デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

3部 身辺

5章 交遊
節 [--]
款 [--] 1. 徳川慶喜
■綱文

第57巻 p.394-395(DK570177k) ページ画像

明治43年12月23日(1910年)

是ヨリ先、徳川慶喜隠居シ、嗣子慶久襲爵ス。栄一、依嘱ヲ受ケ同家顧問兼会計監督トナル。是日、華族会館ニ於テ、襲爵披露会催サレ、栄一出席ス。


■資料

竜門雑誌 第二七一号・第二二―二三頁 明治四三年一二月 ○徳川慶喜公の御隠居(DK570177k-0001)
第57巻 p.394 ページ画像

竜門雑誌  第二七一号・第二二―二三頁 明治四三年一二月
    ○徳川慶喜公の御隠居
公爵徳川慶喜氏は既報の如く最早七十四歳の高齢に及びたれば退隠して、嗣子正五位慶久氏に家督を相続せしめんとて宗秩寮に向けて出願中なりし処、愈々十四日を以て左の如く襲爵の御沙汰ありたり
            公爵徳川慶喜家督相続人
                  正五位 徳川慶久
 襲爵被仰付
左れば徳川慶久氏は同日午前十時三十分参内して久我宗秩寮総裁より御沙汰書を受け、侍従職に御礼の執奏を請ひて退出し、夫より東宮御所を始め各宮家に参向して夫々襲爵の儀を言上したるよし、新公爵は本年二十七歳、学習院の卒業後東京帝国大学法科に入りて一昨年卒業し、其後有栖川宮殿下姫君実枝子女王の御降嫁ありて、爾来琴瑟相和し円満なる家庭を造れるは皆已に人の知る所、老公亦矍鑠として、第六天の邸宅に於て長閑に老後の閑日月を楽まれつゝあり


渋沢栄一 日記 明治四三年(DK570177k-0002)
第57巻 p.394 ページ画像

渋沢栄一 日記  明治四三年     (渋沢子爵家所蔵)
十一月七日 晴 軽寒
午前八時起床入浴シテ朝飧ヲ食ス、九時穂積陳重来リ徳川公爵家範ノ事ヲ談ス ○下略


竜門雑誌 第二七一号・第二三―二四頁 明治四三年一二月 ○徳川慶喜公 青淵先生(DK570177k-0003)
第57巻 p.394-395 ページ画像

竜門雑誌  第二七一号・第二三―二四頁 明治四三年一二月
    ○徳川慶喜公
                      青淵先生
 本篇は時事新報記者が、過般御隠居遊ばされたる徳川慶喜公と因縁浅からざる青淵先生を飛鳥山邸に訪ひて、其所懐を聞き得たりとて十二月十六日の紙上に「敬慕すべき慶喜公」と題し掲載したるものなり
○中略
△悠々たる四十年 維新以後の公は悠々として余命を送つて居られるのですが、元来謹直な性格でありますから、其勤め向き万端は少しも疎にされません、兎に角多芸な方で若い時は馬も鉄砲も上手で弓も能く引かれ、書も画も写真術も上手でありましたが、今日では馬も猟も
 - 第57巻 p.395 -ページ画像 
止めて運動の為め大弓をお引きになる許りで、慰としては謡曲と囲碁位で碁は素人としては可なり強い方で大隈伯抔と同じ位と思はれます
△天恩に感涙す 公は宗家を家達公に譲られてからは麝香間祇候を仰付けられ、三十五年に特に公爵に叙せられたので、唯々天恩の渥きを感佩されて居られまして、御病気でない限りは勤務すべき事を欠かされたことはありません
△御隠居事情 今度隠居を成されたのは御老体とは云へ未だ御記憶も中々善く、別に老衰抔と云ふのでは無論ありませんが、御嫡子も既に大学を御卒業になりますし、夫人をも御迎へになつたので世を譲つて更らに悠々たる日月を送られんとするに過ぎないのです
△家範制定 公爵家は兎に角新興の家でありますから、今度御隠居なさるに就いては新に家範を制定されまして、林伯爵だの不肖の私抔も評議員と云ふことになつた訳で、公のお話しは今編纂中の伝記が非常に浩澣な物になる位ですから、まだまだ幾らもありますけれども時がありませんから、先づ此位にして置きませう


竜門雑誌 第二七一号・第五二頁 明治四三年一二月 青淵先生と徳川家(DK570177k-0004)
第57巻 p.395 ページ画像

竜門雑誌  第二七一号・第五二頁 明治四三年一二月
    ○青淵先生と徳川家
公爵徳川家(慶喜公)に於ては今回家範を定めらるゝと共に、同家顧問員兼会計監督たることを青淵先生に依嘱せられ、先生は旧来の縁故上謹んで之を受諾せられたりといふ


竜門雑誌 第二七一号・第五七頁 明治四三年一二月 徳川慶久公襲爵披露(DK570177k-0005)
第57巻 p.395 ページ画像

竜門雑誌  第二七一号・第五七頁 明治四三年一二月
○徳川慶久公襲爵披露 徳川慶喜公の御隠居願ひ勅許あらせらるゝと同時に、嗣子慶久公は襲爵仰付けられたるを以て、十二月二十三日華族会館に於て其披露会を催され、青淵先生にも招待に応じて出席せられたり