デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

3部 身辺

1章 家庭生活
1節 同族・親族
2款 親族
■綱文

第57巻 p.103-114(DK570050k) ページ画像

昭和3年11月18日(1928年)

是日栄一、上野寛永寺ニ於テ、従兄尾高惇忠・同長七郎ノ法要ヲ営ミ、引続キ上野精養軒ニ於テ午餐会ヲ開キ、追懐談ヲナス。


■資料

(増田明六) 日誌 昭和三年(DK570050k-0001)
第57巻 p.103-104 ページ画像

(増田明六) 日誌  昭和三年     (増田正純氏所蔵)
九月十九日 水 雨                出勤
○上略
同三時半より丸の内事務処で子爵の召集ニ依る同族の集会があつた、小生と渡辺・白石両氏とも参加した
子爵より故晩香翁及尾高藍香・同長七郎両氏に対する謝恩之方法及今年米寿に際し諸方より祝賀を寄せらるゝに対する答礼の方法ニ就き各位の考慮を煩ハし度との御話ありて、種々意見を交換せらしが《(れ脱)》、結局
 - 第57巻 p.104 -ページ画像 
左の決定を為し、其実行に就いては左の委員に立案を請ふ事となつた
一晩香翁の伝記を作る事
二尾高藍香及同長七郎両氏ニ関する事項を記述してパンフレツトを作る事
三晩香翁の為に記念碑を血洗島ニ建つる事
四尾高藍香翁及長七郎両氏の記念碑を下手計に建つる事
五晩香翁及尾高藍香・長七郎氏三氏の為に十月廿九日東京上野寛永寺に於て法要を営む事
六本両件ニ関し左の諸氏に委員を嘱託する事
 渋沢武之助  渋沢秀雄  渋沢敬三
 増田明六   渡辺得男  白石喜太郎
○下略


招客書類(三) 【昭和三年十一月十八日(日曜日)故尾高藍香尾高東寧両先生ニ対スル謝恩追悼会】(DK570050k-0002)
第57巻 p.104 ページ画像

招客書類(三)              (渋沢子爵家所蔵)
    昭和三年十一月十八日(日曜日)故尾高藍香尾高東寧両先生ニ対スル謝恩追悼会
      順序
一、法要  午前十時寛永寺内仏堂ニ於テ法要ヲ営ムコト、寛永寺住職及伴僧拾名(導師共)参列、読経畢テ参列者一同焼香
一、午餐  凡正午ヨリ上野精養軒ニ於テ会食、表二階ヲ休憩室トシ裏二階ヲ食堂トス(二階ヲ全部使用スルコトヽナル)
一、渋沢子爵ノ謝恩談  食後休憩室ニテ御談話ヲ請ヒ、速記ヲトルコト
一、案内状  別紙案ニヨル
一、案内先  別紙調ノ通リ
(別紙)
    招待者氏名 ○略ス
(別紙)
    案内状案(確定分)
拝啓 益御清適の条欣慰の至に候、然者老生も明年は九十歳に相達候処、斯く長生致候に付て特に追懐感謝措く能はざるは尾高藍香・同東寧両先生にして、毎度御会話の際には断片的に当時の有様を御話し致候事も有之候得共、今般特に追悼会相催し、来十一月十八日午前十時より上野寛永寺に於て追福の法会相営み、畢て上野精養軒にて粗餐差上、同時に可成詳細に当時の追懐談等相試度と存候間、御繰合はせ御来会被成下度候、右御案内申上度如此御座候 敬具
  昭和三年十一月九日
                      渋沢栄一
(欄外別筆)
[之ハ高田利吉執筆シテ石版ニ付シ奉書巻書ニ印刷ニ付ス


竜門雑誌 第四八二号・第七八―九一頁 昭和三年一一月 尾高藍香・東寧両居士追悼会(DK570050k-0003)
第57巻 p.104-114 ページ画像

竜門雑誌  第四八二号・第七八―九一頁 昭和三年一一月
    尾高藍香・東寧両居士追悼会
 上野寛永寺の表門から玄関まで、白砂の上には箒の目が立つて、清
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清しくも晩秋の朝らしい静寂さである。時折思ひ出したやうに銀杏の葉が散つて来て、何時の間にか数を増してゐる。開け放たれた表玄関の敷台は冷たく光つてゐる。しかし此の日(十八日)青淵先生には、いとも温い心を持たれて、懐旧の情をそのまゝ渋沢家並に尾高家の近親の人々に分たうと、血縁でもあり、先輩でもあり、同志でもあつた藍香尾高惇忠・東寧尾高長七郎両居士の法要を此処に営まれるのである。
 午前十時と云ふにきつかり、青淵先生は令夫人と共に相変らずの慈顔を見せられる、その前後にそれぞれ出席の方々は自動車で乗りつけ控室に当てられた庫裡でしんみりと雑談を交して居られる。十時半頃全部の人々の顔が揃つたので、藍香院惇徳格知居士と何覚道応居士の御位牌を正面に安置した内仏殿へと一同移られ、正面に向つた大多喜守忍導師その他の僧侶を中央にして、左右の赤毛氈の上に居流れる。ゆるやかな読経の声に、暫し冥目する人もあれば、物を念ずるかのやうに正面に向つて居らるる人もある。読経が終り、導師が立たれると次の順序で焼香が行はれた。
           青淵先生     同夫人
           尾高定四郎氏   同夫人
           尾高文子氏    同豊作氏
           同夫人      同浩一氏
           同惇二氏     同格三氏
           礒長富美子氏   渋沢篤二氏
           渋沢敬三氏    穂積男爵母堂
           阪谷男爵     同夫人
           渋沢武之助氏   同夫人
           同昭子嬢     渋沢正雄氏
           同夫人      明石照男氏
           同夫人      同景明氏
           同春雄氏     渋沢秀雄氏
           穂積男爵     同夫人
           尾高鮮之助氏   同夫人
           同邦雄氏     同尚忠氏
           永田甚之助氏   同夫人
           斎藤精一氏    同夫人
           渡正監氏夫人   金杉台三氏
           同夫人      斎藤省三氏
           穂積律之助氏夫人 石黒しげ子嬢
           同元子嬢     市河三喜氏夫人
           大川鉄雄氏    田中栄八郎氏
           同夫人      渋沢元治氏夫人
           同享三氏     渋沢治太郎氏
           田辺武次氏    迫本実氏
           藤田好三郎氏   田辺文之助氏
           渋沢のぶ子氏   渋沢義一氏
 - 第57巻 p.106 -ページ画像 
           同夫人      石井健吾氏
           同夫人      織田国子氏
           関こよ氏     芝崎確次郎氏
           渡辺得男氏    白石喜太郎氏
           小畑久五郎氏   井田善之助氏
           鈴木勝氏     田島昌次氏
           芝崎猪根吉氏   岡田純夫
 法要が終つてから、上野精養軒にて午餐と共に青淵先生の追懐談があつたが、三々伍々自動車が寛永寺を出る頃から、曇つた空から小雨が追悼会にふさはしく降り出した。秋雨の上野に、青淵先生は維新前の若かりし頃を語られる。席は西洋式でも、著るものは洋服であつても、六十数年の昔に還つて、故人を偲ぶことが出来る先生は、実に懐旧の情に堪へぬと云ふ風で、席に飾られた藍香翁の写真や遺墨、長七郎氏の手紙など読まれた後、大体次の如く物語られつゝも、聴者が近親の人々のみであるから、教訓的に話される。
 私の心憶へを話すのであるから、そのお積りで聞いて貰ひたい。今日御追悼申上げた藍香先生又東寧居士お二人に対しては、私は普通の親戚以上に感じて居る、と云ふのは若くして生死を共にしようとした間柄であり、尚ほ次に述べるやうにいろいろの因縁があるからである。人の世にあるに付て運不運と云ふことがあります。同じやうに生ひ立ちながら、後に至つて相当懸隔を生じ、どうして斯うなつたかと疑はれることがある、尾高兄弟と私との関係に付ても此の疑ひの観念が今に於て更に強い。従つて身内の人々に、尾高兄弟と私とはかゝる関係であつたと云ふことを聞いて置いていたゞき、両方の親戚や子孫に伝へて、今後両家はいよいよ厚く交つて欲しい。かうした考へから此両人の位牌を私の家の位牌堂へ存置することに相談した訳で、此の位牌を尾高の方のみでなく、渋沢の方へも置いた理由を承知して置いて貰ひたい。今になつてことごとしいと云はれるか知らぬが、年をとると兎角昔のことを思ひ出すものである。然し私も斯の如き老人にならうとは思はなかつたが意外にも長生をした。これは私が悪いのではない。自然の成行だから仕方がない。其処で斯く取計つたのは斯様な訳からであると、両方の親戚が打寄つた所で話して置けば、私の思ひ入れを、皆も知つて呉れるだらう所謂心に存してもらふことが出来るであらう。いや心に存するのみでなく、書いた物を本として残さう。判りやすく編纂して置かうと思ふて居る。此事は以前から考へて居たことで、大正十二年と思ふが、上野寛永寺で追悼会を行ひ、二人のことを話したことがある。その筆記が此処にあるが、訂正しかけてそのまゝになつて居る。今日また話すのは焼直すやうになるが、古いものは古いもの、今日の話は今日の話で話す事にする。或は無駄な話が入つて長くなるかも知れぬが、暫く聴いて貰ひたい。
  世に運不運と云ふことがある。現在尾高兄弟と私とは殆んど同じ境遇で育てられた。然るに現に今皆は渋沢の話を尊敬して聞いて呉れるが、東寧の末路などは何んであゝ情ないか、藍香先生はさうで
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もなかつたけれども、さして云ふべき程でもなかつたことを考へると感慨に堪へない。では栄一が善で東寧が悪であつたかと云へば、さうではない。然るに天はどうしてさう云ふ差別をしたかを疑はざるを得ない。東寧の死んだのは、私が欧洲から帰つた明治元年の十一月十八日であつたと思ふ。昔の事ではあるが、何故の不幸であるか今に判らぬ。そして始終東寧は私の身の為め色々なことをして呉れて、遂に死んだやうなものである。二人の関係は撚合せた糸のやうであるが、話して行く内に成程さう云ふ訳かと判るだらう。
  物の順序として藍香先生と私の家との関係を云ふと、私の御父様は中の家に養子に来たので、本家は宗助と云ひ、私の御父様のすぐ姉様が藍香先生のお母さんで、お八重と云ひ、その夫は勝五郎と申された。であるから藍香先生と私とは従兄弟の間柄である。そして先生は天保元年生れで、私は天保十一年生れだから十歳ちがひであり、東寧は私より二歳上、私が子で東寧が戌であつた。藍香先生は私の学問の師匠で、大学や論語を教へられた。従つて同時に生ひ立つと云ふ風ではなかつたが、東寧とは共にいたづらをして、よく伯母さんに叱られたりした。又渋沢喜作は再従兄弟で年も同じく二つの違ひで同じ仲間であつた。藍香先生は子供の時分から優れて居つて、早くから書物を読み、立派な学者とは云へないかも知れぬが、中々学問のある人でした。血洗島一帯の風習として、七つ八つの頃から、一通りの漢籍を教はることになつて居つたが、私も其頃から御父様について四書五経の手ほどきをしてもらつた。其後「私が読むよりも新五(藍香)に頼んだ方がよい」と云ふので、藍香先生について学にいそしんだ。学と云ふと事々しいが、毎日今の時間で午前八時頃から十時頃まで素読を教はつた。子供の時の関係は他と別に変りはないが、近しい親戚であるから極く親しみがあり、よく泊つたものである。平素も面白いことがあれば互に知らせると云ふやうな有様であつたが、取り立てゝ話す程ではない。然し十五・六歳の頃からは更に親しみを深くすると同時に、時世に対して一種の観念を起した。これは学問上から起つたものであつた。藍香先生は君子人であつたが、不思議に子供の時から戦争ごつこが好きで、鎧を紙で作つて著てお山の大将で威張つたりした。一体優しい人であつたのに、さうした遊びが好きであつた。よく「尾高には紙の鎧が二通りもある」と云はれた程である。此の時分は日本では外国との関係が出来て、外交に関する議論が盛んに起つた。そして多くは攘夷であつたが、私達も志を合して人たるの効果を現はしたい、攘夷の実行をやり度いと考へるやうになつて来た。此事は悪く云へば野心を起した訳で、さう云ふ名誉心を出した。藍香先生の考へは野心ではなく、世の有様を憤慨して「これではならぬ」と云つて居た。そして撃剣の方は本家の宗助と云つた人があの辺の使ひ手で、若い頃新三郎と呼び、東寧なども門人であつた。宗助の師匠は川越の大川平兵衛で、大川(平三郎)や、田中(栄八郎)などのお祖父様で、神道無念流の先生であつた。兎に角あの地方の中心が、撃剣は新三郎、文学は藍香と云ふ風であつたから、東寧などは、百姓の子であ
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るのに、武士の如く育てられ、此の世の有様に就て色々な議論をすることを好んで、段々と進んで行つた。私も藍香先生や東寧を先輩としていろいろ指導を受けたが、関係が深かつただけ、同じ説を唱へると云ふ風であつた。
  先づ私の身上に就て話すと、ペリーが浦賀へ渡航して来たのは嘉永六年で、私が十四歳、藍香が二十四歳、東寧が十六歳の時であつた。それから日本の外国関係が複雑になり、国論が沸騰し、日本は国を挙げて心配した。藍香は支那の書物から外国の事情を知り、此方面の先覚者であつた。そして人と生れた以上どうしても政治上から、世の為めに尽さねばならぬと力説して居たので、私などが十四五歳になると「時にあの外夷のことはどうなつた」など訊かれた。一方学問の方も経書から歴史を読むやうになり、又海外のことも多少知るやうになつて来た。斯る関係から米の収穫の心配よりも、外交の有様を心配し、撃剣をはげむやうになつた。常に時世の成行に及び、仲間内の観念がその方に進んで行つたから、外夷に対してどうしたらよからう、かうしたらよいなどと頻りに論じた。そこでペリーが来朝した折なども藍香に「未来の外交はどう成ると思ふか」と質問したり、東寧などとは「かう成るだらう。これでは到底じつとしては居られぬ」と屡々話合つた。斯様にして居る内に御父様の代理として岡部の陣屋へ行き、代官某が我々百姓に対する有様を親しく見て、百姓を余りに蔑視するのに心持が悪くなり、撲りつけてやり度い程に思つたので、帰つてから其事を御父様に話すと「百姓であるからし方がない、さう云ふ世の中である」と訓戒せられ、又此事を藍香先生へも話して憤慨した処「乱暴な考へは起してはならぬ」と説得せられた。
  尾高長七郎は撃剣が強かつた。家は余り富んで居らず、横根の荻野と云ふ家に相当の負債があつたりしたので、私の父も奨め、藍香先生も賛成して、撃剣家にするがよいと云ふことになつて、江戸へ出、十七・八歳の頃から海保章之助の塾で学問をし、又伊庭軍兵衛に撃剣を学んだから、武士境遇になり、偶故郷へ帰ると、江戸の話をしながら、時世を大いに論じて居た。何んでも私が二十二の年であつたと思ふが、海保の塾へ来いと東寧から手紙で勧めて来たので藍香先生にも相談すると「都合がつけば行つた方がよい」と云ふので、三月ばかり行つて居たことがある。別に学問が進んだとも思はぬが、江戸の儒者の有様も判つた。その時東寧が塾頭であつたが、私は学問ばかりでなく、天ぷらを食ひに行くことなども稽古し、よいことばかり教へられた訳ではない。
  斯うして世の進みと共に、私共の知識も段々進んで来て「どうかせねばならぬ」と云ふ観念を一層強め、此処に藍香・東寧・喜作並に私等が蹶起することになつた。先づ長七郎は前にも話した通り江戸に居り、又各地方へも遊歴するので、本場の説を年に二・三度は来て話しました。さうして居る内に、万延元年には井伊大老が桜田門で水戸人に殺され、文久二年には安藤対馬守が坂下門で襲撃された。此の安藤を斬ると云ふに就て、文久元年の冬東寧もその仲間入
 - 第57巻 p.109 -ページ画像 
をすると云ふので、内相談に帰つて来た。今思へばハリスと安藤との間に日米協約を結ぶと云ふ時のことで、対馬守は老中としては物の判つた人であつたが、其の当時は夷人に妾の世話までするとは何たる腰抜であるかと云ふて、頗る評判が悪かつたのでした。此の対馬守襲撃は、大橋順蔵を初めとして児島とか河野とかその他水戸人が多く、文久二年の正月に決行すると云ふので、その前年文久元年の冬相談をまとめて居た。其処で喜作や私なども大いに不同意を唱へ、藍香先生も私等の意見に賛成した。「一安藤を斬つたとて第二第三の安藤がある。安藤を斬ることはよいとしても、それが為め沢山の勇士が死ぬのが惜しい。それに外夷に対しては何等の効能がないから、無駄である。若し長七郎が加担すれば犬死をせぬとも限らぬ。之は実につまらぬことである。それより、天下に大いなる変化を起すがよい。我々の力でも出来ないことはない。一つ我々で大暴動を起して、世の中の眠りを醒してやらう」と云つて、長七郎の安藤襲撃に反対した処、長七郎も同意したが、たゞ黙つて居ては男が立たぬと云ふので、藍香が江戸へ出て「その考へはよくないから、我々で不承知である、それで長七郎は襲撃には加はらぬから承知して貰ひたい」と参謀の児島に話して仲間入をせぬことにしました。然しさうなると我々の仲間で直接行動を採らねばならぬが、それは横浜を襲ひ、外人を追ひ、政府を立直さしめる。そして京都から幕府へ攘夷を命ぜられるようにする。我々がその急先鋒とならうと云ふので、藍香を中心にして種々評議した。結局兵力を以て押し出し外人を退去せしめ、そして討幕の勅諚を得ることが出来るならと考へ、建武の中興の際に於ける密勅や護良親王の令旨などの例を云ひ出し、一つの暴挙を企てた訳である。従つて上方の形勢を知る必要があるので長七郎が上京した。此の暴挙に参加した人々の名は悉く記憶して居ないが、藍香・東寧・喜作・私の外、同志によい人を加へねばならぬと云ふので、私が海保塾に行つて居た間に知合になつた真田・佐藤・横川・竹内等の剣士と隠然同盟を結んで談話をととのへ、いよいよ決行と定めて、京都の東寧を呼び返すことになり、武沢与四郎の父武沢市五郎を迎へにやりました。此の相談のまとまつたのは文久三年八・九月の交であつたから、御父様にそれとなく告別して置かねばならぬと云ふので、九月十三夜即ち後の月見の晩に、藍香・喜作に来てもらつて、御父様に話しました。「どうも現在の国の有様を此のままにして置くと、大混乱に陥る惧れがある。実際どう成るか判らぬのであつて、幕府のやり方は見て居られぬ。故に今我々が立たねばなりませぬ」と切りだしました。すると御父様は「家の方はどうする。御前は此家の相続人だと思つて居るのによくない考へである」と云はれる。私は暴挙のことは云はないけれども「兎に角相続することは出来ないから、是非許していたゞきたい」と頼んだ、お父さんとしては前に私の兄の市太郎と云ふ人が麻疹で死んでから力を落し、男の子は私一人故、常に心配して呉れたので、承諾されぬのも無理からぬ所である。然しどうしても私が自説を曲げない処から、遂に其の夜は議論に明けた。すると御父様は
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「とめると結局出奔するだらう。左様なつては困るから負けることにする。家の事はお前には頼まぬ。自分も十歳位若くなつた積りで働くことにしよう」と云はれるので「では勘当して下さい」と云ふ「いやそれはいかぬ。勘当はせぬ。たゞお前は亡きものと思ふて、妹もあることだから婿を取つて家を継がせる」と話合ひ、いよいよ藍香先生を大将にして直接行動に出ることになり、前申したやうに東寧を迎へにやつたのでした。
  此処に居られる石井さんの祖父に当る桃井可堂先生も恰度似た様な企てをせられて、一時は共にと云ふことであつたが、種類の異つた者が集つても面白くないと云ふので、事は共にしないことになつた。可堂先生の方は沼田城を陥れると云ひ、私共の方は高崎城を乗取ると云ふのであつた。兎に角私は御父様を説得し、同志の者は皆東寧の帰郷を待つた。そして帰つて来ると直ちに内軍議を初めた。処が初めは最も過激な暴挙論者であつた東寧が、暴挙に反対した。その理由は「最初天子御親らでなくとも、三条さんあたりからでも何かもらへると思つて居たが、現在の朝議は公武合体論が強いから何も出してもらへぬ。何もないのに暴挙をすれば賊徒となり、縛り首にされるだらう。我々は義兵なら挙げてよいが、賊になる為めに兵を挙げるのは愚な話である」と云ふ。私共に東寧は必ず喜んで賛成すると思つて居たのに、斯く反対するから大議論となつたが結局藍香先生が「上方の形勢が変化して来て、薩摩と会津とが一致するやうになつては何も出来ないから、暴挙は中止しよう」と云ふことで中止することになつた。予て著込や刀を買つて用意して居たが此等は全く無駄になつた。実際後で考へると長七郎の説は尤もであるが、当時はそれが分らず、反対するのは怪しからぬと云ふので、徹夜して論じ合つた。すると遂に長七郎が大声を出して泣き出した。まさか気が狂つた訳ではあるまいと思ひ「どうした」と聞くと「此様な志士が日本には沢山居るのに、外国人に侮られるのが残念である」と云ふのである。これは暴挙中止の時の話であるが、愈々中止した以上、若し事が洩れると捕はれるであらう。それは余りに愚なことである。寧ろ他国へ出て何処かに適当な死所を見出さう。斯様云ふ考で喜作と二人で表面は上方見物と云ふことにして家を出ました。藍香も出たいと云ふて居たが、家の事情で出られないので止り東寧も近所の弟子に教へて居る間に、私達が上方から知らせることにし、その後に於て協力して働かうと相談し家に残つた。そして私達は嫌疑のかゝらぬやうに、一ツ橋の家臣平岡円四郎の家来と云つて上京の途についた、かく申し立てたのは其年の九月に此の平岡が江戸を出発する時に「若し君達が京都へ上るやうな時には、平岡の家来だと云つてよい」と許されて居たからであつた。昔は旅行する時は先ぶれを出し、人足とか馬とかを用意させる慣しでもあつた。それには一ツ橋の家臣であつた平岡を言ひ立てると都合がよかつたし、第一宿駅や関所を嫌疑なしで通れるので、我々は平岡の家来と云ふことで行つた訳である。
  斯様に当時の事を話すことが出来るのも、私の今日あることの出
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来るのも、あの時東寧が止めてくれたからである。若し暴挙を行つたとすれば、縛られて早く殺されて居るであらう。然るに斯様なことにならずに済んだのは東寧の御蔭である。然し最も過激であつた東寧が止めた原因は判らないが、それは兎に角暴挙を行つたら犬死になつて居たに違ひない。実際義心からやつたと人に思はれるならまだよいけれども、徒な野心からと云ふことになつては、世間からほめられはしない。然るに私共は十六・七は成功するやうに空想して居た。それを東寧の主張によつて中止し、先づ都合よく行つたと云ひ得る。然るにその後東寧の家即ち手許の方は不幸が続いた。まるで東寧が私の身代となつたやうなものであり、私と喜作とが生きる代りに東寧が不幸に陥つたやうなものであつた。
  私共は一度京都へ行つて茶久と云ふ宿に入り、伊勢参宮をしたりして、年末又京都へ帰つた。当時一ツ橋慶喜公は東本願寺から若州屋敷の方へ移つて居られた。一方東寧は此間に戸田の原で誤つて人を斬つた。理由は全然不明であるが、人を殺したから、大勢の人々に追はれて結局捕縄せられたのであるが、此の問の事情は今に到るまで判らない。そして懐中物を調べた処、私達が京都から出した手紙を持つて居たものだから、私達も凶暴なるものと認められたやうであつた。ところが前に話したやうに私等二人は平岡の家来と云ふことで道中して居たから、八州取締か又は代官からか、内々平岡の方へ引合があつた。たぶん「渋沢栄二郎・喜作の両人は一ツ橋の家来と云ふが、事実かどうか」と云ふ問合せであつたと思ふ。平岡が私等に嫌疑がかゝつて居ることを知つた様子であつた。私等は京都へ行つてからも一週間に一度か、十日に一度位は平岡を訪ねて居たが、或る時急に「来てくれ」と云ふので、出かけると、平常と様子をかへて丁寧にし「改めて物を聞くから確り答へてくれ」と云ひ、「君達は百姓としても相当の人達であり、志士として世に立つ者であるから、斯う云ふことを聞くのは失礼であるが、無遠慮に訊くから答へて貰ひたい、一体君等は人を殺したことはないか、又人の物を取つたことはないか、私の聞くことに虚言で答へてもらつては困る。志ある人と思ふから、疑のある点を聞くのだ。事実を述べてくれ」と云ふので、私はむつとして「微賤の者故軽蔑せられても致方ありませぬが、人殺をしたとか、物取をしたと云はれるのは少しひどいと思ひます。我々はそんな悪党ではありません」「いや人殺しにしても、物取りにしても、己の欲心からでなく、国家の為めにする場合がある。君等も志士を以て任ずる以上、兵を起すに人の物を集めるやうなこともあるであらう。事実を聞くのだから偽らず話してもらひたい」と云ふので「それでは私達の思ひやうが悪かつたのです。決して左様なことを致したことはありません」「では思つたこともないか」「思つたことは度々ありますが、実行したことはありません」「でも嫌疑を受けて居るから、何か企てたであらう」「決して実行したことはありません。これは偽りでありません」と問答しました。「兎に角君達は疑はれて居るから、用心しないと捕へられるであらう」「自分達の身はどうなつてもよい。国家の為め一命
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は死ぬる覚悟である。死ぬのは易いが時期が来ないので斯うして居ります」「では少しも疑ひを受ける理由がないが」「さう云はれると友人が間違ひから人を斬つて捕はれて居ります。それに手紙をやつてあるから、其の方の疑かも知れません」「然らばたぶんそれからの関係であらう。実は一つ橋へ問合せが来て居るが、君達は此先どうするか、疑ひの為め捕へられてもし方がないであらう。私の見た処では有為の人々と思ふが、捕はれると先づ命がないと思はねばならぬ。それで残念である。それにしても之れを免れるのには、思ひ切つて一ツ橋の家臣になるより外はあるまい」と云ふので、「両人話合つた上で御答致しませう」と答へて、宿へ帰り二人で長州へ行かうか、死なうか、或は方針を変更して出直すか等、色々討論した末、慶喜公も将来為すある人であるから、公に拝謁の上、意見を述べてから仕へると云ふことにしようと相談一決し、早速平岡へ「御言葉に従つて一ツ橋へ仕官致しませう。然し我々も一度志士として世に立ち天下のことを憂へて居るのであるから、我々の観念を申上げ、それを御くみ取り下さつて、未来用ひ処のある者と思召たら御仕へ致しませう。たゞ食ふに困るから仕官するでは面目ない。故に一度御目通りを仰せつけられたい」と申しますと「尤もな言ひ分であるが、御目通りは前例の無いことだから――」と云ふ、「前例がないと云へば、我々如き者は、召抱へられる前例もありますまい」「君達はさうすぐ理屈を云ふから困る。然しそれには方法もある」と云ふので、私達の望みの通り拝謁を得て、お目見以下の奥口番へ召抱へられた。
 斯くて東寧が人を斬り、捕へられた時、偶然にも私共の手紙を持つて居たことから、平岡にすゝめられて一ツ橋へ仕へて、生命を完うしたが、此時東寧が人を斬らず、又私共の手紙も持つて居なかつたなら、平岡が一ツ橋へ仕官せよとも云はなかつたであらう。すると私共は京都で死んで居たかも知れない。故に「東寧の人殺しは渋沢を助けた」と云へるので、「渋沢を助ける為めに東寧が人を斬つたのだ」と類推することも出来る。実に奇縁であります。私共は東寧のことを何とか成らぬかと、五月末か六月に一ツ橋の用人黒川と云ふ人と懇意であつたから、その手で勘定組頭の小田又蔵と云ふ人に頼んで、刑務の方へ、東寧の救護方を心配してもらつたが、どうも成らなかつた。誠に斯う考へて来ると不思議な話であると思はざるを得ない。同じ出発点から出たのに、一つは困難な有様となり、一方は幸を受けたのである。東寧の死んだのは、私が欧洲から帰つた年であるが、私が欧洲へ行くやうになつたのは、其後事情の変化から一ツ橋慶喜公が将軍職を相続せられるやうになり、その時は私も喜作もそれには反対であつたけれど直接諫める地位にも居なかつたので、怏怏として楽しまなかつたが、陸軍奉行支配調役を申付けられた、其時分喜作は大沢源次郎と云ふ者を召取り関東へ護送するに就て付いて行つた。其留守に、原市之進と云ふ御目付役から、民部公子のお伴として、会計兼書記と云ふやうな役目で仏国に行かぬかと行はれて、喜んでお受したのである。程なく喜作は京都へ帰つて
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来たので、仏国へ行くことになつたことを話し「再び会へるかどうか判らぬ。必ず幕府には面倒なことが起る」などと先見の明のありさうなことを云つて別れた。そして私が外国に居る間に、政権は奉還され、慶喜公は謹慎恭順せられて、明治の御代になり、私は民部さんと共に相当の学問をする積りで行つて居たのに、民部さんが水戸の相続者と定つたので、その意も達せられず明治元年帰朝したのであります。帰つて見ると藍香先生は居られたが、東寧は既に死んで居た。何でも精神異状が昂じて遂に起つ能はざるに至つたとかと聞いて居るが、情無い訳である。
  之を要するに、七ツ八ツから藍香先生は学問の師匠として国家観念を吹込んで下された。而も其の妹が私の先妻であり、東寧は情意の厚く深い間柄であり、よく考へると、私の身代りとなつたとも思へる因縁で、不幸に世を終つた。私は大したことも出来なかつたが九十近くまで生きて居る。真に天道是か非かと申し度い。藍香先生は其後第一銀行へも関係して貰つたが、余り発展しなかつた。とは云へ不平不満のあるやうな人でもなかつた。然し乍ら充分に其の能力を外部へ現さずに終つたのは、之亦情無いと申さねばならぬ。其処で第一は東寧が文久三年十月暴挙を留めてくれたこと、第二は偶然のことから東寧の行為が私の身をして今日あらしめる奇縁になつたと云へば云へること、変化と云へば変化であるが、今日の無事な社会から考へると奇縁である。
  斯様な訳で此のお二人は只の親類でないと云ふ考を起し、大正十二年の秋追悼会を催したが、此処に再び法会を営んで、其の顛末を話し、此の精神を尾高・渋沢の両家の者によく憶へて貰ふようにしたのである。豊作氏が学友会誌へ書いた文により、私に多少でも得る処ありとせば、土地にある人、又藍香とか長七郎のやうな人々が人を作つたのだと云つてよい。斯かる観念から九十になる老人として、私は追懐の情に堪へない。お話すれば限りがないが、之れに関することでないから省くことにする、藍香や東寧の関係は前述べる通りであるから、渋沢家の仏の内へ、二人の位牌も存して同様に祀ることになつた訳である。
 青淵先生のお話が終つても、皆々上気した頰に昔のことを偲んで居るらしい。次で阪谷男が起つて謝辞を述べた。
 お招きを受けまして、大人から二人の旧友に対する恩義を忘れぬ懐旧談を承り、非常な教訓を得ました。即ち誠を持つて立たねばならぬ、恩義を知らねばならぬと云ふ実際のお話でありまして、大人が百歳にも達せられようとするのは、誠に終始し、恩義を忘れられないからでありませう。御列席の皆様も同じ御感想でありませう。別して若い人々はお感じが深かつたことゝ存じます。此処に御厚意を感謝いたします。
 それから、穂積男御母堂や阪谷男夫人の旧事に対する御質問に答へられたが、尚ほ斎藤精一氏は記念の詩を作つたとて披露せられた。
  飛鳥山顛権勢門  偉人忙裏説師恩
  藍香之徳東寧義  無上光栄及子孫
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 斯くて雨中の追悼会は、さらにしみじみと往時を追懐せしむるものがあつた。散会しつくしたのは午後四時、上野精養軒の車寄に雨の脚が繁かつた。(十一月十八日記)