デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

2部 実業・経済

7章 経済団体及ビ民間諸会
2節 其他ノ経済団体及ビ民間諸会
10款 日本経済聯盟会
■綱文

第56巻 p.344-346(DK560093k) ページ画像

昭和5年4月30日(1930年)

是日、日本工業倶楽部ニ於テ、当会第八回定時会員総会開カレ、栄一、名誉会員ニ推薦セラル。


■資料

中外商業新報 第一五八八七号 昭和五年五月一日 渋沢子を名誉会員に 経済聯盟総会で推薦(DK560093k-0001)
第56巻 p.344 ページ画像

中外商業新報  第一五八八七号 昭和五年五月一日
    渋沢子を
      名誉会員に
        経済聯盟総会で推薦
日本経済聯盟会では卅日午後四時から丸の内工業クラブに第八回定時会員総会を開き、昭和四年度事業報告及び会計報告承認の件並びに昭和五年度予算案を附議、いづれも異議なくこれを可決したる後、定款改正に基く名誉会員推薦の件附議、満場一致を以て本邦財界の功労者子爵渋沢栄一氏を右名誉会員に推薦することに決定した、なほ評議員改選の結果はいづれも再選重任(百六十六名)し、更に左の諸氏新任された、
 法人(三名) 理化学興業会社会長子爵大河内正敏、明治生命保険会社専務藤田譲、芝浦製作所社長岩原謙三
 個人(十八名) 石井健吾・西野恵之助・星野錫・小倉正恒・武智直道・長尾良吉・中村房次郎・松永安左衛門・増田義一・深井英五・男爵深尾隆太郎・三好重道・白石元治郎・男爵四条隆英・諸井恒平森賢吾・森広蔵・遠藤三郎兵衛
次で評議員会開催、理事五十名選挙の結果は現在の四十六名(うち植村澄三郎・伊東米治郎の両氏辞任)いづれも再選重任、更に左の諸氏新たに当選就任した
 片岡安・武智直道・牧田環・阿部房次郎・三谷一二・森広蔵
更に理事会開催、会長には団琢磨男を続いて推薦することゝし、常務理事相互の結果は左の諸氏当選就任した
 常務理事(一八名) 井坂孝・伊藤次郎左衛門・稲畑勝太郎・池田成彬・堀啓次郎・大橋新太郎・大沢徳太郎・渡辺千代三郎・鹿島房次郎・男爵団琢磨・串田万蔵・藤山雷太・児玉謙次・男爵郷誠之助・阿部房次郎・木村久寿弥太・湯川寛吉・土方久徴


青淵先生職任年表(未定稿) 昭和六年十二月調 竜門社編 竜門雑誌第五一九号別刷・第二五頁 昭和六年一二月刊(DK560093k-0002)
第56巻 p.344 ページ画像

青淵先生職任年表 (未定稿) 昭和六年十二月調 竜門社編
                竜門雑誌第五一九号別刷・第二五頁 昭和六年一二月刊
    昭和年代
 年  月
 五  五 ―日本経済聯盟会名誉会員―昭、六、一一。



〔参考〕日本工業倶楽部廿五年史 同倶楽部編 上巻・第三六二―三六六頁 昭和一八年一二月刊(DK560093k-0003)
第56巻 p.344-346 ページ画像

日本工業倶楽部廿五年史 同倶楽部編
 - 第56巻 p.345 -ページ画像 
                   上巻・第三六二―三六六頁 昭和一八年一二月刊
 ○第弐編 戦後の反動時代
    第二十七章 日本経済聯盟会の創設
 英米訪問実業団が帰朝するや、其の土産の一は日本経済聯盟会の創設であつた。実業団は華盛頓に於て商務長官、後に大統領となつたフーヴァー氏及合衆国商業会議所会頭デフリーズ氏の主催に係るメトロポリタン倶楽部の晩餐会に臨み、同商業会議所の組織に付深く心を動かす所があり、又英国に於ては、各地の商業会議所が政府の方針に対して貢献をして居る実情を見、後巴里訪問の際前労働長官クレマンテル氏司会の下に国際商業会議所の午餐会に招かれ、日本として国際商業会議所に加入すべく慫慂されたのである。然るに我国を代表して国際商業会議所に加入せんとするには、実業団体としては当時商業会議所聯合会があり、本工業倶楽部もあり、其の他幾多の地域別及業種別経済団体存在して居たが、未だ我国実業界を全般的に代表すべき有力なる実業団体が無かつたため、こゝに国際商業会議所に加入すべく気運の到来を機とし、法的に選挙による組織にあらずして事実的に有力なる実業家の団体を結成し、広く国民経済的観点より財界各方面の意見を綜合統一する機関たらんことを期し、大正十一年八月一日日本経済聯盟会の創立を見るに至つたのである。
 その組織並に機能は北米合衆国商業会議所に範を取り、その会員には先づ我国に於ける有力なる各種経済団体を網羅し、又本邦経済界の実体を為す主要法人企業を加入せしむると共に我国に於ける有力実業家を参劃せしめ、外に於ては我国経済界を代表して国際商業会議所に加盟して海外実業団との聯絡提挈を密接にし、内にありては重要なる財政経済問題を調査研究して国家の経済政策の樹立に協力し、我国民経済の発展と我国実業界の進歩向上に貢献せんとするものであつた。其の設立趣意書は次の如くである。
 我国の経済界は輓近其範囲の拡大に伴ふて益々其利害の複雑を致し為に全般の協同一致を期すること頗る困難なるの現状を見るに至れり。蓋し近代国家の重大なる利害休戚は大半懸りて経済問題に存するを以て、此等の問題に対し常に進て代表的意見を立て、一は以て一般経済界をして其の帰嚮する所を覚らしめ、一は以て政府をして産業政策上其の拠る所を知らしむるの必要なるは固より多言を須ひす。而して此目的を達せんには一国の経済力を集中団結し、各方面の意見を綜合統一するに足るへき組織を有する一大実業団の出現に竢たさる可からす。吾人は我国運の進歩に鑑み斯る集団の活動を希望する所以のもの最も其の切なるを感せすんはあらさるなり。試に時局の現状を以て之を観るも、物価政策の如き、輸出促進問題の如き、或は工業の整理と謂ひ、或は税制の釐革と謂ひ、其他産業に関する法規の改正、労働問題の解決、一として我経済界に於ける重要案件に非るは莫く、今や上下を挙て其対策に思を労し、而かも未た大に其効果の見るへき無き所以のもの、畢竟各人区々の利害に局蹐して毫も統一的意見の帰決を得るに由なく、一般経済界をして其嚮背に迷はしむるか為にして、如上の問題に対し進て適切なる意見を
 - 第56巻 p.346 -ページ画像 
定め其対策を講し、之をして中外に其の重きを為さしめ、且政府をして国策上に資する所有らしむるもの、固より財界に於ける集団的勢力の権威に依らさるを得す。吾人は特に時局対応の一途として、此際速に此方面に向て何等か措画するの頗る喫緊なるを認む。
 加是近時国際経済の関係は交も錯綜連繋し、通信交通の事、貿易産業の問題等最早国際的見地から離れて各国独自の解決を許し難きに至れり。以是曩に国際商業会議所の設立有り、既に十七個国の加入を見、昨年倫敦に於て第一回の総会を開き、各国共通の経済問題に関し極めて適切なる審議を累ね、慣習法規の統一、商工業の改善に対し寄与する所尠からす、吾人は国際経済上我国現下の地位に鑑み同会議所に加入するの急要を認むると共に、之れか前提として速に有力なる経済団体の組織を希望して已まさるなり。
 吾人胥謀りて玆に日本経済聯盟会を設立せんと欲するもの実に以上の趣旨に出つ、蓋し英米諸国に於ける国民経済の進歩、一般産業の発達か此種団体の活動に負ふ所鮮少に非るは敢て絮説を要せす。其の戦後の頽勢を挽回し来りて、漸次恢復の途に向へるもの渠等の力与て其の多きに居る。吾邦の如き戦後経済の局面に処して未た大に施設の見るへき莫く、而して今や早くも欧米新進の競争に対し脅威を感せんとするに至る。実に慨歎に堪へさるなり。庶幾くは実業界有識の士相率て本会の設立に協戮し、居然たる集団の力に依り常に公議を秉りて我財界を指導啓発し、一旦必要あらは進て朝野の間に行動し、海外諸国に対しては本邦経済社会の代表的重鎮と成り、以て我産業の発展国運の進歩に貢献せられんことを。
  大正十一年七月二十日
    創立発起人
     井上準之助    内藤久寛  池田謙三
     男爵中島久万吉  井坂孝   串田満蔵《(串田万蔵)》
     大橋新太郎    藤山雷太  和田豊治
     男爵郷誠之助   団琢磨
 経済聯盟会創立に付本倶楽部全部を加盟せしむべく交渉があつたが本倶楽部員の加盟は各自の自由として、本倶楽部は十月二十日の理事会、同月十三日の評議員会に於て社団法人日本工業倶楽部として之に加盟することゝなつた。
○下略