デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.8

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

2部 実業・経済

7章 経済団体及ビ民間諸会
2節 其他ノ経済団体及ビ民間諸会
3款 東北振興会
■綱文

第56巻 p.197-243(DK560059k) ページ画像

大正6年10月6日(1917年)

是日栄一、東北地方巡回ノ途ニ就キ、十八日間ニ亘リ、各方面ノ視察ヲナスト共ニ、各地ニ於テ、東北振興ニ関シ演説ヲナス。


■資料

竜門雑誌 第三五四号・第六九―一二八頁 大正六年一一月 青淵先生北越及奥羽旅行(上) 随行員 白石喜太郎記(DK560059k-0001)
第56巻 p.197-225 ページ画像

竜門雑誌  第三五四号・第六九―一二八頁 大正六年一一月
    青淵先生北越及奥羽旅行(上)
 - 第56巻 p.198 -ページ画像 
                 随行員 白石喜太郎記
 青淵先生には六十九銀行の懇請により、令夫人同伴、同行本店新築落成式に列せらるゝ為め長岡市に赴かれ、序を以て新潟市を訪はれ更に夫より日下義雄氏の東道にて岩越鉄道の試乗をなし、若松市に入り、更に転じて奥羽巡回の途に上られ、米沢・山形・秋田・青森盛岡・仙台及福島等の各市を訪はれ、各地の人士に対し努力を説き勉励を勧め、又元気作興を促し、遂に声の嗄るゝ迄東北の野に絶叫せられたる後、十月二十三日帰京せられたり。十月六日京を出でゝより十八日間、旅程(汽車哩数)実に千百八十四哩、演説又は講演の数二十回、宴会の数二十三回、更に其多忙の間に視察及接客に努められ、寸暇なきの活動を続けられしにも不拘、さしたる差障もなく予定の行程を完全に終へられたるは洵に欣幸とする処なり。玆に竜門雑誌の余白をかりて其間見聞したる御動静の一斑を録し諸賢の劉覧に供ふことゝせり。
      日程
十月六日 午前六時四十二分王子を発し、午後七時四十分長岡に着。直ちに川上佐太郎氏邸に投宿せらる。
十月七日 午前十時半六十九銀行新築落成式に臨席せられ、午後は長岡座に於ける同行の祝宴に列せられ、更に午後三時長岡中学校に赴かれ、修養団長岡支部其他の為めに講演せられ、一旦川上氏邸に帰り、小憩の後午後六時半、六十九銀行の招宴に列せらる。
十月八日 午前九時西長岡を発し、長岡鉄道及越後鉄道によりて弥彦神社参詣の上、三時半新潟に着。旅館にて小憩の後、商業会議所に赴かれ講演せられ、午後六時半より銀行団の招宴に列せらる。
十月九日 正午新潟県下に於ける東洋生命保険会社代理店聯合歓迎会に列せられ、午後三時半物産陳列場に赴かれ、商業学校其他の学生のために講演せられ、午後六時より官民合同の歓迎会に列せられ、更に鍵富氏の招宴に列せらる。
十月十日 午前六時十分新潟を発し小蒸汽にて信濃川を遡り、萩野に至り、之より汽車にて山都につき、山崩れの箇所数町を徒歩して更に汽車に乗り、喜多方に至り、同地小学校に於て講演せられたる後、午後五時四十五分若松に到着、直ちに東山に至り宿泊せらる。
十月十一日 午前十一時頃若松市立工業学校にて講演せられ、午後は鶴ケ城趾見物の後、第五小学校にて講演せられ、夫より白木屋・会津銀行・会津図書館等を訪はれたる後、官民合同の歓迎会に列せられ、七時半頃之を辞し東山に帰り宿泊せらる。
十月十二日 午前十時四十分若松を発し、十一時半頃大寺に下車し、猪苗代水力電気会社第一発電所を視察せられ、午後二時四十分大寺を発し、午後五時頃郡山に着、直ちに子守学校に到り講演せられ、小憩の後午後六時半郡山を発し、午後七時二十分福島に着せらる。
十月十三日 午前中玉糸会社・共同生糸荷造所・羽二重会社・製陶会社等を視察せられ、正午銀行団の歓迎午餐会に列せられ午後二時三十四分福島を発し午後五時過ぎ米沢に着、此夜官民合同の招待会あり。
十月十四日 午前九時半宿を出で上杉神社・松岬神社を順次参拝せら
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れたる後、米沢中学校に赴き講演せられ、米沢市立図書館を視察の上旅宿に帰り午餐の後直ちに出発、途中市立工業学校・物産陳列館等に立寄られて停車場に到り、午後二時五十三分之を発し午後四時山形に着せられ、旅宿に小憩の後、官民合同の歓迎会に列せられ、更に午後九時頃席を更へて有志と懇談せられ、十一時近く帰宿せらる。
十月十五日 午前九時頃県立物産陳列場に到りて視察し、次で県庁に到り、直ちに県会議事堂に於て講演せられたる後、午餐の饗を受け、直ちに停車場に向ひ、午後一時十七分発の汽車にて山形を発し、午後八時六分秋田に着せらる。
十月十六日 午前九時半出発、自働車にて土崎に到り、日本石油会社の製油所を見物し、帰途土崎町有志の歓迎招宴に列し正午之を辞し、秋田に帰り直ちに秋田銀行の歓迎午餐会に臨まれ、午後一時半県会議事堂に到り、講演せられたる後、物産陳列館を参観し、更に公園を見物して一先づ帰宿し、午後六時半より官民合同の歓迎会に列せられ、更に席を更へて有力者と懇談せられたる後午後八時半帰宿せらる。
十月十七日 午前十時宿を出で秋田銀行に立寄り、行員に訓示せられたる後之を辞し、停車場に赴き十時四十分発の汽車に搭じ、午後四時青森に着、一先旅宿に入り休憩の後、午後六時官民合同の歓迎会に列せられ、更に席を更へて有志者と懇談せらる。
十月十八日 午前十時公会堂に於て講演せられ、直ちに海陸連絡待合所に到り、其階上に於て午餐の後、午後一時青森を後にし午後五時三十七分盛岡に着、直ちに馬車にて市中を見物したる後、金田一氏別邸に入り小憩し、午後八時官民合同の歓迎会に列せらる。
十月十九日 午前八時半金田一氏別邸を辞し、盛岡中学校に到り、中等学校学生の為めに講演せられ、終て高等農林学校を視察したる後、盛岡銀行を訪問し行員に訓言を与へられ、次で物産館に到り、楼上大広間に於て演説せられ、更に銀行団の午餐会に列せられたる後、午後一時十五分盛岡を発し、午後六時十二分仙台に到着せられ、旅館針久に於て休憩の後、八木氏邸の招宴に列せらる。
十月二十日 午前九時出発、令孫敬三氏の寄宿せらるゝ桐寮を訪問せられ、転じて県会議事堂に到り、午前十時より講演せられ、夫より官民合同の招待会に臨まれたる後、公会堂に赴かれ、宮城商業銀行二十週年記念式に於て祝辞を述べられ、更に県会議事堂に到り実業学校職員生徒の為めに講演せられたる後、七十七銀行を訪はれ行員を訓戒せられて帰宿、小憩の後、午後六時過ぎ銀行団の招待会に臨席せらる。
十月二十一日 午前八時十分仙台を発し、同八時五十分塩釜に着し、直ちに塩釜神社を参拝せられ、社務所に於て同地有志の為めに演説をせられ、午前十時小蒸汽に乗り、松島湾を過りて松島に上陸し、直ちに瑞巌寺に参詣せられ、松島ホテルに於て午餐の後、直ちに人力車にて松島駅に到り、午後二時三十一分の汽車に搭じ、午後六時四十四分福島に下車し、直ちに自働車にて飯坂に赴かれ宿泊せらる。
十月二十二日 午前十時堀切良平氏邸を訪問せられ、転じて小学校に到り生徒の為め訓辞を与へられたる後、遊園地を見物して帰宿せられ午餐の後自働車にて福島に入り、県庁に到り知事並に有志と東北振興
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に付き懇談せられ、更に県会議事堂に到り東北振興会の為めに講演せられ、午後五時半市公会堂に赴かれ官民合同の歓迎会に列せらる。
十月二十三日 午前九時過宿を出で製糸工場を視察の上、午前十時十分福島を発し、午後四時上野に到着せらる。
      一 長岡まで
 十月六日は雲重き空に明けぬ。降るとしもなき微雨の打湿り、吹く風寒く、秋漸く深きを覚えたり。午前六時四十二分王子駅を発す、同行の日下義雄・尾高次郎・同夫人・八十島親徳及古田錞次郎の諸氏並に長岡への東道の労をとらるゝ佐田左一氏、途中迄見送りの吉池慶正氏・大久保一男氏等上野より乗込み来り、大橋新太郎氏にも亦同じく六十九銀行新築落成式に列するため長岡に赴かるゝ由にて、上野より同車し来りぬ ○中略
 かくて午後七時四十分長岡に着し、出迎の人を押し分けて辛うじて人力車に打乗り、宿泊所なる川上佐太郎氏邸に向はる。時に微雨霧の如し。日下氏並に古田氏は大野屋に、尾高氏御夫婦は松井氏邸に宿泊せらる。
○中略
      二 長岡
○中略
      三 新潟まで
 越後鉄道会社々長久須美秀三郎氏及同社取締役久須美東馬氏東道の労をとらるゝ為め同車せられ、新潟より出迎への白勢春三・斎藤喜十郎・鍵富三作の諸氏及長岡より見送りの松井吉太郎・佐田左一・長部松三郎・橋本圭三郎・福島甲子三・渡辺藤吉・渋谷善作の諸氏亦同車せられたれば車中中々に賑かなり ○中略
      四 新潟
 弥彦を出でゝ二時間にして白山駅につきぬ。駅には桜井市長・馬渡内務部長其他多数の出迎へあり、先生には出迎の諸氏に対し、一々会釈せられ、直ちに腕車に乗られ水の町、川の巷を縫ふて大川前通りなる篠田旅館に入らる。日下氏及尾高氏御夫婦並に古田氏は旅館櫛清に別れたり。
 先生には休憩せらるゝ間もなく午後四時旅館を出で腕車にて新潟商業会議所に向はる。蓋し市内銀行団商話会の懇請による講演を試みられん為めにして、松井・八十島等の諸氏と共に随従す。
 先づ白勢氏の開会の辞に兼ねたる紹介あり、次で先生演壇に立てば拍手雷の如く、為めに堂も揺がん許りなり。やがて悠然として説かれて曰く
  昨秋御県へ参る筈でありましたが、所労のため其意を果さず、今回六十九銀行の落成式に招かれたのを機として新潟まで参りました私が越後の土を踏んだ最初は卅二年前の明治十九年の事で、其後も三回程来県したので、今回を加算すれば、五回になりますが、其都度越後の文化が進展して居るに驚かされる次第であります。今日一日の旅行に於ても愉快な新しい道をとつて長岡鉄道から大河津の分水を見物し、越後鉄道によつて弥彦を経て御当地に着きました。此
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新しい二線と云ひ、大河津の分水と云ひ、総て新しく実行された文明の施設でございます。弥彦神社も聞きしに優る立派な御社でありました。殊に越後鉄道会社が新に公園の施設を為して参詣者に慰安を与へんとされる事は如何にも当を得た経営と肯かれました。翻つて新潟市と大河津との関係を見るに、新潟は水によりて成立すると謂はれて居る程水に因縁の深い都市であり、水は此都市の生命を扼して居るので、新潟の今日あるは殊に水の恩恵と云はねばならぬ、併して一面水が此頃の様に汎濫して災危を与ふる事もあるので、曩に水の恩沢を感謝して居た市民が一転して水を呪咀する様なことになります。而も水の汎濫は自然の結果になるものであるから、水は其呪咀を甘受しなければならぬ道理はない、寧ろ今日の繁栄を授与した水の力に感謝せざる事を怨むことでありましよう。兎に角水は此に対する方策により善用も出来又害悪をも流すものであります。そこに人為的努力を必要とする訳であります、大河津分水成功の暁には水害が除去され、市民は再び水なる哉水なる哉と其徳を頌するに至るであらうと思ひます。
 と警句を吐かれ、かくて話題を一転し、少壮幕臣となり、更に仏国に遊び、帰来職を大蔵省に奉じてより日本の金融制度及び株式組織に依りて実業の振興を計らんとせし動機及其の経過より現在に至る実業界の変遷に関して自叙的講演を為されたるが、四百に近き聴衆の只水を打ちたる如く感慨深き様なりき。
 午後六時講演を終らるゝや、一先づ旅館に帰られ休憩の後、令夫人御同伴にて行形亭に於ける新潟市銀行会社団の招待会に列せらる。
○中略
 かくて席定まるや白勢春三氏発起人を代表し、新潟市銀行団と越後鉄道会社の共同発起にて歓迎会を開きたる所以を挨拶し、次で青淵先生起つて、多年銀行事業に関係せしより取引上其他に就て各位の愛顧を蒙りたるは感謝に堪へざる所なりと述べられ、更に一転して自分は先年事業界より引退せしも、現今本邦の趨勢を按ずるに、一は資本家と労働者との間に於て事端漸く煩瑣なる関係を生ずる傾向あり、又一方には物質的文明の進歩に依り資本の膨脹を招来し、富力を増進せしも、之と同時に貧富の懸隔甚しきを加へ、貧民劇増の傾向あり、故に自分は此残年を利用して前者に就ては其調和を図るべく、後者に就ては其救済策を講ずべく出来得る限り努力すべき考へなりとて其決心を披瀝して、来会者に多大の感動を与へられたり ○中略
 明くれば十月九日なり。 ○中略
 やがて知事の先導にて階上なる講演場 ○物産陳列場に到れば、尾高氏既に演壇にあり ○中略 次で馬渡内務部長の紹介によりて青淵先生は立ちて大要左の演説をせられたり。
  御当地へ参りますのは今回で五度であります。参ります度毎に進歩、発展して居るのは誠に喜ばしい次第であります。さて現下の世界の有様は如何でありませう、其結果は如何になりましやう、之につきまして東京に於て人々の云ふ所をば参考迄に御紹介するは不必要ではないと思ひます。抑も欧洲の戦乱の起因は如何か、私は政治
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家でないから、其詳しい真相は承知しませぬが、経済上の戦争、富の争ひ、而も其富は権略争奪によるものであるが為、遂に如斯禍乱を惹起するに至つたと申しても過言ではありませぬ。此点より見ますると文明―物質的文明は誠に憂ふべきものである。文明が進む丈自己を主張し、道徳もなく、秩序もなくなり、其極は遂に人類の一大悲運を生ずるが如き事に立到りはしまいか。此意見は単に私が主張する許りではなく欧米にも同じ意見を持つ人があります、其一人は亜米利加の有名なる銀行の頭取、其名前は本人に於て特に発表を好みませぬから玆に申しませぬが、其人から一月許り前に正金銀行の手を経て一ツの申出がありました。夫は日米間の親善は日に進むで誠に結構であるが、時に障害の起ることがある、之は又誠に憂慮に堪へない、如何かして之を除きたいと常に希望して居る、此がためには相互の諒解を必要とし、其一方法として日本の大学に亜米利加に関する講座を設けたく、其費用丈の額を生ずべき元資金を同大学に寄附したい、処が此に付ては此問題に付始終心にかけ種々尽力して居り、且自分が年久しく感謝して居る渋沢に依頼するから、是非心配してくれと云ふことで、夫々話をつけまして如何やら希望を達せしむる事が出来る様になりました、此所に御話したいと思ふのは、其人の手紙に書いてあつた事で、それは斯様であります。
  欧洲の今日の有様は実に嘆はしいことだと思はるゝであろうが、自分も至極同感であります。此では文明は呪はしいもので物質の進歩は人情を険悪にし、次第に野蛮状態にかへらしむものと云ふても過言でありませぬ。智識の進歩は結構であるけれども、人情の険悪に赴くことは如何にかして制したいものであります。
  と云ふ意味でありました。拝金宗と云はるゝ米国の殊に物質的であるべき銀行家が此の如く功利主義に走るを嘆き、文明の為め却て野蛮に還るを憂へたと云ふことは注意するの価値ありと思ひます、又一方の人は或仏蘭西の学者で「日本国民に告ぐ」と題する一書を著はし、頻りに欧洲戦乱の禍害を力説し、世界を此の苦より救ふものは日本の外になしと少しく阿諛的の処もあるので其儘には受取れぬ様ではありますが、文明の及ぼす弊害に付ては同感であります。
  此等は単に一例でありまして、果して此様な学説が行はれましようか、又此様な気風の人が続々と生じましようかと云ふことは殆んど全く判りませぬ、兎に角一国が其富を集むる為めに他を排斥すると云ふことになれば、自然人情は険悪となり、其所に衝突も起り、戦争も生ずる次第で、之では道理ある平和をうる事は出来ませぬ。其所で武装したる平和と云ふことになり、従つて相争奪し寧日なき状態に陥り、所謂修羅道を現出することゝなります、此が文明とは実に情ない次第であります。
  私は富を排斥するものではありませぬ、寧ろ大に之を必要とする者であります。然し其富をなす手段については、大に意見があります。其所にも人たるの本分を尽すと云ふ事を最重要事とし、苟も之と干格ある如き手段は取つてはなりませぬ、前に申しました米人と仏人との意見は、或は宗教より論じ、或は日米親善より見たもので
 - 第56巻 p.203 -ページ画像 
私の生産殖利より見たる意見とは其発源を同うはしませぬが、帰趨は同一であると信じます。
  欧洲戦乱の結果は如何でしやうか、又戦後の状況は如何でしやうか、之は中々逆睹することの出来ぬ大問題であります。世界の大勢が功利に向ひますか、又道理に向ひますかは注意すべきことでありますが、私としては功利一遍にならぬ様にしたいと言ふことを切言する次第であります。殊に学生諸子に於ては此点を注意せられたいと思ひます。言葉を換へて申しますと、理想と信念を持つ様にしたいと思ひます、諸子が将来世に立つて何れの方面に働くにしても、一つの目的を確立することが必要であります。無理想は最も避くべきことで、然も其理想には信念を伴はなければなりませぬ。青年の時方針を立て、其宜しきを定めて動かざるは之信念で、必ずしも宗教による必要はない。神・仏・耶何れによらずともよろしい。或は儒教によることもあろう、其他によることもあろう、奉ずる所は何れでもよいが、信ずると云ふことは絶対的に必要であります、特に学生諸子に御勧めしたいと思ひます。
  さて諸子の受けて居らるゝ商業教育の変遷に付て考へまするに、最初は至つて微々たる有様でありました、元来日本の教育は治国平天下を第一にした、即政治、法律を首位とし、実業に関する教育は閑却されて居りました、然し次第に「富」が認められ、自然実業が重要であると云ふことになり、実業教育の必要を唱へらるゝ様になりました。商業教育に就ても東京高等商業学校を初め全国に数十百の学校を見るに至り、実に殷なる有様になりましたのは喜ばしい次第であります。さてかく物質的に進歩は見ましたが、之を支配すべき精神は如何でしやうか、之を注意すべきの時代となつたのであります。之は単に商業教育に関する部分的の問題ではなく、日本国否寧ろ全世界に共通の大問題であります。欧洲の物質文明が進んだが其害も共に甚しきを加へた、単に物質文明が進んで元を支配する精神に欠如たるものあるが為めに弱肉強食となり、全世界の大禍乱を惹起しました。此精神――孔子の所謂忠恕を欠いては人たるの道を過り、更に一地方、一国の争奪となり遂には戦乱となる訳で、最も歎はしい次第であります。故に世界の堅実なる発達を見るためには物質的文明と精神の併進を必要とし、強い信念と完全なる道徳心が常に文明の半面に伴はねばなりませぬ。かくしてこそ真正なる平和――武装の平和などと云ふ不徹底なことでなく完全な平和――を見ることが出来る次第であります。先にも申した通り此点に付ては海外の先憂の士に於ても注意し居る処で、吾人は大に注意したいと思ひますし、特に学生諸子の注意を促したいと思ひます。
 午後四時半講演を終り、物産陳列場を一覧せられたる後、旅館に帰られたるが、東洋生命保険会社の招宴より直ちに白山公園其他市中見物をせられたる令夫人には既に帰宿せられてありき。
○中略
      六若松
 十月十一日は雨に明けぬ ○中略
 - 第56巻 p.204 -ページ画像 
 かくて先生には若松市立工業学校に赴かれ、階上応接間にて小憩したる後、金子校長の先導にて各科の実習を参観せられ、最後に講堂に赴き、若松実業家雇傭人奨励会のために忠実・勤勉・忍耐を説かれ、諸子には須く就職難を訴ふるを止めて、寧ろ磁石の如く自己の力により事業を引きつくる様にありたしと述べられ、正午学校を辞し清水屋旅館に入りて午餐をとらる ○中略 第五小学校に向ふ。午後二時過ぎ之に着し、直ちに講堂に到り、先づ日下義雄氏起ちて岩越鉄道の沿革と之に対する青淵先生の同情と尽力とを縷述せられ、更つて青淵先生は破るゝ許りの拍手に迎へられて壇に上られ、開口先づ
  申さば一座の御連中の人からきつい御讚辞で、所謂女賞め男賞めは馬鹿がするの感なき能はずであります。併し其申訳は第二として今斯く多数の諸氏に御目にかゝり自分の所感を陳述することの出来ることを愉快に思ひます。
と前提し
  さて第一に申したいのは唯今日下君より御賞讚を下されたけれども、私は自分の甚だ微力なりしを恥づるの外はないのであります。元来同君とは古い御懇意でありますが、其当県の知事をして居らるる時分に、岩越鉄道のことについて御相談がありました。自分としては地理も悉しくは知りませぬので、出来るか、出来ぬかを疑問としましたが、出来れば誠に結構なことであると思ひ、其発起に同意しました。其から迂余曲折を経、議論も中々盛であつて、漸く御当地迄鉄道がついて、これより進むことの出来ぬ間に国有となつたのであります。然し北海に出づると言ふことは当地の諸君も又越後其他の連中も熱望して居る処でありましたから、国有後にも当局に陳情して其速成を促し、漸くにして先年全通するに至りました。
  昨日始めて此線路を通過しました。途中徒歩聯絡の箇所がある様で完全とは申せませぬが、先年人力車旅行をした時分と比較しますと、地方の有様も大分変つて居る様であります。此間、誠に匆卒の間ながらに、鉄道なるものは物資を輸送すると云ふに止まらず、沿線の進歩発達を促すこと多大なりとの感を深く致しました。私に対する賞讚は過褒溢美でありますが、鉄道の事業進歩の初をなすと云ふことは日下君の言はるゝ通り、寧ろそれ以上であると思ひます。
  そこで私は皆様に御話して置きたいのは、鉄道軌道其物は話しをしません、然し折角軌道が敷設せられ、機関車が通行しても、之を利用することを知らぬ様では、線路が不足を言ふ様になると云ふことであります。
  然し会津の皆様方は決して岩越線に不足を言はせる様なことはないと思ひますが、此上ながらの発奮覚悟が大切だと思ひます。然し重ねて皆様に御断りして置きますが、線路は決して物を言ふものではありません、御了解を願ひます。
  私は今から十七年前に参りまして、当市を一寸一覧した事があります、其時と今日とでは余程種々の有様が異なつた様に思ひます、又私の観察も異なつては来ました。最初は若松市の人々と御交際をします時には政治的方面に於て致したいと思ひましたが、今後は実
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業的方面に於て御相談もし御交際を願たいと思ひます。
  政治の労苦に於て会津程苦心し然も上下節を一にしたものはありませぬ。明治元年八月二十三日の落城は今以て涙を以て回想する次第であります。甚だしきは少年迄婦人迄我君と仰いだ徳川家の為に尽した忠誠は只涙の外ありませぬ。成敗を以て英雄を論ずる勿れで形式よりすれば敗れたに相違ありませぬが、精神的には成功と申すを憚りませぬ。
  私が身を起したる原因は沢山ありますけれども、唯資金を集積したいと計り思つた訳ではありません。矢張り国難に殉ぜんとする潔き決心を有したものであります。人は金銭と申せば誠に下等の様に思はるゝが決して左様のものではない、即其人の決心行為の如何に因て論ずべきもので、金銭と申したとて一概に之を排斥すべきではないと思ひます。元来私は算盤を手にする事は好きでありました、そして其時の外国の関係を考へますのに、此の如きの日本の有様では我国を蚕食せらるゝのではあるまいかと懸念したのであります。此場合多数の人々が左様な考へを持たれなくとも、私は国家の一員として同胞相愛の観念からも、是非共是は尽くさなくてはならぬ事であると決心をしたのであります。幕府の外交軟弱を患へ、之を倒して吾日本を強くするを必要として、大志を抱いて京都に上りました。然し一介の書生、直ちに其日に窮するの時が来ました。事極つて一橋家の臣となりました。そこで百姓の子は武士となり、会津の有志と時々面談往来するに至つたのであります。其際会津の藩公は京都の守護職を奉じられ、其勢は誠に盛んなものでありました。我は微官でありましたから、有力の人々に親交を得ると云ふ程に参りませんでした。横山・野沢・野村・広沢・柴・木村其他の人々にも面会した事があります。殊に小島・神保など申す人は大阪にて時々面会致しましたが、気慨ある末頼もしい人と思つたのであります。
  其時の会津の有様は、孝明天皇様からは非常に御信任がありましたが、天下の大勢の変化は仕方がありません。君公も臣下の方々も皆傑出した人ではありましたが、時が悪かつた、場所が悪うございました。苦心・努力・勉励悉く水の泡で、実に情ないことになりました。三万石斗南藩是れも致方がありません。他藩の人々は会津の人々は智が足らぬ、頑固だと言ひましたが、私は賛成はしません。悲哉、世の変遷は致方ありません。如何に忠でも、節でも、戦に勝てませぬ、折角の辛苦も水泡に帰し、遂に落城となつたのであります。私は其頃水戸の民部公子が仏国の博覧会の開催に派遣せらるゝに際し随行員となりましたので、維新前日本を去つて居りましたるにより其際の事情を詳知は致しませんでした。
  私は身柄が違ふからでありませうが、幕府は慶喜公が維持することは出来まい、桑名・会津が忠節を尽しても、薩長が連合共同一致したならば、幕府は必らず滅亡するものであると考へたのであります。慶応三年仏国に在任中政権奉還、翌四年に伏見・鳥羽の戦争を耳に致し、最早駄目であらうと考へたのであります、然し私は幕臣として如何処置すべきかと考へました、香港に来て始めて会津が落
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城したのを耳にしました、今日もお城に参りまして、当時を想起して暗涙に咽びました。
  日本に帰つてからは、政治に没頭するよりは他に何かすることがあるだらうと熟考した結果、実業方面に従事する様になつたのであります。元来私は五年許り仏国で勉強する積りでありましたが、維新の年帰国する様になりました。左様申しますれば世の中の謗りもありませうが、私は学ばざる中にも会得したるは実業方面の事であります。帰国致しましたのは二十九歳の時でありましたが、爾来今日まで四十有余年各種の実業に関聯し考究し研究を累ね、稍々得る所がありました。
  由来東北六県は我日本の国の中でも一番文化に遅れて居ると云ふ評判があります。今日只今其東北六県の福島県の然かも若松市に於て私が講演をすると言ふ事は一層の感じを持つ訳であります。若松市は如何でありませう、果して遅れを取つて居りますまいか、土地の人の資力及び勉強心が充分でありませうか、私は充分でないであらうと失礼ではあるが思ふのであります、是れは資力・勉強力の外に政治的方面に於て虐待せられたためではあるまいかと思ひます。私は福島県は東北六県の中でも思ひ切つて証拠の判然せざる原野をしかも多く官林に組み入られた事を承知致して居ります。今度当市に参りまして、此前に「禿山」であつたものが今度松林の密生したものに変つて居りますから、不思議に思ひまして、日下君に尋ねた処、あれは民有でなく官有であると答へられました、此一事を以て如何に東北地方が、此土地の資力及び勉強力が足りないかを証明するに足るものではあるまいかと思ふのであります。勿論東京の新聞を其日に見る事が出来ず、海に出るに何日、鉄路に着するに何日と要したる時代は、勢ひ文化に遅れ、天下の大勢に通ぜざるは止むを得ずと致しましても、今日に至つては大に発奮するの責があるのであります。
  私は大正二年東北振興会を組織しまして、其会長の位置に居りますので、身体の健康が許します事なら、明日郡山より漸次東北地方に旅行したいと思ひます。然し此旅行は口腹の慾を満たすとか、名所旧蹟を探るとか言ふ意味でなく、東北の振興を計らんが為であります。其手始めに会津の皆様方に御忠告申す事は、奮起せられたいと云ふことであります。会津が政治関係上如何に苦心し、先輩が如何に努力したかを回想し、先人の忠の為め、義の為め如何に奮起したかを思へば、諸君に於ても強い覚悟と厳しい勉強心が湧起することと思ひます。かくて其土地を愛し、土地に組織する会社には能く出資して権利を獲得し、他国人に左右せらるゝ様の事なきを期せられ、各人互に発奮し団結して其地方の富を増す様にせられたいものであります。地方が富裕となれば国家は従つて富裕となる訳でありますから、此点を大いに注意せられたいと思ひます。従来東北の総ての事業は、東北以外の人に権利を取得せられたるの傾向なしと言へませぬから、特に御注意致します次第であります。目下の欧洲大乱は独逸の侵略主義に依つて起つたものであります。今後日本は如
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何にすべきか、私は国民の気風を真面目にし、而して何事にも一致共同、努力発奮する事が大切と思ひます。此際私が御集りになりました皆様に望む所のものは、今より五十年前の会津の落城の際、会津の人々が其主君の為めに捧げたる満腔の忠誠、この精神を以て事に当られたいと云ふことであります。然らば如何なる事も成就せぬ事はなからうと思ひます。確かに何事も成功する事と思ひます。是を皆様方に望んで止まない次第であります。
 一語は一語より力を加へ、一節は一節より熱を増し、午後五時近く漸く壇を下らるれば、酔へるが如き聴衆より拍手雷の如く起りぬ。
○中略
 午後六時之を辞し直ちに清亀楼に開かれたる市会議員並に実業家連合主催の歓迎会に列せらる。二百に余る会衆座につけば、菊地助役の挨拶あり。先生は直ちに之に対して謝辞を述べられ、最後に東北振興に就ての希望を陳べられたり ○中略
 此夜東北振興会の吉池慶正氏並に鉄道院副参事大久保一男氏来宿せらる。両氏共に明日よりの東北旅行に其行を共にせられんがためなり
 明くれば又しても曇りなり。先生には昨夜中喘息を起され苦まれたるが、幸に一時の事にして其後喘鳴甚しくも聞えず。然しながら睡眠不足と東京以来の風邪気の脱け切らざるとにより気色甚だ勝れられずために奥羽旅行は中止せられんかなどとの議ありたれども、兎も角と此日は予定の行動をとり、夕刻福島に到り甚しく気分勝れずば、其以後は打切りとすることゝせんと先生の言はるゝに議決し、直ちに車を命じて東山を後にし、予定の通り午前十時四十分若松市を発す ○中略
      七 福島へ
 松間櫨紅葉の色美しき間を過ぎて広田に出づれば、日本化学工業会社・藤田組亜鉛工場等の煤煙天を蔽ひぬ。かくて大寺駅に下車し、多田猪苗代水力電気会社第一発電所主任及び東京より態々出張せられたる日下部金三郎氏等の出迎を受け、先生・令夫人並に尾高夫人には人力車にて発電所に向はれ、他は皆「トロ」にて後を追ふ。かくて発電所に到り事務所に小憩の後、多田主任の先導にて発電所を隈なく視察せらる。其規模の壮大なる、而して其何所まで科学的なるに驚嘆しつつ寄宿舎に到り、午餐の饗を受け、午後二時少し前之を発し大寺に至り、午後三時汽車に乗りて之を後にす ○中略
 午後五時少し前郡山に着き下車せられ、松山政治氏の先導にて直ちに同氏の尽力しつゝある子守学校に赴かれたるが ○上略 講堂に赴かれ大要左の講演をせられたり。
○中略
  今や東北振興問題は天下の一大問題として取扱はれつゝあるは何人も知る処であります。中央に於ては大正二年東北振興会なるものを設立し、私は之が会長となり爾来振興上の考慮と研究とを重ねて居りますが、其実効を現はすには決して短時間を以てすることは出来ませぬ。仮令ば耕作にせよ、今日播種して明日直に収穫することの出来ない事は明かな事実であります。東北振興問題も亦その通りでありますから、明日以後各地を巡回しまして、直ちに東北振興が
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出来るかと言ふに、決してそれは出来ないことでありますが、幸に各地を親しく視察し見聞し、此問題解決の参考資料を得たいものと希望して居る次第であります。
○中略
  元来金融及経済に境域なきことは言を俟ちませぬが、地方民の脳裡に此の覚悟がなければ、地方振興上大なる齟齬を来すことあることも贅言を要しませぬ。此意味に於て、先づ東北振興問題を解決せんとならば、差当り奥羽の関門たる郡山地方民諸君の奮起を切望する次第であります。而して此覚悟を得たる諸君は前段述べました志行一致の実現を期せられたきものであります。
○中略
      八 福島と米沢
○中略
 明くれば十月十三日なり ○中略 先生には午前十時に近く宿を発せられ二宮市長・加藤理事官等の案内にて玉糸改良会社に赴かれ、先づ休憩室にて玉糸並に其製品を見られたる後、繰糸場を視察せられ、転じて共同生糸荷造所に到り、休憩室にて其沿革・現況等の説明を聞きて作業の状態を視察し、且つ出来上りの現品を詳細に参観せられて之を辞し、福島羽二重会社を訪はる。先づ階上応接間に於て一般の説明を聞かれたる後工場を全部視察せられて、最後に福島製陶会社を訪はれ、事務室に於て其製品参考品等を一覧せられたる後、工場を隈なく巡視せられ、花瓶等に紀念の揮毫をせられたる後、腕車を急がせて旅館に帰られたり。かくて正午より旅宿なる松葉館に於て開かれたる官民合同の歓迎午餐会に列せらる。発起人の挨拶及先生の謝辞ありて宴を開き酒中打解けたる談話あり、かくて一時間余、午後二時過ぎに至つて散会し、直ちに停車場に赴き、同二時三十四分発の列車にて米沢に向つて出発せられぬ ○中略 かくて午後五時五分米沢に着き、直ちに腕車を連ねて旅館招仙閣に向ふ ○中略
 中学校につき階上広間に小憩の後、講演会場に赴けば、聴衆一千に余り、広やかなる講堂も立錐の地なき状況なりき。
 先生には深沢市長の紹介により壇に立たれ、先づ我国商工業の歴史を概説せられ、何事にも理論は寧ろ容易なるも実行の困難なることを説かれ、実行なき理論は何の価値なしと断ぜられ、転じて農業の事に及び、日本に於て農業の必要なるは論なしとするも、凡そ原料を売りて製品を買入るゝを専らとする国は発達せざる者多きを常とするを以て、農工何れをとるかと云はゞ寧ろ工業を奨励す、と説かれ、進みて地方経済の事に就きては、経済上の実体が都会に偏して地方に薄きものあるは免れ難き所なるも、両者の状態が平準を得ざる限りは経済上健全なる発達とは言ふ能はず。而して地方経済を進むるは農作の改良と共に、原料の加工を目的とする工業の勃興を促進せざるべからず、諸君の努力は独り東北の振興に止まらずして、我帝国に貢献する所以の途なれば、大に奮励あらんことを望むと結ばれ、満場鳴を静めて謹聴せり。次で吉池氏の東北振興に関する演説ありて之を辞し、折柄校内に催されたる有為会の演武大会に臨まれぬ ○中略
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      九 山形
 山形につきしは午後四時なりき ○中略
 かくて宿につけば訪客引きも切らず、先生には殆んど小憩の間さへなし。やがて午後七時ともなれば車上の人となり、令夫人と共に四山楼に開かれし官民合同の歓迎会に赴かれぬ ○中略
 席定まるや添田知事起つて発起人を代表して歓迎の辞を述べ、先生の東北振興のため尽瘁せらるゝを謝し官民協力以て此好意に酬ゆべしと結ばれ、先生又起つて之に対して大要左の答辞を述べられたり。
  今夕斯る盛宴をば御張り下さつて我等一行を犒らはるゝは望外の光栄であります。今回の私の旅行は只今知事閣下より述べられたる如き、諸君の大なる期待に副ひ得る哉、否哉は頗る疑問でありますが、老後の思出に親しく東北実業上の発達状況を視察したいと思ひまして、六県巡回の途につきました次第であります。回顧しますと私の第一銀行勤務中一時出張所を東北の地に設けて其発展に資せんとしたことがありましたが、東北の商売は小売的経営で、一般実業界も甚だ微々たるものでありました、斯の如き状態でありましたから、銀行業も兎角予定通りの成績を挙げることが出来ずに終りました。之は自分の力の乏しき事、又営業方法の不備なるより起つたことかも知れません。其後時世の進運に従ひ、東北の天地にも東北自身の金融機関を設けらるゝ様になりましたから、第一銀行は此処に東北の事は東北自身に任せることゝし、全く手を引くことゝなりました。斯く私は明治十一年頃より東北に目をつけて居た次第でありますが、日本の富の三分の一は東北にありますので、之を失ふと否とは日本の富力に大なる関係を及ぼすと思ひます。併し東北振興は只単に銀行業のみで遂行することは出来ませぬ、其処で先づ東京に東北振興会を起しまして、吉池慶正君に其事務を嘱托し、爾来調査を重ねて居りますが、未だ諸君に報告する程の結果を見ませぬ。今春東京三越の一部に東北銘産品陳列会を開きましたが、若し同会にして果して東北振興の一助たることが出来ますれば誠に喜ばしき次第で、我々は進んで更に第二・第三の会を計劃するを辞せないのであります。
  私も昨年は七十七歳の高齢に達しましたから実業界の事務より隠退しましたが、猶老後の仕事として総て実業上の相談に応ずる決心であります。
  それで親しく諸君と会見したならば、東京で知ることの出来ない多くの新しき見聞を得られようかと思ひまして、此旅行を企てた次第であります。願くば胸襟を開いて互に意志の交換をする機会を与へて下さらば私の感謝する処であります。
  私の東北に対する考は、出来得べくんば東北と東京と声息相応ずべき形を造りたいと云ふにあります。人に依りて東北振興会の中止を説く向もありますが、私は之に同意しませぬ。寧ろ長く継続せんことを希望するものであります。
と熱心に述べられて席に復し、宴は開かれたり。やがて談笑の声湧き酒盃織るが如く和気堂に溢れたり。
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○中略
 明くれば十月十五日なり。朝の気の稍身に沁みる様なれども天気晴朗にして快適なり。午前九時宿を出で池田理事官の東道にて車を連ねて県立物産陳列場に到り、待ち受けられたる県知事・吉川場長と共に先生には先づ階上休憩室に入りて小憩せられたる後、その案内にて場内陳列品に就き綿密なる視察をせられ、午前十時之を辞し県庁に赴かる ○中略
 県庁にては先づ休憩室にて小時休息せられたる後、講演会場なる県会議事堂に赴かる ○中略
 やがて青淵先生は雷の如き拍手に迎へられて壇に起ち、大要左の如き演説をせられたり。
  私は当県の実業家諸君に御話致したいと思ふのであります。斯く申上げても私は最早や第一銀行を罷め、実業界を退きましたから、いはば隠居の身でありますから、自分でしないで夫を諸君に御注意申上ぐる様なことになり、誠に虫の好い事を申上げる様でありますが、元来夫れは大嫌いで言へば必ず行ふ、行はなければ言はんと云ふ主義で七十八歳の今日迄実行して居ります。若い時と云つては何であるが、少くも明治六年実業界に立てより、私は言行一致を信条として、生産殖利事業は仁義道徳に依て行はるゝもので、之れに依らなければ真に維持して行けるものでない。斯く申すと私は漢学が出来る様に聞えるが、別に素養があるのではない、沢山知つて居ても行へない者があり、知らなくとも行ふ者もあります。既に知つたならば行ふべきである、孔子も朝に道を聴き夕に死すとも可なりと云はれて居る、で私は明治六年に生産殖利の事業に身を投じたが、何事も富を致さうと云ふ事は兎角過ちがあるものであるから此弊を矯めなければならないと決心したのであります。然るに当時は嘘は方便なりと言ふ俗説すらあつた位で、実業家に懸引は必要であると思つて居り、懸引と嘘とは同一だと思はれて居たのであります。然し私としては左様云ふものでない、左様のことでなく商業は出来得るものと考へ、言行一致を信条とし実業界に立つたのであります。実業が道徳を基礎として立つて行く以上は政治も軍事も法律も学業も総て道徳を基礎として立て行く様にしたいと思ふのであります。昔は武士道と云ふものを重んじ敵と雖も時に之を許すと云ふ様な雅量があつたものであります、攻伐は止むを得ない事であるが、甚しい惨虐をする様な事はありませんでした、彼の前九年の役に八幡太郎義家が奥羽の安倍貞任・宗任と戦闘した時にも、衣のたては綻びにけりと咏じたといふ様な優美の所があつたのであります。然るに今日はどうであるか、死んだ人より油を取るといふではありませんか、誠に以ての外で、昔の野蛮が文明で、今日の文明が却つて野蛮と申すべきであります。蓋し其根元は利慾に外ならないのである、斯様申上げても或は諸君はそは渋沢の僻見ならんと思召あるかも知れませんが、此の事は紐育の有名な銀行家も云ふて居る○中略
  さて我が邦は世の変化に伴ふて急進したのであります。先づ第一が明治十年、次は二十七年、更に三十七年、夫れに今度の大発展と
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云ふ具合で、夫の二十七年の如きは大なる償金を取つた為めに明治三十年に金貨本位の制度をとることが出来、又三十七年の戦役は事物の経験、殊に船の力と云ふことに多大の経験を得まして爾来海運に力を致しました結果、今回の戦乱に大いに利益を得て居るのであります。今度の欧洲戦乱が実業界に変化を与へ勢力を増したと云ふは争はれぬ事実でありますが、戦後の経営に関して如何に処すべきかと云ふ事は六ケ敷い問題で、確たる事は云ひ難いのであります。此問題に付いては同志の者が相談して居りますが、未だ確定の意見を見るに至りませぬ。先頃東京で経済界に関する愚見を申述べた事がありますが、要するに戦後の覚悟としては得た事は失はない様にするのが一番であると思ひます。夫れから是丈の利益があるから之れを十倍とすれば、十倍の利益があると云ふ様な不自然の事業が起り易いが、之れを止める様にしたいと思ふのであります。染料の如きは戦争前には独逸より供給を受けて居りましたが、戦争勃発と共に其輸入が杜絶した結果、不足を告げたので種々苦心し遂に内地で製造する様になつたのでありますが、独り染料のみならず、実業上の事は学理と相俟つて発展して行かねばならないのであります。物理・化学の進歩せざる限り、堅実に富を起すと云ふことは出来ないのであります。独逸の今日あるは、実に物理・化学の進歩の結果であると申しても過言ではありませぬ。併しながら今日の独逸たらざれば独逸人なしと云ふが如く、日本たらざれば日本人なしと云ふが如きことにならない様に充分の注意をしなければなりませぬ。日本が今回の戦争に参加したのは日英同盟があるからと言ふ訳ではなく独逸が世道・人心を無視したるの行動があるためであります。其軍国主義・侵略主義を破らんがためであります。
  私は米沢市に於て、実業は中央本位ではいけない、宜敷地方本位にすべきであると云ふ事を申しましたが、之れは米沢市の人々計りでなく、山形全体の方々に願ふのでありまして、今日此の傾きあるのは中央の人も悪いには相違ないが、地方の人も亦意志の疎通する様に努めねばならないと思ふのであります。私は水力電気の事を御勧めもし希望も申述べたいのでありますが、其必要なることは明治二十年頃より唱へられて居ましたが、この電気を節約して経済的に使用すると云ふことに注意の届かぬ処がありはせぬかと心配致すのであります。何事によらず初めは必ず此の如き弊害があるもので、開墾にしても最初は土地の良い所は甚だ粗末に取扱はれ、後で開墾の余地がなくなつて来て初めて節約して耕すと云ふ風になるのであります。此点は特に御注意を願ひたいと思ひます。
  東北振興会は別に申上ぐる程の事も致して居りませず、殊に六県中御県の如きは大いに優れて居るから、山形県は除いても宜いと思ふのでありますが、一般的に見まして東北地方は関西方面殊に九州地方に比較して劣つて居るので、山形県と雖亦六県の中であるから自分はかまわぬと云ふ風でなく、進んで自分は斯の如くする、秋田は如何、青森はどうすると云ふ様に他を刺戟してゆくと云ふ事でありたいのであります。
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  終りに臨みまして繰返して申上げますが、実業は世道・人心とは離るべからざる事と信じ、経済界は仁義道徳を以てやつて行けるものと信じます、願はくば諸君富んで仁なるべき方々たらん事を期せられたいのであります。
 約一時間半に亘つて説き去り、説き来りて元気旺盛、特に終に臨みて精気溢るゝ許りなりき ○中略 午後一時十七分発の汽車にて秋田に向つて出発せられたり ○中略
      十 秋田へ
 山形を出でゝより汽車は暫し最上の大平原を進みしが、いつしか丘陵の間に分け入り、漆の紅葉美しく、翠色濃き松山を彩れる辺りを過ぎて新庄につき、左手遥かに眺むれば、鳥海山頂白雪色鮮なりき。
○中略
 かくて湯沢に到れば米田内務部長出迎へられ、之より同車し明日の日程に付種々打合せられたり。境よりは秋田魁新聞の記者同車し、先生は之を引見して懇切に其感想を洩らされたるが、同紙が先生の車中談なりとて掲ぐる所は左の如し。
  昨年山形に共進会の開かれた当時是非之にも出席し、其序を以て秋田に遊ぶ筈の予定だつた処、図らず病気に罹り遂に違約するの是非なきに至つたのは如何にも知己諸君に対し甚だ済ぬことに思つてゐた、今回機漸く熟して多年の宿望をも果し、且つ久々にて秋田の地に接せるは頗る欣幸に堪へない。
  自分の秋田に来れるは実に明治十五年の初夏で恰度三十六年目になる、十年を一昔しとすれば三昔しになる理であるから、洵に感懐多少ならざるを得んやである、此当時知己となれる池田甚之助・本郷吉右衛門・菅礼治・那波三郎右衛門・木下正兵衛なども今は既に故人となりて幽明境を異にしてゐる、三十六年間に於ける人事の推移真に倏忽たるものなれど、顧みて国家の変遷を思へば尚ほより以上迅速なりと謂はねばならぬ。
  此時に於て単り時代の進運に遅れたるは東北である、世の中は悉く走つてゐるけれど、奥羽のみは牛の歩みも啻ならずである、故に大正二年自分が世話人となり村井吉兵衛・大橋新太郎・加藤正義氏外五名発企して東北振興会なるものを創め、微力ながら其振興に関する調査研究をも遂げ、既に之を世間に発表する処があつた。
  先づ政治的意味に於ける振興策をいへば、(一)官有地の下戻しである、維新草創の当時の政府は民有地を没収して官有地に編入したる所も寡くない。故に此等は一日も早く其権利を移すべき必要を認めてゐる、(二)地価の不均一なるも亦然りである。天恵の薄きに加へて奥羽の地価たる、之を関東西や九州の或る地方に比し甚だ高い、換言すれば公平なるべき地価に高低あるから其権衡を取るべき改正を加へ、(三)次は港湾の修築是れである、見渡せば東北には適当なる港湾も有らうけれど、船舶の出入貨物の呑吐に何れも不便を見てゐる、之れ設備の不全なる結果に外ならないから、是非相当の修築をなす必要あるも、然し其費用たるや極めて巨額に上るから到底民人の負担に堪へない、故に国庫は全部支出するなり、若く
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は特別の補助を与ふるなりして其設備を完からしめねばならぬ。
  大隈内閣の当時であつた、地方官会議に出席した東北の知事に会して其振興策を語り、主要なる生産事業の輸出に対し特に奨励の意味を以て鉄道運賃の割引を行ふこと出来まじきやといひ、此旨を以て首相に交渉せるに、首相も之を快諾され鉄道院に調査せしめたけれど遂に行はれずに今日に至つた。
  前日山形に滞留中、南洋輸出の薄荷の如き特殊の生産に対し、若し鉄道運賃の割引を得なば至幸であるといはれた。然し自分は単に此の如き事業のみならず、広く東北一般に及ぼしたい、之れ奨励の意味を以て特に保護の必要ありと思ふからである、元来東北一般の人心は門徒宗の所謂他力信仰である、地方の発達は其地方の自発に待たねばならぬべく、唯他力のみに依頼しては如何ともすることは出来ぬ、従つて事業の振興の如き到底思ひもよらぬ。
  東北の人は二言目には仕事をしやうにも適当なる仕事なしといつてゐる、之れも半面の理なきに有らねど苟くも仕事をする観念さへあらば、レース編とか麦真田編とか家内工業に適する職業決して寡くなかるべく、地方で幾等も仲次することが出来る、元来小事業にも大事業にも資力のある人が事業観念がないとイカヌ、百姓から小作米を取り夫れで一家を経営するのみでは、大なる富など容易に作り得られない。
  往年自分は角間川町の本郷吉右衛門に招かれた事があつた、此当時貴家は何を職業とするやと問ひしに小作を以て経営するといはれた、自分は之は面白くない、徒らに先祖の脛噛りのみしては世の進歩に遅れ時代に応ずること不可能である、世間は走つて行くに己れ徐行では全く世に棄られてしもうといつたら、本郷は走つては転倒び易く寧ろ先祖の遺産を守るが利益じやといふ、成る程転ばぬ事のみするなら宜しきも、社会は一日たりとも休まずに進む、否な世界は瞬時たりともじつとして居ぬから遂に劣敗者たるを免れまい、人間は進取すべきものは進取せねばならぬ天分を有つてゐるから、此点に於て東北の人は特に三省せられんことを望んで已まない。
○中略
      十一 秋田
 秋田停車場に降立ちしは午後八時なりき ○中略
 十月十六日は雨に明けぬ。大久保鉄作氏其他の来訪あり、又弘前市より特に市会議長及商業会議所副会頭同道出張せられ、特に御面会を乞ひ、是非同市に立寄られんことを懇請せられたるが、日程の都合により如何とも詮なきに付、先生より丁寧に謝絶せられたり。
○中略
 かくて土崎町に入り日本石油株式会社土崎製油所に到り、井上主事其他の出迎へを受けて事務所に入られて休憩し、其間に製油の概況、販路並に産額等の説明を聞かれたる後、井上主事・後藤技師の説明を聞きながら各工場を順次参観、原油より漸次精製せられ行く状況より遂に鑵に詰められ、箱に入れらるる迄落なく視察せられたり。其何処迄も科学的なるは猪苗代水力電気会社の発電所と共に這回の旅行中驚
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嘆したるものの双壁なり。
 かくて之を辞し武田屋に到り、土崎町有志の招待会に列せられたるが、席定るや、刈田町長の歓迎の辞あり。先生には之に対し大要左の如き挨拶をせられたり。
  御当地の日本石油会社の製油所の視察に参りました所、計らずも私等の為めに斯る盛大なる歓迎会を催され、一同之に臨席の光栄を得たことは私の深く感謝する所であります。殊に町長より陳べられたる歓迎の辞は、私に取つて過分の褒辞で却つて慚愧に堪へぬ次第であります。私は明治十五年本県に参りました節、当土崎町にも立寄つたやうに記憶して居ります。今から殆んど三十余年の昔でありまして、今昔を比較して玆にその感想を陳ぶるには私の記憶は余りに朧気になつて居るのであります。今回の旅行は東北の振興に関して幾分なりとも貢献せんとの考へより企てられたることでありますが、微力果して如何なることを為し得るや甚だ疑問であります。然し私は充分の誠意と努力とを以て東北の諸君に相対せんとするものであります。此事は東北の諸君の特に記憶し置かれんことを希望致します。明治十五年以後一・二回東北に来遊したことがありますから、山川風物に対し言ひ得ぬ親し味を持つて居ります。殊に秋田・盛岡・仙台の各地には第一銀行の支店を設置し、当時私も其頭取の職にありましたから、取引上の関係から幾多の人士と交際を継続して居たのであります。私が東北発展の要あるを痛感したのは決して今日に始まつた事ではありません。東北をして時代の進運に伴はしめ、東北の文化をして一層光輝あるものたらしめんとは、数十年来私の脳裡を去らなかつた事であります。而して私は東北をして自然の儘に任すを以て国家の一大不利益なりと主張し来つたのであります。従つて銀行等の関係より東北の諸君と接触するの機会ある毎に私は必ず此事を唱へ以て東北に対する私の希望の一端を陳べて置いたのであります。偶々明治二十九年秋田に於ける第一銀行支店が閉鎖され、秋田銀行がその後を引受けられ、玆に有力なる地方の金融機関が設けられ、今日の如き繁昌を呈するに至つたのであります。既往を想ふて今日に及べば転今昔の感に堪へんのであります。第一銀行支店廃止の理由は盛岡・仙台共に同一であります。言ふ迄もなく秋田は天恵の豊かな所で、石油と云ひ鉱山と云ひ、今や著るしき産額を見るのみならず、事業の発展刮目して見るべきものがあります。故に県民が今後一大勇猛心を奮ひ、一大活動をしたならば、斯る無限なる富をして日本全国を潤ふし得るは疑なき所であります。秋田は実に此点に於て稀れなる天恵国と言ふても差支ない、然し翻つて秋田県の現状を見ますると私は尠なからず遺憾を感ぜずには居られぬのであります。県全体としての活動は何うしても他府県に及ばぬやうに思はれます、鉱山もあり、石油も出るし又土地は豊沃で農業も進歩して居るが、悲しい哉、多くの新しい事業は何れも他県人の手に依つて経営されて居るやうであります。勿論国家的見地に立つて之を観る時は何等不可なき事ではありますが、之を一県・一国といふ小さき立場より見る時は、如何にしても今日の儘に放任し
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て置くことは出来ないと考へられるのであります。経済に境界なしと云ひ、経営者・計画者の自国民たると他国民たることを問はず、一国の富力を増進せんには敢て斯る小問題を論ずるの必要はないとも云へますが、その立場に依つて又一考する必要がある、試みに地を換へて考ふるに、若し英米独の諸国より多数事業家が日本に来り此等の人々に依つて日本の富力が開発されたものと仮定しますと如何でせうか、富力開発の点に於ては固より何等言ふべき所はないとしましても、その結果如何は大いに考ふべきものであらうと思ひます。即ち秋田県も経営者・投資者・計画者が他府県人たると否とを問ふの必要はないが、その結果は恰も前に挙げた譬諭の如きものでありますまいか、他府県人大いに歓迎すべし、唯心得べきは秋田県民は能く之と対抗するの精力ありや、努力ありやと云ふ点であります。新規事業が悉く他府県人に依つて経営されて居るは、一面に於て秋田県人が他府県人との対抗に於て、既に一歩の退を取つてゐることを証明するものではありますまいか、之を思へば県民たる者は一日も晏如たる事なく、一層の勉励努力あつて然るべきであらうと思ひます。徒らに空言を陳じ、諸君の感情を害したかも知れませんが、一片の婆心已む能はずして玆に出でたる次第でありますから、何卒私の微意のある所を諒とせられ、県国の為め一大活躍を試みられんことを希望致します。
○中略
 正午之を辞し、自働車を飛ばして秋田に向ふ ○中略
 先生の県庁に赴かるゝや、応接間に於て小憩せられて後県会議事堂に赴かれ、川口知事の紹介により起つて左の講演をせられたり。
  時代の進歩に連れて、秋田も大なる発展をされた。三十余年前と今日とを比較すると全く隔世の地なきを得ぬ。私は明治十五年、東北漫遊の途次当地にも立寄り、親しく県国の内情を視察し又多数県民とも会見し、相互に意見の交換を行ふたのである。爾来三十有六年、思ひは秋田の天地に走するも機会を得ず、甚だ遺憾に感じ居りし所、今回再び東北六県を巡回することゝなり、多数県民に接触し既往を偲び、未来を談ずるの機会を得たのは私としても欣快に堪へざる所である。十五年来遊の時は、全く銀行関係よりして一応県国の状態を視察するの必要あり、数日間当地にも滞在したのであるが今回の旅行は之と較や趣きを異にし、東北振興会の一員として東北地方の現状を視察し、幾分なり共東北の振興発展に関し微力を致したき考へより、計らずも東北漫遊の途に就いた次第である。
  私の関係して居つた第一銀行が、当地に支店を設置したのは明治十二年で、十五年の来遊は、早く申せば之が経過を視察旁々、且は県国の状態を見んが為めに企てられたるものに過ぎぬ。而して私は本県に於て特に注意を払つたのは、商業・工業及び運輸の三点に在つた。此等の関係に就ては出来得る限り調査もし研究も重ねたのである。又当時序でを以て土崎にも赴き、同町民の歓待に預りしことも今尚ほ私の記憶する所である。又私に前回来遊の際、秋田県唯一の港湾たる船川をも親しく視察し、同地に於ける有力者とも会見し
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意見の交換を為した次第である。此等の事は何れも三十余年の昔の事ではあるが、今尚ほ記憶に新たなる所、それ丈け秋田に対する私の印象は深く且つ大なるものがあつた。而して今日再び秋田の地を踏むに及び、その進歩の著るしく発展の跡歴々たるに、非常なる愉快を感じたのである。是れ取りも直さず、本県官民諸君の努力経営与つて力あるは、私の喋々を要せぬ所である。
  川口知事は、私の今回の旅行は六県の視察にして、渋沢の事であれば、振興上必らず有利なる材料を得て帰られるだらう、従つて渋沢は又何か目新しい計画でも立てるであらう。斯様に期待されて居るやうであるが、視察の効果に就ては、今少しく是非の論を保留されて欲しい。微力なる私としては、県民の期待を受くるやうな者でなく、唯東北地方に於ける商業・工業並に運輸の実況を視察し、調査の結果に依つて自分の卑見をも陳べて見たいと考へたので、今回の旅行をも思ひ立つた訳であるが、視察帰京後、何事を為すか、此事には今少し時日を貸して欲しいと考へるものである。非常な期待を嘱されても、見らるゝ如き老人、或は何事も為さずして已むかも知れぬ故、今後の働き如何は今回の視察の結果を見らるゝ事にして余り渋沢の視察に重きを措かぬやうにして欲しい。
  東北振興会は、大正二年組織されたものであるが、本会には東京横浜・大阪其他の地方に於ける有力家が加入されて居る、会員既に六十余名を算し、私もその一員として本会の事業に力を致し、幾分なりとも其の目的を達成せしめたいと、日夜此事を考へて居る者である。会員の多数は何れも資力ある人、事業に経験を積める人、特種の智識学問を有する人を網羅した訳であるから、会員は一粒撰りの者であると申しても決して過言であるまいと思ふ。而して振興会にて調査せるものは一通り取纏め意見書を作つて、一昨年時の内閣に提出し、又各政党並に議会にも之を建議し、大体に於て政府当路の承認を得、各政党共に之が建議を認めて呉れた事は事実であるが此等の意見が今日尚ほ実際に行はれて居らぬのは、私の最も遺憾とする所である。希望や目的は徒らに紙の上のみでは何等の効果をも齎らさぬ。実際行ふことに依つて始めて効果を見ることが出来る。どうかして私等は此事の一日も早く実現されんことを希望して已まぬので、意見が如何に立派でも、議論が如何に堂々たるも、実行の伴はぬものは何等の価値がない。何事も実行を伴はぬと、効果を顕はす事が出来ぬ。言行一致世にこれ位尊ぶ可きものなく、又私は之を以て終生の主義として居る者である。如何にせば私等の希望が達せられるか、此事に関しては、今尚ほ苦心中である。
  古諺にも「改過勿憚」と云ふ事がある。若し自分の考へが過つて居たならば躊躇せず直ちに改める。これは最も必要な事である。これに反し善い事は必らず実行せねばならぬ。良いと知りつゝ実行せずに居るのは蓋し勇気に乏しく、敢為の力の足らぬ結果と言はねばならぬ。東北振興会の組織されたる以上は本会の関係者は地方の諸君とも打合せ、断乎たる決心を以て所信を断行せねばならぬ。之には輿論を喚起して政治界を動かし、絶えず何事をか為して政府当局
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にも刺戟を与ふることが必要である。之に付いては古い東北を知つて居る丈けでは万事に都合が悪い。細かい事、どうでも大体に於て東北の現状を知つて置く必要がある。それには是非六県を視察せねばならぬ。かう考へたので今回の旅行を思ひ立つたのである。
  前にも申した通り秋田には深い因縁がある。それで三十余年の昔を回想するには、私の秋田へ来たことから詳しく陳べぬと、どうも話の順序が取れぬ事になる。少しく重復を免れぬが、老人の繰言と思召して、暫時御聞き取りを願ひ度い。それに斯様な話は言語の上のみではどうしても行かぬ。何か事実に引き付けて語るのが最も都合が可い。自分は斯んな仕事をやつた。事業を経営して見た。失敗もしたが成功もある。悲しい思ひもしたが愉快に感じたことも尠くない。かういふ事を、事実に引付るのが私としても興味の多いことである、諸君の記憶にも残り易いと思はれる。
  川口知事は前刻、渋沢は明治の初年政府に入りて、財政事務に従事し、後官界を退いて民間に下り、銀行業を始めて爾来四十余年、終始一貫した男である。而して国家社会の為めに貢献したことは、斯々であると言はれた、経歴は全く知事の述べられた如くであるも渋沢が事実、国家社会の為めに斯様に功労のあつた者とは考へて居らぬ、過分の褒辞は却つて恐縮に存ずる次第である。
  兎に角、私は明治初年銀行界に入つてから爾来四十三年、第一銀行頭取として其職に尽したが、此間何一つしたといふでないから、洵に若い人達に対してはお恥かしい次第である。多年其職に在りながら、何等の為す所なく碌々として歳月を送つたのは、広い世間には私位の者で、又私のやうな無能者はあるまいと思ふ。今日銀行の重役が頭取になるには却々厄介で、銀行に入る、事務を執る、進んで支店長となり、本店に引取られて一と勉強し、上長に自分の才能手腕を認められ、世間からも信用されて、愈々重役か頭取になるがそれまでは決して並大低な苦労では行かぬ。それに重役とか頭取とかなると、資力を要するからこれも問題、いゝ加減苦労を積んで社会から認められる地位になる頃に、子供が幾つ孫が何人かといふ年輩になるのが世間多く此類である。銀行に入る、すぐ支店長か重役になれると洵に手数のないものであるが、世の中のことは左様簡単には参らぬ、どうしても下から一歩づゝ進め、一階づゝ上つて行かねばならぬ。私の半生もつまりこれと五十歩百歩で、遊んで居て頭取になつた訳でもなく、自分としてはそれ相当に苦労もし、努力もした、考へれば唯四十三年間も一銀行の頭取で満足して居たなどは洵に気の利かぬ話で、世の中には渋沢位意気地のない、進歩のない人間はあるまいと思ふ。或は渋沢には銀行の頭取より以上のことは出来ん男かも知れぬ。
  然し翻つて思ふに、第一銀行が創立当時と今日と同じものであるかと云ふに、決して左様ではない、明治六年と大正六年では到底比較にもならぬ大なる変化を為して居る。変化とは進歩である、発達である。卑近な例を引くと、資本はどうかと云ふに今日は創立当時に比し十五六倍に上り、預金も百倍以上に進んで居る、従つて営業
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上の関係する範囲はと言ふと、これは百千倍にもなつて居やうと思ふ。渋沢は第一銀行に入つてからは四十三年になる、位置は頭取より一歩も進まぬが、為した事業には以上述べた如き大なる進歩発達がある。私はこれで大なる満足を感ずることが出来る。明治初年の渋沢も、大正六年の渋沢も、渋沢夫れ自身には進歩もなく発達もないが、自分の努力し経営した事業は斯る変化を為して居る。かうなると私は自分から慰め得る。青年諸君は此事を深く考へて欲しい。
  私の見る所では今日の学生は何れも試験の為めに学問して居るやうに思はれる、これは誤謬も甚しい。学問する為めの試験であつて決して試験の為めに学問するのではない。こんな調子では学問した所で何にもならぬ。青年諸君は此事を深く考ふべきである。又世間には徒らに地位の向上に腐心して居る人も尠くない。否多くは之が為めに骨折つて居るかのやうに思はれる。これも誡むべきことである。地位がどんなに高くとも、為した仕事に価値なくば我々は決して感心する事が出来ぬ。その人に対する尊敬も遂ひぞ起らぬ。世間には此悪弊が滔々として行はれて居る。慎むべきである。
  何か一つ仕事を始める。人は必ず全心を之に傾注せねばならぬ。一身を打ち込んで掛らぬと到底成功はされぬ。心の持ちやう、力の入れやうで為した仕事の上には大なる差異を来たす。地位を進めやうとか、世間から能く見られやうとか、事業家は決して斯様なことを思ひ且つ望んではならぬ。地位が高くなつたのみでは社会の信用もなく、人から尊敬される訳のものでない。為した事業の大小に依つてその人の価値も定まり、信用も増し、尊敬も加はる。私から見ると、地位を高めることに腐心して居る人程、馬鹿気て居る者はない。手腕なく力量なき人が地位ばかり高くなつた所で、誰が尊敬の意を表しやう。
  私が銀行を選んだのには、二つの理由がある。銀行は商工業の脳髄である、大動脈である、主眼であるとは今日何人も言ふ所であるが、私の銀行を創めた時分は、世間も銀行其物に対して何等注意も払はず、無論斯様に必要なものとも思ふて居なかつた。又私自身に於ても、銀行業ならば、自分の一生を打ち込んでして見やうとは決心したものゝ、当時に於ては私も銀行その物に対して何等知る所がなかつた。後で考へると洵に無謀なやうであつたが、私には何か期するところがあつた。如何なることがあつても此事丈けは成し遂げて見やう。斯う思ふ心は私を安閑として置かなかつた。心の励みは余程違つて居るのであらう。
  明治初年の実業界は極めて微弱なものであつた。或は実業界など称するものになつて居なかつたといふのが至当かも知れぬ。商人は小売、工業は手内職、これが日本の当時に於ける商工業の有様であつて、従つて資本の如きも極めて僅少なもので、銘々僅かな資本を持つては手内職をやり、それで満足して居た。今から考へると、あれで能く世の中が間に合つて居たものと驚かれる程である。所がその時代の欧米諸国は如何といふに、英国にせよ、米国にせよ、何れも合本主義である。商工業者の資本を集め、之に新進の学理を応用
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して、大仕掛けに仕事を仕様といふのである。鎖国で押通せるならこれで文句はないが、一旦国を開いて外国と交際するとなると、到底こんな有様では行かぬ。当時に於て私は早くも此事に気付いた。これでは駄目だ、どうにかして日本の商工業を進歩発達せしめねばならぬ。かう云ふ考へが日夜私の脳裡を去らなかつた。然も遺憾なことには維新当時の如き、幕府にも、民間にも、此事に気付く人は一人もなかつたから、外国との交際はさる事ながら、貿易上は実に情けない有様であつた。
  何うしても海外貿易に力を尽さねばならぬ、斯んな考へが当時に於ける有識者の頭に浮んで来ても、さてどうするか、これで行詰りの有様である。欧米諸国の進歩発展は実に驚くの外はない、日本も現状に甘んじて居られぬ、玆に何等かの方法を講じ、先進国の有様に傚はねばならぬ、現状を以てしては日本の前途が寒心に堪へぬ、少しく考へある者は皆一様に斯う考へて居た。所が翻つて日本の状態を見ると資本はない、智識がない、世界の事情は知らぬ、商工業の原理活動、こんなことは知つて居る筈がない。此に於て商工業に関する智識を広め、原理を講究し、活用の法を会得せねばならぬことになつた。其頃東洋に来て居た外国人などは日本人の目から見て驚かれる程の活動をしたもので、迂つかりすると眼玉まで抜かれ相であつた。長崎辺に居る外国人などは豪い活動をしたもので、商工業に幼稚な日本人は彼等のする事、為す事を一々感服して見て居たやうなもの、これが維新前に於ける日本の商工業の実情であつた。斯る状態で海外諸国と対抗しやうなどは思ひも寄らぬ事である。
  於是乎、明治初年には会社を組織して商工業の発達を計らうといふことになつたが、何分にも遽か拵へな為めに巧く行かぬ。一年の内に六種の会社が枕を並べて倒れたといふやうな悲惨事があつた。此頃海外の事情を調査しその結果に依りて何か目星しい事業を企てやう、斯く言はれてその方面に努力されたのは大隈侯である。伊藤公も之に賛成され、又松方侯なども此相談に与つて直接間接之が促進に努められたものである。而して明治三年伊藤公は銀行制度調査の為め米国に赴き彼地に於て鋭意之が研究に当り、私も当時大蔵省に居つて此方面の調査に努力して居たもので、之れが抑々日本に銀行の起る本源となつたのである。時に千八百六十年米国に於ては南北戦争後に行はれた国立銀行制度を研究し、之に依つて日本にも本業を起さうと計画した。これ日本に国立銀行の起れる原因である。
  明治四年米国に行かれた伊藤公が帰国され、当時大蔵省の役人たりし私も幾分か研究の上に都合が好くなつた。然し単に書類の上のみの調査では甚だ心もとない様に感じられたのである。而して伊藤公が帰られると、廟堂にも役人側にも銀行設立の急務を叫ばれ機運が幾分か熱して来た、其頃日本の財政状態を見ると、太政官の紙幣七千万円ばかり発行されて居たが、真に堅実なる財政の基礎を定めるにはどうしても兌換制度にせねばならぬ、少しく心ある者は皆斯く考へて居たのである。然し当時英米諸国と貿易するには貨幣の本位を定めねばならぬ、それには差当り金がよからうと迄になつて居
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たが、支那は銀を用ひて居たので、日本ばかり金にするのは危ない斯う云ふ論もあつたが、支那は支那、日本は日本である。何も支那に傚ふ必要はない。日本にやり得ることならば一歩を進めても差支ない。此説が勢ひを得たので、遂に此事に決定し、同時に兌換制度を布いた。小資本のものは皆合本制度を取つて資本の合同をやる、さうすると小さいものは大きくなり、従つて纏まつた力が出来る。金も増す、斯うなると商工業の発達を計る上にも至極都合がいゝ。総ての議論は玆迄進んで来た。そこで思ひ付いた丈けでも実行しようといふことになつた。その結果、明治四年十二月五日には国立銀行制度の発布を見たのである。
  斯様な次第で兌換制度を採用したものゝ、一年ばかりでそれは失敗に終つてしまふ。金銀の差の激しい日本ではどうしても之が実行は困雖である。真正なる金貨国と交つて行けぬ。そこで又もや種々の議論が起つて来たが、一方金融界の実状を見ると、銀行が追々に用立ち得るやうになつて来た。然し一般の商工業者は、銀行を利用することを知つて居らぬ。利用すると云ふ観念が甚だ薄い、銀行を活用する術も知らなければ、之に依つて利益を挙ぐる法も覚えて居らぬ。大体銀行の何物たる事を知つて居る者さへ、尚ほ尠なからず疑惑の念を抱いて居ると云ふ始末であるから、なかなか一般に利用されない、斯様な次第で、商工業者に銀行の有利なることを知らしめ、且つ活用の法を教ふるには並大抵ならぬ苦労を嘗めた。長い間の忍耐と努力は決して一朝一夕に語ることが出来ぬ程である。明治八・九年頃からは商工業者の銀行に対する観念及び態度が一変するやうになつたが、商工業と銀行とを密着せしむる迄にはなかなか容易なことではなかつた。
  私の仏国から帰つて大蔵省に入り、銀行業に従事したのは明治六年で、之が最近まで関係して居た第一銀行である。外国に於て銀行業に就いて大体の調査を遂げたる為め、帰国してから之を実地に行はうとしても、世間の状態が前申したやうなものであるから之が実行は甚だ困難である。合本主義に依つても世間で此事の利益なることを知る者は甚だ尠い。銀行は自己の資本のみで活動するとなれば活動の範囲も狭く、社会に利益を与へることも甚だ少ない。他の資力を吸収し、之を利用して自己も利益し、他の繁昌を計るといふことになる。玆に始めて銀行存立の意義が存する。銀行は恰も鏡のやうなもので、社会の消長盛衰は一目瞭然之に依つて知ることが出来る、商工業の取引関係の範囲が広く又事業の複雑なるに伴はれ、銀行といふ鏡にうつる影も大きくなり、その働きも詳細に知ることが出来る。国家の発達、国運の進展、事業の隆盛を計るには如何なる事業も決して個人主義では行かぬ。何うしても会社組織である。私は夙に斯く考へて居た。それが為め明治の初年に於ても斯る信念の下に諸会社の組織に奔走もし、尽力もし、自ら経営もした。自分の考へて居ることが次第に図に当ると、私は一層此の感を深うした。王子製紙・大阪紡績・其他諸所に私は会社を組織し、此等の諸方面に活動することになつた。斯様な有様で世の中が進むに連れて会社
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組織が盛んに行はれる。四十余年間私は同一筆法でやつて来た為め一時は四十余の会社に関係することになつた。然し私はこれが為め世間から色々な批評を受け非難を蒙つた。甚しきは誣謗する者さへあつた。今になつて考へて見ると、斯様に多くの会社や銀行に関係したのは私の出過ぎた為めであつたかも知れぬが、私の関係した会社又は銀行が今日何れも立派なものになり、夫れ相当の進歩と慇盛を呈して居る。これが私に取つてせめてもの慰めである。
  私が第一銀行支店を秋田に置いた時には福島・仙台・石ノ巻・盛岡・山形にも夫々支店や、出張所を置いた。これは取りも直さず年来の主義方針を東北地方にも及ぼし度いといふ、私の希望に過ぎなかつた。先づ支店を設けて東北を開発し、これに依つて経済上中央と東北とを連結せしめる。之が為めには唯銀行を置いた丈けでは物足らぬ。今少し密接な関係を付ける必要がある。斯う考へたので東北の米並に糸を中央市場に送ることにした。一面からいふとこの計画を実現せんが為めに支店を置いて幾分か東北との関係を結んだものと見られる。然し何れにしても東北の開発を計る為めにして結果が同一であるから最初の一歩はどうでも好いのである。而して支店が出来上ると私は始めて前申上げた様に東北に来遊したのである。これが明治十五年である。秋田にも無論立寄つた。今から三十有六年の昔、当時と今日と比較して転た感慨の情に堪へぬのである。
  当時秋田の実業界に嶄然頭角を現はして居たのは瀬川安五郎君である。十五年私の来市した時は慥か瀬川氏の令弟井上格兵衛君の邸宅に宿泊したやうに記憶して居る。其頃土崎には菅礼治君が居た。同君にも尠なからず厄介になつた。又町民の歓待に預つたことも未だに私の頭に残つて居る。船川湾を視察した時には船木久治君が案内の労を取られたと思ふ。船川に行つた日は非常な雨で一人で大変な難儀をしたが、道の悪いのは全く閉口だつた。真に泥濘一尺、今日の状態を以ては到底当時を想像されぬ。一応船川を視察し同地に一泊して秋田市に引返したが、二人共見る影もない程汚れ且つ泥付いて居た。その足で私は当時の県令石田英吉君を訪ねた。すると石田君は君の有様は何んだと言ふて驚かれた。そこで今船川まで行つて来たが途中の道路は斯々である。一つ秋田県の道路の悪いことを県令たる君に見せてやらうと思ふてわざわざやつて来たといふと、石田君も苦笑一番し、まア文句は後で聞く、上つて休んで呉れといふので官邸で休憩し、同君と種々の意見を交換した。実際当時秋田土崎間の道路の悪いことは非常なもので、今日なら自働車でも行けるが、三十余年前はどうしてどうしてそんな生やさしいものではなかつた。今朝も私達は自働車で土崎製油所迄行つて来たが、途上、当時を回想して感慨切なるものがあつた。
  瀬川君はその頃、荒川鉱山を経営し傍らその地方の開墾に鋭意され、又農業の試作などをやられて居た。私も招きに応じ荒川鉱山を一覧し、併せて農業地をも視察した。鉱山の為めに人夫長屋が出来る、寺院が建つ、学校が設けられるといふので万般の設備甚だ周到なるに感心したが、当時私は一つの疑念を抱いた。外でもない、力
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と事業がどうも併行せぬやうに思はれたからである。そこで私は卒直に瀬川君にも注意する所あつた、然し荒川鉱山は瀬川君の為めに今日の隆盛を見、附近は次第に開発さるゝに至つたのである。が瀬川君の事業が、不幸にして私の予想に的中し、中道にして失敗し、鉱山は三菱家の経営に移つたと聞いて居る。人の失敗を云為するのは私として甚だ心苦しいが、当時の回想談の一齣として今昔を偲ぶ材料とした丈けである。諸君に於ても左様御承知あつて欲しい。
  世の中の事は決して自分の考へ通りに行くものでないが、相当な時日を経、正しき道を辿り努力怠るところなくんば、必ず成功し得る。秋田市が斯様に面目を改め有らゆる方面に著るしき進歩発達をなしたのも、当地の実業家諸君が長い間奮闘努力を続けた結果で、その労苦は推称に値する。何事も意の如くに行くと世の中には失望落胆、これが為め産を破り身を亡すものはなくなる。が万事は左様都合好く行くものでない。何事も努力が必要である。而して努力も一時的でなく、長い間継続することが必要である。
  東北も今日に於ては各方面に著しい発達を為した、現に発達しつつある。然し現状に満足することは出来ぬ。多くの人は東北は気候が悪い、雪が降る、土地が痩せ天恵に乏しいといふ。而して之を以て東北の発達せざる原因とする。一瞥した所如何にも左様な観がないではない。併し仔細に点検すると、以上の言に当篏まるものと速了することは出来ぬ。現に秋田はどうであらう。気候も余り好くない、雪も多い、土地も肥沃とは申されぬが、天恵には富んで居る。金属鉱山がある。鉱山は枚挙に遑あるまい、石油も出る、近年石油の発達は驚くべき程である。又此方面の調査も行き届いて居る。土地も肥沃と言はれぬが米は相当に出る。養蚕は本場迄行かぬが相当の収益を上げて居る。斯様に秋田は農に工に満足な特点を有つて居る。水力も充分である。これを利用して水力電気を起すなども宜からうと思ふ。
  然し秋田は天恵に富んで居るが、何うも利用の途が充分でない。一例を挙げると鉱山は相当にやつて居るが、県人経営のもの甚だ少なく、多くは他県人の手に帰して居る。私が此事を申した所、毎日新聞社長の中村千代松君はそれは一を知つて二を知らぬ者である。秋田県人は鉱山の経営にも、石油の掘鑿にも、相当の力を致し金も投じた、然し経営の法宜しきを得ざる為めか、又は資金乏しく努力忍耐の足らざる為めか、事業には早く手を出したが、多くは失敗に帰し、今日の如く総ての事業が他県人の手に渡つて居る。それを何も彼も他県人が来てやつたやうに見られては甚だ困るといはれて居る。或は渋沢の観察が過つたのかも知れぬが、然らば秋田県民は何故他県人の手に渡さずに自分で経営しなかつたか。事業家たる者に此位の忍耐と努力がなくて何うする。実際の事業家が努力足らず資産に乏しく之を永続して成功を収める見込みがないとしたならば、県民相寄り、相扶けて其効を挙ぐべきである。若し私の観察が過つて居るにせよ、現在の事実を見ると、私は秋田県人に対して多大の遺憾なきを得ぬ。私は常に事業は正しく堅くなければ行かぬが、こ
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れに相当な智識と、経営の才と、忍耐と勉強が添はぬと、到底成功を収められるものでないと断言して居る。秋田県人の事業に失敗の多くして、成功の少なき、或はこれに基因せぬか。又秋田県人に共同一致の観念乏しきことも、秋田県の進歩発達を阻害したものではあるまいか。以上陳べた五つのことさへ備えて居たならば、如何なる事業も決して成功せぬ筈はない。米国の鋼鉄王と呼ばるゝ、ジヤツジ・ゲリー氏が先年来遊された時、私は実業界の諸問題に対して親しく氏と意見を交換したが、事業に対する経営者・計画者・実際家として考ふべきこと心得べきことは、全く私と同意見であつた。
  東北に関することは、微力ながら私も大いに力を添へたい考へである。中央の有力者と現にこの問題に付て考慮計画中である。東北振興会なども、今後大いに此事に努力する筈ではあるが、東北人に於ても倍旧の奮闘努力あつて欲しい。具体的振興策としては拓殖会社の設置が必要ではあるまいか、或は交通機関の整備を期する。又或は港湾の修築に着手する。此等は東北の振興上、必ず為さゞるへからざる事柄であらう。然し未だ議熟せず機到らざるに、此等の事は申されぬが個人としての考へを陳べると、慥かに以上の施設が必要である。然し東北振興策の根本は、東北人の奮起努力に在ることは言ふ迄もない。東北人にして現状に満足せず、奮然蹶起、不撓不屈の精神を以て有らゆる方面に活動せぬと、中央の有力者が如何に助力するも、到底満足なる効果は挙げられぬのである。
  大久保鉄作君に会つたら、同君が露国と秋田を結び付けんが為め浦塩・船川間の貿易を計らんとして、目下鋭意計画中なりとの話を聞いた。私は洵に結構な事、是非実現されて欲しいと申して置いたが、秋田県人も今後は単に国内のみならず、海外に向つて目を放ち適当な事業があるならば、どしどしこの方面に努力されて欲しいと思ふ。大久保君の計画を聞いて私は尠なからず満足に思つた。然し私は秋田県人の開拓すべき天地は、決して露国のみではあるまいと思ふ。露国可なり、米国可なり、支那大いに可なりである。何時迄も狭い範囲にのみ活動して居ると、人間は何うしても世界を対手にして、一つ大規模の事をやつて見やうなど云ふ心が出なくなる。さうなると向上発展の心が鈍る。これは甚だ宜しくない。自己に何等の修養なく、経験なく、智識なく、力量なくして、無暗に大きな事ばかり考へるのはどうかと思はれるが、それにしても志は大なるを宜しとする、而して手近かな所から始める、この考へが必要であると思ふ。
  日露の関係を一層緊密ならしめる為には、貿易関係のみでは行かぬと思ふ、何うしても銀行が伴ふて行かぬと成功は困難である。日露銀行設立の計画も日本にないことではないが、露国は銀行の設立といふことに対して非常に八釜しい国である。仮りに秋田県人が彼地に銀行を設置しやうとしても、却々の困難である。私も露都にナシヨナル・シチー・バンクの支店を置いたが、手続きの難かしいには全く驚いた。聞けば莫斯科商工銀行頭取コンシン氏が、日露銀行設立計画の為めに来朝されるさうであるから、或は私が東北の視察
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を了へて東京に帰ると、氏と会見されるかも知れぬ。我が朝野にも設立の必要あることを認めて居るから、或ひは何うにか話の纏まらぬこともあるまいと思ふ。
  最後に一言したい事は、秋田県人に今一層の勇気と忍耐とあつて欲しい事である。或る事業を計画する、中道にして廃止する。之丈けでは歴史として例へ有効なるも事実として何等の価値がない。秋田には事業家も多く、事業に着手された方も尠くないと聞いては居るが、然らば現在に於て成功者幾人あるかと言ふに洵に僅少なものである。これでは甚だ遺憾である。他県人を歓迎し、事業を起さしむることは必要であるが、県人自ら惰眠に耽つて居たでは、秋田の開発を有意義たらしむることは出来ない。己れ先づ起ち、力及ばざる時は共同一致之に当る。斯くして事業の成功を収めて欲しい。
  三十五年前罷り出た渋沢には、秋田は思も寄らぬ大なる活躍を示して居ることを心から嬉しく思ふ。然し今日でも何も彼も満足とは申されぬ。辻兵吉君は遊金はあるが、放資に苦しむと言はれた。これは大いに考ふべきことである。私を以て卒直に言はしむれば、此の如き言を為すのは、秋田の実業家に欠くる所あるを証明するものである。遊金に苦しむとは、或は秋田でなければ聞くことの出来ぬ言葉かも知れぬ。私の見るところでは秋田は開発すべき範囲も広く起すべき事業も沢山あるやうに思はれる。辻君の如き富豪が先駆となつてこの方面の調査に着手し、確実なるもの、成功を期し得るものにはドシドシ投資して戴きたいものである。
  私は前年、実業界との関係を断ち、今は社会の表面に立つて活動することがないから、斯様な事を申して他人に難きを強ふるものではない。欧洲の大乱は何時終熄するか、私には予想も出来ぬが、今日は決して油断すべき時ではない。戦後の経営と云ふことには、国民は夫れ相当の準備を為すことが必要である。戦乱の結果は今日ヨリ以上、注意を要することゝ信ずる。大変動が来ぬとは申されぬ。戦乱の影響を受けて日本の経済界は非常な好況を呈し、正貨が十億を突破したとさへ伝へられて居るが、得意の時は退一歩、大いに心を緊張せしめ、一大覚悟を以て戦後の経営に努力するの決心がなければならぬ。戦乱に依つて巨万の富を博した人達は、酒色に沈淪し有らゆる贅沢を尽して満足されて居る様であるが、これなどは余程考ふべきことであらうと思ふ。目前の事のみ考へ国家百年の大計を忘れてはならぬ。油断は何れの時に於ても禁物であるが、今日に於て殊に此感を深くするものである。
 堂々一時間余に亘りて説き来り、説き去り千余の聴衆只水を打てる如くなりき ○中略
 午後六時半倶楽部本館に於て官民合同歓迎会の催あり。先生は令夫人と共に之に列せられ、日下・八十島・大久保・荒木の諸氏と共に列席したり。
 川口知事の挨拶に対し、青淵先生は起つて先づ歓待を深謝し、語を転じて昨年実業界を隠退したれば、直接関係はなきも、風流逸楽を学ぶの意なく、余命のあらん限り経済と道徳の合致、資本と労働の調和
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其他或は感化・救済に、或は其他の社会公共事業に努力する覚悟なりと述べられ、又東北振興の如きに対しても最善の努力をなし、以て国家に裨補する処あらんことを期すとの意味を以て結ばれ、之にて宴に移り、酒中名物秋田音頭の余興あり、やがて知事の発声にて青淵先生の万歳を三唱し、次で青淵先生の音頭にて一同の万歳を三唱し散会したるが、更に別館に於て知事其他有志の招待会ありて、帰宿せられたるは午後九時過ぎなりき ○中略
 十月十七日は雨の裡に明けたり。先生には午前九時過ぎ宿を出で秋田銀行に赴かれ、階上広間に於て行員一同に対し訓話をせられ、それより自働車を飛ばして停車場に向はる ○中略
      十二 青森まで
○中略 弘前市に入れば多数有志の迎送あり。予て先生の来市を懇請せられたるも、如何にしても時間の都合つかざるより、先生は遺憾ながら之を謝絶せられたるが、今此駅を通過するに当りかく多数の態々送迎せらるゝを見て、特にプラツトホームに降り立たれ
  今回東北巡遊に際し御当地に於ては、特に私の立寄を御希望の趣にて県庁よりも御紙面もあり、又昨日は態々御地より秋田まで代表者が御訪ねになりまして親しく御話もありましたが、実は御当地は未見の処故親しく皆様にお目にかゝりたく存じまするが、今回は日程の都合上御希望に副ふことの出来んのは私に於ても遺憾とする次第であります、決して御当地を疎外したる訳でありませんから御了承を願ひたいと思ひます。
と丁寧に挨拶せられて乗車し、更に車窓に乗出して
  御当地は初てですが中々広ろ広ろとした田地が続いて居ますね……養蚕は如何ですか
と問はれ、養蚕は甚だ幼稚なりとの答ありしに
  養蚕は奨励しなくちや可けませんよ
 と大いに養蚕の奨励を説かるゝ内、汽車は駅を離れたるが、青森より樋口商業会議所会頭・北山県会議長・石黒市助役等態々出迎へられ又三本木渋沢農場長金子熊一氏は、三本木開墾会社社長大島勝三・同社取締役川島新兵衛両氏と共に特に同駅に出張出迎へられ、皆共に乗車青森に向はれたり。
○下略
   ○長岡六十九銀行新築落成式ニ於ケル講演ハ本資料第五十巻所収「六十九銀行」ニ収ム。
    尚、修養団関係ノ左記講演ハ第四十三巻所収「財団法人修養団」大正六年十月七日ノ条ニ収ム。
     長岡中学ニ於ケル同団長岡支部講演会
     福島県耶麻郡喜多方町喜多方高等小学校ニ於ケル同団喜多方支部講演会
     福島県田村郡郡山町子守小学校講演会


竜門雑誌 第三五五号・第三九―六九頁 大正六年一二月 青淵先生北越及奥羽旅行(下) 随行員 白石喜太郎記(DK560059k-0002)
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竜門雑誌  第三五五号・第三九―六九頁 大正六年一二月
    青淵先生北越及奥羽旅行(下)
                  随行員 白石喜太郎記
      十三 青森
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 此夜青森市公会堂に於て官民合同の歓迎会あり。一行は午後六時稍過る頃、之に列せん為め旅館中島を立ち出でぬ ○中略
 先生には会場に到り、発起人等の出迎の裡に階下休憩室に入り、小憩せられ、又知事其他と挨拶を交換せられたる後、階上大広間なる宴会場に入られたるが、三百に近き会衆は既に卓につきて粛然たり。かくて先生・令夫人其他一行の席につくと共に宴は開かれたるが、東京出発以来始めての洋式宴会なりき ○中略
 談笑の声も稍少く、煙草の煙悠く立昇る頃、川村知事は起つて歓迎の辞を述べ、先生之に対して謝辞を述べられたり。即ち
  今回の旅行は初めから東北地方を巡回する積ではありませんでした。実は私が古くから世話をしました六十九銀行本店の新築が出来まして、其落成式が去七日に挙行せられましたから、之に列席する為め新潟県に赴くことになりました。ところが此の席にも見えて居ります日下君が、福島県知事であつた時代に尽力せられました岩越鉄道が先年全通して、是非其試乗をして見よとの話でありましたので、往時を偲ぶも亦一興かと応諾しました。それで若松まで乗り、更に一奮発しまして東北を巡回することゝ致しまして予定を引き延ばしました次第であります。
と前提して本論に入り、先づ明治初年野に下り、第一銀行を経営せられたることより、更に進みて其関係より東北地方に対し常に配意せられたることに及び
  東北地方の不振に関しては夙に注目して居りました。これでは国家をして不具の状態にあらしむるに等しい、どうかして東北の振興を計らねばならぬと思ひました。之れが方法としては何がよからうかと考へまして、金融と交通の両機関に目をつけました。交通機関と申しましても鉄道ではありませぬ。港湾のことで、先づ野蒜築港を計画し、和蘭人をして之に当らしめましたけれども、之は全然失敗に帰しました。一方金融機関に付ては自分の経営して居りました第一銀行の支店を仙台・盛岡・秋田等に設置しまして、地方の金融疎通に対し聊かつくしました。其後地方の銀行業も漸く進んで参りましたから此等の支店を引上げ、夫々土地の銀行をして事務を継承せしめました。
  右の通り古くから東北振興と云ふことは私の念頭を去らぬ問題でありましたが、大正二年に到つて之に関する一つの会を組織することが出来ました。
 とて夫より東北振興会の事に及び、同会は会員六十余名に過ぎざるも、何れも有力なる人々にして会の事業に関して相当の出資をなし得るものを網羅し居れりと述べられ、更に
  東北地方は天恵薄しと申しますけれども、天恵の薄いと云はるゝ地方に発展して居る例は尠くありませぬ。要は其土地の人々の努力如何にあります。如何に東北地方が寒気酷烈なりと申しましても、為やうと思へば、雪中で結構出来る仕事があります。夫は兎に角、奮発の足らぬ一例として養蚕を掲げたいと思ひます。由来東北は養蚕が最適当して居ると云はれて居るに拘らず、其発達意外に遅々と
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して、却つて愛知・静岡の如き後進の地方が之を凌駕するの盛況にあるは遺憾千万で、之は東北の諸君の努力の足らぬからと申しても過言ではないと信じます。
とて敢為と勤勉とを力説せられ、終に
  今回の行によりて親しく諸君と意見を交換し得るところが多いことゝ信じます。諸君の希望せらるゝところに対しては相当に尽力を辞せない積りであります。
と結ばれたり。
○中略
明くれば十月十八日なり ○中略
 かくて午前十時宿を出で講演のため青森市公会堂に赴かる ○中略
 先生は公会堂に着るゝや直ちに講演会場に入られ、川村知事の紹介によりて壇に上り、大要左の如き講演をせられたり。
  御当地に参りましたのは明治四十一年で、同年北海道へ往復致しました際通過しましたのみでありますが、かく多数の諸君と一堂に会することを得ましたのは今回が始めてであります。今回は駈足の旅行で、一県一泊位の予定を以て東北六県を巡回致す次第であります。先づ福島から山形・秋田を経て昨日御当地に参りましたのであります、此度参りましたのは予て同志と共に組織致して居ります東北振興会の為めで、親しく各県の諸君に御目にかゝり、其意のあるところを承つて振興の一助にもしたいと考へた為めであります。東北振興会と申しますのは大正二年より京浜の有志六十名と談合して組織しましたもので、私は世話焼の地位に居りますが、微力事功を挙ぐること甚だ尠きを思ひ慚愧に堪へませぬ。それで或向では解散したらばとの意見もありますが私は猶引続き持続するのみでなく、些かなりとも其の地歩を進め地方に対して効果を挙げたいと期して止まないのであります。此春三越に開きました名産品評会の企ては一つの試験に過ぎませぬので、未だ満足の結果は得ませぬけれども山形・秋田の諸君から聞きましたところでは、当業者を啓発したこと多大で地方工業を大に刺戟したと云ふことで、大分讚辞を頂戴しました。当県下でも恐らくは御同様のことゝ存じます。此等は敢て振興会の主要な事業とは思ひませぬけれども、又一方法として続行する必要があらうと思ひます。
  かくは申ますものゝ、振興会で如何程骨を折りましても振興の実の挙るものでありませぬ。東北の振興は諸君の問題で、諸君にして努力しなければ何にもならないのでございます。天は自ら助くる者を助くとは千古の格言で、自ら助け自ら努力して、始めて天与の幸福を享くることが出来るので、棚から牡丹餅の落ちるのをまつても夫は無駄であります。
  さて青森県の産業に付て考へて見まするに、東北六県の中でも下位に在ります。故に之ではならぬと諸君の発奮を促すは当然で、私の愛国の熱誠に出づる次第であります。まだ進歩の遅い地方に対し同情を持つは人情の常でありまして、残念と思へばこそ色々と法立てをしましたが、之れが所謂いらぬ御世話で、諸君が青森県の進歩
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に付ては他の力を要せずと云はるゝならば喜んで手を引きます。
  当県が他府県に比して天恵に乏しく、又冬季に気候の寒冷であると云ふことは事実であります。然し田畑を御覧なさい、原野を御覧なさい、山林を御覧なさい、更に又河・海を御覧なさい。奮発努力の如何によつては産業を進歩せしむる余地なしと云へませうか。漫りに天恵の乏しきを理由として努力を惜むを許しませぬ。気候の寒冷なのは事実であります、然し寒冷の国必ずしも発達せずとは云はれませぬ。寒冷の国で隆々発達して居るものも少しとしませぬ。忌憚なく申しますと、当県の産業の振はざるは諸君の奮発、努力が足らぬ為であらうと思ひます、敢て忠言を呈します。
  昨日弘前市の伊東氏から資力・体力・脳力の三力に対する主張を聞きましたが私も同感であります、之を一国に付て見ましても同様で、陸海軍に偏せず、政治・法律に偏せず、百事案配宜しきを得て富強たり得るのでございます。明治維新の当時の日本の政策は政治法律・軍事に偏し、実業は非常に疎外せられました。唯一意政治家を造るに忙しかつたのであります。私は政治家必ずしも排しはしませぬ、只利己一天張の政治家が嫌であります。又朝に政友会、夕に憲政会と云ふ様な無主義・無節操の似而非政治家が嫌であります。
  夫は兎に角前に申上げました通り、実業は非常に軽んぜられ、其教育機関すらも甚しく不充分でありました。然るに自然の機運が漸次に勃興して参りまして、商業亦進歩し、明治十九年には不換紙幣が兌換紙幣となり、商業の基礎確立し、又海運は発達して諸航路開け、運輸交通の進歩と共に商工業は一段の進展をし、国家の脳力、体力相応じて進み、かくて普通の健康体となつたのであります。
  一体、一国の発展進歩と云ふことに付て考へて見ますと、都会と地方と相倚り、相助けると云ふことは最も必要で、殊に地方経済に重きを置きたいと思ひますのは、地方に於ては学術の普及及応用少なく、進歩の度合鈍きを免れぬからであります。都会が如何に発達しましても、地方が萎薇振はぬに於ては健全なる発達とは申されませぬ、両者の権衡宜しきを得てこそ始めて健全を期し得るのであります。地方に力があつてこそ一国の力があるので、一国の富強を望むならば先づ地方の産業を興隆せしめねばなりませぬ。私は明治三十五年に二度目に渡欧し、英国のエヂンバラ、グラスゴー、マンチエスター等地方小都会の健全なる発達を見て、倫敦の富は之が為めなりと感じました。又此等の小都会のみならず、之に接する諸部落何れも到る所に煙突あり、到る所に事業ありで実に三嘆しました、米国には明治三十五年、同四十二年、大正四年の三回渡航致しましたが、国内諸地方へ参りまして、何れの地方の人もが都会の人と一歩も譲らぬ見識を持つた立派な人の多いのに感心しました。之が米国今日の隆運の源泉であらうと思ひます。要するに、真正の富国は都会にのみまつべきものでなく、地方を完全ならしめねばなりませぬ。而して地方を発展せしむるものは其地方の方々であります、青森県を進歩せしむるものは即ち諸君であります。私が玆に諸君に向つて努力せよ勉励せよと大声疾呼するは之が為めで、我帝国の富強
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を念ずるからであります。諸君に於ても此の点を自覚せられて、大に敢為の気象を養ひ、智識を求め、勤勉、忍耐以て地方の進展を計られたいのであります。
 淳々一時間余、所論壮大にして気力また雄健、渾身の熱情迸るところ舌端火を吐き、満腔の至誠溢るゝ処正に懦夫をして立たしむるものあり、只憾むらくは之を写して以て伝ふの力なきを。
 次で吉池氏起つて一場の演説をなし、午前十一時半散会したるが、先生には直ちに停車場に赴かれ、令夫人の来着をまちて構内海陸連絡待合所に於て午餐を認められ、午後一時発の汽車に搭じて盛岡に向はれぬ。
○中略
      十四 盛岡
 かくて一戸駅につけば盛岡より多数の出迎へあり、車中談又新たにして賑はしく、午後五時三十七分予定の通り盛岡に着きたるが、同市に於ける先生の御動静は巌手日報によりて詳細報導せられたれば、之を左に転載することゝしたり。
 ○中略 一昨十八日午後五時三十七分盛岡駅着下り列車で在野の偉人渋沢男は無事来着せられたのを見て、胸を撫下した。之より先き貴族院議員大矢馬太郎・佐藤高等農林学校長・盛岡銀行頭取金田一勝定同重役太田小二郎・同常務取締役太田惣六・藤田勧業課長・中村省三の諸氏は一戸駅迄出迎へ、車中談笑の裡、男爵は盛岡駅頭の人となられた。停車場には大津知事を初め百名近くの官民が御出迎へ、後方の一等車から令夫人と共に下車せられた渋沢男爵は「有難う御座います」と一々丁寧な御挨拶、溢るゝやうなお愛嬌。
  渋沢男爵は稍厚手のフロツクコートに黒の勝つた鼠地のインバネスを纏ひ、山高帽子と云ふ扮装、薄空色のお召姿の令夫人と並んで馬車に乗られた。之れに向ひ合つて大津知事が同乗せられる、知事さんは東北振興の要務で前々からのお馴染との事、男爵は「オー寒い」と言ひ乍ら白絹の布を頸に巻かれた ○中略 金田一氏別邸で旅装を解く間もあらばこそ、渋沢男爵並に令夫人其他の面々は急いで秀清閣の歓迎会に臨まれた、時に夜は今や八時で官民百二十名近くは已に待ち設けて居た。黒紋付の和装に更められた男爵を初め一行が着席せられると、同閣の階下に設けられた余興場が開かれた ○中略 之れが了ると階上で宴会が初まる。大津知事の挨拶に対して男爵は左の如き謝辞を述べられた。
  知事閣下並に満場の諸君、私初め一行の者が当市にお邪魔に出ましたに対し斯の如き盛大なる歓迎会をお開き下さいましたるは感謝に堪へない次第であります、殊に只今は知事閣下より私共の振興会に就き御懇切なる御讚辞がありましたが、未だ語るに足るべき効果を有して居りませんから却つて恐縮の至りであります。私は明治十一年以来当市に足を停むる事今度で五回、島県令時代からの此の秀清閣も深い思出の種であります、今回は越後に先約がありまして長岡・新潟の友人を訪ねる予定でありましたが、私は岩越線には可成の関係を有して居り乍ら未だ一度も開通以来通過した事がありませ
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んので、其の地方の人々の奨めに由りて岩越線を通つて、福島県の郡山に出る事としましたが、郡山に出た以上、後五六日を費して東北を廻つて見度いと云ふ希望が湧いたのであります、私共の東北振興会は御承知の如く大正二年、東京・大阪・横浜等の財界に勢力を有して居る人々五十余名が申合せたもので、八人の委員を挙げて居ります、私も其の委員の一人でありますが、旅行前是等の人々と会合しまして、郡山から後四五日を割いて東北を巡遊し、何か我々の事業に得る処があらう。有志諸君と会見して、私共の意見を語つたり、有志諸君の希望を聞いたりする中に又何か適当なる方法も案出し得らるゝ事であらうといふ処から、玆にお邪魔に出たやうな訳であります。振興会は成立以来四・五年の歳月を経過して居りますが未だ何等見るべき効果を挙げて居りません。乍併奥羽地方の振興策は一朝一夕にして完成を見得るものでないのでありますから、強ち私共の怠慢とは云はれないかとも考へるのであります。東北地方は物質的精神的に於て不利な地位に立つて居ります、併し之れは東北の不利のみではない。国家の不利であります。気候其他天然の関係もありますが、東北人士の努力と云ふ事も考へねばなりませぬ。勿論奥州は維新当時頗る不利の地位に立つた関係もありませうが、陸運の便も容易に開けず、確かに関西地方に一歩後れる事になり、又海運の便も今以て完全とは申されない、乍併諸君の努力に待つ処が多いのであります。諸君の努力如何によつて短い期間の間に後れを取り返へす事が出来ると思ふのであります。之れが振興会一同の希望であります。殊に私は明治十一年以来の深い縁故を持つて居る関係上、会員中にてもより一層深く之れを思ふのであります。振興会の効果は薄いが、思は深いと考へます。殊に今夕の如きは如斯き御同情を得まして、之れを効果に比し却つて汗顔の至りでありますが今後は一層関係を濃厚にして努力し度いと思ひます。私は四十三年間実業家に身を投じ昨年七十七歳の頽齢を迎へ、断然私の事業関係と絶縁する事に致しました。けれども花鳥閑月を侶とし、又は書画骨董を弄びて余生を送ることは私には出来ぬ処であります、況んや今日の風雲は国家非常の時であります、例令自己一身の収支計算に基く事業と絶縁することは出来ても、国家を思ふの情を辞する事は断じて出来ませぬ。故に余生は出来得る限り一般の共利公益に尽さんと思ひます、老衰の残生が役には立ちますまいが、振興事業に就いては今後も引続いて微力を致す所存であります、諸君も願はくばお気付のことをお話し願度いと思ひます、之れは東北振興会員一同に代つて申上げる次第であります。最後に更めて今夕御丁寧なる御待遇を受けし事を厚く御礼申上げます云々。
  かくて官民合同の歓迎会、不夜城の観ある秀清閣から、渋沢男爵夫妻の帰館されたのは午後十時 ○中略
  昨朝のお眼醒めは六時半頃 ○中略 斯て記念撮影が済み、男爵は知事の先導で盛岡中学校に講演すべく出かけた(以上巌手日報所載)
 かくて先生には盛岡中学校に赴かれ、校長の案内にて校内を一応参観し、講堂に到り知事の紹介により壇に立たれ、中等学校学生の為め
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に大要左の演説をせられたり。
 ○中略 さてこゝに申上げたいと思ひますのは東北六県の振興と云ふことであります、尤も諸君の内には他県の方も居らるゝことではありませうが、多くは当県又は附近の方であらうと思ひますから、之を諸君の問題として申上げても甚しい間違はないと存じます、諸君は追々世に立つて働くべき方々であります。有力なる次の時代を形成すべき方々であります。その諸君に向つて御話すると云ふことは意義のあることゝ思ひます。さればとて年老つた人は駄目であると云ふ訳ではない、老人も大にやるが、今のことばかり云ふてはならぬ我日本は永久に栄えねばならぬ、それには諸君の奮励を願はねばならぬのであります。一体祖先のことを其儘に承継する様では其国家は亡ぶのであります。先輩のなしたる以上になる覚悟でなくては国家は興隆しないのであります。殊に東北の完全なる責任をもつは諸君でありとすれば、之に対し私の意見を申すは無駄ではありますまい、元来東北振興についての要件の主なるものは人であります、振興策が如何に立派に考へられても、之を行ふ人がなければ何にもなりませぬ、学問も知識も又勉強も必要であります、然し人がなければ皆其用をしませぬ、帰する処は人にあり、実に千古不磨の金言であります。何卒東北の振興は諸君の責任なりと心記し、学問をし、又修養を怠らず、大勇を以て振興を計られたいと希望します。尚女性の方も見受けまするが、私は東京で女子の教育には大分関係をしましたので少しく意見を申して見たいと思ひます。一体日本の女子教育は程度が低うございます、男尊女卑は我国の通弊でありますが教育についても其通り、女子に学問を授けると云ふことは罪悪の様に云ふたものであります。貝原益軒の女大学には女徳をよく説いてあります、之を失ふてはなりません。然し更に進取的の考へがなくては尚不足であります。女子は生産経済はせぬ。消費経済を司る、内政を治めるが女子の務めであると云ふ、之も悪くはありませぬが只引込思案で徒らに男子の背後に隠れて手足纏ひとなるのは嘆かはしい次第であります。かくては日本の人口六千万人と見、其半数を女子と見て、之が全部男の附属物であつたならば三千万人しかないと同様になり、由々しき大事であります。極端に走つて所謂新しい女などになられてはこれも甚だ困りますが、智識も進められ又徳も修められ、大正の御代の女子として恥しからぬ様になつて頂きたいのであります。
 かくて之を辞し車を連て桜紅葉とポプラの並木美しき間を過ぎて高等農林学校に到りて之を視察し、転じて盛岡銀行に赴き行員に対し訓言を与へられ、更に又県物産館に到り知事の先導にて県物産を観覧せられたる後、一般公衆に対し講演せらるゝため階上に赴かれたり ○中略
 先生には休憩室に少憩の後、講演会場に入られ、大津知事の紹介によりて登壇、講演せられたるが、其要旨を記せば左の如し。
  玆に諸君に対し愚見を開陳し得る事は私の最も光栄とする所であります。私は明治十一年以来、同十五年、同二十八年、同四十三年の四回御当地に参りましたのであります。それ故御当地とは比較的
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親しみがあります。私の参ります度毎に面目を一新して居り、常に著しき発達の経路にあるのを見まして愉快に堪へぬ次第であります
  昨夜は官民諸君の御歓待を受け、今日は又半日を以て市中を見物させて頂き、文物・風度を一瞥することの出来たのは重ね重ね欣快とするところであります。
  さて私が口を開きますと、我邦経済界の変遷を述べますので、又かと思はれるかも知れませぬが、順序として私の記憶を辿つて其沿革を述べまして進んで当県産業の振興を論じて見たいと思ひます。五十年の歳月は決して短いものではありませぬ。日本の今日あるは其間の変遷、曲折の結果でありまして、決して偶然ではありませぬ若し此の間に一歩を誤れば或は救ふべからざる悲境に陥つて居たかも知れませぬ。私は回顧して熟々我邦の幸運であつたことを思はざるを得ないのであります。
  明治維新の大改革は政治的でありまして、外国関係及び帝室の御関係から発程しました。而して其中心は薩長二藩で、尊王攘夷の旗幟の下に討幕を断行したのであります。当時の幕府の態度は敢て全然軟弱であつた訳ではありませぬ。然し一体が事勿れ主義で、僅かに瀰縫して糊塗しようと致しましたが為め、遂に大破綻を来したのであります。明治維新は実現したのであります。そして炳かに開国の主義を採用せられました。此事は後来我国の進化発展の基礎をなしましたので、最幸福ではありましたが、前に討幕の口実に鎖国攘夷を高唱したるに徴して甚しき矛盾を感じます。そしてこれは何所にもあることでありますが、明治政府では文治主義と武断主義とが併立したのであります。此二主義の暗闘が明治七年又は十年の動乱を惹起し、憲法発布迄紛糾混乱絶ゆる間がなかつたのであります。然し此間文治主義が勢力を得て参りましたし、又武断主義の人々も海外の趨勢に鑑みて経済力の充実が必要であると云ふことに気がついたのであります。
  私は明治二年から同六年迄大蔵省に居りまして、伊藤・大隈・井上諸氏に歴仕し、大蔵少輔即ち唯今の次官と云ふ位置につきまして大蔵省の事務は大抵取扱ひましたが、其後直接に経済方面につくすことを必要と感じましたので、明治六年野に下り第一銀行の経営に任ずることゝなりました。 ○中略
  さて東北地方の状態を観察して見まするに、我国の一般の進歩に対し数歩を遅れて居ると云ふても差支はないと信じます。これは天然の関係もありますが、尚外に原因があることを看過することは出来ませぬ。此原因は二方面より挙げることが出来ます、即ち一つは明治維新の敗戦に由つて非常な不利の地位に立ち、海陸運輸に不便を極めたことで、他の一つは東北人が一体に因循姑息であり退嬰的であることであります。刻苦勉励の気象を欠くことであります。此大欠点を有する以上、産業の不振も実に已むを得ぬではありませぬか。東北六県の中でも青森県と当県とは、最も不振の状態にあります。当県は鉱山業は相当殷ではありますけれども、之とて殆んど他府県人の経営ではありませぬか。九州の如きは決して左様ではあり
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ませぬ、三井・三菱の入込むと共に安川・中野・貝塚等の土着の人人も炭礦経営に従事して居ります。之即ち東北人の敢為の気象の欠乏、勉強心の不足を証拠立てるものであらうと信じます。私が此の通り声を嗄らし汗を流して苦言を呈する所以は、深く東北の振興を期し、我国の隆昌を念ずるからであります。
 説き去り説き来つて音吐朗々、気魄雄健、鼓舞激励せられたる聴衆の眉宇に決心奮起の色浮ぶ。中に特に目立ちて見えしは四・五の外人の熱心に先生の所論にきゝほれたると、産業熱心の大津知事が如何にも我意を得たりと云ふ如く、愉快其物と云ふ顔色なりしことなり。
 かくて之を辞し秀清軒に赴かれ、令夫人の来着を待ちて銀行団の招待午餐会に列せられたり。
○中略
 午後一時之を出で停車場に赴き、多数の見送りの裡に午後一時十五分盛岡を発す ○中略
      十五 仙台へ
 盛岡を後にする頃より天次第に曇り始めしが雨降るに至らず ○中略 小牛田につけば渋沢敬三氏あり、仙台より態々出迎へられたるなり。河北新報記者亦同じく此処より乗込みて先生の意見をたゝきたるが、其際聞き得たる処なりとて同紙の報ずる処を掲げんに
 『仙台には明治十一年以来数回足を入れたることあり、旁々浅からざる縁故を有せり ○中略尚ほ東北人の通弊とも称すべきは富豪或は素封家と称するものに地方の事を真に憂慮すべき向少なく、高利貸的の根性を持つて我利を図るに汲々たる所謂ダニ的富豪のみが多きこと、及び一般に勤勉の精神に欠くること等是なり、すべての事業進歩せず、農業方面にこれを見れば大崎耕土の如き肥沃の田面を連ねつゝも米も主産地として富を致す能はず、鉱業・生産工業等幾多の事業はあつても依然として不振の状態を脱せざるは、畢竟するに勉強の足らざる一事に起因すといふも過言にあらざるべく、横断鉄道が完成して塩釜築港が出来、東北開発上従来最も不便とせる交通機関の設備は着々として実現を見るとも、これを利用する人に勉強心なくんば何等の効果を致すものにはあらず、これを要するに東北の振興は何かといへば只だ一の「人」是あるのみといふに帰す』云々
      十六 仙台
かくて午後六時十二分仙台につき、浜田県知事其他官民の盛なる出迎を受けて停車場を後にし、腕車を連ねて旅館針久に向ふ ○中略
 県会議事堂に到れば、日下・吉池・大久保・荒木の諸氏既に来着して先生を待ち受けられたり。先生には直ちに休憩室に入られ、知事と挨拶を交換せられ、其先導にて階上講演場に赴かれ、直に壇に立つて大要左の如き講演をせられたり。
  私は明治六年以来今日に至る四十余年間、銀行者として其事務に従事して来たのでありますから、斯く壇上に立つて「諸君」と呼ぶが如きは、私自身にとつて相応はしからぬばかりでなく、世間亦之を好まぬことかと思ひます。私は固より政治とか学術とかに付て何等深い智識を有つて居るでもなし、又意見を有つて居る訳でもあり
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ませんが、商売人が公衆の前に自分の意見を述べることが出来ぬと云ふことは残念だと思つて、従来機会のある毎に所感を披瀝して、一般の参考に資して来たのであります。斯る次第でありますから、今こゝに申上げることも学術又は政治に亘ることは出来ませぬ、然し経済方面のことに付ては、経験により或は学理によつて得たところが無いでもありませんから、其の既往を舒べ、将来を察することは出来やうと存じます、又此方面の事は学者・政治家に一任して置けるものでもありませんから、実際家として此方面に関する所感を述べて見ようと思ひます。殊に当県を主として御話をして見たいと思ひます。順序として二つの段階に分ちますると一つは仙台若くは宮城県と私との関係乃至其沿革で、他の一つは東北振興に関する事柄であります。
  由来東北六県の事柄は日に月に進歩して居るとは申しながら、之れを日本全体に比較しますると残念ながら不振なりと云はねばなりませぬ。振はざるが故に之を振はしめざるべからずとは何人も等しく唱ふるところで、私共東京其他の同志者が集つて東北振興会を企てましたのも之が為めであります、時は大正二年で、山本内閣時代東北出身なる原敬氏の内務大臣時代でありました。当県は東北六県の中では首位に居りますし、仙台市は六県の都市中での重鎮と申して差支はありませんが、決して現状を以て満足して居る筈はございません。更に一段振興せしめねばならぬと云ふ強い観念のあることを信じて疑ひませぬ。東北振興は私が申上るまでもなく、既に諸君自ら大に考究すべき問題で、若し諸君自ら之を考究せず、又之に関する意見を述べずとすれば、之実に自ら卑うするものと申しても敢て誣言と云ふことは出来ないと信じます○中略 元来当県には完全な港のあると云ふことが最も大切で、此点よりして明治初年に野蒜築港を主張しました。然しその計画宜しきを得なかつた為めに遂に廃止となりましたが、これは仙台にとつて実に千載の憾みと云はねばなりませぬ。若し当時此計画が成功して居りましたならば、恐らくは学都を以て誇るが如き有様ではありますまい、必ずや貨物集散地として重要の地位を占めて居たに相違ございませぬ。この様な訳で東北振興と云ふことについては心配をして居つたのであります。
  東北といへども年と共に発展しまして、野蒜築港成らずとも他の海運の便利あり、又鉄道の開通も見ましたので、其当時のことを思返しまして今昔の感に耐へぬ次第であります。然し其度合を他国と比較して見ますると猶ほ甚だ物足らぬ感じがいたします。私は曾て三回渡米しましたが、その度毎に変化の著るしいのに驚きました、殊にシヤトル、タコマ、サンフランシスコ等駸々として進んで居ります。米国の非常に進歩しまするのは、漸次に富が増加して来たからであります。其有様を以て東北六県と比較して見ますると、東北は其間何をして居たのか、奥羽の人間は皆昼寝をして居たのではないかと怪まるゝのであります。
  大正三年時局勃発以来東京・大阪その他関西・九州に於ては実に長足の進歩を遂げて居るのであります。然るに東北は依然として事
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業上の好影響は殆んどこれを受けずと申しても不可なき有様であるのは、如何したものであるか。かく申せばとて東北に事業がないのではない、然し其事業は何れも他地方人の占領する処となつて、東北人自ら関係するものは甚だ尠いのであります。例へば福島県に於ける猪苗代水力電気・化学工業・亜鉛精錬所等皆東京人の経営でありまして、秋田県の石油及鉱山何れも他地方人の経営であります。以上申し上げましたとほり、戦乱突発以来大に発展すべき事業も他地方人の為めに占領せられましたのは、畢竟東北人に発展すべき根底を欠いたが為めであります。
  経済に境界なしとは云ふものゝ、東北人自身の事業のないと云ふことは余り自慢の出来ることでもありませぬ。事物の進歩は第一に土地に天恵あるを要し、第二に地の利を得ねばなりません。然し其上に肝要なのは人に在りと申上げたい。凡て敢為・勤勉・豪毅・忍耐これ等諸々の美徳さへあらば、総て何事か成らざるものあらんやであります。何卒御奮励ある様祈ります。
 聴衆約一千、一言一句をも漏らすまじと鳴りを静める。かくて之を辞し、弥生軒に赴き、官民聯合招待会に列せられぬ。やがてデザートコースに入るや浜田知事発起人を代表して歓迎の辞を述べ、先生之に対し起つて、先づ
  馬上少年過  世平白髪多
  残躯天所赦  不楽是如何
と政宗の詩を誦し、其晩年に同情を寄せられ、転じて先生の今後の決意に及び
  私も亦既に七十七歳を過ぎましたから、後進の途を開く意味に於て実業界を引退し、余生を楽しむことゝ決心しました。惟ふに我国の富力は発展しては参りましたけれども、一面国民道徳が之に伴はぬ憾みがあります。富をなすにしても真正の富をなさねばなりませぬ。此点は私の平生の持論として高唱して参りましたところであります、此様なことから高等商業学校の講師となりました次第であります。而して社会の進歩するに従ひ落伍者を生じ悲惨なる生活に陥りつゝあるものがあります、此等の落伍者を保護することは富者の義務で、又人道上より見て当然なさざるべからざるところであります。此意味に於て老後の事業として、此の窮民救助に関する考究をして見たいと思ふて居ります。若し富者が利子に依りて生活し、地主が小作人によりてのみ生活するに止まらば、如何でありましようか。此様な富者は真正の富者とは申せませぬ。私は又資本と労働との関係に付ても考究して見たいと思つて居ります。此問題は近来欧米では余程六かしいことゝして研究せられて居りますが、日本も早晩此種の難問題に逢着するに相違ありません。実業界を引退した私は資本家ではありませぬ、又労働者でもありませぬ。で此中間に立つて冷静なる考慮を費して見たいと考へて居る次第であります。
 と述べて謝辞に代へられ、次で武田県会議長起ちて先生の為めに乾盃し、更に先生の発声にて来会者の万歳を三唱して散会したるが、先生には直ちに車をかつて公会堂に到り、宮城商業銀行創立二十箇年紀
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念式に列せらる ○中略 かくて先生には令夫人を之に残され、再び県会議事堂に向はれ、午後三時に之に到り、知事の紹介により起つて、教育者及学生のために演説せられたり。其概要を記すれば左の如し。
○中略
 かくて転じて七十七銀行に到り、階上広間に於て行員のため一場の訓話をなし、且大に激励せられて一先づ帰宿せられ、午後六時より陸奥の園に於ける銀行団主催の招待会に列せらる ○中略
      十七 塩釜・松島・飯坂
 十月二十一日は朝来天気晴朗碧空殊に高きを覚えたり。午前八時十分仙台を発し塩釜に向ふ。令孫敬三氏友人二名と共に一行に加はる。八木久兵衛・中村梅三・伊藤県勧業課長其他の諸氏亦同行せらる。
○中略 腕車を走せ塩釜神社に到り ○中略 転じて社務所に到り、其楼上に休憩す ○中略 やがて先生には塩釜町有志の懇請により階下広間に於て大要下の如き講演をせられたり。
  今日久々で塩釜神社を参拝し、神威の尊さに打たれました。斯の如き神々しい神社を有せらるゝ御当地の諸君は、定めて敬神の念の厚いことでありましやう、此の敬神と云ふことは、国運発展の基をなすもので最も重要な事であります。が然し敬神丈では未だ足りませぬ。之に伴ふに経済的の発展を以てせねばなりませぬ、然るに諸君は只に神々しい神社を有せらるゝのみならず、理想的の港湾を持つて居らるゝのであります。俗に云ふ所謂鬼に金棒、虎に翼で、此天恵を充分に利用する様にしなければ諸君の面目は立たぬ訳で、又神は諸君を所罰せらるゝであろうと思ひます。今日承ります処では三百万円以上の金をかけて港湾が出来るとの事で誠に結構なことで喜んで居ります。然し之は当然のことで寧ろ遅きを思ふ次第であります。昨日も仙台で本県が港湾の便宜を欠くことが其産業不振の一大原因であることを御話しました。私は明治十一年の頃、野蒜築港を企て折角尽力しましたけれども遂に出来ずに終りましたが実に遺憾千万の事で、若し之が出来て居たならばと申しました次第であります。当時から数へますと既に四十年の歳月を閲して居ります。今にして尚築港の出来ないのは政府も地方の諸君も怠慢であると申上げても過言ではあるまいと思ひます。神は言葉を発せられは致しませぬが同じ感想を持つて居らるゝことゝ思ひます。然し今度幸に事は決り三千噸以上の船の入ることの出来ることゝなつたのは喜ばしいことであります、此の様な問題は塩釜丈では難しいかも知れませぬから、他より来て助けるものと協同一致することも敢て排すべきではありませぬ。かくしてこそ弥増し神徳を赫す事となりますので諸君の奮励を望む次第であります。若し諸君に於て之を怠ることがあれば、神譴を受くるものと覚悟せられたいと申して置きます。
 かくて先生は之を辞し、元の道を下りて埠頭に向はれたるが、令夫人は表坂を下りて神竈社に詣でられたり ○中略 かくて十時二十分松島に向つて船にて塩釜を後にす。船は県庁より差廻されたるものにして青葉丸なる小蒸汽之を曳く、之より塩釜町長並に七十七銀行塩釜支店長新に加はり、船中地図を陳べて塩釜築港の説明あり、更に実際につき
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て指示し詳細を極む○中略
 午後六時二十四分福島停車場に降り立てば知事始め出迎人多く、先生には諸氏に対し挨拶せられたる後、令夫人と自動車に同乗して飯坂に向はる ○中略
      十八 福島
 福島に入り県庁に到り、令夫人は之より分れて直ちに旅館に赴かれ先生には待うけたる知事と懇談せられたる後、楼上大広間に於て有力者諸氏と東北振興に関し協議せられたるが、之につきては荒木氏詳しく記す処あり、即ち曰く
  午後一時より先づ県庁楼上にて知事以下官吏・実業家の主なる者数十人と会見した、之は談話交換の機会を得べく福島の人々が特に作つた出色の日程である。知事が議長の格で、男爵は政府委員と言つたやうな工合にちよつと四角張つて見えたが、内容は硬くならずに飽迄座談的であつた、詰まる所福島の官民が東北振興に関して色色な注文を持ち出して男爵が之を聴取つた迄のことである。
  来会者中の二・三の人々から申出た希望事項としては南会津地方及び米沢方面への鉄道敷設、喜多方・山都間徒歩聯絡の復旧速成、其他地価修正、地租軽減、森林原野の払下の如き問題に於て、要するに不公平なる制度を政治上より根本的に改正する事等が主要なるものであつた。
  県の希望事項として第一山林無償払下問題、無償困難なりとせば無償ならざる範囲に於て此目的を進むる事、第二不用存置林を基本財産として地元村に低廉に払下ぐる事、第三耕地拡張に対し政府にて開墾基金を下附するか、若くは長期無利子の資金を貸出す事(五十町歩以上の開墾には之を実行するの案其筋に出来居る由に聞く)第四河川改修の事、福島県は年々の水害に対し巨額の負債を重ね居りて返済に困難を極め居る結果、殖産興業に専らなるに能はず、依て預金部の金等を低利に借入るゝことは出来ざるべきか、第五漁港の修築に対し国庫の補助を仰ぐ事(政府は来年度より或額の補助を為すことに決し居る由に聞く)第六南会津地方は天賦の宝庫を以て目せるゝも調査明確ならず、政府は進んで之が組織的調査に出づるを望む、第七三越呉服店に於て開かれたる東北物産陳列会は其成績大に見るべきものあり、就ては是等に類する常設的の設置は出来ざるべきか、六県共同にて作るも可し、物品を販売するに止まらず需要供給の仲介者となりて製品の改良、産額の増加を計るを得ば好都合ならん。又東北地方と振興会との連絡を密接ならしむる方法をも講じたしと言つたやうなことが主要のものであつたと記憶する。
  来会者の中にはまだ種々の希望事項を有せる人もあつたやうであるが、此場合時間が少いので発言を見合はした、上記の事柄に対しては渋沢男は逐一之を聴取し、其中で実行の出来さうなことは出来得る限り尽力して見ようという挨拶をして、之れで有志との会見は相済んだ。
 かくて之を辞し県会議事堂に到り、東北振興会の為めに講演せられたるが、此事項に就ても亦荒木氏の記事を左に転載す。
 - 第56巻 p.238 -ページ画像 
○中略
      十九 帰京まで
 十月二十三日は天気殊の外よし、午前十時宿を出でられ、富国館製糸場を訪はれたる後、午前十時十四分発列車にて福島を後にせらる。二宮市長、内池三十郎氏・大島要三氏並に安田常作氏同車見送らる、かくて郡山にて、二宮・内池・大島の三氏下車せられ、白河に到れば白河町長其他数氏送迎せられたり。
 かくて西那須野に塩原を偲び、宇都宮に日光を思ひ、いつしか埼玉県に入りては心は早く已に京に飛びぬ、かくて時余、午後四時三十分上野につき、数多き出迎人の挨拶を受けられたる後自動車にて曖依村荘に入られたり。


中外商業新報 第一一三五一号 大正六年一一月九日 ○東北巡記 振興会企画視察(二十三) 福島汀雄(DK560059k-0003)
第56巻 p.238-239 ページ画像

著作権保護期間中、著者没年不詳、および著作権調査中の著作物は、ウェブでの全文公開対象としておりません。
冊子版の『渋沢栄一伝記資料』をご参照ください。

中外商業新報 第一一三五二号 大正六年一一月一〇日 ○東北巡記 振興会企画視察(完) 福島汀雄(DK560059k-0004)
第56巻 p.239 ページ画像

著作権保護期間中、著者没年不詳、および著作権調査中の著作物は、ウェブでの全文公開対象としておりません。
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実業之世界 第二〇巻第二二号・第四八―五一頁 大正六年一一月 東北の振興は東北の人間を振興するにあり 男爵 渋沢栄一(DK560059k-0005)
第56巻 p.239-241 ページ画像

実業之世界  第二〇巻第二二号・第四八―五一頁 大正六年一一月
    東北の振興は東北の人間を振興するにあり
                    男爵 渋沢栄一
  ▽北越・東北の巡遊
 越後及び東北方面の巡回旅行は、昨年の秋一たび目論んだのであるが、折悪しく病気に罹つて果さず、甚だ遺憾に思ひ居るうち、曾つて第一銀行にありし松井吉太郎氏の現に其頭取たる越後長岡の第六十九銀行が、十月七日新築落成式を挙行するに就ては、同銀行の創立に私が関係して居る縁故上、是非臨場するやうにと依頼され、又越後と岩代とを聯絡する岩越鉄道は、私立会社として創立せらるる当時、私が
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多少之に尽力せる縁故あり、既に其の全通を見るに至れる今日、是非一度視察して呉れるやうにとの事で、旁々斯の機会を利用し、東北振興会の事業を進捗する上にも東北六県の現状を視察して置く必要を認め、十月六日王子駅を発し、同二十二日まで十八日間左の日程で、越後及び東北六県を巡遊したのである。
○中略
 然るに東北地方は什麼した故か九州地方などに比し遥かに産業が進歩して居らず、東北振興会なぞと称するものまで起して、その振興を促進せねばならぬほどの状況にある。誠に以つて遺憾千万の次第だ。
  ▽東北は天産に富む
 そんなら、東北は天産に乏しい土地かといふに爾うで無い。秋田・岩手の両県下には、九州に比して遜色無き鉱山が随分多くある。殊に秋田の石油の如きは著しい産額で、秋田県土崎港町にある日本石油会社の製油所なんかは、あんな僻地に是れほど完備した工場があるかと驚かれるほど堂々たるものだ。たゞ東北には石炭の乏しいやうに思はれるが、磐城炭の産出もあり、又近かく秋田県下では新しい炭山が開かれるとの事ゆゑ、石炭の産出に関しても満更悲観したもので無い。
 斯く陸上の交通は縦横の鉄道によつて至極便利にせられ、今後更に岩手県黒沢尻と秋田県横手とを聯絡する横断線が全通する事ともならば、一層の便利を加へるだらうと思ふが、惜哉東北には良湾が無い。新潟が存外発展の鈍いのも其の港が良く無いからで、之が為には信濃川の改修が企てられて居るほどだ。新潟とても港が良くなりさへすれば、一層の繁栄を来すやうになるだらう。東北人も、良港を得ねばならぬ事には早くから業に已に気付いて、曩に宮城県野蒜の築港を企てたが失敗し、次で岩手県大船渡の築港も計劃された。然し是又失敗に終つてしまつたのである。秋田県船川の築港は、県費に国庫補助を得て、既に大部分出来上つてるが、如何せん斯の港は浪が荒いので良湾であるとは謂へぬのだ。宮城県では又之も県費の外に国庫の補助を得て、目下塩釜の築港中であるが、この港は仮令築港が完成しても、至つて小いから、三千噸以上の汽船を入れることが能きぬのだ。昨今青森県では大湊の築港に頗る骨を折つて居る。若し斯の大湊の築港にして幸に完成せば、良湾を得らるる事となり、海運に於ても、東北は相当の便利を有する地方となるのである。
  ▽産業過渡期不注意
○中略
 今回の巡遊によつて覚り得たのは、東北地方が九州の如く発展し得ぬのは、鉄道が無いからでも、天産に乏しいからでも、良港が無いからでも無く、維新以来東北の産業を指導するに適当な人が東北に無かつたのと、東北人が敢為の気象に乏しく、勤勉の精神を欠いてるのに原因するといふ事である。
 東北にも米沢の如く産業の発達した土地が無いでも無いが、維新前まで行はれて居つた家内工業が維新後新機械と之に伴ふ工場組織との輸入によつて廃れてしまつたので、之に代るべき新たなる家内工業が起らなければならぬ時に当つて、之を指導する適当の人が東北地方に
 - 第56巻 p.241 -ページ画像 
無かりし為め、従来の家内工業は工場に奪はれ、之に代るべき家内工業が起らぬといふ事になつてしまつたのだ。斯る過渡期に当り、若し適当な指導者があつて、一例を婦人の職業に就て挙げて謂へば「レース編み」とか「真田編み」といふ如き新らしい家内工業を教え、之に慣らすやうにして置いたら、一般的にも勤勉の気風が起つて、如何に寒い土地の東北でも、今日の如く産業の衰運を来さずに済んだであらうと思ふのだ。
  ▽敢為勤勉の風乏し
 かくして東北地方が、今日産業不振の状態にあるのは、旧るい工業組織が廃れて新しい工業組織に移らんとする過渡期に、之を適当に指導する人の無かつたのに原因する処頗る多きは、素より言ふまでも無いが、第一の因を成したものは、東北の人間が一般に敢為勤勉の風に乏しい事である。何うも今日に成つて観ても、東北人は猶且努力勤勉の気象を欠き、敢為の精神が無いのである。産業の過渡期に、適当なる指導者が現れなかつたといふのも、実は東北の人間に敢為の精神が無かつたからの事だ。新しい事は何んでも怖くつて手が出せぬと云ふやうでは、斯る過渡期に処して、地方の産業を指導して行けるもので無いのである。それには敢為の精神を要する。
 又新しい事業を開始すれば、思はぬ蹉跌があつたり、障害が起つたりするものだ。之れにも敢為の精神を要すること勿論だが、なほ努力勤勉の気象がなければ、迚ても押し徹して行けるもので無い。ところが、悲しい事には又、東北の人間には斯の努力勤勉の気象が乏しいのである。
 斯く東北人に敢為勤勉の気象精神を欠くに就てはいろいろの原因があり、気候の寒いことなども確に其一原因だらうが、東北人だからとて総て敢為の精神を欠き、勤勉の気象が皆無だといふわけでも無い。林子平とか、佐藤信淵とか、平田篤胤とかの如き敢為勤勉の人々もある。東北振興策は細かく研究したら、種々の案もあるだらうが、何よりも大事なのは東北の人間を振興し、之を敢為勤勉の気象ある者とする事だ。



〔参考〕竜門雑誌 第三六七号・第三七―四〇頁 大正七年一二月 ○東北振興に就て 青淵先生(DK560059k-0006)
第56巻 p.241-243 ページ画像

竜門雑誌  第三六七号・第三七―四〇頁 大正七年一二月
    ○東北振興に就て
                      青淵先生
 本篇は青淵先生の講話として本年二月発行の「東北之研究」誌上に掲載せるものなり(編者識)
△奥羽の一周 今玆に改て云ふまでもないが、昨年十一月六日東京を出発して、越後長岡に於ける銀行開業式に臨み、帰途東北六県の遊歴を為さんと企て、岩越鉄道の開通を機として、越後より会津若松に赴き、郡山に出で更に福島市を経て、奥羽鉄道に搭乗して、米沢・山形秋田・青森・岩手・福島の六県を巡回して東京に帰つたのである、同行者は、東北振興会の吉池慶正氏と、外に八十島親徳氏の二人であつた ○中略
△振興会の起原 全体東北振興会の興つたのは、大正二年であつて、
 - 第56巻 p.242 -ページ画像 
之れには数人の委員がある、即ち益田孝・志村源太郎・加藤正義・大倉喜八郎・根津嘉一郎・大橋新太郎・村井吉兵衛・吉池慶正の八氏と私とを合せて九人の委員が置かれてある、処で私は東京を出立する前に、一応委員会を開いて、各自の意見を聴き、之を胸中に含んで都門を辞した、殊に委員中の吉池氏を誘ふて、同行することを得たのは実に喜ばしかつた。
△講話及講演 愈々六県に往つてからは、各県の知事・郡長等の高官各地の有志家を招て、東北振興に関する自己の意見を吐露した、其形式は或時は講演的に、又或時は演説的に、又場合に依つては会話的にも、宴会の席上に於ても出来る限り、意中に抱持するところを開陳した、各県の官民有志の人々も大勢集つて、熱心に聴取せしのみか、場合に依つては旅館をも訪問して、私の意見を叩き、若しくは各自の意見をも述べて呉れた ○中略
△自助と天助 各地に於ける講演・講話・演説の様式及内容は各々別別であつたけれども、終始を一貫せる主張の神髄は、東北六県の人々は現状に満足せず、敢為向上の気風を養成して、飽くまで奮励努力せねばならぬ、勿論東北地方は関西地方に比較すれば、天恵も薄弱で、且つ良港湾も乏しいので、余程不便の位置には立つて居るけれども、天然の不便不利は、勤勉力行を以て補はねばならぬ、天は自ら助くる人を助くるけれども、自ら助けざる人には恩恵を与へざるものであるから、東北人は一層奮励して自ら助け、遂には天助を得る様に勉めねばならぬ、是れ人に勝ち、天にも勝つ所以である。
○中略
△共進会の利益 東北を全国に紹介するに必要である、是れにも種々の方法もあるけれども、東北共進会を東京に開くも一法である、而して昨年、三越階上に開いた六県共進会のごときは、一つの手段であつた、思ふに三越の六県共進会も相当の声価を博し、存外好成績を博したので、毎年之を開会するか、将た隔年の開会となすかは研究中である、一般の意見に依れば、毎年開会すると云ふことも余りに耳目に慣れ易いから、差当り一年置位にして、其間に批評されたことを事業の参考として、後れたものに改良を加ふる様にする方が善いと云ふことである、故に共進会は今日の処では二年に一度位開会してよからう、之れも有力な東北の紹介の道具である。
△東北開発の使命 這般の旅行は、前にも言つた様に全く自己の任意であつて、政府・県庁、若しくは政党より依頼をうけたのではない、従つて此行が無用に終つても、更に惜しむことはないけれども、衷心東北振興会の為に尽したる旅行視察であるから、成るべく有意義に終らしめたい者である、繰返して云ふ様ではあるけれども、東京出立前に委員と会合して心中に一案を立てゝ行つた、而して東北地方に往つた上で、種々の意見も注文も聴取して来たので、之を報告旁々再び委員会を開き、一同会議の上で各自の意見を聴取し、如何にせば此行に依つて見聞したことを有効に且つ有意義に実行して、東北開発に供することが出来るかと云ふことを研究して見たいと思つて居る、幸ひ山形県知事であつた添田敬一郎氏は、内務省の地方局長に為られたから
 - 第56巻 p.243 -ページ画像 
同局長に請ふて委員に加つて貰ひ、地方の事情に通ずる様の組織となし、地方開発の具に供したいと思ふ、殊に東北振興事業の様なものは永久的、継続的の事業であつて、全く献身的のものであるから、官民有志と協力して振興の曙光に接するまでは、本会の運動は間断なく継続して見たいと思ふ、東北六県の有志諸君も、充分奮励して相共に此一大使命を完ふする様に努力せんことを冀ふ、要するに東北振興は一時的、暫時的の問題でなく、永久的、継続的の問題であるから、此意義を誤ることなく、何処までも使命を果すことに苦心せねばならぬ、私は自己の力の許す範囲に於て、東北六県の為に何処までも微力を尽すに吝ならざるものである。(談)