デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

2部 実業・経済

7章 経済団体及ビ民間諸会
2節 其他ノ経済団体及ビ民間諸会
8款 大日本米穀会
■綱文

第56巻 p.327-336(DK560091k) ページ画像

大正7年4月7日(1918年)

是日、飛鳥山邸ニ於テ、当会第十一回大会開催セラル。栄一、臨席シテ演説ヲナス。


■資料

集会日時通知表 大正七年(DK560091k-0001)
第56巻 p.327 ページ画像

集会日時通知表  大正七年       (渋沢子爵家所蔵)
四月七日 日 午前十時 大日本米穀会々員懇親会(飛鳥山邸)


中外商業新報 第一一五〇一号 大正七年四月八日 ○米穀大会(最終日)(DK560091k-0002)
第56巻 p.327 ページ画像

中外商業新報  第一一五〇一号 大正七年四月八日
    ○米穀大会
     (最終日)
大日本米穀会第十一回大会第三日は王子飛鳥山渋沢男爵邸庭園に於て午前九時半より開会、中村委員長は第二日に於ける委員会の決議事項を報告し、満場一致委員会の決定通り之を承認し、志村会頭の開会の辞に次ぎ、渋沢男は産米改良の要あるのみならず、商品取引上に於ても亦改善の余地尠からざるを説き、更に進んで米穀取扱業者に巨万の富を獲得したる者の尠きは所謂民本主義に適合し居るものにして、此主義に適合し居る結果は成金たり得ずとするも亦危険尠く、各自の相当に繁栄しつゝあるは当業者の以て慰安とするに足る可く、実業家の立場は敢て派手やかならずとするも、一家の家具生計上米櫃の地位を占め居る、吾人は老朽するも米櫃は依然として米櫃たるを失はざる可く、仮令他の家具は売却せらるゝが如き事出来せんも、米櫃は最後まで残さるゝものなれば、安心して業務に親しむ可き所以を述べて当業者を激励し、兵庫井上氏の謝辞を以て十二時半閉会し、余興後男爵邸庭園にて摸擬店を開き、咲き競ひ居る桜花を賞でて、互に歓を罄して散会せり


竜門雑誌 第三五九号・第七二―七三頁 大正七年四月 ○大日本米穀会大会(DK560091k-0003)
第56巻 p.327 ページ画像

竜門雑誌  第三五九号・第七二―七三頁 大正七年四月
○大日本米穀会大会 大日本米穀会第十一回大会は四月五日一ツ橋東京高等商業学校に於て開会 ○中略 引続き会員の演説及び佐野博士等の講演あり、尚第二日(六日)は午後九時より同所に於て委員会を催し、第三日(七日)は午前九時より引継き飛鳥山曖依村荘に於て本会議を開き、右終つて懇親会を催したるが、当日の来会者約千三百名、中村富三郎氏議長席に着き、中原貞介氏委員長として前日の委員会に於て審議した主務省の諮問案に対する答申案及び各支部提出案採否の結果を報告し、之が可否を諮りし処満場一致を以て該委員会決定案全部を可決し、夫より志村会頭及び青淵先生の講演あり、午後同村荘に於て園遊会を催して懇親を交へ、三時散会せりと云ふ。 ○下略


竜門雑誌 第三七二号・第一四―一九頁 大正八年五月 ○大日本米穀会に於て 青淵先生(DK560091k-0004)
第56巻 p.327-331 ページ画像

竜門雑誌  第三七二号・第一四―一九頁 大正八年五月
 - 第56巻 p.328 -ページ画像 
    ○大日本米穀会に於て
                      青淵先生
 本篇は昨年四月青淵先生の別邸曖依村荘に於て開会せられたる大日本米穀会場に於て、青淵先生が講演せられたるものに係り、時機甚だ遅れたれども、後日の参考の為に本誌に転載することゝせり。
                         (編者識)
 会頭並に満場の諸君、本日は大日本米穀会の大会を幸に私の庭で御開きを頂いたことは、寔に喜ばしいことで、私より御礼を申さねばならぬのでございます、唯今会頭より皆様の御代表で、本日の懇親会場に此庭を提供したことを厚く御賞讚下さいましたが、甚だ痛入りまして恐縮に存じます、園遊会には天気を一番の呼び物にしますが、生憎と本日は天気が悪ふ御座いまして皆様御困りと存じます、併し此の悪いのは私の罪ではございませぬ、どうぞ是だけは御了承を願ひます。
 皆様も御聞及びの通り私は老年に及びました為め、一昨年より実業界を隠居して生産殖利の事には関係致して居りませぬ、故に今日斯る重要な御会合に対して愚見を述べるは少し適はしからぬやうに存じますけれども、かく私の庭をお使ひ下されますし、又銀行や会社は一片の辞表で辞任が出来ますが、国民は死ぬるまで辞することは出来ませぬ、国民を辞した人は一人もありませぬ、私も如何に老衰したとは申せ矢張り国民の辞表は提出しませぬ、それと同時に、仮令衰弱したとは申しながら、生存して居る以上は米を食はねばなりませぬ、斯く考へますると、このお寄合に対して年寄だからといつて遠慮しましては国民を辞したと同じやうになりますから、是は何でも出て一言申上げねばならぬと勇を鼓して此処に参上致したのでございます。
 是と申して申上げることがございませぬ、もう皆様が十分に御考慮を尽し又種々なる御提案もあつて、回一回に事業が進んで行くやうに存じます、此大会に当つて当局官庁から重要な御諮問をお受けなされたことは即ち会の発展を証拠立てる次第で、実に本会の御名誉之に過ぎぬのであります、唯今委員長の詳細な御報告があり、又御討議の模様は私共脇から拝承致しても誠に緻密なる御審議で、必ず来年は答申案の宜しいものが出来ませうし、更に此会が力付いて参るであらうと想像して居るのでございます、会頭が亦追々に此会に権威も生じ隆盛に趨くことは諸君と共に喜ぶと仰せられたが、私共も脇から拝承致しまして左様に賞賛致します。
 私共が銀行業を創めた頃には其仕事が欧羅巴式でありましたから、万事欧羅巴或は亜米利加の模倣をすると云ふことは銀行業者として免かるゝことが出来ませぬでした、併し其経営する事務は仮令当時の欧米に則りましても、銀行を営むには日本の品物に拠らなければならぬ次第であります、然るに之を履違へて漢法医でない西洋お医者様は葛根湯を飲む病人は扱はぬと云ふ様な考をした人がありました、銀行に付ても同様の誤解を有つて居りまして、若し西洋の品物のみを取扱ふ様ならば取引せぬと云ふ訳で、銀行業者としては先づどうしても日本の品物に対して改良進歩を計つて行く外ない、日本の品物としては米生糸などに大いに力を尽さなければならぬと考へたのでございます、
 - 第56巻 p.329 -ページ画像 
他の工業に於ても、或は運送に於ても、港湾に於ても種々なる方面に銀行として力を尽さなければなりませぬが、併し固有の主たる事業に対してはどうか相当なる力を尽して見たいと思ひましたので、第一銀行創業の際から幸に頭取をして居りました関係から、米事業に対しては多少微力を尽したこともありましたのでございます、故に米に対しては幾分の趣味を有つて居りますが、唯米は其需要の範囲の広いだけ之に関し特に壮大なる組立が出来たとか、又大富豪が生じたと云ふやうなことは少ないやうに思ひます、果してどう云ふ理由によりまするか、それは私もまだ研究しては見ませぬが、蓋し米商売其物の性質から来ることであらうと思ひます、丁度当節頻りに政治上から申しまする民主々義とか民本主義とか言ひますが、思ふに之は多数の考を以て或る一の勢力、一の壟断的経営にならぬやうに、ならぬやうにと向いて行くのを指すのであらうと思ひます、果して之が民本主義であるとするならば、米の商売の如きは蓋し其種類であると申して宜いかと思ふのであります、故に米の事業に付ては一挙にして大富豪になつた人もない代りに、米屋は誰方も経営し得られる、即ち商業に於ける民主主義、民本主義の性質を米屋は有つて居ると思ひます、今私の申す理窟が果して道理があるならば、当節世界を通じての議論たる民本主義も、諸君の事業其物が其性質に通《(適)》つて居ると御誇りになつても宜いかと思ふのであります。
 従来毎回の御研究から、或は品種改良とか、倉庫の設備をするとか又運送の経営などに付て歩一歩と進んで居るやうに拝見されますけれども、私の今拝見する所ではまだ此商売の点に付て御講究の余地が大分ありはしますまいか、東京の米穀取引所の取扱などは追々に其歩を進めたのでございませうけれども、併しあれが最も善美を尽されたものとも言へぬかと思ふのであります、又単り東京・大阪のみでもなからう、此商売上に付て御講究をなされたならば、尚ほまだ良きに良きを加へることが出来は致しますまいか、唯単に此商売取引だけに欠点があると申すのでもない、其他にも即ち農商務大臣の本会に御諮問のあつたことなども色々と御講究になつたならば、種々より良いことを御見出しになりませうが、私の大体上から観察した所では、先づ地方の農産の改良とか或は地方に於ける取扱と云ふよりも、取引上即ち商売に対してまだ善良なる方法が発見されはしないか、去らばと申して斯くなされたならば宜しいと云ふまでの知識は有つて居りませぬけれども、或は此上に斯くもあれかしと望む点は最も商売取引にあるやうに考へますので、行末永い御講究によりまして宜しく御決定になることを希望致します。
 一言更に玆に申加へて置きたいと思ふことは、今申す通り米事業は民本主義の事業でありますから、其性質上多数の力で大を為すので、一人々々では大を為さぬと云ふ嫌があります、然し斯る性質があるからと云ふて此事業が重要でないと云ふ訳ではありませぬ、万一米事業を皆様がお取扱にならぬならば、日本全体の人、少なくとも東京の人は皆餓死して仕舞ふと云ふ程のもので、人の生命にも、国の安危にも拘はる重要な事業であります、併ながら例へば戦乱の関係にしても、
 - 第56巻 p.330 -ページ画像 
鉄抔の経営をする方の人と比べますと……或は此中に沢山の成金を交へて御座るかも知れぬが……比較的それが少ないと私は信じます、して見ると、丹精して見ても詰らぬと云ふやうな感じが起りはしますまいか、若し諸君に於て左様の感を御起しなさるならば、私は諸君の慰めとなるべき最も良い一言を申上げたいと思ふのであります。
 私は嘗て米櫃と云ふ題に付て演説をしたことを覚えて居ます、是は大分古い話でありますが、それを少し焼直してお話をして見たいと思ひます、詰り自己自から慰める所謂自遣の辞でありますから、即ち諸君が若し私を慰めて下さるならば私は又諸君をそれで慰める、共に相慰めるのでありますが、其話は斯ういふのであります。
 少し遠廻しに色々交つたお話になりますが、唐人に古硯の銘と云ふ一つの文章がある、甚だどうも当会と類の違つた話をするやうでありますが、唐の時代の人の文章である、甚だ面白いのである、硯と墨と筆は同じく文房具である、毎日同じに用ゐられて居る、硯の要る時に筆の要らぬ時はないし、又墨を磨らぬことはない、斯く同じものであるけれども、硯は大変に寿命の長いものである、墨は之に次ぐ、筆は至つて短かい、寿夭に至つては此同じ文房具と名のつく三種類に於て大変の相違がある、一体是はどう云ふのであるか、硯は静かなものである、墨は少し動く、筆は最も動く、故に静かにして居れば永生きが出来る、少し動けば幾らか短かい、大いに動けば早く死ぬ、斯う云ふ訳だらうと判断した、そこで又考へて見ると、若し筆をしてぢつと仕舞つて置いた所が迚も硯と同じやうな寿命を保つことは出来ぬ、さうして見ると動くから必ず早く死ぬとは言へない、寿夭は天である、天に従ふが寿であると云ふので古硯の銘を書いてある、ちよつと見立が面白い、此見立から考へると、丁度社会に人の這入つて居る有様は尚ほ一家の文房具のやうなものであつて、色々の種類に依つて社会は飾られて居る、例へば政治に与かる総理大臣とか、農商務大臣とか云ふやうな色々な大臣達を見ますると、床の間の置物とかお衝立とか屏風と云ふやうに表を飾る飾物である、其の道具は勿論良くなければならぬ、然らば軍人はどうか、是もどうしても座敷には刀架がなければならぬ、長押には槍や薙刀のやうなものを架けて置かねばならぬ、西洋に行くと甲胄までも備へてある所がある、軍人はそれである、教育家はどうであるか、本箱である、字引である、其の他色々な道具があり飾り物があるかも知れませぬが、斯の如く数へて見ると、皆さう云ふ種類に依つて色々用途を発揮し、自分の働きを示しつゝあるが、我々実業家はどう云ふものであるか、座敷の置物中には私共銀行業者などは何処へも顔が出せない、が能く考へて見ると是は米櫃である、我々は米櫃である、座敷の飾物も必要であるが、飾り物だけでは生活が出来ない、座敷の飾り物も米櫃が繁昌して始めて立派な顔が出来るのである、実業が隆盛なるによりて政治も軍事も其機能を発揮することが出来る、そこで我々は米櫃である、と斯う考へて見ましても、座敷の飾り物のやうな塩梅に米櫃が立派だと云つて誰も推賞しては呉れませぬ、其代り米櫃がいびつだと云つて、謗られる気遣もない、玆に於て米櫃たるものは甚だ詰らぬやうなものであるが、併し又米櫃がなけれ
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ば床の間の置物も鎧でも其他総ての物、文房具でも本箱でも飾り道具でも本統の光を増すことが出来ぬ、而して此米櫃は他の品物は払下げられる時になつても、米櫃だけは売払にならぬ、故に米櫃たるものは甚だ卑しいやうではあるけれども、米櫃なる哉、米櫃なる哉と安心することが出来るのであります、即ち諸君は米櫃である、私は此米櫃を以て御任じなさるやうに……私は此米櫃も止めました、所謂古米櫃になりましたけれども、どうぞ此私の忠告を以て諸君自から御慰めなさるやうにしたいと存じます、是で失礼致します。


大日本米穀会会報 第八七号・第三―七一頁 大正七年五月 大日本米穀会第十一回大会記事(DK560091k-0005)
第56巻 p.331-332 ページ画像

大日本米穀会会報  第八七号・第三―七一頁 大正七年五月
    大日本米穀会第十一回大会記事
  ○第十一回大会開催地
我が大日本米穀会は、去る明治四十年を以て第一回大会を東京に開きたる以来年を閲すること玆に十有一年、毎年処を異にして大会を開き順次熊本・名古屋・神戸・金沢・宇都宮・新潟・大阪・津に及ぼし、昨年の富山を以て正に第十回に達したり、第十一回を冠すべき本年の大会開催地が東京たるべしとは衆望の帰する所にして、亦自然の順序たりしが如し、本部にても前年来既に其の内議あり、且つ進んで開催地たらんとの希望を申出でたる地方も無かりしを以て、玆に愈第十一回大会は春陽闌なる候に方り東京に開会のことに決したり。
  ○大会の設備
大会は本部之を主宰すること勿論なれども、従来各地方に於て開会する場合には之が準備より終了に至るまで諸事開催地官民諸氏の多大の援助の下に挙行するを常とし、本部は僅に大会進行上の処理を為すに過ぎざりしなり、然るに今回は本部所在地たる東京に於て開会するに至れることゝて、大会に関する事務は細大となく一切本部に於て処理することゝなれり、先づ第一に本部の苦心したるは会場の選択なり、地方にては多く県会議事堂の如き広闊なる建物ありて、会場に付ては何等苦慮する所なかりしに、今や帝都に於て開かれんとするに方り、却て適当なる会場の物色に困難を感ずるの変態を見るは、寧ろ奇異の観なきに非ざれども、如何にせん千内外の会衆を容るべき公開的建物皆無の現状にして、百方苦心の結果、第一会場として東京高等商業学校講堂の借用を許可せられ、第二会場としては渋沢男爵家の好意に依り、王子飛鳥山に於ける同家庭園を借用することを得たるは、本部の深く感謝する所なり、大会の設備其他に至りては予ての本志に基き諸事質素を旨とし、主として実利的効果を挙ぐべく努めたり。
○中略
  ○大会日程
開会当日配付せられたる日程は左の通にして、大体に於て従前と異る所なけれども、都合により会場を二箇所に分つことゝなり、即ち四月五・六の両日は東京高等商業学校講堂に、七日は王子飛鳥山渋沢男爵邸内に開くことゝなれり。
      大日本米穀会第十一回大会日程
    ○四月五日(第一日)  会場 神田一ツ橋通 東京高等商業学校講堂
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  午後一時開会
    一、会員着席
    一、来賓着席
    一、会頭開会ノ辞
    一、農商務大臣告辞
    一、東京府知事祝辞
    一、来賓祝辞
    一、会員祝辞
    一、本部報告
    一、会長選挙
    一、提出案附議
    一、委員選挙
     休憩
    一、講演
    ○四月六日(第二日)    会場 前日ニ同ジ
  午前九時開会
    一、委員会
    ○四月七日(第三日)    会場 王子飛鳥山渋沢男爵邸内
  午前九時開会
    一、委員長報告
    一、提出案決議
    一、会頭閉会ノ辞
    一、会長ノ挨拶
    一、閉会
     正午十二時ヨリ渋沢男爵邸庭園ニ於テ懇親会開催
○中略
    ○大会第三日
四月七日午前十時半王子飛鳥山渋沢男爵邸内に於て開会
○中略
○会頭(志村源太郎) ○中略 又会場に付きましては、高等商業学校の御同情に依りまして頗る便宜を得ました、尚ほ又本日の会場、是は特に渋沢男爵の御好意を以ちまして斯の如き宏壮なる庭園を拝借することが出来、又雨天にも拘らず何等差障りなき斯の如き会場を得ましたことは、実に男爵閣下の御好意に依ることでございます、男爵が常に公共の為に尽されまして、広く門戸を開かれて一意専心公共に尽瘁されることは、既に諸君と共に我々の深く欽仰してゐる所でございますが即ち本日の此会場若くは引続いて懇親会場の御提供の如きは、実に私共の目前に見て感ずる所であります、切に此機会に於て諸君を代表し米穀会を代表して男爵閣下に感謝の意を表したいと存じます、之を以て閉会の辞と致します。(拍手起る)
次に渋沢男爵の有益なる講演あり、頗る満場を感動せしめたり、其筆記は紙面の都合により次号に掲載す
○下略

 - 第56巻 p.333 -ページ画像 

竜門雑誌 第三六六号・第一一―一五頁 大正七年一一月 ○実験論語処世談(第四十回) 青淵先生(DK560091k-0006)
第56巻 p.333-336 ページ画像

竜門雑誌  第三六六号・第一一―一五頁 大正七年一一月
    ○実験論語処世談(第四十回)
                      青淵先生
    △米屋の総会で演説す
 同じく多人数の寄り集つた場所で談話をするにしても、聴いてくれる人々に、それが感応すると否とで、自分の談話の実の入り方も、自然違つてくるものだ。迚ても渋沢は出席せぬだらうと思つて居る処へ私が忽然現れて演説でもすれば、会衆が意外に之を歓んで、つまらぬ私の意見でも、熱心に聴てくれるやうな場合なぞもある。そんな時には私も亦、意外に話勢が弾んで、長談義になるやうな事が無いでも無い。最近に於て、米屋の総会で私が演説したときなんかは、自分ながらも不思議に気が進んで思はず熱心になつてやつたかのやうに思ふ。畢竟集つた米屋さん達が、私の演説に感応してくれたからであらう。会衆の感応すると否とは、談話をして居るうちに、妙に其れと感知して来るものだ。
 私は、仏蘭西から帰つて来て実業で身を立てやうとした時から、日本で一番大切な物産は、米と生糸とであると考へ、同姓の喜作が実業に就かうとする際にも、之に勧めて糸屋と米屋とを開店さした次第は既に談話したうちにも述べて置いた通りであるが、喜作の子の義一は横浜に糸屋を持つてると同時に、今日でも東京の深川に廻米問屋を経営して居る。同所の渋沢商店が乃ち其れだ。こんな関係から年年開会せらるゝ全国の米屋を網羅する総会を、本年は私の王子の邸内で開くやうにしたら何うだらうとの議が起り、私も之に同意したので、本年の総会は私の王子の邸内で開かるゝ事になつたのである。私は会場の主人であるからといふので一席の談話をするやうにと頼まれて演説したのだが、全国から集つた米屋さんの数は千三百人ほどもあつたらう皆な能く熱心に面白がつて聴てくれたもんだから、私も遂ひ乗地になつて話したのであるが、中には越後から来た人なぞもあつたものと見え、六月上旬(大正七年)北越地方を巡遊した際に遇つた人で「どうも、米屋の総会で御演説に成つたうちの、国民の辞職だけは能きぬとの御話は大変面白く拝聴しました」なんかと言つてくれた者もある。
    △唐子西の「古硯銘」に就て
 米屋の大会で私が演説した趣旨は、大要斯うであつた。
 私は七十七歳の喜の字祝ひの年齢を迎ふると共に、自己の生産殖利事業とは一切の関係を絶ち、実業界から引退してしまつたが、それでも国民を辞職して 陛下に対する義務から逃れるわけには行かぬのである。恰度それと同じやうに、如何に生産殖利の事業を離れたからとて、私も日本国民の一人として生きて行かねばならぬ以上は、どうしても、米を食はねばならぬのだ。生産殖利の事業と一切縁を断つてしまつたから、米は昨日から食はぬといふわけには行かぬのである。私のみならず苟も日本人で米を食はぬといふ者は唯の一人も無い。随つて、米屋商売は日本で最も重要な家業であると同時に又、貴い商売である。然るに、これほど日本で重要な商売でありながら、今度の戦争で、そこにも此処にもウヨウヨと成金が出来、鉄成金、船成金なぞの
 - 第56巻 p.334 -ページ画像 
多く現出せるにも拘らず、米屋で成金になつた者は、まづ以て一人も無いと称して不可無しだ。私は元来成金を好まず、自分も成金とならず、又成金にならうともし無いのであるから、米屋に今度の戦争で成金になつたものゝ無いといふ事は、頗る愉快に感ずる処である。――まづ冒頭に斯う話して置いて、それから「古文真宝」にある唐の唐子西の「古硯銘」の文を引照し、更に談話を進めたのである。
 ――硯と墨と筆とは共に用途を等ふするもので、同じく書画を認めるに用ひられ、硯のある処には墨あり、墨の在る処には必ず又筆がある。然し、その寿命に至つては三者各々其の期を異にし、硯は年を以て寿命とするほどで幾年経つても殆んど同じだが、墨は摺つて使ふうちには減つてしまつて影も形も無くなり、唐子西の語を以てすれば、その寿命は月を以つて計らねばならぬものである。筆に至つては一層寿命が短かく、五六日も激しく使へば、既う寿命が切れて使用に堪へ得られず、棄てゝしまはねばなら無くなる。かく硯と墨と筆との間に寿命の相違を生ずるのは、筆は最も多く動くもので、墨之に次ぎ、硯は殆んど動かぬものであるからだ。兎角、動くものは寿命が短く、動かぬものは寿命の長いのが法である。さればとて、何んでも動きさへせねば寿命は長いかといふに爾うでも無い。仮令へば筆を動かさずに之を其儘臥かして置いたからとて、迚ても万年の寿命を保ち得らるゝ望無く、そのうち蝕が食つて猶且使へ無くなり、寿命を喪つてしまうに至るが如き、乃ち其の一例である。蓋し、筆は動を以つて其用の体とするに拘らず、之を動かさずに其儘静かにして置くからだ。硯は動かさずに置くので寿命の長いものであるには相違無いが、よしや之を動かしたからとて、爾んなに早く磨滅してしまうものでも無い。蓋し硯は静を以て其体とするからである。
    △仲小路農相の米価調節策
 総て何物に就ても、其の体に従つて之を用ひ、其用途を過まらぬやうにするのは、頗る大事なことで適才を適所に配し、其処を得せしむるといふのも、畢竟するに、この意の外に出でぬのである。硯は、静を以て其体とするが故に、これを静かにして置けば其存在の意義を全ふして寿命長く、筆は動を以つて其体とするが故に、之を動かして頻繁に使へば、寿命は短いが玆に其存在の意義を全ふし得らるゝのだ。世間の数多い職業のうちにも亦、硯の如く静を以て其用体とするものもあれば、筆の如く動を以つて其用体とするものもあり、又硯と筆との中間に位する墨の如き用体のものもある。米屋は之を譬ふれば唐子西の「古硯銘」にある硯の如きもので、静を以て其体とし、動きの少ない商売である。動かぬ商売である丈けに又利が薄く、今度の戦争があつても、船や鉄のやうに激しい変動は米価の上に来らず、随つて米屋で成金になつたものは、殆んど一人も無いのだ。然し、かく米価には変動の少ないものである丈けに又、米屋の躓いて破産する者なんかも至つて稀れである。就方かと言へば、米屋は頗る安全な商売だ。危険が少ない。米屋を商売にする者は、斯く危険の少ないのに満足し、如何に利益が薄いからとて、之に不平を抱かず、悦んで其家業に励精し、之れで日本国民の生命を繋いで行くのだとの大抱負の下に、如何
 - 第56巻 p.335 -ページ画像 
にすれば米価を安くするを得べきかを考慮し、農作法の改良、取引法の改善に意を注ぎ、一生懸命業務に励むべきである。市価に変動多く動を以て其性質とする如き商売は、利益の多い代りに又危険も多く、誰でも行れるといふ商売では無い。寧ろ、米屋商売の安全なるに如かずである。――斯う私が演説したのであるが、それが幸ひにも、来会者の気に入つて大にウケたのは、私の頗る愉快とする処である。
 それに就て思ひ起したのは、昨今喧しい米価問題だ。これは私が米屋の総会でした演説とは、全く何の関係も無い事だが、仲小路農相の如く、政府の干渉によつて、果して米価を引き下げ得らるゝものか如何かは、随分問題であらうと、私は思ふのだ。世の中といふものは何に限らず絶へず動いて居るもので、寸時たりとも静かにして止つてるものは無い。上りもすれば下りもする。物価に絶へず変動の生ずるのも、世の中が絶へず動いて居るより来る事である。世の中にある総ての物が動き、随つて物価の動くのが天則であるのに、独り米価をのみ人力によつて動かぬやうにしようとしても、それは到底能きるもので無い。
    △多少の干渉は必要なり
 米価が下落した――これでは農民も地主も困るからとて、釣上げ策やら調節策に苦心して切りに騒ぐ。さう斯うして居るうちに今度は米価が反対に昂騰して高くなる――これでは一般が生活難に追はれるからとて、米価の引下げ策を講ずる。これは恰度一人の医者が一方の袂に緩下剤を入れ、他方の袂に固腸剤を入れて置き、糞便が結するからと患者が言へば、一方の袂の中にある緩下剤を出して之を服ませ、それを服んだ為に下痢するからと言へば、今度は他の袂の中にある固腸剤を出して服ませ、それで又結するやうになつて困ると言へば、又前の緩下剤を出して服ませるといふのと同じで、斯う人の身体を玩具の如くにイヂリ散らせば、遂には丈夫な身体までも之を不健康の病体にしてしまう恐れがあるやうに、政府の無理な干渉は却つて、米価自然の調節力を傷ふに至る危険無しとせずだ。米価のみならず何事に対しても、余りに不自然の措置を取る事は、益が無いのみか却つて害になる。政府の力を以てさへすれば、如何に不自然な事でも之を為し遂げ得らるゝものだと思つたら、それは飛んでも無い料簡違ひである。米価は船で動かすやうな調子で、政府の意のまゝに動かし得らるゝのもで無い。
 維新前、江戸の町奉行は其命令によつて、市内の米価を一定さした事がある。殊に、之は天保の頃に劇しく行はれた模様であるが、昨今仲小路農相の米価引下げに就て腐心せらるゝ状態を観るに、或は仲小路農相は昔の町奉行気取りになつて居らるゝのでは無からうかとも思ふ。然し、昨今は非常の時であるから、多少人力によつて干渉し米価を引下げるやうにせねばならぬものかも知れぬ。一体、今度欧洲戦争といふものが頗る不自然のものであるのだから、その間に米価の騰貴などに就ても不自然なところがあるに相違無いのだ。この不自然を矯めて米価を自然のものとするには、猶且多少は不自然な干渉を政府の手で試みねばならぬ必要もあらう、この点に於ては、私も仲小路農相
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の政策に飽くまで反対の意見を懐くもので無いのである。たゞ、之によつて政府の力を過信し、政府の力を以つてさへすれば、何事でも成らぬといふ事無く、米価も之を意のまゝに動かし、黒い物をも白くし得らるゝものだと仲小路農相に考へられては甚だ困る。
○下略



〔参考〕渋沢栄一 日記 大正四年(DK560091k-0007)
第56巻 p.336 ページ画像

渋沢栄一 日記  大正四年     (渋沢子爵家所蔵)
一月廿七日 晴
○上略 午前十時事務所ニ於テ、渋沢義一・上原豊吉二氏来訪、米価調節問題ニ付種々ノ討議ヲ為ス ○下略
   ○中略。
二月三日 夜来ノ雨ハ歇ミタレトモ天気曇リテ気候少ク暖ナリ
午前七時半起床入浴シテ朝飧ス、畢テ日記ヲ編ス、新日本ノ実業社員来リ、米価調節問題ニ付質問アリ ○下略
   ○中略。
三月十五日 晴
○上略 午後六時再ヒ帝国ホテルニ抵リ、米穀商組合ヨリ案内セラレタル祝宴ニ出席ス、蓋シ先年其取引上ニ付起訴セラレタルモ、無事終局シタルヲ祝スル為開宴セルナリ、来会者四十名余、原・岸両弁護士アリ食卓上一場ノ演説ヲ述ヘ、夜十時過散会帰宿ス ○下略



〔参考〕渋沢栄一 日記 大正九年(DK560091k-0008)
第56巻 p.336 ページ画像

渋沢栄一 日記  大正九年      (渋沢子爵家所蔵)
三月二日 曇 寒
○上略
鵜沢聡明氏来《(鵜沢総明)》リテ、深川米商ニ関スル件ニ付内話ス ○下略



〔参考〕集会日時通知表 昭和五年(DK560091k-0009)
第56巻 p.336 ページ画像

集会日時通知表  昭和五年       (渋沢子爵家所蔵)
九月十一日 木 午前十時 日本米穀会役員諸氏来約(飛鳥山邸)