デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

2部 実業・経済

5章 農・牧・林・水産業
2節 水産業
1款 洲崎養魚株式会社(魚介養殖株式会社)
■綱文

第54巻 p.310-316(DK540068k) ページ画像

昭和6年11月15日(1931年)

是ヨリ先、当会社、大正十二年九月一日ノ関東大震災ニ因リ、養魚池堤防ノ決潰、建物ノ倒潰等ノ損害ヲ被リシガ、就中被害最モ甚大ナリシ夜光養魚池十一万余坪ハ、之ヲ東京湾埋立株式会社ニ売却スルコトヽシ、十五年八月二十七日開催ノ臨時株主総会ニ於テ、其承認ヲ受ク。

是月十一日栄一歿ス。是日葬儀ニ際シ、当会社ヨリ弔詞ヲ贈ル。


■資料

(八十島親徳)日録 明治四三年(DK540068k-0001)
第54巻 p.310 ページ画像

(八十島親徳)日録  明治四三年    (八十島親義氏所蔵)
五月十三日 曇
今日ハ関誠之氏ノ経営ニカヽル魚介養殖合資会社決算報告ノ総会ニ付大森森ケ崎ナル同社ニ至ル、時ニ十時半也、関氏ノ父子、服部倉次郎高橋波太郎・小野田政治郎等来会、今回ハ第三年目ノ決算ニテ、初年ノ洪水大損害ヲ塡補シテ初メテ年一割ノ配当ヲ為セリ、目下養魚場ノ魚類発育モ極メテ良好、又大師河原二百八十万坪ニ亘ル漁業権地ノ介類養殖ヲ初メ、千葉県君津郡ニ於ケル数ケ所ノ組合営業モ好成績ニシテ、前途ハ至テ好望ナリトイヘリ○下略


(八十島親徳)日録 明治四五年(DK540068k-0002)
第54巻 p.310 ページ画像

(八十島親徳)日録  明治四五年    (八十島親義氏所蔵)
二月十二日 晴 風アリ
○上略 兜町出勤ノ上、午後三時ヨリ養魚会社重役会ニ臨ム、養魚業ヲ廃シテ材木貯庫ノ営業ヲ目的トスルノ可否調査ヲナス事ニ決シ関・服部二氏ヲ其委員トナス○下略


(増田明六)日誌 大正一二年(DK540068k-0003)
第54巻 p.310-312 ページ画像

(増田明六)日誌  大正一二年     (増田正純氏所蔵)
二月十五日 木 晴
○上略
午後一時魚介養殖会社重役会を兜町事務処ニ開会す、関・小寺及小生会す、他重役は差支ありて不参
  ○中略。
四月六日 金 降雨
○上略
午後二時魚介養殖会社重役会を兜町事務処に開催す、来廿二日の総会ニ提出すべき議案ニ就き協議したり
  ○中略。
 - 第54巻 p.311 -ページ画像 
四月廿二日 日 晴
午前十一時魚介養殖会社本社ニ於テ、株主総会開会、出席す○中略
先つ重役会開催、午後二時総会開催、凡て原案通可決、小生取締役任期満了ハ再撰重任と決す
  ○中略。
十月二日 火 晴
午前八時出発○中略大師河原なる魚介養殖会社ニ至る、十一時半漸く達す
会社養魚池ニ達する前、同池の後方ニある神奈川県の堤坊潰裂《(防)》して海水汎濫、渡舟ニ頼る場処二ケ処あり、渡舟ニ頼りて池畔ニ達し、堤防よる《(り)》一覧すれハ、堤防潰裂の為め海水養魚池全部ニ漲溢して、全然池の所在を認むる事を得す、事務処を始として職員舎宅熟《(孰)》れも倒潰して水中ニ形を没し、又ハ半ば傾きて軒を没し、地震の災害と云はんよりハ、寧ろ洪水の災害と云ふを適当とするか如し、養魚池の堤防を一巡す、至る処一尺乃至三尺位の亀裂を堤上に存し、コンクリート石垣は孰れもズリ落ち、併かも壊けて、其過半は海水ニ形を没し、孰れの点も悉く堤防として用を為さゝるニ至れり、潰裂の地点は東南ニ在りて長三十間位、深十数尺ニ達す、滔々たる海水池中ニ流入する様実ニ悽《(凄)》き感を生す、如上の惨状は夜光の養魚池なるが、幸ニ対岸の塩浜養魚池の堤防は均しくずり落たるも破壊する迄ニ至らす、養魚池として当分使用ニ堪ゆ、又森ケ崎養魚池も比較的被害少く、是亦養魚ニ堪ゆるハ誠ニ幸福なり
夜光は如此シテ到底回復の途無く、仮りニ潰裂の点に修覆を加ふるニしても、他の部分に潰裂を生する恐あるを以て、寧ろ此まゝに放任して材木堀ニ使用するを便宜とするニ付き、此目的を以て関氏より深川木材商と協議する事としたり
養介場たる海面は幸ニ格別の損害無く、先ツ二割の被害と見れハ可なり、故ニ養介ニ充分力を注きて同社の基礎を之ニ置き、塩浜及夜光の養魚池を保譲し、一面夜光を材木堀として経営するの外目下の処良策無し
要之夜光ノ辺一体ハ海陸共ニ激震の為め二尺余低下したる如し、コンクリート石垣の落脱、処々の亀裂皆之ニ胚胎したるか如く察せらる右視察了り午後五時漸く帰京す
  ○中略。
十一月十四日 水 晴
午前九時半本郷上富士町小寺敬孝氏方ニて、魚介養殖会社重役会開会ニ付き出席、重なる議事
一地震の為め破壊され堤防の陥落したる夜光養魚池及森ケ崎養魚池を材木堀と為すの件
一夜光の破壊堤防修繕の目的とセは如何なる費額を要する哉、之か費用調査する事
一森ケ崎養魚池の一部を埋立地として経営する目的と、之か所要金額及収支を計算する事
其他は報告を承認したるのミ
 - 第54巻 p.312 -ページ画像 
○下略


(増田明六)日誌 大正一三年(DK540068k-0004)
第54巻 p.312-313 ページ画像

(増田明六)日誌  大正一三年      (増田正純氏所蔵)
一月十日 木 晴
○上略
関直之・同比企郎両氏来訪、東京瓦斯会社大森出張処突堤ニ於ける養蠣事業ニ関し、多年魚介養殖会社ニ許可せられたるを、先般来大森町有志より同社ニ自己ニ許可せられたしと之願書を同出張所ニ提出し、同出張処主任ハ危く之を許可せんとせしを、小生より小池同社長ニ従来の関係を陳情し、遂ニ同有志方面ニ対してハ魚介会社より金壱千百円を寄附して無事落着する趣の談話あり
○下略
  ○中略。
一月十六日 水 晴
出勤
午後五時帝国ホテルに於て魚介養殖会社重役会開催、例年一月ハ新年宴会の意味を兼ね夕餐を共にす、料理代金壱人金五円とし、小生より申込ミ一室を借受け、緩々談話したり、議事としてハ十二月分諸計算書の承認のミなりしが、予て小生より関専務ニ注意し置たる、塩浜養魚池築堤の震災の為ニ破壊したるを修築の件未た其予算すら立てざるニ付き、本夕更ニ若し之を此まゝ放任して後日海波の為め堤防海中ニ没するが如き事あらハ、京浜運河開鑿ニ際し売価ニ著るしき低下を生し、悔ても及ハざるべし、殊ニ其築理ニ要する費用ハ当然売価中ニ加算すべきを得べきなりと懇々談話し、至急右の方針を以て予算を立つべき事を注意したり
  ○中略。
三月十三日 木 降雨
午前九時半、本郷小寺氏宅ニ於ける魚介養殖会社重役会ニ出席ス、本年度事業資金として、金五万円(第一銀行より参万円、大師銀行より弐万円)借入の義を議決す○下略
○下略
  ○中略。
四月九日 水 曇
午前九時、小寺敬孝氏宅ニて魚介養殖会社重役会開催す、重役一同出席、昨年度決算ニ関し種々協議し、結局年四分の配当を為す事ニ決し其計算の起案は小生ニ一任する事と決したり
  ○中略。
四月廿七日 日 晴
午前十時、大師河原塩浜ニ於ける魚介養殖会社重役会ニ出席す、会議終了後、養魚池堤防の昨年地震の為ニ破壊したる状況を視察したり
午後二時より同所ニ於て株主総会開催、四分の配当案を可決す
同社夜光及塩浜養魚場の堤塘震災の為ニ大破し、特ニ夜光ニ於てハ堤塘決裂して海水の出入自在となり、日を経るニ従て其部分益大なる状況なるも、之カ修覆費を得るの途無く、目下自然の儘ニ委する外無き
 - 第54巻 p.313 -ページ画像 
次第なり、或ハ夜光養魚池ハ後日一面の海ニ化する憂を免かれす
○下略
  ○中略。
五月十一日 日 晴
朝九時半、小寺敬孝氏宅にて魚介養殖の重役会開催、一同来会、小生ハ昨年九月震災後第一回の重役会ニ於て、同震災の為め破壊したる同養魚池堤塘の修繕必要を主張したのであるが、関専務等賛成せす、遷引本日ニ至つたのであるが、本日も是非其必要を唱へ、若し此儘に放任するときハ魚池ハ水面ニ化し、会社の唯一ノ財産たる土地ハ海水ニ洗ハれて倒産する外無きニ至るべき旨を陳べたるニ、関専務・同営業部長漸く其非を悟り、急遽之が改修ニ従事する事を決したり
○下略
  ○中略。
六月廿九日 日 晴
前十、増田方ニ於て魚介養殖会社重役会開催す


(増田明六)日誌 大正一四年(DK540068k-0005)
第54巻 p.313 ページ画像

(増田明六)日誌  大正一四年      (増田正純氏所蔵)
三月十一日 木《(水)》 晴
後五時半、帝国ホテルニ於て魚介養殖会社の重役会開催、関直之氏病気不参の外一同列席す、此重役重《(会)》ハ何時も渋沢事務所にて会合する例なりしが、本年ニ入り第一回の会合なりしを以て特ニ同処ニ於て開き会食したる次第なり
  ○中略。
四月廿六日 日 晴
午前十一時、魚介養殖会社重役会を同社ニ開催、引続き午後二時株主総会を開き、大正十三年度決算を議決す
○下略
  ○中略。
二十七日○五月 水 晴
○上略
午後四時、事務処に於ける魚介養殖会社重役会ニ出席す、故関専務在職中の功労金五千円贈呈と決定
  ○中略。
二日○六月 火 曇
午前、志村孝治氏来訪す、魚介養殖会社ニ於て要する種貝を禁猟区域より特別採取する事を許可せられ度旨関係官署宛書面ニ、取締役として署名捺印の上交付す
○下略


(増田明六)日誌 大正一五年(DK540068k-0006)
第54巻 p.313-315 ページ画像

(増田明六)日誌  大正一五年      (増田正純氏所蔵)
七月三日 土 晴                 出勤
午前、東京湾埋立会社支配人関毅氏来訪、去廿廿五日開催魚介養殖会社重役会《(月)》の決議ニ依り、同社所有夜光養魚池拾壱万坪売却の当方提案ニ対し如左回答あり
 - 第54巻 p.314 -ページ画像 
一坪当七円の当方案を五円とする事
一代金五年賦、利息八分の当方案を七分とする事
右ニ対し如左答へ置きたり
一坪当り七円ハ変替する事能ハす
一代金五年賦ハ七年賦に、利息八分は七分五厘とする事
一右ハ小生一存なれとも、同社ニ於て同意ならハ重役会議を纏むべき事
関氏ハ一応浅野・大川・白石の三氏ニ内議の上回《(答脱)》すべしと約し辞去す
○下略
  ○中略。
七月十二日 月 晴                出勤
後四時、魚介養殖会社臨時重役会開催す、同社所有の夜光所在養魚池を東京湾埋立会社へ売却ニ関し、其代金、代金年賦支払、之が利率等ニ付き協議したるなり
  ○中略。
七月三十一日 土 晴               出勤
○上略
午後四、魚介養殖会社重役会開催、夜晩餐を共ニす
決議事項ノ梗概如左
一同会社夜光の養魚池拾壱万坪余を代金七円にて東京湾埋立会社ニ売渡す事
一代金受領の方法ハ如左
 一契約と共ニ金六万円受領
 二残余代金の内六拾万円を残し、拾壱万余円ハ大正十六年三月三十一日受領
 三残余六十万円ハ六年賦とし、利息年七分を附し、毎年三月三十一日元利金を受領
右売却代金ニ就てハ、小寺常務・関営業部長等ハ孰れも坪五円乃至六円ニて可ナりと主張し、予独り七円を主張し、遂ニ前記の通協定し得たるハ株主の為ニ大ニ可悦事なり
  ○中略。
八月十五日 日 晴               湯ケ原
来翰
 東京白石喜太郎氏二通、魚介養殖会社対東京湾埋立会社魚介池売買ニ関する契約書の件
○下略
  ○中略。
八月廿七日 金 晴                出勤
○上略
午前九時、魚介養殖会社臨時株主総会ニ対する準備を為し、十時開催の同会ニ臨む、議長席に就き先つ出席株主に謝意を表して開会の旨を告け、議案「同会社所属夜光所在養魚池地券面坪数拾壱万弐百弐拾七坪を、七年賦、利息七分、代金坪当金七円ニて売却ニ関し、買主たる東京湾埋立会社との仮契約承認の件」ニ付き、売却を得策としたる理
 - 第54巻 p.315 -ページ画像 
由より説明を始め契約書条項に説き及ほし、承認を求めたるニ、株主玉越・和泉・内田の諸氏は凡坪五円位と予想したるニ七円ニ売却出来たるハ意外の成効にして感謝する処たりと、小生の労を賞讚し、一同亦之に和して頻りニ賞讚の辞を述へ、満場一致を以て提案を承認さ《(せ)》られたるハ、積日の労を酬へ《(い)》られたる感ありて大ニ愉快なりし
○下略
  ○中略。
九月十四日 火 晴                出勤
○上略
午後二時、東京湾埋立会社ニ関氏訪問、魚介養殖会社土地売却契約書作成ニ付き協議す
○下略
  ○中略。
十月九日 土 曇                 出勤
午後、魚介養殖会社重役会を丸の内渋沢事務処ニ開き、東京湾埋立会社へ売却したる夜光土地ニ関し詳細の報告を為す、同社との契約書並附属書類一切を小寺敬孝氏ニ交付して、魚介会社ニ保管せしめたり
○下略
  ○中略。
十月廿六日 火 晴                出勤
○上略
魚介養殖会社小寺敬孝・関比企郎両氏来訪、同会社土地売却代金ニ関する所得税ニ付き報告あり、白石喜太郎君と共ニ聴取し、同会社十五年度決算の下調を為す事を小寺君ニ依頼し、午食を共にして別れたり
○下略


(増田明六)日誌 昭和二年(DK540068k-0007)
第54巻 p.315 ページ画像

(増田明六)日誌  昭和二年      (増田正純氏所蔵)
三月三十一日 木 晴               出席
午前十時、小寺敬孝・関比企郎・志村孝治三君来訪、東京湾埋立会社より魚介養殖会社夜光土地売却金受領ニ関する書類を作成、小生調印の上三氏ニ交付した、三氏は之を携へて埋立会社ニ至り該金額を受領し直に第一銀行へ預け入れた
○下略


竜門雑誌 第五一八号・第二〇―五二頁昭和六年一一月 葬儀○渋沢栄一(DK540068k-0008)
第54巻 p.315-316 ページ画像

竜門雑誌  第五一八号・第二〇―五二頁昭和六年一一月
    葬儀○渋沢栄一
十五日○一一月
○中略
 一、青山斎場着棺 午前九時四十分。
 一、葬儀開始   午前十時。
 一、葬儀終了   午前十一時三十分。
 一、告別式    午後一時開始、三時終了。
○中略
また東京市民を代表した永田市長の弔詞、実業界を代表した郷誠之助
 - 第54巻 p.316 -ページ画像 
男の弔詞朗読があり、他の数百に達する弔詞を霊前に供へ、十一時半予定の如く葬儀を終了した。
○中略
    弔詞
○中略
我国実業界ノ泰斗子爵渋沢栄一閣下身神強健高齢九十二ニ躋ラレシニ頃日図ラスモ病ヲ得ラレ本月十一日溘然薨去セラル、邦家ノ為洵ニ痛惜ニ堪ヘス、而シテ当社ハ閣下カ多年寄セラレタル深甚ナル厚意ニ対シテ哀悼ノ情特ニ深キモノアリ
当社カ明治三十年ソノ前身洲崎養魚会社ノ創立以来、魚介養殖株式会社ト改称シテ今日ニ至ル迄三十五年間、能ク規画経営ヲ誤ラス、今日アルヲ得タルモノ、職トシテ閣下不断ノ指導援助ニ由ラスンハアラス向来尚陰ニ陽ニ閣下ノ扶掖誘導ヲ仰カサル可カラサルモノ甚タ多シ、然ルニ一朝幽明境ヲ異ニシテ復タ音容ヲ仰クニ由ナシ、嗚呼哀シキ哉謹ミテ弔ス
  昭和六年十一月十五日
                    魚介養殖株式会社