公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15
第57巻 p.309-311(DK570162k) ページ画像
昭和3年9月9日(1928年)
是ヨリ先、栄一、養魚家秋山吉五郎ヨリ、米寿祝トシテ二万五千尾ノ鯉ヲ贈ラレ、是日、之ヲ宮城前ノ濠ニ放ツ。
御濠緋鯉放養ノ件 【緋鯉放養時日ニ付御届】(DK570162k-0001)
第57巻 p.309 ページ画像
御濠緋鯉放養ノ件 (渋沢子爵家所蔵)
控
緋鯉放養時日ニ付御届
昭和三年五月四日付土丙第一三四五八号ヲ以テ御承認ヲ蒙リ候緋鯉放養ノ義ハ、来九月九日(日曜日晴雨不拘決行)午前十時、御指定ノ自旧馬場先門跡至祝田町凱旋道路濠池ニ之ヲ放チ度候間此段及御届候也
昭和三年九月四日
東京市麹町区永楽町二丁目一番地
渋沢栄一(印)
東京市長 市来乙彦殿
控
拝啓 益御清適奉賀候、然は深川区養魚家秋山吉五郎氏より、老生八十八誕生祝として緋鯉寄贈され候に付き、同氏と相図り東京市の御認可を得て、来九月九日午前十時馬場先門側濠池へ放養致候間、若し御差支も無之共々御放ち被候はゞ本懐の至に御座候、右御案内申上候
敬具
昭和三年九月五日
渋沢栄一
追て右放養後東京会館にて茶菓差上度と存候間御立寄被下度候
当日ノ順序
一秋山氏ハ午前五時浦安ヨリ鯉積出(モーター)
午前七時小名木橋ニ着陸揚
〃 八時深川千田ノ営業場ニテハンダイニ入レ換ヘ
〃 九時馬場先門跡着、直ニハンダイヲ卸シ二列ニ並ベル
一午前十時来会者一同立会ヒ凡ソ左ノ順序ニヨリ放魚ス
○下略
御濠緋鯉放養ノ件 【(写) 目録】(DK570162k-0002)
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御濠緋鯉放養ノ件 (渋沢子爵家所蔵)
(写)
目録
一、真鯉 一、緋鯉 一、白鯉 一、紅白鯉 一、浅黄鯉
一、三色鯉 一、白鼈甲 一、赤鼈甲 一、青鼈甲 一、金鰭鯉
一、銀鰭鯉 一、頰金鯉 一、脊黒鯉 一、六輪鯉 一、五色鯉
一、面被リ鯉一、黄鯉 一、秋翠 一、独逸革鯉
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一、独逸鏡鯉一、浅黄口紅鯉
合計弐万五千尾 各種共身長二寸五分
渋沢子爵閣下ノ米寿ヲ祝福スル為メニ右目録ノ通リ献上仕候
昭和三年九月九日
秋山吉五郎
渋沢子爵閣下
中外商業新報 第一五二九一号 昭和三年九月八日 情けの水に鯉をどる 渋沢さんのあすの放養と養魚場との因縁話(DK570162k-0003)
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中外商業新報 第一五二九一号 昭和三年九月八日
情けの水に
鯉をどる
渋沢さんのあすの放養と
養魚場との因縁話
渋沢子爵の米寿を祝つて、深川の養魚家秋山吉五郎氏が二万五千余の溌溂たる鯉を贈つたので、明九日午前十時老子爵自ら市港湾課の好意でかけられた馬場先門先の桟橋から、お濠へこれを放つことになつた
秋山氏が渋沢子へこの縁起のいゝ鯉の贈り物をするについては、養魚といふことについての因縁話がある。そもそもことの始まりは明治初年渋沢家から出た関直之氏と、秋山氏の長兄服部倉次郎氏の二人が、養魚家仲間といふのでお互に親しくしてゐた。ところで明治十六年、前田侯の肝煎りで千田養魚株式会社を組織されると、右の二人が主となつて活動したもので、明治廿八年洲崎養魚株式会社が生れるまでは五割の配当をつゞけ、最初資本一万円の会社が廿三万円にまで膨脹したといふ繁栄ぶりだつた。
その洲崎養魚といふのは前田侯と渋沢子との発案から出来たもので、この頃から秋山氏は渋沢子に可愛がられてゐた。服部家から秋山家へ養子にいつてゐた氏はその頃金魚専門の商売を始めてゐたので、
変り種の金魚が出来ると、それを携へてはしばしば渋沢家へ出入りしてゐたものである。その後洲崎養魚は明治四十四年のつなみで十三万坪余の養魚場をすつかり駄目にした、それで一時はその再興も大分問題になつたが、またまた前田侯・渋沢子の後援で関舗郎(関直之氏の嗣子)が社長となつて、現在の魚介養殖株式会社(川崎市、坪数廿万坪)が明治四十五年末生れたのである。また秋山氏の次兄山田百政氏も渋沢子の世話で千住梅田に養魚場を営んでゐる。
◇
九日朝は三台の紅白の幔幕に飾られたトラツクで五段式養魚桶につめ込んだ真鯉・緋・黄・赤・べつ甲・紅白・秋水(ドイツ種)等廿一種類の鯉が東京会館まで運ばれるはずである。
◇
秋山吉五郎氏は嬉しさうに語る
私たちの縁者殊に長兄は老子爵に種々お世話になつてゐますので、このお祝ひの時に当りまして御恩返しの意味で、この春鯉の事を申出ますと、大倉さんと一緒にお濠に放魚しやうと喜んで受けて頂いたものですが、その後大倉さんがお亡くなりになりましたので、延
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び延びになつてゐたものです、あのお濠の水は水質検査もして見ましたが、養魚には理想的のもので三割以上も育ちが早いことゝ思ひます、来年あたりからはあのお池で銀鱗をひらめかして躍り上がる鯉を見ることが出来ることでせう。
中外商業新報 第一五二九三号 昭和三年九月一〇日 緋鯉大喜び 米寿のお祝ひに二万五千尾 渋沢さんの放養(DK570162k-0004)
第57巻 p.311 ページ画像
中外商業新報 第一五二九三号 昭和三年九月一〇日
緋鯉大喜び
米寿のお祝ひに二万五千尾
渋沢さんの放養
宮城前のお濠へ二万五千尾の緋鯉が放たれる日―九日朝九時半幔幕を張つた三台のトラツクに積まれた鯉が馬場先門側のお濠、急ごしらへの桟橋へ着くと、渋沢子爵を初め阪谷男・穂積男やお孫さん達は手をうつて大はしやぎ
◇
老子爵は先づ溌溂とはねかへる緋鯉を長柄の網ですくつて、翠色深いお濠の中へ放魚し、つゞいて阪谷・穂積両男、平塚府知事・日比谷署長、それに嬢ちやん坊ちやん連がわれもわれもと大喜びで放してやる
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放魚する人達は、老子爵の米寿を祝ふこのお芽出度さにあやかりたいため……放たれる鯉も広いお濠に安住の地を得て、嬉しさうに威勢よく泳ぎまわる
◇
十時半放養が済んで、東京会館で渋沢子爵の放魚に因んだお話、二万五千の鯉の贈り主秋山吉五郎氏の鯉に代つての挨拶等があつて十一時半散会した(写真 ○略ス放魚中の渋沢子爵)