デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

3部 身辺

1章 家庭生活
1節 同族・親族
2款 親族
■綱文

第57巻 p.70-71(DK570030k) ページ画像

明治44年11月1日(1911年)

是日、栄一外孫穂積律之助、榊季子ト結婚ス。栄一、日比谷太神宮ニ於ケル結婚式、五日、帝国ホテルニ於ケル披露宴ニ出席シテ、祝辞ヲ述ブ。


■資料

渋沢栄一 日記 明治四四年(DK570030k-0001)
第57巻 p.70 ページ画像

渋沢栄一 日記  明治四四年     (渋沢子爵家所蔵)
十一月一日 晴 寒
○上略 午後二時日比谷太神宮ニ抵リ、穂積律之助結婚ノ式ニ出席ス、畢テ帝国ホテルニ抵リ祝宴ヲ開ク、食卓上一場ノ祝詞ヲ述ヘ、夜十時散会帰宿ス
   ○中略。
十一月五日 晴 寒
○上略 二時帝国ホテルニ抵リ、穂積律之助婚儀披露会ニ出席ス、来会者頗ル多シ、四時食堂ヲ開ク、其前能楽ノ余興アリ、食堂ニテ媒妁人ヨリ披露ノ詞及斎藤海軍大臣ヨリノ答詞アリ、六時過散会ス ○下略


竜門雑誌 第二八二号・第六三頁 明治四四年一一月 ○穂積律之助君の結婚(DK570030k-0002)
第57巻 p.70 ページ画像

竜門雑誌  第二八二号・第六三頁 明治四四年一一月
○穂積律之助君の結婚 本社会員穂積律之助君は海軍機関総監福田馬之助氏並に同令夫人の媒酌にて、榊茂夫氏令嬢季子嬢と婚約相整ひ、去一日日比谷太神宮に於て華燭の典を挙げられたるが、引続き同夜帝国ホテルに於て親族知己の方々を招待して祝宴を開き、当月五日同処に於て披露の宴を張られたり。



〔参考〕青淵詩存 渋沢栄一遺著 孫敬三輯 第二五丁 昭和八年刊(DK570030k-0003)
第57巻 p.70 ページ画像

青淵詩存 渋沢栄一遺著 孫敬三輯  第二五丁 昭和八年刊
  送外孫穂積律之助官遊仏国 明治四十四年
書剣高歌年少場。巴城従是幾星霜。挙杯今日送行処。却覚人生客路長。



〔参考〕竜門雑誌 第三二〇号・第一八頁 大正四年一月 ○穂積工学士の帰朝祝宴に於て 青淵先生(DK570030k-0004)
第57巻 p.70-71 ページ画像

竜門雑誌  第三二〇号・第一八頁 大正四年一月
    ○穂積工学士の帰朝祝宴に於て    青淵先生
 本篇は別項記載の如く穂積工学士の帰朝祝宴席上に於ける青淵先生の追懐談なり(編者識)
穂積律之助の帰朝に就て今夕小宴を催して、仏蘭西に於ける耳新しい談話を一同と共に聴聞したことを深く喜びます、先年同人の日本を出発するに当り富士見軒に於て送別の宴が開かれた、其際私は一場の演説をなして律之助の年に私も仏蘭西に行つた、同じ二十八歳であつたといふことを申した、既に私の往昔の仏蘭西旅行が年を同うしたといふ因縁がある、それのみならず折も折とて其帰国に際して欧羅巴に大騒乱があつたが、私も僅に二年に足らぬ滞在であつたが其間に日本に大変動が起つて而も私の奉仕して居つた徳川家が亡びて後、私は喪家の狗となつて帰つて来たのである、故に彼此対照して昔を偲ぶことになるので、今夕律之助の旅行談にて仏蘭西に於ける戦時に斯ういふ困難があつた、斯様な感想も生じたといふことを詳しく聴くと、五十年
 - 第57巻 p.71 -ページ画像 
の昔を思出さざるを得ぬに因て、私の話は今日の若い連中を益する事ではないけれども、此中には私をお祖父さんと言ふ人が多いから其お祖父さんは其昔し左様な苦心をしたかといふことを知らしむるために当時の有様を玆に律之助の旅行談に対照して話して見やうと思ふのであります、想ふに此話は曾て雨夜譚にも出ました、又青淵百話にも載せてありますから、是等を見た人は概略存じて居りませうけれども、今玆に話す事は更に事実に就いたる節々を述べて見やうと思ひます。
○下略



〔参考〕渋沢栄一 日記 大正九年(DK570030k-0005)
第57巻 p.71 ページ画像

渋沢栄一 日記  大正九年      (渋沢子爵家所蔵)
一月三日 晴 風ナク寒威強カラス
○上略 午後五時頃ヨリ穂積重遠・同律之助・徳川武定氏等来ル、蓋シ律之助ト武定トハ呉鎮守府勤務ナルモ、新年ノ休暇ニヨリテ出京セシ由ニ付、一夕ノ小宴ヲ設ケテ招集シタルナリ ○下略