デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

3部 身辺

1章 家庭生活
1節 同族・親族
2款 親族
■綱文

第57巻 p.79-81(DK570036k) ページ画像

大正5年12月31日(1916年)

是日、栄一外孫明石静子逝ク。翌六年十二月、栄一墓誌ヲ撰書ス。


■資料

竜門雑誌 第三四四号・第九六頁 大正六年一月 ○明石静子嬢の逝去(DK570036k-0001)
第57巻 p.79 ページ画像

竜門雑誌  第三四四号・第九六頁 大正六年一月
○明石静子嬢の逝去 本社特別会員にして第一銀行京都支店支配人たる明石照男君の長女静子嬢(六歳)には、旧臘三十一日午後一時急病を以て逝去せられたる由


渋沢栄一 日記 大正六年(DK570036k-0002)
第57巻 p.79-80 ページ画像

渋沢栄一 日記  大正六年        (渋沢子爵家所蔵)
一月一日 快晴 寒
午前七時起床直ニ入浴シテ新衣ヲ着ケ、八時半祝杯ヲ挙テ雑煮餅ヲ食ス、但家人ハ昨朝明石静子ノ大患ノ報ヲ得タルニヨリ京都ニ赴クヲ以テ、新年ノ祝賀ヲ為スモノハ単ニ竹子アルノミナリキ○下略
一月二日 雪 寒甚シ
昨日ノ快晴ニ引替ヘ朝来降雪、午前七時起床入浴シテ後日記ヲ調査シ
 - 第57巻 p.80 -ページ画像 
且新聞紙雑誌類ヲ一読ス、今朝秀雄京都ヨリ帰着ノ報アルヲ以テ中央停車場ニ人ヲ送リテ之ヲ迎フ、九時過秀雄京都ヨリ帰京ス、明石家ノ近況ヲ詳悉ス ○下略
一月三日 快晴 寒甚シ
○上略 十一時帝国劇場ニ抵ル、途中本郷大学前ニ於テ正雄夫妻来会ス、蓋シ京都ヨリ今朝帰京セルナリ、依テ明石家ノ爾後ノ状況ヲ承知ス、正雄夫妻ト相伴テ劇場ニ抵リ、三田邸ノ三孫其他ノ青年輩ト共ニ活動写真ヲ一覧ス ○下略
一月四日 快晴 寒
○上略 午前九時半事務所ニ抵リ明石家ノ葬儀ニ関スル諸事ヲ整理ス、血洗島市郎氏ノ病気ニ付堀井医師ニ電話ニテ容体ヲ聞合ハス ○下略
   ○中略。
一月八日 晴 寒
午前七時起床風邪気ニ付入浴ヲ廃ス ○中略 岩崎男爵夫人来訪セラル、明石静子ノ死去ヲ弔スルナリ ○下略
   ○中略。
一月十日 晴 寒
午前七時起床入浴畢テ朝飧シ、八時過東京停車場ニ抵リ明石静子ノ遺骨ヲ迎フ、家族共ニ京都ヨリ来着ス、明石照男モ共ニ来ル、相逢フテ共ニ悲傷ス ○下略
   ○中略。
二月四日 晴 寒
○上略
午前十時半上野墓地ニ抵リ明石静子ノ墳墓ニ詣ス、玉串ヲ捧ケ水ヲ手向ケテ去ル ○下略


渋沢栄一 日記 大正七年(DK570036k-0003)
第57巻 p.80 ページ画像

渋沢栄一 日記  大正七年      (渋沢子爵家所蔵)
一月一日 晴夕曇 朝来晴天ナルモ夕方ヨリ少シク曇リタリ、寒気ハ昨日ニ比シテ減シタルヲ覚フ
   ○本文略ス。
(欄外記事)
去年ノ本日ハ京都ナル明石ノ家ニテ静子ノ急病ニヨリテ兼子ハ留守中ナリシモ、歳月匆々一年ヲ経過シテ逝ク者遂ニ帰ラサリキ


明石静子墓碑 (谷中明石家墓地所在)(DK570036k-0004)
第57巻 p.80-81 ページ画像

明石静子墓碑             (谷中明石家墓地所在)
(正面)
明石静子墓
(側面)
明石静子は明石照男の長女にして余の外孫なり、明治四十四年十一月二十四日東京なる西ケ原の家に生れ、四歳の時父の就任に従ひて摂州御影に徙り、後又京都に転居し、大正五年四月始めて高倉なる日彰幼稚園に入れり、資性頴悟にしてよく幼弟を慈しミ常に母を慕ひて其側を離れす、容姿はた端麗なりしかば人皆愛で喜ひたりしに、其年十二月疫痢に冒され、三十一日を以て京都大学病院に没せり、年僅に六歳
 - 第57巻 p.81 -ページ画像 
なり、同六年一月荼毘に付して東京谷中の塋域に葬る、嗚呼哀い哉、大正五年は余か喜字の齢に躋りたる年なれば、十一月十九日を以て子孫一族を飛鳥山の邸に招きて園遊会を開きたるに、静子も父母に従ひて京都より来り会せり、当日記念として撮影せる活動写真には幼弟と共に母の左右に従ひ嬉々として庭園を歩める愛らしき姿を遺せるに、図らざりき一ケ月の後に永き別れとなりて余をして人生朝露の嘆を深からしめむとは、況してさきに静子に寿せられたる余か、今は却て其墓石に表するをや、嗚呼哀い哉
  大正六年十二月       男爵 渋沢栄一撰並書 黄雲刻