲ治メ、国ヲ治ムル大本テアル。
当八基村ハ、純然タル農村ニテ、産業ト云フハ、殆ント農業テアル、而シテ農業ハ、土地・季候等人ノ力ニテ改造シ増減スルコトノ出来ナイ、天然ノ要素ト、時勢トトモニ常ニ変化シ行ク経済事情トノ結合ヲ以テ経営スル事業テアルカラ、現代ノ学理ヲ応用シ、道理ニ合ツタ有利ナ経営ヲナスニハ、常ニ多大ノ研究ト努力ヲ要スルノテアル、若シモ之レ等ノ要件ヲ考慮セス、古来ヨリヤリ来リノ旧式ノ経営法テアツタナラハ、時勢ト共ニ進歩スルコトハ出来ナイ。
尚ホ又如何程巧妙ナ経営ヲ行フトシテモ、農業ニハ地力逓減ノ法則カ儼存シテ、或一定ノ程度ニ達シタナラハ、更ニ如何程ノ資本又ハ労力ヲ加ヘテモ収益ヲ増加スルコトハ出来ナイノテアル、故ニ農業ノ人口ヲ養フ力ハ、一定ノ限度アリテ、ソレ以上ニ人口ノ増加シタ場合ハ、幾ラ農事改良ニ精励シテモ、多クハ徒労トナリ、徒ラニ利益ヲ細分シ共倒レノ窮境ニ陥ルコトニナルノテアルカラ、一面ニハ周到ナル調査研究ニヨリ人口収容ノ限度ヲ考察シ、以テ農業ノ安定ヲ図リ、他面ニハ、其対策トシテ、産業ノ新正面ヲ開拓セネハナラナイ。
産業基本調査ハ、コノ重大問題ノ研究及解決ニ資センカタメニ計画セラレタ大事業テアツテ、大正十二年五月着手シタノテアル。
不肖ハ調査ノ嘱托ヲ受ケ、当局ノ方々並ニ有志諸君ト之レニ従事シ、中途関東ノ大震火災ニ遭遇シテ種々混雑ナトモアリシカ、爾来一年余ニシテ漸ク結了シタノアル。
当村ハ我国経済政策ノ創設者、実業界ノ恩人渋沢子爵ノ出生ノ村テアツテ子爵ノ愛郷ノ至情ト、郷党薫化ノ事績ハ、村治上各方面ニ現ハレ無形ノ指導ヲナシテ居ラルヽヤウテアル、故ニ加フルニ、有形ノ指導計画ノ整備スルニ至ラハ、現代的ノ模範村ヲ出現スルテアラウ。
世間ニハコノ種類ノ調査ニ対シ、調査ノ結果トシテ必然的ニ一定ノ改良方策ノ生レ出ルカ如ク期待スルモノアレトモ、調査ハ如何程周密精確ニ行フテモ、ソレハ単ニ現状ヲ表示スルノミテアツテ、夫ヨリ以上ノコトハ調査ニ現ハルヽノテハナク、調査ノ現状ニ対スル判断ノ如何ニヨリ、人々異ツタ見解ヲナスコトモアリ、従ツテ種々異ツタ対策ノ考案セラルヽコトモアルカラ、コレヲ以テ一定ノ指針ト速了シテハイケナイ。
故ニ本調査ニ対シ、村民諸君ハ反覆考究シ、誤謬ヲ正シ、不足ヲ補ヒ正確ニ吾村ノ長処短処ヲ知リ、之レニヨツテ反省シ、之レニヨツテ発明シ、之レニヨツテ奮励シ、之レヲ活用シテ、合理的ニ産業ノ発展ヲ図リ、以テ幸福ヲ進メラレンコトヲ希フ。
  大正十三年八月
               帝国農会幹事 岡田温

 - 第54巻 p.287 -ページ画像 

八基村産業基本調査 同村編 第一一―一四頁大正一四年五月刊 【八基村産業基本調査ノ刊行ニ際シテ … 八基村長 渋沢治太郎】(DK540063k-0002)
第54巻 p.287-288 ページ画像

八基村産業基本調査 同村編  第一一―一四頁大正一四年五月刊
    八基村産業基本調査ノ刊行ニ際シテ
何事ニセヨ目的カアリ、現状カ審カニサレ、然ル後始メテ最善ノ方法カ決マルノテアル、我八基村六百町歩ノ土地ト、四千五百ノ村民共同ノ福利ヲ、永遠ニ維持増進スルタメニ、採ルヘキ手段ヲ定ムルニ方リテモ、先ツ現状ハ如何ニアルカトイフコトヲ、精確適当ニ考察スルコトカ肝要テアル、併シ、ソレハ決シテ容易ノ事テハナイ、単ニ積ミ重ネタ数字、紋切型ノ図表、ソレハ今日、時代ト共ニ消長シ変化シツヽアル、一村産業ノ有機的関係ヲ如実ニ判知シ得ル資料トシテハ、到底不充分ナルコトヲ免レナイ。
吾々ハ自分ノ身体ノ異常ノアル場合、通常其アラマシハ自覚スルコトカ出来ルケレトモ、更ニ一歩ヲ進メテ、何レノ部分カ、何ノ位悪イノカトイフコトハ、専門医師ノ診断ヲ待ツテ、始メテ明ラカニスルコトカ出来ルノテアル。近来農村問題トイフ語ハ、社会上ニモ政治上ニモ俄カニ其重大サヲ加フルヤウニナツテ来タ、然モ今日一般ニ、農村問題ノ方案トイヘハ、千遍一律、コレテナケレハアレトイフヤウニ書キ併ヘタ、普遍的総論的条項ノ範囲ヲ出テナイノヲ常トスル。
一村産業組織ノ内容ニツイテモ、人ノ身体ニ於ケルカ如ク、常態ニ在リテハ略々相似タルモノテアラウ、ケレトモ異常欠陥即チ疾病トイフ場合ニ際シテハ、必スヤ病症、程度、病原ヲ異ニスヘキテアル、故ニ万能丸的ノ農村振興策カ常ニ卓効ヲ奏スヘシトハ、余リ多クヲ期待シ能ハサル所以テアル。
不肖農家ニ生レ、地方産業界ノ一端ニタツサハツテ半生ヲ過コシタ者テアルカ、偶々去ル大正十一年春、乏シキヲ八基村長ノ職ニ受クルノ始メ、如何ニシテ貴キ我父祖ノ地ヲ、将来ニ亘リテ繁栄ニ導クコトヲ得ヘキカトイフコトニ思ヒヲ致シタ結果、村内諸団体ノ代表者ヲ網羅シタ八基村農政談話会ニ、諮ルニソノ事ヲ以テシタ、其際ノ結論トシテ、先ツ土地ト経済トノ両方面ニ対シテ、現状ノ調査ヲ必要ト認メ、前者ハ耕地整理実地調査トナリ、後者カ即チコノ産業基本調査トナツタノテアル。
我村ノ事柄ニ就イテハ、コレマテ何クレトナク配慮ヲ煩ハシテ来タ、渋沢子爵ニハ、特ニ今次ノ問題ニ関シテモ、進ンテ農政談話会ニ顧問タルコトヲ快諾セラレ、我村ノ改善施設ノ考究ニ対シテモ、非常ニ熱心ニ働キカケニ指導サレテ居ルノテアル、即チ本調査ハ、老子爵ノ心添ヘニヨリテ、本県出身ノ現代農政学界ノ権威者矢作法学博士ヲ介シテ、農村ニ関スル調査研究ニ造詣深キ帝国農会幹事岡田温先生ヨリ、直接指導ヲ仰キ、加フルニ県郡農会等関係技術者各位ノ斡旋ヲ待ツテ玆ニ完成ヲ見タノテアル、尚村民側ニ於テハ調査委員長橋本八郎次氏以下四十四名ノ委員諸氏ハ、終始熱心其事ニ当リ、一切ノ準備ト、戸別的統計ノ蒐集等ニ当ラレタノテアル、而シテ八基信用購買販買利用組合ハ、産業組合中央会カラ表彰ヲ受ケタ記念事業ノ一ツトシテ、調査資金ノ一半ヲ寄附スルコトニヨツテ、其遂行ヲ助ケタノテアル。
就中渋沢子爵ニハ、直接コノ事ニ関シテ、前後二回迄モ来村セラレ、
 - 第54巻 p.288 -ページ画像 
又タ岡田先生ハ、調査事業ノ中心指導者トシテ、公務ノ閑ヲ割キテ、相当ノ長時日ヲ本村ノ踏査ニ費ヤサレ、時ニハ親シク霜オク畦畔ニ立チ、時ニハ農桑五月、村翁ヲ訪フテ、具サニ村内ノ事情ヲ精察セラレタノテアツテ、其間得来レル統計ノ資料ト、縦横ノ観察トヲ基礎トシテ、先生一流ノ精察判断ヲ下サレタノテアル、此判断ハ即チ我村産業ノ現状ト、併セテ将来ニ於ケル之レカ進展ノ軌道トヲ示スモノテアツテ、ヤカテ我村産業上ノ施設トシテ採ルヘキ根本方針ヲ決スヘキ羅針トナルモノテアル、即チ爾今一切ノ施設モ計劃モ、之レニ基イテ始メテ有意義トナリ、且ツ適切トナリ得ルノテアル。
終リニ臨ミ、此事業ニ関シテ指導ヲ賜ハツタ先輩各位ノ御好意ヲ感謝シ、調査委員諸氏ノ尽力ニ対シテ、敬意ヲ表スルト共ニ、次テ起ルヘキ、改善的施設ノ実現ニ関シテモ、重ネテ推輓ノ力ヲ藉サレンコトヲ切ニオ願ヒシテ止マナイノテアル。
  大正十三年十月
                  埼玉県大里郡
                   八基村長 渋沢治太郎


渋沢栄一書翰 控 矢作栄蔵宛大正一四年六月二六日(DK540063k-0003)
第54巻 p.288 ページ画像

渋沢栄一書翰 控  矢作栄蔵宛大正一四年六月二六日   (渋沢子爵家所蔵)
(朱書)
大正十四年六月廿六日付矢作栄蔵博士宛総長親書写
拝啓 益御清適奉賀候、然ハ先般老生旧郷里埼玉県下八基村に於て、農村振興問題ニ付完全なる実地調査之必要有之、適当之学者御人撰之義相願候処、種々御高配之末帝国農会幹事岡田温君を御推薦被下、一昨十二年より昨年五月迄約一ケ年を以て、各方面ニ渉りて充分之研究審査を経、産業基本調査書編成致し候、右ハ既に岡田君及地方担当者よりも御報道申上、成本も進呈致候事と存候得共、元来基本調査之事ハ老生年来之宿望ニて、毎々地方有志者へ勧誘いたし、今回始而完全之調査出来候次第にて、要ハ賢台之御高配によりて適当之学者御撰定被下候に帰着致候義ニ付、右謝意を表する為め軽微之至ニ候へとも、別紙目録之通り進呈仕候間、御笑留被下候ハヽ本懐之至ニ候、右可得貴意如此御坐候 敬具
  大正十四年六月廿六日
                      渋沢栄一
    矢作栄蔵様
        玉案下
 (別筆)
 備考 前紙目録トシテ三越呉服店百円切手添


渋沢栄一書翰 控 岡田温宛大正一四年六月二六日(DK540063k-0004)
第54巻 p.288-289 ページ画像

渋沢栄一書翰 控  岡田温宛大正一四年六月二六日   (渋沢子爵家所蔵)
(朱書)
大正十四年六月廿六日付岡田温氏宛総長親書写
拝啓 其後御疎情に打過候得共賢契益御清適之条奉賀候、然者一昨年来御担当被下候埼玉県下八基村産業基本調査之義ハ、爾来容易ならさる御丹精にて完全之編成を得、玆ニ地方農業振興之端緒を開き候事と老生ハ別而将来を期待罷在候、右ニ付而ハ地方有志之人々にも近頃ハ稍真面目ニ努力致候様相成候得共、学理之応用に遅鈍なるハ農村之常態ニ付向後之鼓舞作興一段之要務と存候間、此上とも引続き御同情御
 - 第54巻 p.289 -ページ画像 
援助被下度候、右調査之事ハ当初老生之発意にて、曩ニ矢作博士を経て賢契に御委嘱仕候義に付、乍延引老生より其謝意を表し度、随而軽微之至ニ候得共、別紙目録之通進呈仕候間御受納可被下候、右ハ拝趨陳上可仕筈ニ候へとも、老生客年之冬より宿痾之為め今尚籠居致候ニ付、失敬なから書中得貴意度如此御坐候 敬具
  大正十四年六月廿六日
                     渋沢栄一
    岡田温様
       貴下
 (別筆)
 備考 別紙目録トシテ金参百円金子届済


渋沢栄一書翰 控 渋沢治太郎宛大正一四年六月二七日(DK540063k-0005)
第54巻 p.289 ページ画像

渋沢栄一書翰 控  渋沢治太郎宛大正一四年六月二七日   (渋沢子爵家所蔵)
(朱書)
大正十四年六月二十七日付渋沢治太郎氏宛総長親書写
拝啓 益御清適欣慰之至ニ候、然者従来種々御討議致居候農村振興問題ニ付而ハ、先般之協議ニ拠リ、先以て八基村に於て完全之基本調査実施之事ニ相成、直ニ帝国農会幹事岡田温氏に委嘱して一昨年五月より着手し、昨年五月終了、老生も客冬其報告会ニ出席致し、且該調査書も其後篤と熟覧致候処、実に周到之注意を以て繁簡其宜を得、鄭寧親切に各方面を考察せられ候、頗る適当にして要領を得たるものと思考いたし候
此上ハ貴下を始として地方関係之諸君ハ、尚詳細ニ御審議相成、必要と決定せし事柄ハ順次改善ニ着手相成候事と確信仕候、就而此際ニ申添候ハ聊か過慮之嫌有之候も、総して公共事業即ち本件之如きハ、論するに易くして実行に難きハ、従来之慣例に候得共、如何なる名論卓説も文書のみにて効果を奏せし実例ハ無之ニ付、其辺之事実能々御諒知被成度候、殊に調査書中にも縷述せられ候桑畑衰頽之事ハ、老生従来貴地通行之際、自己か青年時代之耕転を回想して現状ニ不満を抱き居る義に候間、右改良方法ハ第一ニ御着手相成度希望之至ニ候
農業之改善ハ能く進歩せる科学を簡易に応用するに在りとハ、老生年来之持論ニ付、特に此際詳細之説明ハ不致候、只玆ニ輓近米国ニ於て称賛せらるゝ丁抹国之農村教育に関する書冊数巻御参考迄ニ相添候間貴下及有志諸君ニ於て御一読相成、充分なる御採用有之度候(此書冊類ハ過日既ニ御交付いたし置候)
先般御申聞有之候公民学校設立に付、其運為に要する資源御援助之事ハ、老生同族及懇親之人々より夫々寄附金額申出候由ニ候、委細ハ同族会社主任増田氏へ御聞合相成、適宜之御処置可被成候、右可得貴意如此御坐候 敬具
  大正十四年六月廿七日
                      渋沢栄一
    渋沢治太郎様
         貴下


(白石喜太郎) 書翰控 渋沢治太郎宛大正一四年六月二七日(DK540063k-0006)
第54巻 p.289-290 ページ画像

(白石喜太郎) 書翰控  渋沢治太郎宛大正一四年六月二七日
                    (渋沢子爵家所蔵)
 - 第54巻 p.290 -ページ画像 
拝啓 然ば別紙御書面は、渋沢子爵に於かれ特に御心入にて、御自身御認めの上拝送仕候様申聞けられ候に付、玆許同封仕候間御入手被下度候、尚本文に記載せられ候岡田温氏並に同氏を指導せられたる矢作博士に対しては、夫々御自筆の御礼状を添え謝議(矢作博士には三越商品券百円、岡田氏には金参百円)本日差上られ候間御承知被下度候右申上皮如此御座候 敬具
  (朱書)
  大正十四年六月二十七日
                  渋沢事務所
                      白石喜太郎
    渋沢治太郎様


(岡田温)書翰 渋沢栄一宛大正一四年六月三〇日(DK540063k-0007)
第54巻 p.290 ページ画像

(岡田温)書翰  渋沢栄一宛大正一四年六月三〇日
                     (渋沢子爵家所蔵)
              (朱書)
               大正十四年六月三十日
                 牛込区市ケ谷田町三ノ十九
                         岡田温氏来状
謹啓
誠に申訳もなく打過候処、昨今余程御軽快とならせられ候由大慶至極に奉存候
本日ハ意外にも御鄭重なる御挨拶並に過分の御芳志を戴き、何とも恐縮至極に奉存候、殊に尚御病床にて御執筆と承り、私共農村研究者としてハ無上の光栄と存候と同時に、深厚なる御教訓を被下候事と感銘の至に存候、何れ御全快を待ち御礼可申上候へ共、不取敢御挨拶申上候 敬具
                      岡田温
    渋沢栄一様
        賢台



〔参考〕渋沢栄一 日記 大正一五年(DK540063k-0008)
第54巻 p.290-291 ページ画像

渋沢栄一 日記  大正一五年       (渋沢子爵家所蔵)
一月三十一日 晴 寒
○上略
渋沢治太郎・福島三郎四郎氏等来話ス、初冬養蚕ノ実況ヲ談話シ、報告書ヲ示サル○下略
二月一日 寒
午前七時起床、入浴朝飧例ノ如クシテ後○中略理化学研究所ニ抵リ、鈴木梅太郎博士ニ会見シテ、旧里ニ於テ新創セル初冬養蚕ノ事ヲ示シ、蚕業ニ関スル学理ノ研究及農業ト理化学ノ調和ヲ談話ス○下略
二月二日 快晴 寒
午前七時過起床、入浴朝飧ヲ畢リ○中略実業雑誌社編輯長大津復治氏来リ、雑誌ニ対スル意見ヲ要求セラル、依テ全般ノ進歩ニ付テ其沿革ノ大要ヲ叙シ、目下農業上改善ノ注意ヲ詳話ス○下略
  ○中略。
二月四日 晴 寒
午前七時起床、入浴朝飧ヲ畢リ○中略岡田純夫・山下秀雄二氏来リ、中
 - 第54巻 p.291 -ページ画像 
外商業新報ノ為ニ生糸ニ関スル意見及初冬蚕ノ事ニ付、八基村ニ於ル実況ノ報告書ヲ示シ、新聞紙上世間ニ宣伝ノ事ヲ指示ス○下略



〔参考〕竜門雑誌 第三五二号・第二八―三二頁大正六年九月 ○渋川町講演会地方経済の発展に就て 青淵先生(DK540063k-0009)
第54巻 p.291 ページ画像

竜門雑誌  第三五二号・第二八―三二頁大正六年九月
    ○渋川町講演会地方経済の発展に就て
                      青淵先生
 本篇は青淵先生が伊香保に避暑中、上州渋川町々長並に渋川銀行頭取諸氏の懇請に依り、八月八日同町小学校講堂に於て講演せられたるものなり(編者識)
○中略
 私は埼玉県下の血洗島といふ小村に生れたもので、二十四歳の時より家を離れたのである。明治の初東京住居となつてから四・五年毎に郷里に赴いて農工業の事を村民に注意したが、昨年の九月廿七日には村社の拝殿を新造したので故郷に帰り、郷里の人々に種々話をした。血洗島の一小村の事を渋川町に擬するは失礼に当るやも知れぬが、他方の文明を自己のものとするは誤つた考ではない。新らしき学理を早く模倣して、且これを消化することは必要の事と思ふ。渋川の諸君は渋川だけ看て居つたのではいけない、社会の進歩と事局の変化に応ずることが常々緊要である。
 現に私は血洗島に於て、其の地味が良くて藍を作つて居た耕地が鉱物藍に圧倒されて、武州藍は跡を絶つた。寔に幸福は定めなく流れ来るものであるから、受ける方にて注意せざれば其地には止まらぬ。血洗島の農民は藍を作る代りに麦を作るのみにては面白からぬことである。又養蚕の桑も本場として誇り居るも、常に培養を怠れば次第に悪くなり、仮令根刈桑にても高木桑にても何ケ年を保ち得べきか、桑の改良は必要であるが、樹齢は十五年位といふことであると、是は血洗島にて注意せしことを御参考の為に述べたのであるが、渋川町としては工業に就て如何なることを試験し、又は計画せらるゝや、例へば生糸に就ては信州の諏訪に圧倒されて居りはせぬか、諏訪人に頼りて行くといふは面白からぬことである。製糸工場の如き、現在以上に一層大なるものゝ出で来るべき見込は無いであらうか。
○下略



〔参考〕竜門雑誌 第五二〇号・第一一五―一二〇頁昭和七年一月 隠れたる農村の愛護者故渋沢子爵の農業観 渋沢治太郎(DK540063k-0010)
第54巻 p.291-295 ページ画像

竜門雑誌  第五二〇号・第一一五―一二〇頁昭和七年一月
    隠れたる農村の愛護者故渋沢子爵の農業観
                      渋沢治太郎
 明治・大正・昭和の三聖代に亘り、新日本建設のために華々しい功業を樹てられた故渋沢栄一子爵は、又一面に於て隠れたる農村の愛護者であり指導者であつた。故子爵の郷村埼玉県大里郡八基村が夙に埼玉県に於ける模範村として推され、又農業に関する基本的調査の遂行によつて全国的に知らるゝに到つたのは、一に同子爵が我国本たる農業の発達を念じ、農村生活に寄せられたる強き思慕の現はれと云ふことが出来る。之等の点に就て同子爵の一門であり、後進として現に同村の村治の掌に当り、又八基村農業資本調査遂行の局
 - 第54巻 p.292 -ページ画像 
に当られたる渋沢治太郎氏に請ふて、玆に其の一端を掲げることゝした。(編者)
      一
 故子爵が郷党の老幼を指導せらるゝに当つては、「敬神崇祖」といふことを常に中心として自ら其の範を示された。
「誠は天の道なり」とは処世の大道として故子爵が高調せられた標語であるが、之に就て翁は常に次の如く語られた。凡そ人生は如何なる職業に従事するを問はず、物質的方面のみに拘泥してはならぬ。己あるがための己ではなくして、社会あるがための己である、換言すれば所謂共存共栄が人世社会の大道である。殊に天然に支配せらるゝ農業の尊さは容易ならぬものであるから、之に従事する農業者は特に以上の如き心掛を持たねばならぬ。然るに動もすれば之を忌み疎んじ、之を疎略にする傾向がある事は誠に遺憾である。勿論それには社会の施設万端が兎角農業に恵まれない結果として農業の利益が薄い、斯様なことが総て農業を忌避させるやうに仕向けることは誠に残念である。併し之は農業者各自の所謂自覚によつて有利に導くことが必ず不可能でない。即ち自らなすべきことは自ら為し遂げる、之が農業者の勤めであり、此の勤めを果すことが即ち天の道に合致する所以であると。
 翁が敬神崇祖を以て村民指導の中心とせられたのは、蓋し之によつて農民をして誠の道を涵養せしめたい存念であつたと思ふ。
 そして故子爵は「自分も若い時には一パシの百姓になるつもりであつたが、幕末の時勢を考へると憂国の志止み難く、二十四歳の時から遂に故郷に留ることが出来なくなつた。之は若気の至りとは云ひながら誡に郷党に対して申訳がない。併し私が去つた後を守り私の志を継いで呉れる人々は、どうか自分に代つて我が村の繁栄と国の基なる農業の発達のために努めて頂きたい」といふことを常に申された。そして此の志は子爵が晩年になると共に益々強くなられたやうであつた。
      二
 翁の生家は八基村の血洗島といふ部落で、そこに鎮座する村社諏訪神社が翁の氏神であつたが、翁は明治三十九年以来この神社の祭典の日には必ず帰郷して、之に参拝するとゝもに、祖先の墓参をして一泊の上東京に帰られるを常とした。此の事に就て翁は「自分が帰郷するために歓迎会などを催されては困る。自分が祭典の日に帰郷するのは国民の一人として、氏子の一人として氏神に参拝し、祖先の展墓をして、当然の勤めを果さんが為である」と云つて、村民に対し常に敬神崇祖の範を示された。
 大正五年に翁が七十七歳を以て実業界を引退せられた時、我が村で喜寿の祝賀会を催し、諏訪神社の境内に翁の出生記念碑を建てるといふことを申し入れたところ、翁は非常に喜ばれ「それならば自分も神社の拝殿を新築して寄進しよう。氏神の社殿を荘厳にするのは氏子たるものゝ当然なすべきところであるが、自分は若い時に村を出た関係上、氏子としての当然の勤めを怠り勝ちであるから、そのお詫びをしたいと思ふ」とて社殿を新築して寄進された。
 その拝殿の新築落成と記念碑の除幕式を同年の祭典直後の十月一日
 - 第54巻 p.293 -ページ画像 
に開催した、其の式典に臨んで故翁が村民になされた訓示の筆記が幸ひ手許に残つて居るので、左に掲げることゝする。
    八基村の産業に就て
 私は本村の大字血洗島で成長したる者であるから、当村が埼玉県下の模範村となり、村民の諸君が最も進歩したる臣民となられることを衷心より希望して居る、蓋し精神上の進歩は、敬神と教育とに拠るべきは勿論であるから、先づ村内の神社を荘厳にし、学校を整備する為めには常に心を添へ幾分の助力をなし、又時々諸君に忠告も致した。
 今回諏訪神社に拝殿を造営して寄進したのも、前に述べたる微意を実行したのである。然しながら世の進歩は精神上のみでは満足せぬ、どうしても物質の発展が伴なつて行かねばならぬ、目下本村の農産に就て考察するに、決して完全なる状態とは思はれぬ、否大に不足して居ると言はぬばならぬ、元来事物の進歩は海の東西を問はず、時の古今を論ぜず、上位の階級より其端を啓きて、漸次に下流に及ぶものである、殊に維新の政変の如き大変革ありし我邦の如きは、此有様が強いのである、明治以降の物質上の改善は、先づ知識階級に於て学理的に海外の事物を模倣し、随て一般に普及したのである、而して工業は其学理の応用が適切であるから、模倣の時間も稍短縮し得るけれども農業に至りては茫乎として其要を捕ふるに苦しむものが多いから、下級に伝播するのは非常に時を要する、是は事物進歩の常道であるけれども、下級者の研究心の不足なるにも因るのである、今例を挙げて之を示さば、此八基村及び其附近は、私が村に在りて農業を営みし頃には藍葉が主たる農作物であつて、重立たる農家は皆之を耕作し、更に加工し藍玉となし、農間の商業を経営したものであつた。故に其期節には村内の上畑は概ね青々たる藍葉に充たされたのである、然るに今日は全く其跡を絶つて、一株の藍葉も見る事は出来ぬ、是は染料製造の変化であるから、如何とも致し難きことなれども、其藍作りに代りて如何なる耕作物を発見せしや、諸君の説明を請ひたきものである、又養蚕に付ても、本村は本場として有名でもあり、且つ少からぬ利益を得たのであつた、今日とて敢て衰微はせぬけれども、近来本場産の生糸が新場産の生糸に劣るといふことを耳にする、之は初めて学ぶ者と、上達して居るものとは、進歩の遅速が同様ならぬといふ原則に従ふのであるかも知れぬが、或は恐るゝ、本場の人が研究を疎略にする為めではなからうか、試みに養蚕の基礎たる桑田の培養の如きも、旧来の古株を襲用して少しも改良を施さぬ、之に反して新場の人は良種の桑を移殖し、且其培養に努むるから、従つて養蚕も優れるのではなからうか、次に商業の方面に就ても、近頃政府が各種の組合事業を奨励して其設立を慫慂して居らるゝが、斯る事柄は政府のみに依頼して居ては到底完全なる発展は出来ぬ、由来合本方法は、私が維新前欧羅巴に渡航した時其必要を感じ、帰朝後大声之を唱へて始て今日にまで増進したのである、素より未だ充分とは申さぬが、幾分か理想に近い様になつた、蓋し組合の事業も一の合本方法であるから、其経営に就て最も注意せねばならぬのは各自の公徳心である、一例を示せば支那人である、支那人の性質たる、個人営業は頗る巧妙なるに拘はらず、
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合本会社の事務は常に失敗する、其原因は何かといへば、一に公徳心の絶無に起因する、算し来れば農村に於ける物質上の研究も多々あるから、私は玆に瑣小の基金を寄附して、其資金に充てたいと思ふのである、但し今私が提供する金額は誠に僅少で、各種の研究を為し遂ぐるには不充分なるは勿論と思ふけれども、之を基本として必要なる方面の研究より着手されたなら、私の平素希望して居る如く、此八基村が物質上の文明に於ても模範たるの位置を得るであらう。
 私は此機会に於て諸君の不屈不撓なる御精励を願ふのである。
 大正五年十月一日
                八基村役場に於て
                      渋沢栄一
 之は翁が日頃郷村の繁栄に就て抱いて居られた考への一端を述べられたもので、要するに農民は「誠は天の道なり」といふ心掛けを土台として、其上更に日進月歩の科学上の研究を怠らないで、業務に精励すべきことを諭されたのである、そして其の機会に、村民の農業に対する研究基金として金五千円を寄贈された。
      三
 其の後恰度私が村長に就任した大正十一年にも、矢張り諏訪神社の祭典に翁が帰郷されたのを機会に、八基村農会が中心になつて農政談話会といふものを組織し、その発会式を挙げ、翁に其の顧問をお願ひすることになつた。帝国農会からも岡田幹事が列席された。発会式の席上では、今後八基村の発展上如何なる施設経営をなすべきかといふ諮問を出し、出席者がお互ひの意見の発表交換を行つた結果「古きを温ねて新しきを知る」「本立て道生ず」の理に従ひ、先づ村の現在の状態を知ることが第一に必要であるといふところから、先づ村の基本調査を行ふことに決定した。
 その席上故翁は顧問として色々有益な意見を述べられ、「従来から自分も色々と村の発展に就て注意忠告を致したが、村民が玆に目覚めて斯様な企てをして研究調査を進められることは誠に喜ばしい」と申された。即ち我が八基村の第一回基本調査は斯様な端緒から着手せられたのである。
 其の後も毎年神社の祭典には必ず参拝のため帰郷せられ(昭和五年と六年は著しく老境に進まれ、御健康が許されなかつたのでその事がなかつた)翁が子供の時から好きであつたササラ舞を見、祭典で村内の老若男女が真に一家の如く団欒集合せる有様を見て、翁が村に在りし若き日を偲ぶ事を無上の楽とせられた。
 翁が諏訪神社の祭典に帰郷されることは、我が生れた村の祭典であるといふ狭き心持ではなかつた、之は翁が農村を愛護し思慕する心の発露であつて、広く農村と云ふものは総て斯くありたきものであるといふことを、自ら範を示されるつもりであつたと思ふ。であるから毎年一月一日翁が一年中の行事を定められる時から、九月廿七日は八基村血洗島の諏訪神社の祭典に参拝のため一泊がかりで帰郷するのだと云ふ事を楽しみにして居られた。
      四
 - 第54巻 p.295 -ページ画像 
 翁が八十八歳の米寿の祝賀の時、村では矢張り記念事業を計画したが、それには銅像を建てるといふ如き形式的の事業ではなくして、村民の農業補習教育の徹底を目標として公民教育基金制度を創始した。今日我が八基村が教育の徹底につき他村に比して誇るべきものありとすれば、そは此の記念事業の結果である。即ち村としては此の記念事業により、八基村四百七十町歩田畑の総てが子爵の寿蔵になるやうに農事の改良に努力してゐる。
 以上概括的に申上げた如く、翁は終始一貫農は国本なりといふ強き信念の下に「唯徒らに物質的の利得といふことのみを標準として考へるならば、或は農業程馬鹿らしいものはないかも知れぬ。併し農業の真理は決して左様なものではない、故に農民は呉々も此の点に目覚め「誠は天の道なり」といふことを体して励むべきものである」ことを村民に諭されたのである。八基村は先きに第一回の基本調査を行ひ、最近第二回の調査をも完了し、両者の間に幾分なりとも比較進歩の跡を見ることが出来たのであるが、前途更に進むべき計画を具体的に御示して御指導を請ひ、御安心を願ふといふ域にまで到達出来なかつたことは、村民の返す返すも遺憾とする所である。
 併し我々は子爵の臨終に際して「決して位牌として他人行儀に扱つて呉れるな、生きて居ると同様に交際をして欲しい」といふ誠に有難い遺言を頂いて居るので、今後は村民一同子爵の教へを守り、理想の農村を築き上げる事によつて御追善を致したいと考へて居る。(帝国農会時報一月号所載)