公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15
第56巻 p.302-309(DK560082k) ページ画像
大正10年9月9日(1921年)
是ヨリ先、栄一、屡々総理大臣原敬ト会シ、我国実業団ノ英米訪問ニ関シ要談スルトコロアリ、是日、当倶楽部員ヲ中心トスル英米訪問実業団結成セラレ、十月十五日出発ス。
集会日時通知表 大正一〇年(DK560082k-0001)
第56巻 p.302 ページ画像
集会日時通知表 大正一〇年 (渋沢子爵家所蔵)
五月十九日 木 午後五時半 原首相御訪問約(首相官邸)
原敬日記(9) 原奎一郎編 首相時代篇下・第三一二頁 昭和二五年六月刊(DK560082k-0002)
第56巻 p.302 ページ画像
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集会日時通知表 大正一〇年(DK560082k-0003)
第56巻 p.302-303 ページ画像
集会日時通知表 大正一〇年 (渋沢子爵家所蔵)
- 第56巻 p.303 -ページ画像
七月四日 月 午後六時 原首相ヨリ御招待
日英協会発起ノ件
○中略。
七月九日 土 正午 日英商業振興ノ件(銀行クラブ)
○中略。
七月十五日 金 午後二―三時 原首相ヲ御訪問ノ約(同官邸)
○中略。
七月十八日 月 午後二―三時 原首相ヲ御訪問(総理大臣官邸)
○中略。
七月廿一日 木 午前九時 日英商業振興ノ件(兜町)
午後二時 原首相ヲ御訪問(首相官邸)
○中略。
七月廿七日 水 午後二―三時 原首相ヲ御訪問(官邸)
原敬日記(9) 原奎一郎編 首相時代篇下・第三五三―三八二頁 昭和二五年六月刊(DK560082k-0004)
第56巻 p.303 ページ画像
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竜門雑誌 第三九八号・第六三―六四頁 大正一〇年七月 ○首相官邸晩餐会(DK560082k-0005)
第56巻 p.303-304 ページ画像
竜門雑誌 第三九八号・第六三―六四頁 大正一〇年七月
○首相官邸晩餐会 原首相は七月四日午後六時より青淵先生・森村男末延・団・久原の実業家諸氏三十余名を永田町首相官邸に招待し、尚高橋蔵相・内田外相・山本農相も列席の上晩餐を共にし、日英通商問
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題に関し種々懇談し午後八時散会せりと云ふ
集会日時通知表 大正一〇年(DK560082k-0006)
第56巻 p.304 ページ画像
集会日時通知表 大正一〇年 (渋沢子爵家所蔵)
八月四日 木 午後一時 英国大使より御案内(同大使館)
○中略。
八月二十日 土 午前十一時 原首相ヲ御訪問(官邸)
○中略。
八月廿四日 水 午後二時 日米海底電線ノ件ニ付原首相ヲ御訪問(官邸)
原敬日記(9) 原奎一郎編 首相時代篇下・第三九九―四〇三頁 昭和二五年六月刊(DK560082k-0007)
第56巻 p.304-305 ページ画像
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集会日時通知表 大正一〇年(DK560082k-0008)
第56巻 p.305 ページ画像
集会日時通知表 大正一〇年 (渋沢子爵家所蔵)
九月七日 水 午前十一時 原首相ヲ御訪問(首相官邸)
○中略。
九月九日 金 午前十一時 渡英団ノ件(工業クラブ)
午後二時 右ノ件ニ関シ原首相ヲ御訪問(官邸)
○中略。
九月三十日 金 午後六時 原首相ヨリ御案内(官邸)
原敬日記(9) 原奎一郎編 首相時代篇下・第四一三―四四八頁 昭和二五年六月刊(DK560082k-0009)
第56巻 p.305-306 ページ画像
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日本工業倶楽部廿五年史 同倶楽部編 上巻・第二二六―二三〇頁 昭和一八年一二月刊(DK560082k-0010)
第56巻 p.306-308 ページ画像
日本工業倶楽部廿五年史 同倶楽部編
上巻・第二二六―二三〇頁 昭和一八年一二月刊
○第二編 戦後の反動時代
第二十三章 英米訪問実業団 (上)
(一)実業団の成立
大正十年十月十五日横浜解纜の鹿島丸に搭乗し英米訪問の途に上つた実業団は、本と本倶楽部員が中心となつて組織されたもので、本倶楽部と甚だ密接なる関係があり、英米訪問実業団の一章は倶楽部に必ず欠く可からざる所のものと思ふ。
是の年四月の交、本邦駐箚英国大使サー・チャールス・エリオット氏は子爵渋沢栄一氏に向つて『近時日英両国の実業関係漸次疎遠ならんとする虞あれば、何等かの方法を講じて之を復旧せしめなければならぬ』と語つた事があり、之に就いては外交方面に於て宜しく之が措置を為すべしとの説もあつたが、英国大使館附商務官サー・エドワード・クロー氏は、寧ろ日英実業家の意見交換に依るべきことを主張し日本実業家の英国訪問を慫慂した。エリオット大使も此の挙に賛し、
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英本国政府も本邦実業家の渡英を衷心希望することが判明した。
是に於て渋沢子は原首相を訪問して実業団派遣の事に付協議し、其の結果七月上旬京浜の実業家数十名は首相官邸に招かれ、席上首相及び渋沢子より右計画に就て談話があり、出席の諸氏何れも之に賛成し発起人として渋沢子・井上準之助・和田豊治・藤山雷太・団琢磨の五氏を挙げた。当時英国にては日英同盟の存否に就て議論区々であるのみならず、我実業家としては戦後の欧洲経済就中英国財界の状態を十分研究して、戦後対策に資すると共に、本邦経済界の実状を披瀝して彼我の意見を交換するの必要を痛感したる際とて、英国訪問実業団組織の事一議も無く決定し、団の組織の進行中、偶々米国に於ける戦後の経済事情をも併せて調査することも亦急務なりとの意見があり、発起人に於て協議の末、実業団は英米を訪問し、団体の名も宜しく英米訪問実業団と改むべしと決定した。米国大使ビーチャー・ウォーレン氏は此の渡米の挙を賛し、原首相に向つて米国は出来得る限り便宜を与ふる旨を申出でたと云ふ。
時恰も華盛頓に於て軍備縮少及び太平洋問題に付列国会議開会さるることゝなり、米国の対日感情は一般に良好でなかつたので、斯かる時に当り日本実業団の渡米するは誤解を招く虞があり、米人中或は本団を目して日本政府の委嘱を受けて宣伝の為に来るにあらずやと邪推する者あらんも測られず、寧ろ実業団の出発を会議後まで延期すべしとの注意をなす者もあつたが、本来政府の旨を承けて訪問するにあらざれば、何も躊躇逡巡するの要なかるべしといふに協議纏り、九月九日本倶楽部に渋沢子爵・和田豊治・団琢磨・井上準之助・藤山雷太・久原房之助・樺山愛輔伯・木村久寿弥太・相馬半治・森村開作男・原富太郎の諸氏会合し、愈ゝ有力なる実業団を組織し、先づ米国を訪問して、次で英国を訪問することを決定し、団員の人選は井上準之助・和田豊治・藤山雷太の三氏主として其の局に当り、或は加盟を勧誘し或は加盟希望者を銓衡し、結局実業界各方面の代表的人士を網羅して次の二十四名中十八名は本倶楽部会員であつた。
英米訪問実業団員(A・B・C順)
団長には本倶楽部の理事長団氏を推し、団氏は当時病気の為其の任に堪へないとて固辞したが、百方勧説して承諾を得、更に阪井徳太郎氏を本団の理事に推薦した。
実業団は先づ団の目的趣旨を説明したステートメントを英米方面に発送した。米国各市の商業会議所は争ふて本団の訪問を希望し来つたが、悉く其の好意に副ふことは出来なかつた。
集会日時通知表 大正一〇年(DK560082k-0011)
第56巻 p.308 ページ画像
集会日時通知表 大正一〇年 (渋沢子爵家所蔵)
九月三十日 金 午後六時 原首相ヨリ御案内(官邸)
十月一日 土 午後六時 英米訪問実業団員送別会
(銀行クラブ燕尾服勲章略章)
原敬日記(9) 原奎一郎編 首相時代篇下・第四五九―四六〇頁 昭和二五年六月刊(DK560082k-0012)
第56巻 p.308 ページ画像
著作権保護期間中、著者没年不詳、および著作権調査中の著作物は、ウェブでの全文公開対象としておりません。
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日本工業倶楽部廿五年史 同倶楽部編 上巻・第二三一―二三三頁 昭和一八年一二月刊(DK560082k-0013)
第56巻 p.308-309 ページ画像
日本工業倶楽部廿五年史 同倶楽部編
上巻・第二三一―二三三頁 昭和一八年一二月刊
○第弐編 戦後の反動時代
第二十三章 英米訪問実業団 (上)
○上略
(二)実業団の出発
○中略
- 第56巻 p.309 -ページ画像
九月三十日原首相は其の官邸に於て送別晩餐会を開き『欧洲の大戦勃発以来世界の商工業に甚大の変化を来したることは今更ら言ふまでもなき次第なるが、其の終熄後に於て現出したる今日の状況は周到なる観察を必要とすべく、即ち其の恢復を図りつゝある手段方法又は当該国民の意気込など最も深く注意すべき点なりと思ふ。戦時中列強の消費したる物資無量にして、其の国力を消磨したることの多大なると同時に、又之が為に新に発明研究し得たる所も決して尠からざるべく我国実業家諸君の参考に供すべきもの多々あるべきは疑ふの余地なき所である。其他生産費節約は手段方法等を始めとして我の彼に学ぶべきもの少からざるべしと思はる。諸君に於て此等の要点を十分に視察せられるならば、諸君の直接利益せらる可き所あるべきは申す迄もなく、又我国実業の発展に資する所も亦多大なるべしと信ずる。諸君は我国有数の信用経験ある有力者にして、従来海外視察を企てられたる者も少からざれども、今回程有力者の而かも多数打揃ふて海外商工業の視察に赴かれたることは殆んど之なき次第なれば、従つて彼の国の実業家と隔意なき意見の交換をせられなば、彼我実業家の意思疏通となることは勿論、場合によりては提携ともなりて、将来彼我の間に利益するところ多大なるもの之あるべく、又吾々は真に斯くあらんことを期待して止まざる所である』との送別の辞を述べ、之に対して本団を代表すべき団団長病気欠席の為、串田万蔵氏代りて答辞を述べ、十月一日には渋沢子・井上・和田・藤山諸氏を始め京浜実業家二十五名は、丸の内銀行集会所に本団一行を招待して晩餐を共にし、渋沢氏の送別の辞、中島男の答辞があり、同三日には東京商業会議所主催の送別会、八日には日米協会は丸の内銀行集会所に於て会員中、華盛頓平和会議全権委員並に英米訪問実業団として英米に向ふべき諸氏を午饗に招き、席上金子会長の挨拶に次で、徳川公・渋沢子・中島男の謝辞があり ○下略
竜門雑誌 第四〇一号・第五一頁 大正一〇年一〇月 ○英米訪問実業団出発(DK560082k-0014)
第56巻 p.309 ページ画像
竜門雑誌 第四〇一号・第五一頁 大正一〇年一〇月
○英米訪問実業団出発 過般来、青淵先生等の斡旋に依りて組織せられたる英米訪問実業団一行は、此程右人選を了し、一行五十二名、十月十五日午後三時横浜出帆の鹿島丸にて、華府会議に出席の加藤・徳川両全権委員一行と同船出発せり。
○下略
○本資料第四十巻所収「其他外国関係資料」大正十年九月九日ノ条参照。