デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

2部 実業・経済

7章 経済団体及ビ民間諸会
1節 商業会議所
1款 東京商業会議所
■綱文

第56巻 p.148-156(DK560044k) ページ画像

大正12年10月22日(1923年)

是日、当会議所議員ヨリ成ル東商倶楽部主催ノ下ニ、当会議所ニ於テ、会頭藤山雷太ノ帰国歓迎会開カル。栄一、陪賓トシテ出席シ、挨拶ヲ述ブ。


■資料

東京商業会議所報 第六巻第一一号・第一〇―一五頁 大正一二年一一月 藤山会頭歓迎会(DK560044k-0001)
第56巻 p.148-156 ページ画像

東京商業会議所報  第六巻第一一号・第一〇―一五頁 大正一二年一一月
    藤山会頭歓迎会
大正十二年十月二十二日正午、当会議所議員より成る東商倶楽部主催となり、当所楼上に於て今回欧米視察を了へ帰朝せられたる藤山会頭の歓迎会を開催せり、出席者は主賓藤山雷太君・同随員小笠原貢橘君陪賓子爵渋沢栄一君、主催側特別議員伊藤米次郎君《伊東米治郎君》・同池田謙三君・大橋新太郎君・同団琢磨君・同根津嘉一郎君・同馬越恭平君・同福原有信君・同男爵阪谷芳郎君・同木村久寿弥太君及議員三十一名にして午後零時二十分食卓に着き、デザート・コースに入り、幹事岩崎清七君倶楽部を代表して、藤山君が去る三月出発以来欧米各国を歴訪せられ、今回恙なく帰朝せられたると、併せて多年実業界の為め貢献せられたる功労により今回貴族院議員に勅選せられたる祝辞を述べられ、尚此機会に於て欧米視察談を拝聴致し度き旨を希望せられ、之に対し藤山君謝辞を述べられたる後、欧米視察の概要と其感想とを演説せられ、次で渋沢子爵より、此非常時に際し藤山君が欧米視察を了へ且つ健康全く回復して帰朝せられたるは慶賀の至りに堪へず、何卒一層の御尽力を請ふ旨の挨拶を述べられ、午後二時閉会せり
 同歓迎会演説速記左の如し
○岩崎清七君挨拶
 閣下並に諸君、今日は東京商業会議所議員より成る東商倶楽部主催の下に、当会議所の会頭藤山君が欧米を旅行せられて無事に御帰朝になられたことを御祝する歓迎会を当会議所の議員・特別議員諸君と内
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輪同士にて開いた次第であります、それからもう一つ御祝申上げることがあります、藤山君は御旅行中に貴族院議員に勅選せられるの名誉を御荷ひになつた、之は実に御目出度いことで、今日は其勅選議員の御祝と只今申した歓迎、此二つが此会を催しました所以であります。
 藤山君は三月二十日に天洋丸で御立ちになりまして、それから桑港着、桑港から順次米国の各都市を御漫遊になり、ハーヂング大統領にも謁見せられ、商務卿のフーバー其他の名士とも会見せられ、欧羅巴へ御渡りになつてから英国皇太子・仏蘭西大統領・白耳義皇帝・独逸大統領等の方々にも謁見せられ、其他到る所の主要都市を御訪問になり、其土地土地の主要人物に御会見になつて、さうして今日御帰りになつたのでごさいます。
 藤山君は日本の商工業者を代表して旅行の途に着かれまして、其責任極めて重且つ大なるものがあつたと考へるのであります、さうして旅行の行く先き先きに於て、現代の世界の主権者又商工業の中心人物に御遇ひになつて、日本に於ける商工業の状況と各地に於ける商工業の事情に付て談話を御交換なされ、其得る所の知識は定めて、我々が是れから日本に於て大いに為すべき新知識を得られたことゝ考へるのであります、此大震火災に因る大災害の為め我国の経済上商工業上に非常な打撃を受けた、此場合に当つて藤山君が新しき知識を齎して我我を指導して下さると云ふことは、我々は非常に心強く感ずる次第であります、それで今日は私が申述べまする時間よりも、藤山君の御話を長く伺うと云ふことが非常に必要なことゝ考へますから、私は単に此会を主催致しました趣意丈けを申上げるに止めて措きたいと考へます、さうして一つ此所に御願しますのは、藤山君の欧米視察の御話がありました後に、渋沢子爵より夫れに対する御批判及び御意見等を伺ひたい、之は会員全体の希望でございます、付加へて此事を御願致す次第であります。
○藤山会頭演説
 閣下並に諸君、今日は商業会議所の東商倶楽部主催として午餐会を御開き下され、時節柄我々は深く謹慎を表す可き時に際しまして、斯る御丁寧なる会を御開き下さつたことは、私は甚だ光栄と存ずるのみならず、非常に恐縮する次第であります。
 私は第一に皆様に御断はりを申上げたいと考へますのは、私は多年病気で居つて、此商業会議所の為めに常に熱烈なる尽力を為すことが出来なかつたと云ふことで、之は私の甚だ遺憾と致して居つた所であります、其後健康を十分に回復して、自分の力の限り此会議所の為めに尽したいと云ふ希望を持ち、其健康回復の為めに実は旅行を致しました、然るに旅行中最も多事であつたのでありますが、其多事の場合に諸君は非常に商業会議所の為めに御尽力下され、且つ最近此九月一日の震災は実に世界の歴史あつて以来の大事変である、此場合に於きまして商業会議所が中心となつて、而かも有力なる渋沢子爵其の他の御方々と共同して善後会を拵へ、其の他非常な御尽力を下さつて居る場合にも私は殆んど一ケ月も留守を致しました、故に曠職の責こそあれ諸君から歓迎を受けると云ふことは私は敢て当らずと考へて居りま
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す、併ながら諸君の折角此歓迎会を御開き下さいましたことでありますから、玆に謹んで御礼を申し是迄の御詑を申す次第であります。
 唯今岩崎幹事は、此会は私の帰朝の歓迎、又留守中貴族院議員に勅選されたことを合せて祝すると云ふ御話でありました、私は多年実業界に居りまするが、何等国家の為めに十分の力を尽したとも自ら考へても居りませぬ、併ながら商業会議所の会頭となりまして六・七年、其前には副会頭などを致しました、故に此勅選は寧ろ諸君の賜物として深く御礼を申述べたいと考へます、私の旅行は全く健康回復の為めで、新しい土地、新しい人と接し、新しい山川に触れて、自分の精神上にも身体上にも変化を来したならば、却つて健康を得られはしないかと云ふ希望を以て旅行を致しましたのであります、此点に於きましては目的を達したかの如く私は考へまして、大分は健康は良くなりました、参りまする前よりは目方も殖へた、今日は諸君の驥尾に付して自ら力を尽す丈けの健康を持つて居ると考へますから、出来る丈け諸君に従つて働きたいと考へます。
 今回の旅行は七ケ月の間、亜米利加より英吉利に渡り、欧羅巴を経て、さうして印度洋を通過して帰りました、其間随分種々の人にも遇ひまするし、幾多の事物を見ました、申上げて諸君の御批判を仰ぎたいと考へますことは非常に多い、之は迚も一席に尽すことは出来ませぬ、時に触れ、諸君の御批判を願う為めに御話を申上げたいと考へます、今日は簡単に自分の感想の一端を申上げて見たいと考へます。
 私は今度十二年振りに実は欧羅巴・亜米利加を廻りました、前には大正元年に西比利亜鉄道に依つて欧羅巴へ渡り、欧羅巴各国を殆んど総て廻りました、それから英吉利から亜米利加を経て帰りました、今度は丁度其反対で、亜米利加へ渡つて英吉利を経て、それから欧羅巴へ参つて、印度洋を廻つて帰つて来た、丁度あべこべに旅行を致しました、此間に私の強く感じたことは、日本が強大なる国家を造り出したと云ふことであります、之は諸君と共に将来益々国家の為めに我々は力を尽さなければならぬと云ふことを強く感じた、私は十二年前に方々を旅行した時と、今日我々が旅行しまする場合とを比較して見ますと非常な違ひであります、日本人に対する尊敬、待遇総てに於て非常な違ひであります、之は我々が十二年前に行つて感じたことゝ、今日行つて我々に対する各国の態度の違ひは、全く之は国の背景と考へます、国が強くなつたこと、日本国と云ふものが強大になつた、日本国と云ふものに彼等は敬意を表するので、即ち日本国が世界に相当な地位を占めて居る、相当な仕事をして居ると云ふことに依つて、我々は彼等から十分な待遇を受けたと考へます、勿論私は諸君に推され商業会議所の会頭を勤めて居りまする其為めの待遇もありましたろう、併ながら、夫れよりはより以上に最も私が感じたのは、即ち強大なる国家を今日我々は持つて来たと云ふ一事は、即ち其事が此世界の人達が日本人に対して敬意を表するに至つた所以であらうと考へます、世界到る所で、斯うも日本人は持てるやうになつたかと思ふ位に持てる私も大変持てた、それは決して藤山個人の為めではない、又甚だ失礼だけれども、東京商業会議所会頭と云ふのみではない、即ち日本国家
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と云ふ一の背景が大いなる力をなして居ると考へる、私は此点に於て御同様に国家をもつと鞏固なる国家に致す、もつと強力なる国家に致すと云ふことに付いて、勇往邁進して御互に努めなければならぬと深く感じたのであります。
 我々は常に日本人は非常に進歩して居る、世界に比類なき進歩発達を致して居る、明治維新以来五十六年間の日本の進歩は、実に世界人の驚いて居る所だと云ふことを彼等も言ひ、我々も自ら信じて居る、然るに私は甚だ夫れは恥かしいと考へた、私が十二年前に見た欧羅巴亜米利加と、十二年後の今日欧羅巴・亜米利加の有様を比較して見るに付け、我々は此間に何をして居つたか、日本人はどれ程進歩をして居つたか、どれ丈けの発達をしたか、どれだけ世界的に貢献をしたかと云ふことを考へますると、非常に恥しい感じがする、是は御互に余程顧みなければならぬことゝ考へます、之は物質的にも又精神的にもさうで、此人格を向上させる、国家の富を造る、さう云ふ物質的にも精神的にも我々日本人は十二年の間に何をして居つたか、我々は却つて退歩の形にありはしないか、十二年間に彼等欧米人は、あの大戦をしながら、今行つて見ますると、非常に進歩した形を我々は認めるのである、此点に於て実に我々日本人はもつと駈足にやつて、もつと積極的に、もつと有力に働かなければいかぬと考へた、之は日本人は老人だとか、若い者だとか、老人は勇退するが宜いとか、いろいろ議論もありますが、渋沢子爵などは八十余の老齢を以て非常に御奮闘下さつて居る、我々は老幼を問はず、男女を論せず、此場合は挙国一致大いに働かなけれはならぬ、今の儘で往つたならば、日本は非常に恥かしい目に遇ひはしないかと考へる。
 試みに亜米利加に就いて言つて見ると、之は皆さん御承知の通りであります、併しながら私の感想を述べて見ますと、桑港は十七年前に大地震に遇つた、私が参つた十二年前には其大震後五年目である、さうして人口は四十万しか居らぬ、成程之は震災後の状態だと思つて見て来ましたが、今度往つて見ますると其人口は八十余万、さうして皆さん御承知の通り実に立派な市街が出来て居る、十七年前にあれだけの震災、殆んど全部破壊された、それが十七年間にあれだけ回復した我々東京市民は今後十七年間に彼等がやつた丈けの仕事をやらなければならぬ、十七年間に彼等が桑港を立派に造り上げた、あれだけの仕事を果して我々は本当の力を以てやり能ふかと考へて見ますると、是には非常な決心を持たなければならぬと強く感ずるのであります、それからロスアンゼルスでありますが、私が時《(マヽ)》は人口は十七万でありました、それが今日は九十何万人となつて居る、さうして彼等は言つて居る、どうしても西海岸の第二の紐育を造るのである、世界の大都市を形造らなければならぬ、今日港の計画と云ひ、市街の設備と云ひ、皆さんも御承知の通りで、私は近き将来に於て第二の紐育を必ず彼等は造り上げるだらうと信じて居る、さうして其ロスアンゼルスはどれ丈けの月日にあれだけのことを造り出したかと申しますると、震災の時にはロスアンゼルスは非常に寂しい町であつた、其当時桑港に居つた日本人は震災の為めに職業を失つて、皆ロスアンゼルスへ行つて職
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を求めた、今日も四万人ばかりの同胞があの地方に於て働いて居る、十七年前に十六・七万の人口が今日は九十万になつて居るのだから非常なものだ、商業会議所はどう云ふ状態であるかと云へば、商業会議所のメンバーは五千人と称する、之等メンバーからの会費が年数十万円に達する、そして其金を費つて居る、故に商業会議所と云ふものは非常に勢力があり、又大いに仕事をして居る、これは又亜米利加の商業会議所が如何に活動して居るか、如何に社会から尊敬を受けて居るか、さうして其尊敬に対する丈けの如何なる仕事をして居るかと云ふことに付きましては、私は深く今度研究しまして、我々は大いに学ばなければならぬと考へたのであります、商業会議所が中心に成つて、其市の繁栄を期する為めに、あらゆる仕事をやつて居る、こゝろみに桑港へ参つた時の御話を申すと、アレキサンダーが今日私の方では役員会を開く、君に役員会のチエーアマンを譲るから、一つ議長になつて整理して呉れと言はれた、此のアレキサンダーと云ふ人は深く日本に同情を有つて居られる人である、非常に私を款待して、自分の所に特別園遊会を開いて、私を呼んで呉れたこともある、それから商業会議所にも役員会のときに、特に私を呼んで、議長席に着いて此会を整理し、此問題を如何に我々が議し居るかを見て呉れろと云ふことであつた、さう云ふ訳で段々向うの様子を調べて見ますると、よく斯ること迄で商業会議所は世話をして居るなと云ふ位に思つた、御承知の通りあすこではカード式になつて居る、外国人が来てさうして桑港に付いて物を調べやう、物を視察しやう、物を何か研究しやうとするならば、どんなことでも商業会議所は夫れに対して便宜を与へる方法がある、外国から釣の好きな人が来た、一つ桑港で釣をしたいから釣の世話をして呉れろと言へば、釣をする人間はどう云ふ人で、どう云ふ方法でやると云ふことが其カードを見ると分るから、其人を案内に連れて行く、実に商業会議所は総ての問題に付いて斯く迄で気を付けてやつて居るかと思つて感心をしたものであるが、其代り実業家は総て商業会議所のメンバーである、さうして皆力を尽して居る、さう云ふ訳で商業会議所は非常に活動して居りますが、彼等が僅か此十二年の間に仕遂げた仕事を見ますると、実に驚くべきものである、現にロスアンゼルスの如きでは、東洋貿易は我々の責任である、今迄日本と云ふ国を了解しない人が多いから、之を了解せしめる為めに今度日本へ団体を送つて来る、日本と支那を了解せずして、亜米利加の西海岸に大都市を造ることは出来ないと云ふことを話して居ましたが、今に大勢群をなして此方へ来るだらうと思ふ、日本研究、支那研究と云ふことは西海岸に於ては非常に熱心な状態である。
 そこで私は多年渋沢子爵も心配して下さる同胞の居留民問題に付いて多少今度研究した積りでありますが、之は我々が思つて居つた感想と、あちらへ行つて直接に居留民の人達の説を聞き、さうして実際の状態を見ますと、余程其間に考へなければならぬことが多いと考へまする、紐育の如きは、私は十二年前に行つた時にはグラント将軍の墓は百二十丁、殆んどリバーサイドの一番奥にあつた、所が、何ぞ計らん、今度行つて見ますると、此紐育の真中にある、之は物質的に彼等
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は非常に富を拵へ種々の仕事をして居る、形の上からは申すとさうでありますが、又彼等は人格を造る、人間を造ることに非常に努力して居る所が見へます、御承知の通り亜米利加は酒を禁じて居る、それに付て私は一日問を発した、彼等は言ふ、我々は実は今日いろいろやつて来たから酒も飲みたい、随分乱暴な勝手な事をして来たから苦しい併しなから亜米利加人は植民地の人間で寄合世帯である、金こそあるが、人間は余り感心しないと世界の人々は評論して居る、併ながら吾吾はネキスト・ジヱネレーシヨンには立派な亜米利加国民を造らなければならぬ、我々今酒を飲まぬと云ふことは、次の時代に立派な国民を造ると云ふ精神に外ならぬ、即ち我々は肉体は苦しい点もある、併し酒の如きは阿片に次ぐ人の頭を悪くするものである、阿片に次ぐ悪いと分つたものを代々子孫迄にも飲ませると云ふ習慣を造りたくない我々はどうしても次の時代に立派な国民を造らなければならぬ、即ち酒の如きは習慣である、子供の時から飲まなければ飲まぬで済むから次の時代には我々亜米利加人は立派な国民が出来る、我々は甚だ苦しいが我慢をする、即ち克己して酒を飲まぬのである、酒は毒と分つて居る、強い酒を飲む結果は頭が悪くなると分つて居るから、我々は我慢する、併ながら飲みたい、飲みたい時は自分の所に貯蔵してある酒の一杯位は飲んで宜い、又珍客の来た時には葡萄酒の一杯位は飲むが此禁酒の法令は飽まで維持しなければならぬ、随分それには反対論もあるが、何時の世にも泥坊は世の中に絶へないと同じである、成程酒を密造する者もあらう、内々飲む者もあらう、それは我々は構はない大体に於て国家として酒は飲まぬと云ふ主義である、彼等は斯う答へる、私は其精神こそ亜米利加をして次の時代には立派な精神的に完全な亜米利加人を造る所以ではないかと考へる、さう云ふ風である、亜米利加は天然の富は御承知の通り非常なものだ、之は商務大臣のフーバー氏に遇ひまして「亜米利加の景気はどうだ」と聞くと、「非常に不景気だ」と言ふ、「何で不景気だ」「穀物が沢山出来過ぎるから」「何うして」「余り出来過ぎて売る場所がない、内で食うより余計出来過ぎで、売る場所がないから百姓が非常に困つて居る」斯う云ふのだ、現に牛島君などは、之は渋沢子爵も知つて居られる、私もよく知つて居るが、三年も藷を腐らしてしまつた、余り出来過ぎて売つても手間にもならない、其位広い面積で非常に穀物が出来る、亜米利加は贅沢をすれば限ない、贅沢も出来ますが、衣食住の中食物に至つては非常に安く食へる、之は私は今後の日本国家としても考へなけれはならぬ、実に日本の今日の生活程度は世界一番高いと思ふ、英吉利よりも、仏蘭西よりも、独逸よりは無論のこと、亜米利加よりも高い、それは何かと云へば食物と云ふものゝ土台のない為めである、亜米利加では御承知の通りで自給自足でやつて居る、パンの粉はモントリオからドンドン出て居る、モントリオのあの川口へ大きなミルを拵へて、其粉は直に船に一パイ入れて英国へ持つて来て売つて居るから、英吉利人は亜米利加人より安いパンを食べて居ると云ふ話もある、兎に角私は今度世界を廻つて、真に自給自足と云ふ国は亜米利加より外にはないと思ふ、亜米利加丈けは出来る、外は出来ない、遺憾ながら日本
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なども之は出来ない、それでどうしても将来は衣食住の問題に付いては果してどう云ふ政策を取つて、此国民の生活の安定を期さなければならぬかと云ふことは、日本国民が均しく研究しなければならぬ問題であらうと考へる、英吉利の如きも其点に付いては非常に考へて居る現に英吉利では今度帝国経済会議と云ふものを拵へて、今現にやつて居る、是れなどは其点から来て居るのである、詳しいことを申上げますると非常に長くなりますから、夫れは他日に譲りまして、兎に角亜米利加と云ふ国は非常な天恵を持つて居る上に、非常な人間の努力を為して居る国民である、さうして教育其他にしても、どうしても立派な人間を造らなければならぬと云ふことに力を尽して居る、第一此教育には非常に力を尽して居る、現に私は二人の子息をやつた其学校にも泊つて見た、此亜米利加の教育法の非常に完全して居ることは、私は慶応義塾出身でありますが慶応義塾大学へ行つて皆先生達に話して見たいと思ひますが、丸で日本では亜米利加のやうに人物を造る、人格を造ると云ふことは出来ないと思ふ、要するに此十二年間に欧羅巴でも亜米利加でも非常に進歩し非常に発達して居る、此間に我々日本人は此十二年間如何に暮して居つたかと云ふことを考へて見ると、実に恥かしいと言はなければならぬ、況んや戦後我々国民は、非常に気驕り、大分贅沢に流れた、衣食住に非常な困難を来して居ると云ふ、今日遂に此天災に会つたと云ふ訳でありますが、余程の決心を以て緊張しなければ、国家の前途を如何せんと云ふ状態になりはしないかと考へるのである、是等の点に付きましては又段々皆さんに申上げて教へを請う時もあらうと考へます、幸私は到る所で非常な歓待を受け、亜米利加の大統領を始各国務大臣は特に私の為めに宴会を開いて下され、又英吉利へ参りましては皇太子殿下に謁見を致し、汎ゆる人にも遇ひ、仏蘭西の大統領にも、白耳義の皇帝にも謁見したと云ふ様な真に光栄を得ましたのは、全く私が商業会議所に居ると云ふ為めだらうと存じます、此点に付きまして皆様に深く御礼を申上げます。
○渋沢子爵演説
 藤山君の御無事御帰朝を祝する為めに、東京商業会議所の東商倶楽部で此御催しがあることを伺ひまして、私は遇然此所に参上致して此席に列することを得、只今司会者から私に一言藤山君に対する御礼を申すやうにと云ふ御指名がございました、敢て其任に当らぬやうでございますが、会議所とは縁故の深い私故に、御辞退致さず此所に立ちましたのでございます、只今段々藤山君の欧米視察談の大要を拝承して、深く我意を得たやうに思ひます、依て私は極く短かく御礼旁々愚見を申添へやうと思ひます、第一に同君の此行を御啓きになる、即ち御発足に際して、私がさう申したと同様に、満場の諸君もどうぞ君の御健康で御帰国になるやうにしたいものだと云ふ感想を持つたのであります、蓋し同君は昨年から此春にかけて何となく御健康が勝れぬ為めに海外への御旅行は如何なものであらうか、さりとて御勇気の程は強いものである、果して健康で御帰りになるか如《(知)》らぬと云ふ様な多少懸念を持つたのでごさいます、然るに御帰国の藤山君を拝見すると出立前の藤山君と其人を同じくして其身体を異にする様に思はれ、殊に
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鋭気勃々である、我々は此上もなく喜ばしい、是れこそ本当の歓迎と言得ると思ふのでございます、詰り同君が奮発して此旅行を御決意になつたが為めに、精神に十分な勇気と慰安とも与へたのみならず、それが尚ほ身体にも十分な健康を保つことを得たものと思ふのであります、況んや唯今亜米利加に、英吉利に、其他の国々の御視察談を拝承し、勿論斯る御席に詳細なる御話を伺ふことは望み兼ねるし、又御出来にならぬと思ひますけれども、特に亜米利加に対する桑港・ロスアンゼルス其他の地方の政治に経済に種々詳しい御意見を伺ひまして、其お話中に十二年前の御旅行と比較してどう変化したとの実例を示され、余所の有様は斯様に変つて居ると云ふ実際談は最も我々をして緊張せしめ、或は又少しく戦慄せしめるやうな感がないとは言へぬやうでございます、想ふにどなたでも海外旅行にはさう云ふ感想を御起しになると思ふ、私は嘗て五十六年を経て欧米旅行を比較した時に斯くも違ふものかと思ふた、それは藤山君の感想とは反対で、日本は大分優れたやうな感じを以て、一昨年亜米利加で愉快の談話をしたことがありました、但し其事は目に触れた物質の有様であるが、其実際を考究して見ると、藤山君の十二年の比較を以て内部がどう変つて居るか外面がどう進んで居るかと云ふことを心静かに較量しましたならば、真に寒心に堪へぬと言得られるだらうと思ふのでございます、元来私は斯様な講釈じみたことを申す程研究もして居ないけれども、近頃国際的視線が東洋に向つて居る所から、我帝国が他から視られる眼が少しく買被られて居やしないかと思ふのでございます、況んや其観測が全体でなくして、或方面が発達したと云ふことが余計に欧羅巴其他の国々から注目を強られる嫌ひがある、それと同時に近所に力の弱いものがあるので、我国をして人の注目を増すと云ふことがありはしないか、果してさうとすれば、是は吾々の余程考へなければならぬと思ふのであります、此点に付いて藤山君は単り商業会議所の人々ばかりでなく、全国民の注意を望みたいと思ふと云ふ御言葉は、私の深く賛同して此声を大きくしたいと思ふのでございます、是れから先きに我帝国を進めて行くに付いては、例令此大震災大災害を受けぬでも仲々難い時代である、仮令之が全国の事でなくとも、此大災厄は容易ならぬ挫折であるから、之を如何に復興するか、是に対して受けた好意は如何に報いて宜いかと云ふことに付いて、其責任を尽し得るか、どうか甚だ懸念に堪へぬのでこざいます、私は二十年ばかり以前に、二度目の旅行で欧羅巴まで参りました、其時は全国商業会議所の代表と云ふことで欧米各地の人と意志の疏通を計る様にと云ふ使命を託されて行つたのであります、其時に或る政治家から、詰り国際貿易の盛んになるのは其国旗をよく見なければいかぬ、国旗の色が光れば商売が繁昌すると云ふことを言はれました。其時私は考慮した、成程それはさうかも知れぬ、英吉利の商売が支那に於て国旗の光で盛んになる、何れの国にもさう云ふ有様がある、けれども私はそれと反対に、実際は此商売の働きが国旗の光を増させるのであると思ひます、商売の実力が其国旗の色をして光あらしめるやうにするが本当の道である、国旗の力に依つて商売の盛んなるは寧ろ逆なことであると其当時思つたこと
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があります、併し今日更に一歩進めて言ふと、其国旗の光は商売の力に依るのであがる、其商売の働きは何に依るかと問ふたら、是は其国民の人格に帰すると言はなければならぬと思ふ、亜米利加が人間を養成するに付て斯くあると云ふことを藤山君は教育問題に迄論及されましたのは、最も御注意の深き所と思ふのであります、如何にも商売其他事物の進歩は其根本は何にあるか、即ち人にあると云ふことは申す迄もない事である、さらば我国の現在は如何なる有様であるかと云へば、藤山君は物質ばかりではない、人格に付ても多少悲観なさる所がありはせぬか、果して然らば、是れから先き我々同胞は事業の進歩ばかりではない、一般の人格を進むると云ふことに付いて十分に御力入れを為し下さることを希望して止まないのであります、蓋し藤山君の御希望も此所にあらうかと思ひまして、私は玆に一言を添へて、同君の是から先きの御精励を待ち上げるのでこざいます、恰も宜し、先刻も申しまする通り此節柄大なる人の力を俟つ際に、藤山君が以前に優つた健康の御身体で御帰りになつた、誠に丁度待つて居ましたと云ふ際に遭遇したのは吾々の心強く思つて、今日同君を歓迎して将来に望み上げることの益々多いのを喜ぶのでございます。
   ○本資料第三十四巻所収「日米関係委員会」大正十二年十一月九日ノ条参照。