デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

補遺・追補

1章 補遺
節 [--]
款 [--] 7. 国際通信株式会社
〔第三編 第一部 第六章学術及ビ其他ノ文化事業 第五節新聞・雑誌・通信・放送〕
■綱文

第56巻 p.658-666(DK560148k) ページ画像

大正3年4月2日(1914年)

是年三月、栄一ノ主唱ニヨリ、当会社ノ前身タル合資会社国際通信社設立セラル。栄一、相談役トナル。是日、帝国ホテルニ於テ、設立披露午餐会開カル。栄一出席シ、主人側ヲ代表シテ挨拶ヲ述ブ。爾後栄一、当会社発展ノタメ尽力スルトコロ少ナカラズ。


■資料

渋沢栄一 日記 大正三年(DK560148k-0001)
第56巻 p.658 ページ画像

渋沢栄一 日記  大正三年      (渋沢子爵家所蔵)
一月二十二日 晴 寒気強シ
○上略 十時樺山愛輔・米人ケネジー氏来リ、国際通信業ノ件ニ関シ、ケネジー氏昨年六月本邦
発途以降欧米各地ニテ尽力セシ大要ヲ述ヘ、且ロイテル社トノ通信契約ニ関スル顛末ヲ詳述ス、依テ当方爾来ノ手配ヲモ略述シ、書類ハ速ニ弁護士ニ命シテ翻訳セシムル事ヲ托ス ○下略
   ○中略。
一月三十日 晴 軽寒
○上略 午飧後 ○中略 樺山氏来リ、国際通信事業ニ付談話ス、井上・成瀬・串田諸氏ト爾来ノ成行ヲ談ス ○下略


竜門雑誌 第三一一号・第七九―八〇頁 大正三年四月 ○国際通信社設立披露(DK560148k-0002)
第56巻 p.658-659 ページ画像

竜門雑誌  第三一一号・第七九―八〇頁 大正三年四月
○国際通信社設立披露 此程成立を告げたる合資会社国際通信は、四月二日正午、帝国ホテルに内外新聞通信社員四十余名を招待して午餐を供し、席上青淵先生は主人側を代表して一場の挨拶を述べ、近来の我国情、並に我国に於ける出来事の動もすれば海外に誤解さるゝことあるが為め、特に実業界に於ては、一の国際的通信社を設立して、我真相を海外に紹介するの必要益々大なるを認め、余自ら主唱して之が
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設立を計れるに、幸ひに東京・大阪に於ける二十余名の銀行家並に実業家の出資賛同を得て、今回其成立を見るに至れり、其目的は既に述べたるが如く、海外に対して正確なる通信を供給し、同時に東京に於て一の日刊新聞を発刊するにあり、出資社員は八十島親徳・樺山愛輔の両氏にして、実務経営者即総支配人はケネヂー氏なり、願はくば諸君の御賛同を望むと云ひ、之に対し、日本人側を代表して本野英吉郎氏、外人側を代表して神戸ヘラルドのカーチス氏謝辞を述べ、三時散会せり
因に記す、同社の資本金は拾万円にして、前記の如く有力なる銀行家実業家二十余名の出資になり、一の組合を作りて、青淵先生に依托し先生は更に樺山・八十島両氏の名に依りて会社を設立し、隠然社務監督の任に立たるゝ次第なりといふ


渋沢栄一 日記 大正三年(DK560148k-0003)
第56巻 p.659 ページ画像

渋沢栄一 日記  大正三年      (渋沢子爵家所蔵)
五月一日 半晴 軽暖風強クシテ砂塵多シ
○上略 九時過番町ニ於テ加藤外相ヲ訪ヒ、倉知氏ト共ニ中日会社ノ事及日米関係ノ事、国際通信社ノ事ヲ談ス ○下略


渋沢栄一書翰 八十島親徳宛 (大正三年)五月二〇日(DK560148k-0004)
第56巻 p.659 ページ画像

渋沢栄一書翰  八十島親徳宛 (大正三年)五月二〇日  (八十島親義氏所蔵)
○上略
国際通信社之義ニ付来示拝承、外務よりの入金ハ安心仕候、将来之補助ニ付、もし書面ニて確約と申迄ニ不相成候とも、せめてハ次官と只申合位にても出来候様いたし度ものニ候、精々樺山君と御協議可被下候、且又大坂・神戸ニ於る三氏へ之催促ハ、時々支店之主任ニ御引合可被下候
○中略
  五月廿日北京客舎ニ於て
                       渋沢栄一
    八十島親徳様
            梧下
八十島親徳様   渋沢栄一
             直披
「大正三年五月廿日支那北京《(朱書)》より」


(阪谷芳郎) 大日本平和協会日記 大正三年(DK560148k-0005)
第56巻 p.659 ページ画像

(阪谷芳郎) 大日本平和協会日記  大正三年
                     (阪谷子爵家所蔵)
○六月三十日 渋沢男ヨリ五月廿七日付ケネジー氏来状ヲ示サル、五月廿五日付同人ヨリボールス氏宛書状同封アリ(濠洲通信ハ同人ニ於テ計画セルコトヲ述フ)
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渋沢栄一 日記 大正四年(DK560148k-0006)
第56巻 p.660 ページ画像

渋沢栄一 日記  大正四年      (渋沢子爵家所蔵)
一月廿五日 晴
○上略 十一時事務所ニ抵リ、更ニ銀行集会所ニ抵リテ午飧ス、後国際通信社ノ件ニ関シテ小野・成瀬・串田・樺山・八十島諸氏ト談話ス、安川敬一郎氏来話ス ○下略
   ○中略。
三月八日 曇又雨
   ○本文略ス。
(欄外記事)
午後二時頃ヨリ国際通信社ノ事ニ付樺山・小野・串田・八十島氏ト会合シテ種々ノ協議ヲ為シ、向後経営ニ付テノ一案ヲ議定ス
        ○下略


竜門雑誌 第五二〇号・第一〇六―一一一頁 昭和七年一月 渋沢子爵を偲ぶ 下村宏(DK560148k-0007)
第56巻 p.660-661 ページ画像

竜門雑誌  第五二〇号・第一〇六―一一一頁 昭和七年一月
    渋沢子爵を偲ぶ
                      下村宏
   左記は本会 ○国際聯盟協会理事下村博士が去る十一月十一日、本会及東京市共同主催の朝日講堂に於ける「平和記念日と渋沢子爵追憶の夕」に於て講演されたものを、更に博士の御加筆を乞ふて本誌に掲載する次第である。
○中略
      四
 尚ほ子爵が国際関係として力を尽された事業の一に、国際通信といふ問題があります、大正三年でありましたか、シーメンス事件が起つて、之にロイターの通信員が関係して居りましたが、その時は日本に独立したる日本のナシヨナル・ニユース・エーゼンシーといふものがなかつた、それで日本から外国に出す通信は全部外国人のレポーターの手によらねばならぬ、それでは真の日本の立場を外国に通信し、宣伝する事が出来ない、何時も外国への通信は、日本に居る外国の大なる通信社、例へば英吉利のロイターであるとか、亜米利加のエー・ピーであるとか、ユー・ピーであるとか、さうした通信社の特派員のみに依つて紹介される事は動もすれば日本の真相を誤り伝へる、それで日本はどうしても日本独立の通信機関を持たねばならぬ、この意味から子爵が発起されて同好の人達を集め、毎年少からぬ私財を醵出されて、国際通信社なるものを創立されたのであります。それが後年東京の六つの新聞社と大阪の二つの新聞社との非営利組合よりなる今日の新聞聯合社に引継がれる事となつたのであります、私も新聞人となりまして以来、国際間の通信、殊に海外に送らるゝ通信の重大さにつきしみじみ感ぜさせられます。今回のやうに満洲事変が起ると新聞聯合社の海外への送信そのものはもとより、聯合社の人達は日本に居る各国のレポーター達より、あれはどうした理由か、どうした歴史沿革があるのか、何故か、どうかと絶えず同じプレス・サークル仲間として顔を合せ、談じ合つて居るので、さういふ人達と意思の疏通聯絡を保
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ち、日本の真相を紹介し、その質問に答へ、それがレポーターに依つて欧米にそれぞれ送信せられる、それは新聞聯合社が世界の各ニユース・エーゼンシーと連絡を執つて通信を交換する以外に、どれだけ日本事情の海外への通信に重要なる役割をつとめて居るか、誠に想像以上であります。而してこの事業が全く渋沢子爵の創意に依り蔭になつて多年少からぬ犠牲を払はれて今日を見るに至つたのであります。
○中略
            (「世界と我等」十二月号 ○昭和六年所載)


日米外交史 川島伊佐美編 第二八四―二八六頁 昭和七年二月刊(DK560148k-0008)
第56巻 p.661-662 ページ画像

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渋沢子爵と国際的新聞通信事業 岩永裕吉稿(DK560148k-0009)
第56巻 p.662-665 ページ画像

渋沢子爵と国際的新聞通信事業 岩永裕吉稿
                     (財団法人竜門社所蔵)
渋沢子爵が明治維新以来我国に起つた各種の産業の殆んど全部の創設者ならずとするも、尠くとも其の最も有力なる創立者の一人であられたことは、広く世間に知られてゐることでありますが、同子爵が我国の国際的新聞通信の事業に於ても亦創始者であり、其の後も終生此の事業に多大の関心と興味をもつて指導奨励を続けて居られた事実は、比較的知られて居らぬことであると思はれるので、小生は、自分が国際通信社の専務取締役として、又其の後現在の新聞聯合社の専務理事として、其の事に当つて居つた関係上、折にふれ子爵より国際通信社を初めて我国に創立された当時の事情を伺つて居つた処を、同子爵の伝記編纂資料の一助として玆に書き連らねて見ます。

大正二・三年の頃、山本内閣の当時、所謂シーメンス事件なるものがあつて、我国の海軍当路者の或る者が、独逸のシーメンス会社から我が海軍用品を購入するに当つて、不正を行つたことが、偶々独逸の法廷に於て他の事件の審理中に明らかになり、それがロイテル通信社のニユースとして東京のロイテル出張所へ電報されたのであるが、当時のロイテル東京出張員であつたプーレーは奇貨措くべしとなし、此の電報を種に時の政府を脅迫して大問題を起したことがあり、それがため、子爵は今更の如く国際的ニユースの取扱ひの頗る大切であることを痛感されたのであるが、実は其の以前にも何かの事件でプーレーがロイテル通信員として渋沢子爵にインタービユーを求めた際、ニユースの公表方法について、何か頗る子爵の感情を害した傲慢不遜の言を弄したことがあつたので、旁々子爵は我国にも是非とも英国のロイテル、米国のアツソシエーテツド・プレス又は仏国のハパスの如く、ニ
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ユースの国際的通報を日本独自の見解に立つて取扱ふ通信社即ちナシヨナル・ニユース・エゼンシーを建設することの必要を感じて居られた。然るに、同年の暮、偶々当時米国のアツソシエーテツド・プレスの東京特派員として永く日本に滞在して、我国の朝野に広き知己を持つてゐたジヨン・ラツセル・ケネデー氏が、紐育の本社より、セントピータースボルグに転勤を命ぜられ、其の送別会が帝国ホテルで催された際、其の席上で故高峰譲吉博士から、折角今日まで永い年月日本に駐在し、我国の朝野に多くの友人を持ち、最もよく日本及日本人を理解して居り、而かも其の才幹経験に於て既に定評あるケネデー君の如き新聞記者を、日本から失ふことは甚だ惜しいことである。出来得ることならば同君を東京に止めると共に、此の際我々に於て今日日本に欠如して居る国際的の通信社を作り、同君に其の経営の任に当つて貰ひたいといふ様な話が出たので、渋沢子爵初め列席の人々は直ちに之に同感の意を表し、ケネデー氏自身の意嚮を確めた処、若し日本の有力者諸氏が此の如き日本の通信社を作られるならば、自分は欣むで日本に止つて、其の通信社のために畢生の努力を致すべしと答へたので、玆に話は急激に進展して、渋沢子爵を中心とし、故井上準之助氏故小野英二郎氏・樺山愛輔伯が主唱者となり、朝野の有力者を説いて新通信社設立に要する十万円の資金を集め、合資会社国際通信社を作り、ケネデー氏を雇つて其の総支配人とし、玆に兎に角、我国に於けるナシヨナル・ニユース・エゼンシーの礎石が築かれたのである。
そこで此の新通信社の経営を引受けたケネデー氏は、早速紐育へ急行して、当時のアツソシエーテツド・プレスの主脳者であり、世界の新聞界に不朽の名を垂れた故メルビル・ストーン氏に此の趣を報告し、其の助力を求めた処、ストーン氏は日本が自から其のナシヨナル・ニユース・エゼンシーを作らんとする希望に対して満腔の同情を表し、快よくケネデー氏の辞職を許し、同時に今後の好意ある援助を約束すると共に、元来国際的の新聞通信の事業は、英国のロイテル通信社を中心に、世界各国のナシヨナル・ニユース・エゼンシーによつて組織さるゝ所謂世界通信社の聯盟に加入しなければ、到底満足の効果は挙げ得られぬ、如何に日本の国際通信社が努力しても、一個の力で世界全体のニユースを日本に蒐めることは不可能であるし、又日本のニユースを海外に伝へるにしても、海外に於て国際通信社のニユースを受取り、之を新聞社に配布する相手方がなければならない。のみならずアツソシエーテツド・プレスを初め世界通信社聯盟に加入して居る通信社は、何れも加盟社以外の外国通信社とは共助の関係を結び得ない約束になつてゐるのであるから、国際通信社としては、何よりも先づロイテルと話をして、其の聯盟に日本を代表して加入することが肝要であるから、取敢えず倫敦に急行してロイテルと協議したらよからうとの注意を与へ、直ちに筆を取つて当時のロイテルの社長たるロイテル男爵宛にケネデー氏の紹介状を書いてくれたので、ケネデー氏は早速紐育を立つて倫敦に赴き、バロン・ロイテルに面会し事情を話した処、バロン・ロイテルもストーン氏同様、日本のナシヨナル・ニユース・エゼンシー建設の希望には十分の理解を持ち、今後は国際通信社
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を日本のナシヨナル・ニユース・エゼンシーと認め、ロイテルは之と契約関係を結ぶことを快諾し、直ちに其の契約締結の交渉に取りかゝつたのであるが、何分にも当時日本の国力は今日の如くならず、又僅か十万円の資金を持つて初めて小さな通信社を作るといふ訳なので、ロイテルとの契約交渉に当つても、米・仏・独等の大通信社をロイテルと結んだ様な対等の契約を結ぶ訳に行かず、「ニユース」の交換配布其の他について片務的な幾多の制限を受けた上に、国際通信社は毎月二千円の手数料をロイテルに支払ふ約束をする必要があつたので、ケネデー氏は自己一個の所存でかゝる責任を引受けてよいかどうか、又将来国際通信社が右ロイテルへ支払ふべき手数料は勿論、之に伴ふ電信料等一切の費用をカバーするに足る購読料を、日本の新聞社から集め得るや否や頗る疑問であつたので、一切の事情を具し、長文の電報を以て、渋沢子爵宛、かゝる条件で契約に調印して差支へなきや否やを問合せて来たのである。然るに此の電報を手にされた渋沢子爵は固よりかゝる仕事には全く経験をもたれぬのみならず、日本に於て初めての企てなので、果して此の条件を容れ契約に調印してよいかどうかに付、甚だ判断に迷はれたのであるが、唯、大局より見て、今にして我国にナシヨナル・ニユース・エゼンシーを作らず、又世界通信聯盟に加入して置かなければ、将来之を作る機会はないかも知れず、又今設立して置けば、仮令それが不満足のもので、二等国・三等国の通信社並みに取扱はれても、他日の努力如何によつては、英米第一流の通信社並みに之を育て上げることも出来るとの見透しをつけられ、万一の場合は自分が全責任を負ふとの覚悟の下に、ケネデー氏宛契約調印差支なき旨を回答され、玆に国際通信社は始めて其の事業に着手し得たのである。 ○中略
而して其の間、国際通信社及之を継承した新聞聯合社が大正十二年及昭和四年並に昭和八年の三回に亘るロイテルとの契約改訂によつて、漸次其の国際的地位を高め、遂に最後に昨年の契約改訂に於て英米の大通信社と全然対等の地位を国際通信界に作ることになつたのであるが、若し初めに渋沢子爵が一大決心を以てケネデー氏の請訓に無条件の同意を与へ、国際通信社を成立せしめて置いて下さらなかつたならば、今日我新聞聯合社は存在しなかつたであらうし、又我日本は猶依然として或は外国通信社のニユースのダンピング・マーケツトになつてゐたかも知れないのである。
今日、我国の新聞紙上に掲載さるゝ外国ニユースで「聯合」と云ふクレヂツトを附してあるものは、凡て昔日の国際通信社の後身である今の新聞聯合社の供給するニユースであるが、之を国際通信社の創立された当時、我国の新聞に掲載された外国電報、主として所謂「ロイテル」電報と比較して見れば其の分量に於て約二十倍に上り、又其の内容に於ても、往時の如く唯受動的に「ロイテル」より供給されるニユースを其の儘取次ぎ報道するのでなくして、日本人の記者を世界各地に配置し又は締盟外国通信社に夫々の指令を発して、日本独自の立場及要求に応じ、自主的の見地から蒐集するニユースに代つて来たのである。換言すれば今日の新聞に掲載さるゝ外国ニユースは、往時の如
 - 第56巻 p.665 -ページ画像 
く外国通信社が「日本人をして知らしむべし」と考へたニユースにあらずして、日本人自から之を知らんと欲するニユースになつたのである。此の事は一般世人には殆ど気の付かぬ点であるかも知れぬが、我国の国際的生活上頗る重大な意義の存することであつて、仮に今日、日本の新聞と支那及欧米の小国の如く、自国に有力なナシヨナル・ニユース・エゼンシーを持たぬ国の新聞とを比較して見て、如何に之等の国の新聞紙に外国の宣伝ニユースが多く、又それが如何なる弊害を齎らしつゝあるかを考へて見たならば思ひ半ばに過ぎるであらう。
又我国より外国に通報さるゝニユースに就ても、国際通信社設立の以前は、我国に駐在するロイテル、アツソシエーテツド・プレス等二・三の外国の大通信社、若くは大新聞の特派員が彼等自身の見解から見た日本の事柄を、時々其の所属本社に通報するに止まり、我国の事情を海外の諸新聞に伝ふる方法は、殆どそれ以外になかつたのである。又国際通信社が出来た後と雖、最初の数年間は前に述べた通り、外国の大通信社との契約によつて色々の制限を受け、日本人自から日本を外国の新聞に語ることが出来ず、此の点に関する不満の声は高かつたのであるが、其の後我国の国力が次第に加はり、我国に関する海外諸国の注意が段々高まると共に、国際通信社及之を引継いだ新聞聯合社の業務も益々発展し、日本国内のニユースを蒐集する完全なる施設も整ひ、其の結果として、外国に対しても日本ニユースに関する優秀なサービスを与へ得るに至り、かくして外国の締盟通信社との関係も、数回の契約改訂によつて其の面目を一新して全然対等の立場に立ち、今日では、新聞聯合社の蒐集する日本及極東のニユースは、同社内に駐在する各国の締盟通信社の特派員によつて、夫々本国に盛に通信さるゝと共に、新聞聯合社自から無線電信によつて、日本及極東のニユースを日本文及英文にて全世界に放送し、それが満洲国・支那・シヤム・南洋方面は勿論、英・仏・独を初め殆ど凡ての欧羅巴諸国によつて受信され、之等各地の新聞に日々掲載さるゝに至つたのである。而して今日新聞聯合社がかゝる発展を遂げ、国家有用の機関となり得たことは、其の原因に遡れば、一に国際通信社の設立に其の端を発してゐるのであつて、此の意味に於て当時一大決心を以てケネデーの氏ロンドンよりの請訓に対し「諾」と云ふ回訓を与へ、以て国際通信社の基礎を築かれた渋沢子爵の先見と決断に対しては、日本国民全般が感謝しなければならぬと思ふ。
○下略


ジャパン・タイムス小史 同社編 第四三―四四頁 昭和一六年三月刊(DK560148k-0010)
第56巻 p.665-666 ページ画像

ジャパン・タイムス小史 同社編  第四三―四四頁 昭和一六年三月刊
    国際通信社の設立
 これより先明治四十二年八月、渋沢栄一氏を団長とする実業視察団がアメリカ太平洋沿岸各商業会議所の招待に応じて渡米し、約三ケ月間に亘つて各地を視察した時、渋沢翁は日本の国情が余りにも理解されてゐないことを実地に見聞して、有力なる対外宣伝機関の必要を痛感した。爾来、翁はその宣伝機関の設立に尽力して来たが、愈々大正三年三月二十五日国際通信社の創立を見るに至つたのである。
 - 第56巻 p.666 -ページ画像 
 この会社は、資本金十万円の合資会社で、樺山愛輔氏が業務執行社員、代表者が当時のロイテル通信員ケネデー(J.R.Kennedy)であつた。この国際通信社は、大正十五年四月東方通信社と合併して新聞聯合社の創立となつた。
 ケネデーは明治四十年来朝、ロイテル通信員として活躍する傍、わが国実業家の間に信頼を博してゐた。そして、国際通信社の総支配人となつた。この国際通信社の設立には、タイムス社長であつた頭本元貞氏の努力があり、タイムスと国際通信とを包括する企ては頭本氏の考へから出発したやうに思はれる。
 頭本氏は渋沢翁との関係から国際通信でも有力な位置に居たが、その設立を見るや、一般の予期に反して、ケネデーがその経営に当ることゝなり、その設立趣意が通信社と英字新聞の連絡を円滑にして、対外宣伝の強化を計るにあつた為め、タイムスの経営もケネデーの手に託せられるに至つた。こゝに於て日本の通信宣伝が、尚ロイテルから独立する機会を失つたのである。併しながら同通信社は、佐藤顕理・毛利八十郎氏等を擁して日本が欧米宣伝の犠牲となることから免れることを得た。



〔参考〕渋沢栄一 日記 明治四二年(DK560148k-0011)
第56巻 p.666 ページ画像

渋沢栄一 日記  明治四二年      (渋沢子爵家所蔵)
六月二十八日 雨 冷
午前 ○中略 石井外務次官 ○菊次郎ヲ訪ヒ、米国通信ノ事ニ談《(関)》シ談話アリ、実業家十四名来会ス ○下略
   ○中略。
七月三日 曇 冷
○上略 十二時帝国ホテルニ抵リ、頭本元貞氏通報社ヲ米国ニ設立スル為メ渡航スルヲ送別ス、実業界ノ同人二十余名来会ス、食卓上一場ノ送別辞ヲ為ス ○下略