デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

2部 実業・経済

7章 経済団体及ビ民間諸会
1節 商業会議所
1款 東京商業会議所
■綱文

第56巻 p.132-136(DK560040k) ページ画像

大正12年3月15日(1923年)

是日、当会議所主催ノ下ニ、東京会館ニ於テ、欧米視察旅行ニ赴カントスル、当会議所会頭藤山雷太一行並ニ東京府産業部長遠藤柳作ノ送別午餐会開カル。栄一、陪賓トシテ出席シ、送別ノ辞ヲ述ブ。


■資料

集会日時通知表 大正一二年(DK560040k-0001)
第56巻 p.132 ページ画像

集会日時通知表  大正一二年       (渋沢子爵家所蔵)
三月十五日 木 正午 東京商業会議所催
            藤山雷太・遠藤柳作両氏送別会(東京会館)

 - 第56巻 p.133 -ページ画像 

東京商業会議所報 第六巻第四号・第一一―一五頁 大正一二年四月 ○送別会(DK560040k-0002)
第56巻 p.133-136 ページ画像

東京商業会議所報  第六巻第四号・第一一―一五頁 大正一二年四月
    ○送別会
大正十二年三月十五日正午丸の内東京会館に於て、今回欧米視察の為に渡航せらるゝ当会議所会頭藤山雷太氏一行並東京府産業部長遠藤柳作氏を招待し送別会午餐会を開催したり、出席者は正賓藤山雷太氏・藤山愛一郎氏・金沢冬三郎氏・月岡一郎氏・小笠原貢橘氏及遠藤柳作氏、倍賓田中外務次官《(倍賓田中)》・後藤東京市長・永田同助役・長尾同電気局長渋沢子爵・大倉男爵・小野・土方・児玉・一宮・木村(清)・団・服部・有賀・福井・池田(成)・米山・藤原・高田・根津・馬越・植村中島男爵・小池・成瀬・内田・星野・山崎・福原・緒明・木村(久寿)昆田・高山・宮島・結城・池田(竜)・岩原・磯村・添田・井上(辰)松本・塩沢・中松諸氏其他の主なる実業家、新聞通信社員、主催側本会議所議員・特別議員等総員百三名にして、正午一同食卓に着きデザート・コースに入り、杉原副会頭は藤山会頭及遠藤柳作君が欧米各地に於ける戦後の経済状態を視察をせらるゝことは、必ずや本邦の産業上に多大の福音を齎らさるゝを信ずと称讚し ○中略 藤山会頭は各国の経済事情を可及的視察して商業会議所の為めに努力する旨を述べて謝意を表し ○中略 渋沢子爵は曾て倫敦に赴きたる時の所感を説き、併せて藤山氏の視察は我が経済界に著大の効果あるべしと讚し、主客一同歓を竭し午後二時半散会したり(各演説の速記は左の如し)
      杉原副会頭の演説
 閣下、諸君、此度我商業会議所の会頭藤山君が近く欧米視察の為め其途に就かれるのであります、東京府産業部長尚当会議所の特別議員たる遠藤柳作君も日を同うして共に欧米視察の途に就かれるのであります、即ち此両君を主賓として御招待を致しまして此会を催した次第であります、斯く多数の朝野名士の御臨場を辱じけなう致しましたことは衷心感謝の至りに堪へざる次第であります。
 藤山君は皆様御承知あらせられまする如く我帝都の商業会議所の会頭として、尚全国商業会議所聯合会の会長とせられまして多年我商工業の為に多大の努力をせられつゝあるのであります、不幸にして近年健康を害せられ長く病床に呻吟せられて居りましたが、幸に快復致されましたのを機として、今回欧米に於ける戦後の経済状態は如何なる状勢であるか、之を研究する為めに出遊せられることになつた次第であります、其経済状態を視察せられる傍らに於きまして、各国の商業会議所との連絡を計り密接の関係を保つやう御努め下さることは期して俟つ可きことゝ思ふ、又遠藤君は官にあられても非常に産業上に尽力せられまして、既に平和博覧会があれ丈けの成効を収めたのも遠藤君の力与かつて大なるものがあるのでこざいます、此度官命を以て欧米へ御出張になると云ふことは、私は政府者其明ありと深く欣幸に堪へぬ次第であります。
○中略
      藤山会頭の演説
 閣下並に諸君、今回私は病気療養の目的を以ちまして欧米回遊を企てたのであります、御承知の通り私は甚だ遺憾に存じて居るのであり
 - 第56巻 p.134 -ページ画像 
ますが、大正八年以来数回に亘りまして病気に罹りました、昨年は二月より八月まで病気に罹つて居りまして、爾来健康は稍や回復は致しましたが、医者がまだ本当でない、十分に注意するやうに言ふて居られる、併し私は何うかして自分の健康を旧に回復するばかりでない、一層の健康体に復して、どうか自分の力の及ぶ丈け社会的に働きたいと云ふ熱望を有つて居るのであります、渋沢子爵の如き、大倉男爵の如き、或は馬越恭平君の如き、実に我々からは二十以上三十の御高齢を保つて居られます、仲々矍鑠として御活動になつて居る、私は兼て考へますのに、人間は五十以上に於て働けないと云ふことは大なる不幸である、大なる損耗であると考へます、学校を出て漸く三十位で社会に立ちまして二十年位働き、五十になると考衰《(老)》の社会に入ると云ふは誠に遺憾である ○中略 而して人はどうしても健康でなければならぬ、此二・三年病気中に考ましたのは、どうかして丈夫な身体になつて働くと云ふ決心を持たなければいかぬ、人間は俺は八十迄、九十迄生きる、さうして大いに働くと云ふ決心をして居らなけれはならぬ、俺はもう働けない、迚も駄目だ、自ら自暴自棄になつてはいかぬ、斯う云ふことを考へたのであります、私は今度の旅行も医者が非常に危んで止める人も仲々多い、友人も止める、併し私は必らず健康を回復して帰つて来る、決して途中で病気に罹らぬと先づ私自身が決心して居るやうな訳であります、今杉原君は非常に私が公的に働く為めに出掛けると云ふやうな御話でありましたが、今度の目的は若返つて健康を回復して、他日八十迄、九十迄も働く要素を造らうと云ふ目的で出掛けるのであります、寧ろどつちかと云へば若返り法研究に出掛けるのであります、さう云ふ誠に漫然たる企で漫然企てましたに拘はらず、我東京商業会議所に於ては私の為めに盛大なる宴を催され、斯く多数の諸君が御出で下さいましたことは私は非常なる喜びとする所であります ○中略 併し出掛ける以上は、健康が許せば、世界の事業状態はどうであるか、又我々は日本へ帰つて社会的にも公共的にも働くには、どう云ふ道を取つて行かなければならぬか、どう云ふ方策に依らなければならぬかと云ふことは考へて来たいと思ふのであります、之は従である、主たる目的は若返り法を研究して、大いに渋沢子爵・大倉男爵の如く矍鑠として長く働く要素を造るにあると御承知下さらんことを望みます。
 さう云ふ意味に於きまして出掛けまするが、併し肩書は東京商業会議所会頭、又全国聯合会会長と云ふのでありますから、出来る丈は其方のことも尽す考でありますが、兎に角御土産には健康を以て帰りたいと存じます ○中略
      渋沢子爵の演説
 藤山会頭又遠藤君が欧米御視察の途に上られるに付いて、玆に東京商業会議所は盛大なる宴を開きまして、唯今御送別の御言葉を拝聴致しました、是に向つて一言申上げるのは、或は位地から見ても、年から見ても両方に先輩か居られますが、私から申上げるやうにと云ふことでありますから申上げます。
 藤山君は今若返り法の為めに御旅行なさると云ふことでありますが
 - 第56巻 p.135 -ページ画像 
仮令御当人はさう云ふ御考へでも、海外へ御出でになると仲々さうは参るまいと思ふ、何れの場所でも随分虐待……ではない、優待であるが、寧ろそれが御本人には虐待になると思ふから、若返り法とか健康を保つと云ふことに付ては、余程前以て御注意を必要とすると思ふ、それを第一に申上げて置きます。
 二十一年前に私は欧羅巴旅行を致しましたが、其時のことを玆に短かく申上げて、如何に此会議所の会頭などゝ云ふ肩書で行くと、或る場合には面倒なことが起るかと云ふことを御注意致したい、蓋しそれは私のやり方が悪かつたからで、藤山君はさう云ふ場合に御出合ひなさらぬかも知れぬけれども、私は倫敦にて商業会議所会頭として大いに面喰つたことがある、其事は送別の言葉には少し工合が悪いやうにも思ふが、併し他山の石、参考になるか知らぬから申し上げることにしたい。
 一九〇二年、日英同盟の出来た年であります、私は東京商業会議所会頭として欧米へ旅行を企てました、今は故人となりました萩原源太郎氏を伴つて旅行を致ましたが、外は格別の事もなかつたが、毎日優待ではない、寧ろ虐待を受けて参りました、御馳走に責められるのと演説位のことはさう余り迷惑はごさいませぬけれども、倫敦に参つた時には少々窮した、日英同盟も出来た時であるし、英国でも政事家も商業家も日本に非常に好感を有し、いろいろ私を優待して呉れた、商業会議所では両団互に十分に意志を通じて通商上の事に力を尽したいどうか存分のことを言ふて呉れ、御互に遠慮なく言ひたいことは言ほうと云ふので、大勢知名のさを集めて《(方)》会を催した、其時私も一場の演説を致した、それが終ると一人が立つて、自分は東方に向つて商売をやつて居る一人である、此場合東京商業会議所の会頭と云ふ左様に任務の重い人が来たから、之に言を述べるは決して無用ではないと思ふそれは多少耳障りになるか知らぬが、心事を述べるのだから悪く思はないやうに聴いて呉れ、斯う云ふ前置で二つの個条を述べました、其一つは横浜・神戸の商売人から注文があつて品物を送つてやる、すると夫れが途中で利益がないと見ると断つて来る、商売にならぬ、少しも利益がないと見ると引取つて呉れぬ、斯う云ふことが毎々あつて困る、どうぞ商業会議所としてさう云ふことを無からしめるやうにして貰ひたい、もう一つはインボイスを二枚書けと云ふ、いやだと言へば品物を買はない、どうしても二枚書かせられることになる、之は実に困つたことである、どうか之を改めて貰ひたいと言ふのである、之には私も困つた、成程仰しやる通りとも言へず、直しませうといへば其事実を認めることになる、直しませうとも言ひ兼ねる、大いに困つて居りますると、ミツトルと云ふ人が立つて同《(曰)》く、左様なことは場所拘《(柄)》に不似合なことである、余り適当でないと考へる、私も永い間商売をして居るが、倫敦でも商売上には今のやうなことは幾らもある、証拠を挙げろと言へば挙げても宜しいが、さう云ふ無理を望むのは宜しくない、其動議は撤回して宜からう、私は此時ホツと息をついて、ミツトル君の好意を謝したのであります、倫敦にも横浜にもあるから御互に気を付けて、さう云ふことはないやうにしやうと思ふ、横浜・神戸
 - 第56巻 p.136 -ページ画像 
にさう云ふことはないとは言へぬ、之は無いやうにしたい、どうぞ欧羅巴でもさう云ふことのないやうにして貰ほう、両方に花を持たせて此動議は終りました、もう之れから先きにさう云ふことはありますいけれども《(ま脱)》、商業会議所会頭として参つて私は非常に困りましたと云ふ御話を御参考までに申上げたのであります。
 藤山君は病気保養の為めに行くので、外に望みはないと仰らやる《(し)》、成程大きな望みはないか知らぬが、欧羅巴に対して種々問題もあらう亜米利加は斯うである、独逸の有様は斯うである、考へて居つたことは実地を見ると大分違うと云ふこともあらう、それ等を十分に視察せられて帰られたら、我国の経済界に及ぼす効果は大なるものであらうから、其御土産を楽しみに御待ち致して居ります ○下略
   ○本資料第三十四巻所収「日米関係委員会」大正十二年三月十六日ノ条参照。