デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

3部 身辺

1章 家庭生活
1節 同族・親族
2款 親族
■綱文

第57巻 p.59-66(DK570024k) ページ画像

明治43年5月27日(1910年)

是日、栄一妹渋沢貞子逝ク。翌四十四年十一月、栄一、長女穂積歌子ニ墓誌ヲ撰バシメテ自書ス。


■資料

渋沢栄一 日記 明治四三年(DK570024k-0001)
第57巻 p.59-60 ページ画像

渋沢栄一 日記  明治四三年     (渋沢子爵家所蔵)
五月三日 曇 軽寒
○上略 血洗島ナル貞子ノ病気近頃重体ナル由ニテ本日篤二見舞ノ為メ往訪セシカ、其模様宜シカラストノ事ニ付、明日出張ノ事トシ、入沢博士同行診察ヲ請フヘキ事トシテ篤二ト打合ハセ此夜其手配ヲ為シタリ
五月四日 晴 軽寒
午前六時起床入浴シテ後朝飧ヲ食シ、八時過王子発ノ汽車ニ搭シテ八基村ニ抵ル、穂積・阪谷二氏モ停車場ニ相会シテ同車ス、十一時頃深谷ニ達シ、夫ヨリ人車ニテ血洗島ニ抵リ貞子ノ病ヲ訪フ、大患ナリ、回復覚束ナシ、午飧後鎮守諏訪神社ヲ参拝シ、田圃ヲ散歩ス、病ヲ見舞フ人多ク来会ス、午後五時入沢博士、篤二同行ニテ来診ス、是ヨリ先地方ノ医師斎藤増次郎氏来リ、患者ノ病状ヲ詳話ス、入沢氏ノ診察ヲ待テ向後ノ処方ヲ協議ス、午後七時夜飧シ、入沢氏ト共ニ八時過深谷発ノ汽車ニテ十時半王子ニ帰宿ス
   ○中略。
五月二十五日 曇 暖
○上略 午後五時頃郷里ヨリ病人危篤ノ事ヲ報シ来ル ○下略
五月二十六日 晴 暖
午前六時起床入浴シテ後朝飧ヲ食シ、直ニ支度ヲ整ヒ七時王子発ノ汽
 - 第57巻 p.60 -ページ画像 
車ニテ血洗島ニ抵リ、貞子ノ病ヲ訪フ、疲労甚シキモ精神ハ尚存セリ病室ニ於テ容体ヲ察スル事少時、後午飧シテ来診ノ医師ト談話ス、穂積・阪谷・篤二夫妻皆来会ス、午飧後鎮守ノ神社ヲ参拝シ、且田園ヲ散歩ス、午後四時三十分深谷発ノ汽車ニテ帰京ス、篤二夫妻ハ一泊シテ病者ヲ看護ス
此日兼子・愛子モ同伴ス、深谷ヨリ汽車中雷気アリ、東京ニ達スル頃雷鳴強ク雨大ニ至ル
五月二十七日 曇 暖
午前七時起床血洗島ヨリ電報アリテ病人愈危篤ノ事ヲ通知セラル、直ニ入浴シ且朝飧ヲ食シ、兼子・愛子ヲ伴ヒ八時発ノ汽車ニテ血洗島ニ抵ルモ、既ニ死去ノ後ナリキ、依テ家人等ト葬儀ニ関スル手続ヲ談ス午飧後モ死者埋葬ニ関スル順序ヲ協議ス、且種々ノ準備ヲ為ス、此夜血洗島ノ家ニ一泊シテ、夜飧後死者ノ側ナル一室ニ於テ家族ト共ニ懐旧ノ談話ヲ為シ、夜十二時過就寝
五月二十八日 曇 暖
午前七時起床八時朝飧ヲ食ス、後葬儀ニ関スル庶務ヲ協議ス、又墓所ヲ一覧ス、午飧後死者納棺ノ事アリ、後柩ヲ参拝ス、午後三時十三分深谷発ノ汽車ニテ帰京ノ途ニ就ク、兼子・篤二夫妻・穂積歌子・重遠等同伴ス、六時半王子着、高橋波太郎来リテ弔詞ヲ述フ ○下略
五月二十九日 雨 暖
午前八時起床入浴シ畢テ朝飧ヲ食ス、後日記ヲ編成ス、増田明六来リ今日血洗島ニ抵リテ明日ノ葬儀ニ付テ準備ヲ為ス事ヲ指示ス ○下略
五月三十日 晴 暖
午前五時半起床入浴シ畢テ朝飧ヲ食ス、七時自働車ニテ兼子・愛子同伴血洗島ノ葬儀ニ赴ク、九時半深谷ニ抵リ此日東京ヨリ会葬人ノ為メニ設ケタル場所ヲ一覧シ、十時頃血洗島ニ抵ル、午飧後葬儀アリ、来会スル者頗ル多シ、埋葬畢テ午後五時頃ヨリ血洗島ヲ発シ七時過キ帰宿ス、帰途ハ武之助・正雄モ同乗シ一家五人一車ニテ家ニ還ル ○下略
   ○中略。
七月十一日 曇 暑
○上略 午前八時二十分王子発汽車ニテ八基村ニ抵リ、清光院ノ七七忌日ニ参列シテ墳墓ニ詣ス、僧侶近親会スル者四・五十人許リ、共ニ午飧シテ後往事ヲ談ス、午後四時半深谷発ノ汽車ニテ帰京、此日兼子・正雄に愛子同伴、三田ニテモ篤二夫妻、穂積・阪谷等皆来会ス ○下略


(八十島親徳) 日録 明治四三年(DK570024k-0002)
第57巻 p.60-61 ページ画像

(八十島親徳) 日録  明治四三年   (八十島親義氏所蔵)
五月五日 晴 暖 風アリ
○上略 血洗島渋沢市郎氏夫人即青淵先生令妹数年来ノ病気(肺壊疽)頃日重態ニツキ ○下略
   ○中略。
五月二十六日 晴夕雷雨
血洗島令夫人容体益危篤ノ報アリ、男爵及篤二殿等一族今朝同地ニ赴カル ○下略
五月廿七日 晴
 - 第57巻 p.61 -ページ画像 
○上略 血洗島令夫人終ニ本日朝逝去、男爵ハ今朝又同地ヘ参ラレ今夜ハ通夜ノ上明日帰京ノ筈
○下略
   ○中略。
五月卅日 快晴
○上略 十二時血洗島着、葬儀ハ午後一時ヨリ門内ノ平庭天幕張内ニテ執行、行列ヲ作リテ場内三周半(骸ハカメニ入レタル上更ニ箱コシニ入レ布ノ綱ヲ作リテ夫人連之ヲ行ク《(引カ)》、又元治氏夫人・治太郎氏夫人等ハカツギヲ被リ膳部等ヲ持チテ三周半、中々太儀ニ見受ク)後中央ノ場上ニ柩安置、読経焼香終リテ邸附近ノ道路迂回、行列ヲ作リ墓地ニ至ル、前記式場四周ハ村民男女蝟集、殊ニ習慣ニ基ツキ銭撒キヲ為シタルトキノ如キハ頗雑沓セリ
埋葬稍終ラントスル頃辞シ、四時半深谷発車ニテ帰京 ○下略


竜門雑誌 第二六五号・第六四頁 明治四三年六月 ○渋沢市郎氏夫人の逝去(DK570024k-0003)
第57巻 p.61 ページ画像

竜門雑誌  第二六五号・第六四頁 明治四三年六月
    ○渋沢市郎氏夫人の逝去
青淵先生御生家(武州八基村大字血洗島)の当主渋沢市郎氏の夫人にて先生の令妹に在はす貞子の方は久しく病気療養中なりしが、薬石効を奏せず、五月二十七日午前十時を以て溘焉逝去せられたり、当年五十九歳なりと云ふ、葬儀は同月三十日にて、東京よりは青淵先生・令夫人・令嬢・渋沢本社長・穂積博士・同令夫人・阪谷男爵・同令夫人を始めとし、親戚知己の方々数十名の会葬者あり、同日午後一時仏式を以て荘厳なる葬儀を執行せられ、青淵先生御一門は即日御帰京あらせられたり、本社は玆に謹で哀悼の意を表す。


渋沢栄一 日記 明治四四年(DK570024k-0004)
第57巻 p.61-62 ページ画像

渋沢栄一 日記  明治四四年     (渋沢子爵家所蔵)
八月十日 雨 冷
○上略 七時過朝飧ヲ食シ後清光院墓誌ノ一文ヲ草ス、畢テ之ヲ清書シテ穂積歌子ニ書状ヲ添ヘテ送致スルモノトス ○下略
八月十一日 晴 暑
○上略 静浦ナル穂積夫妻ヘ各通ニ書状ヲ送リ、一ハ師弟関係ニ付テノ議論、一ハ清光院ノ墓誌ニ付一文ヲ草シテ送リ遣ス ○下略
   ○中略。
八月十五日 曇 暑
午前六時半起床入浴シテ後読書シ、又穂積歌子ヘ静浦宛ノ一書ヲ発送ス、清光院ノ墓誌作文ニ関スル往答ナリ
○下略
   ○中略。
八月二十七日 晴 暑
午前七時起床入浴シテ朝飧ヲ食ス、後元治ノ来訪ニ接シテ清光院墓碑ノ事ヲ談ス ○下略
   ○中略。
九月十日 晴 暑
○上略 渋沢元治氏来リ、清光院墓誌ノ事ヲ談ス ○下略
 - 第57巻 p.62 -ページ画像 
九月十一日 晴 冷
○上略 此日ハ午前ヨリ清光院ノ墓誌ヲ揮毫ノ為メ来人ヲ謝絶シ、勉強従事ス、午前十一時頃ヨリ着手シ午後三時頃ニ至リテ成ル ○下略
   ○中略。
九月十三日 雨 冷
午前七時起床入浴シテ朝飧ヲ食ス、後渋沢市郎来訪ス、頃日揮毫シタル清光院ノ墓碑文ヲ交付シ○下略
   ○中略。
十一月二十七日 晴 寒
午前六時半起床入浴シテ朝飧ヲ食ス、此日ハ旧里ニ仏事アルニ付午前八時二十五分王子発ノ汽車ニテ罷越ス、王子ヨリ阪谷夫妻同行ス、十一時深谷ニ抵リ十一時半八基村ニ達ス、先ツ仏前ノ回香アリ、畢テ午飧ノ会食アリ、食後墓参ヲ為シ、今回落成セシ清光院ノ墓碑ヲ一覧ス午後二時旧里ノ家ヲ辞シ、手計ニ抵リ尾高氏ノ墓所ヲ参拝ス、午後三時半深谷発ノ汽車ニテ帰京ノ途ニ就ク、六時王子着直ニ帰宅ス ○下略


清光院墓誌(拓本写真版)(DK570024k-0005)
第57巻 p.62-63 ページ画像

清光院墓誌(拓本写真版)         (渋沢元治氏所蔵)
(正面)
清光院良範貞淑大姉
(側面)
 渋沢市郎夫人貞子刀自は市郎右衛門君の二女にして、御母はゑい子とまうし、男爵渋沢栄一君の御妹なり、嘉永五年十二月六日武蔵国榛沢郡血洗島村に於て生れ給ふ、文久の昔男爵の君国事に尽す所あらむとて父君に暇請はせられて郷里を出で給ひける折、御姉仲子君は早く吉岡家に嫁きておはしましゝかば、跡目は貞子にと仰せられしかど、父君には思す旨ありて許し給はさりけるを、維新の後男爵の君官職に就かせられ、東京に住みつかせ給ひければ、再び強いて父君に請ひまうして縁戚なる須永才三郎ぬしを迎へ、刀自を配せて家を継がしめ給ひけり、今の市郎ぬしこれなり、刀自能く良人を助け子弟を教へ家政を修め給ふのみならず、慈愛深く義侠の心に富み親疎となく人の為に謀ること忠実におはしましゝかば、於のづから一郷の婦人の良模範として推し尊まれ給ひけり、御年五十を越えてより病がちにて年頃を経させ給ひけるが、明治四十二年の夏男爵の君本邦実業団の長となりて渡米の途に上らせ給ふ前つかたには、稍おこたりさまになり給ひて一日兜町の家を訪ひまして兄君に対面し給ひける折、男爵の君の老いて益々壮なるを喜ばれ、おのれも今より一きは療養につとめ元のごとくすくよかなる身になりて御帰を待ち奉らむと契らせ給ひけるが、それはたあだとなりて其年の冬御帰朝の頃には又しもあつしく悩ませ給ひ明くる四十三年五月二十七日五十九の御齢を一期として血洗島の家にて終に身まからせたまひけり、刀自の御性雄々しく厳なるは父君に、心こまやかに慈悲深きは母君に、胸豁く思慮に富めるは兄君に似させられ、かつ御ものいひいと巧に若き人々を訓へ導き給ふ折などは比喩を設け詼謔の辞をさへまじへて談笑の間に義理を知らしめ給ふこと多かりき、年若き頃より家業なる農事を重むし給ひ、養蚕はた藍の製造
 - 第57巻 p.63 -ページ画像 
には御齢傾き御身弱らせ給ひける後だにも、猶自ら労き勉め給ひき、又常に自ら奉ずること極めて薄くして人に接することいと厚く、能く勤倹の徳を守り給ふものから慈善の事或はさるべき要とあるすぢにはつゆばかりも物惜み給はず、分を守り足を知り、事に当りて義に勇む気象をはしましけり、されは長き年月病の床に起臥し給ひけれども、いさゝかも悶えかこち給ふことなく、今はの御有様も大悟徹底したる尊きひじりのそれにも似させ給ひてけり、誠に刀自の如き人をこそ天命を楽みて疑はす、大節を守りて変せざるものとは称へ奉るべけれ、御子は三人にて、長女米子は幼くして身まかり、長男元治は電気工学を修めて工学博士となり現に職を逓信省に奉せられ、二男治太郎は分家して農桑の業を治めらる、男爵の君は刀自とは御年十あまり二を隔て給ひたれど、御心の合ひたるどちにて敬愛の念いと厚くおはしまし継嗣の事につきても深き情義のあらせられし程なるを、今ゆくりなくたゞ此一人の妹君を先立て給ひて御歎きたくへむかたなく見えさせ給ひけるが、今年一周忌の追福に元治・治太郎が請ひまうすにより墓誌撰文の事とり行ひ給ふに当り、歌子は幼きより刀自の恵を受け訓を蒙りてちなみいと深ければ、我に代りて行状をものせよかし、そをわれ書きしるさむには亡き人の心にもかなひつへきをやとの仰せこと受けまつりて、今更に哀慕の思に堪へず、身におはぬことゝ知りつゝも辞みまうさむに言葉なく、涙と共に謹みて御墓誌をしるし奉るになむ
  明治四十四年十一月廿七日      穂積歌子誌
          従三位勲一等 男爵 渋沢栄一書
            従六位工学博士 渋沢元治
                         建
                    渋沢治太郎
                      吉川黄雲刻


竜門雑誌 第二六七号・第三八―三九頁 明治四三年八月 ○故渋沢貞子夫人の逸事(DK570024k-0006)
第57巻 p.63-65 ページ画像

竜門雑誌  第二六七号・第三八―三九頁 明治四三年八月
    ○故渋沢貞子夫人の逸事
 本年五月二十七日不帰の客となれる渋沢市郎氏夫人貞子の方の逸事を御兄君の青淵先生に伺ひ参らせたるに、先生がいとも打湿めりてお物語りありし概略左の如し(記者識)
 私は貞子が十二の時であつたと思ふ。家の事には何等の気付も持たずに実家を出て仕舞ふたが、明治十五年に死なれた先妻は留守中余程困難な位置に居つた。固より先妻の生家は豊ではなし、且つ私の処へ嫁いでから其里方には屡々災難が重なつて家産は段々衰へて、自分の嫁いだ家から厄介を受ける、さうして夫は家を出て仕舞つたといふ始末で、其当時の亡妻の困苦は容易の事でなかつた。小姑は動もすると母親に附いて、他から来た嫁を窘める迄に至らずとも、自然と疎んずると云うことは有勝ちである。所が先頃死なれた貞子は至つて親切で私の不在中、蔭になり、日向になツて亡妻を庇護されたと云ふことで私が家を持つて再び亡妻と一緒になつたとき、貞子は誠に善い心掛であツたと云うて亡妻が頻に其事を称賛して居た。
 夫れから私が東京住居をするやうになツたので、亡妻も田舎に居る訳に行かないで東京へ来ることになつたが、貞子は真の姉妹の如く別
 - 第57巻 p.64 -ページ画像 
れを惜んで歎いたといふ、此事は美事と云うても宜いやうに思はれる
 既に貞子も廿歳を越え、私は家を出る、姉は外へ嫁いで、家督を相続する者がないので、予ての私の希望と父の遺言に基き母と相談の上従兄弟同士であるが、須永伝蔵の弟を聟に迎へることに定めた。是れが現在の市郎です。市郎は純粋の百姓で、是れと云ふ学問があるでもなければ、名誉心があるでもない。極く質樸篤実なる田舎者であるが謹直に家政を守つた為めに、今では先づ田舎では相当なる財産家と云はれるやうになツた。是れと云ふのも夫婦の間柄睦じく、貞子の内助が与つて力あるを疑はない。
 又良範貞淑大姉の貞子は人に抵抗することは嫌ひで、人と能く相和すると云ふのが彼の長処であツた。私とは大分歳も違ふが、箸の上げ下しにも何でも東京の兄さんの指図を受けなければいかぬと云つて、一切万事私の旨を受けて家政を処理すると云う風であつた。此点に於ては私は巧に貞子に利用をされた訳です。夫等に就ても貞子が市郎に大なる助けを与へたと云つて宜からうと思ふ。
 丁度五年許り以前に病を発したが、まだ歳が若いからモウ少し長く生かして置きたくもあり、家政も困難でないから病を癒やす為めには費用が掛つても仕方がないではないか、湯治にでも行ツて充分療治するが宜いではないかと云ツて、側から八ケましく言うたけれども、習ひ性となツて居るので、ドウも田舎の百姓が湯治三昧をすると云ふことは何やら曲事でもあるかの如く考へて中々応じない、余りひどく言ふと、アナタも一体御病気には無頓着ではありませぬか、マアそれも左様だと其儘棄置いたから仕舞には酷く悪くなツたので、平塚へ行ツて治療して居たが、近頃は稍々快いと云つて一旦国へ帰つた。夫れから又去年の春大分悪かツたので日本橋の岡田病院へ入院して居た。
 所が私が亜米利加へ行くと云ふことを、新聞で知つたと見えて、六月に此処(兜町の事務室)へ尋ねて来て、近日亜米利加へお立ちださうですが、私も大分快くなりました。これではお帰りまで持ちさうです。もう病院に居ないでも善いやうに思ひます。長い旅を為さるのは御無理ではありませんか。私の旅を案ずるよりは自分の体を大事にするが宜い、お前よりは私の方が長命をする、お前は余程気を付けないといかない。マアさうもありますまいと云ツて別れた位。
 夫れから十一月かに喀血したといふ。私が帰朝までは六ケしからうと親戚一同が気遣つた。幸に持ちまして此春になツて面会した。お目に懸ることが出来ないかと思ひましたが、誠に喜ばしいと云ツて非常に悦んだ。自分では成べく悪いと云ふ顔を見せるのが嫌で、死ぬよりもソレを厭ふと云う位で、見舞に行つても少し苦しくなると彼方へ行ツて呉れといふ。蓋し想ひやりの劇しい神経過敏といふ方であつた。それが早く死ぬ一の性質かも知れない。五月の廿六日に行ツたときは大分悪かつたが、尚ほ二・三日持つだろうと思ツたが、廿七日には既に遅し、それが最期であつたといふ訳です。
 田舎言葉で言語抔は余り綺麗ではなかつたが、妙に人をして情意を感ぜしめたり、一寸した事にも人の頤を解かしたり、又物事を逆に言うて理解させるとか、或は諧謔の言葉を用ゆるとか、父親が話上手で
 - 第57巻 p.65 -ページ画像 
したから、ソレに似たものと見えて余程話は旨かツた。穂積の妻抔は頻に敬服して居る。自分の家で世話すべき子供を東京で学問させて呉れと云て三田の篤二の処へ頼んで置いた。所が田舎に病人や何か事があると、一寸人手を要するので、折角お頼したけれども一寸用があるからと云つて時々三田から連れて帰る。其洒落が面白い。篤二は貯蓄銀行の頭取をして居るので、
 貯蓄銀行へ子供を頼んであるから、都合のあるときは何時でも勝手に使ふことが出来て至つて便宜で善い
と病人ながら戯れを云うて居つた。惜い事に今四・五年生かして遣りたかツたと云ふのが私の殆ど終世の恨である。


渋沢おばさま 同追憶集刊行会編 第四〇―四一頁 昭和三一年五月刊 ○御遺稿 清光院さまの思い出二つ三つ(昭和十七年五月上旬稿) 渋沢孝子(DK570024k-0007)
第57巻 p.65-66 ページ画像

渋沢おばさま 同追憶集刊行会編  第四〇―四一頁 昭和三一年五月刊
 ○御遺稿
    清光院さまの思い出二つ三つ(昭和十七年五月上旬稿)
                        渋沢孝子
○上略
      (三) お兄さん
  (その二)
 おぢい様 ○栄一が明治四十二年に実業団の団長として御渡米遊ばすことになつた。丁度その時お母様 ○栄一妹貞子筆者の姑は日本橋の岡田病院に御入院中であつたが、御病勢はさして重くなく、外出も御出来になるのでおぢい様に御別れを申上げに兜町(日本橋区兜町の青淵翁邸、大正十二年大震災で焼失)へ御出ましになつた。私が御供をした。あの古典的な広い小暗い兜町の応接間の中にたつた御二人……私はわざと遠い所の小椅子に控えていた。御二人はさもさも親しげにおなつかしげにお話をおすすめになる。おぢい様が例のように「どうしてアメリカに行かねばならぬのか」「どうして御自身が団長にたたねばならぬのか」の理由をこまごまと御説明遊ばす、それに対して御母様は例のいとも明朗にチョイチョイとユーモアを交えての御応対、しかも打てば響くていの御返答におぢい様の顔には「ういやつ」「わかりのよいやつ」とでも仰せありたいような「御いつくしみのほほえみ」が浮んだ。世にも御仲の良い御兄妹のうつくしさ、理解し合つた御仲の明朗さ、そして二つの優れた人格の御ふれ合いの見事さを拝して、私は心が飛立つ程の嬉しさ有難さを感じた。遂におぢい様の長い長い御説明が終りを告げた時、お母様が実に見事な止拍子をおうちになつた。「まあまあ御元気に御働き下さいまし。しかし貴方がいくら豪くつても、そうそう一人では大変ですから私も御手伝いしますよ。病気の方はね私がすつかり引うけますよ。ですから御兄さんは安心して行つていらつしやい」と、お兄さんは安心して……「安心してか!」とその時おぢい様は始めは愉快げにお笑いになつたが、やがてしんみりと「まあそう言わず病気はなおした方が良いよ」とおつしやつた。そしてお二人がお顔を御見合せになつた瞬間、御言葉がなかつた。私は言いようもない気持になつて、目頭が熱くなりゆくのであつた。
○下略
 - 第57巻 p.66 -ページ画像 
   ○右ハ刊行ニ当リ追補ス。