デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

3部 身辺

5章 交遊
節 [--]
款 [--] 1. 徳川慶喜
■綱文

第57巻 p.410-417(DK570182k) ページ画像

大正6年11月22日(1917年)


 - 第57巻 p.411 -ページ画像 

是ヨリ先、栄一著「徳川慶喜公伝」成ル。是日、谷中墓地内ノ徳川慶喜墓前ニ於テ、徳川慶久、其献呈奉告式ヲ執行ス。栄一参列シテ、当伝記ヲ墓前ニ進献シ、且ツ献本ノ次第ヲ述ブ。


■資料

〔参考〕徳川慶喜公政権奉還の意義 渋沢栄一述 第一―二三頁 刊(DK570182k-0001)
第57巻 p.411-416 ページ画像

徳川慶喜公政権奉還の意義 渋沢栄一述  第一―二三頁 刊
 徳川慶喜公政権奉還の意義
                     渋沢栄一述
    一 皇室と国民との関係
日本国民の悠久知るべからざる太古時代より相伝へたる信念は、我が国民は同一種族にして、其総本家たる皇室を以て君主と戴き、別家・分家、数多に別れて各一部族を為し其族長を奉ずるも、各族長は共に皇室を中心として君臣の義を守るが故に、其関係は極めて濃厚なり。此を以て皇室と人民とは宗支父子の縁故ある上に、君臣主従の義を兼ねたるものなりと信じ居れり。再言すれば、日本国民は悉皆皇室の本たる神の子孫にして、一家族の集りなり、而して其政体は父権政治なり、故に人民は皇室に対しては絶対に服従の義務あるものなりと信ずるなり。之を我が国体の因りて以て基く所の本義と為す。勿論北辺にアイヌ民族あり、南辺にクマソ民族あり、又朝鮮・支那より帰化せる民族もありて、異種類なきにあらざりしも、日本民族の堅固なる団結と国家の発展とによりて年月を経たる後には自然と同化して、全く同一の思想感情の下に鎔解し畢りぬ。此意義に於て、各民族も亦日本民族なりと称するを得べし。
我が国に於て皇室といへるは、日本民族の族長たる一家を指す。皇室は日本の君主にして同時に族長たりとの信念を有することは、既に述べたるが如し。故に国民は皆天皇に直隷し、国土は天皇の所有し給ふ所にして、豪族が土地を領し人民を支配するは、畢竟天皇より預り居るものなりとの観念も甚だ明確なりき。
    二 本義と慣習
然れども因襲の久しき間には此本義を忘却して、豪族の輩、其土地人民を私有の物と誤信し、各自独立の政治を行ひし事あれども、或は教育の進歩により、或は外国の刺撃ある時は必ず覚醒して、其土地人民を皇室に奉還せしなり。是れは西暦紀元前にも一度ありしが、古き事にて事実詳細に伝はらず。西暦六四五年の改革は歴史に明白なる記載ありて、之を大化の革新といふ、大化は其時の年号なり。此改革は、土地人民を私有と誤信したる豪族が一旦覚醒するや、何等の抵抗をもなさず異論をも唱へずして、柔順に之を皇室に返還し、地方割拠の政権を放棄したるなり。此改革は支那の勢力発展の刺撃にして、国家防衛の為に起れるなりき。然るに又国内平和の長く続くに従ひて、中央には貴族等其権勢を争ひて内乱起りしにより西暦一一九二年、源頼朝といへる者武将より起り、地方に発展せる新勢力を代表して政権を握り、始めて武家政府を立てたり。是れより幕府といふ変体政府発生し
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たり。是れ当初の、国家は天皇の統治し給ふ所にして、国土は天皇の所有し給ふ所なりとの観念と信仰とが、時に破壊せられしものに似たれども、事実は然らず。頼朝は鎌倉に在りて政を執り、京都と離れ居たりと雖も、大将軍の職を以て庶政を決裁し、敢て箇人の名によりては之を行はざりき。即ち大将軍といへる職務は、天皇の任命し給ふ所にして、形式上、天皇は尚ほ大将軍を任免するの大権を保留し給へるなり。故に武家政府は皇室の委任により、大将軍の名を以て政権を施行するに過ぎざるものといふを得べきなり。
然るに年月を経るに及びては、武家政府の勢力漸く朝廷を圧して、皇室と幕府と東西に相対し、国家は二箇の政府を有するが如き観を呈したるにより、西暦一三三三年頃、国民は再び覚醒して、鎌倉の武家政府を滅ぼしたれども、此時は教育の力薄弱なると、且つ皇室が一旦取返したる政権を把持する力の不足なりしと、又野心ある他の武将が、自家の武家政府を建てんとしたるが為に、完全に功を奏せざりき。畢竟当時に在りては、外国の刺撃なかりしを重なる原因とす。かくて足利氏の武家政府となりたるに、此政府は政府としての実力を具備せざりしかば地方豪族の跋扈を来し、其結果戦乱相続き、天下麻の如く乱れて、兵馬の衢たるもの百余年に亘り、其後織田信長・豊臣秀吉の二武将出でゝ、漸次に各豪族を征討威服し、尋で徳川氏の武家政府成立するに及びて、世は全く平定せり。而して徳川氏の時代は海内泰平にして、文化の進歩すると共に、国民は精神的の余裕を得たれば、事理の講究緻密となりて、冷静に日本の政体を観察するの機会に遭遇せり其結果京都に主権者たる天皇いまし、江戸に其代理者たる大将軍ありて、政治の中心東西に分立するの形勢を見て、国家が完全に統一せられたりとは称し難きを覚り、此に於て国民は三たび覚醒せり。内部に於て武家政府の存在を否認するの観念生じたる時、又外部より此国民に一層の刺撃を与へたるは海外の形勢なりき。此時に当り、露国は既に我が北境に迫りて千島・樺太を覬覦し、英仏二国の勢力は隣国の支那を圧して、余威将に我が国に及ばんとし、遂に嘉永六年に至りて、米国よりペリー提督の渡来ありたり。今まで泰平に鼓腹したる日本国民は、欧米列国の強大なる勢力が我が国に肉薄しつゝある実状を見るに及び、心中益不安の念に襲はれたり。不安の念は政治の改革を要するの急進論と変じ、此急進論の帰著する所は、更に国家をして天皇の主権の下に、完然なる統一を遂げしめんとするに至り、天皇の主権の下に完然なる統一を遂げしめんとするには、武家政府をして其政権を天皇に復帰せしむるを以て最善の方法なりと信ぜしめたり。是れ多年因襲に囚はれたる国民の心の覚醒せる結果なりとす。
    三 幕府の政権奉還
幕府の存在を否認し、其大権を主権者たる天皇に復帰せんとする思想が、国民の多数を支配せるも、幕吏は従来の情勢に狎れて容易に之に応ぜざるのみならず、甚しきは当時の各雄藩主又は其士族の有志間に此説を唱ふる者ある時は、幕政を覬覦するものとして之を嫉視せり。其極朝廷と幕府との政見常に扞格し、各雄藩は朝廷を挟みて幕府に抵抗し、其形勢実に危機に瀕せしかば、徳川慶喜公は玆に意を決して、
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政権を皇室に復帰することを突然断行せり。是れ実に日本に於ける政権移転に関して特筆すべき一大事件なりとす。
蓋し徳川最後の将軍たりし慶喜公は、水戸家の出にして、水戸家は其藩祖よりして皇室を尊崇し、将来若し其宗家たる武家政府に於て、皇室を侮蔑し皇威を圧するが如きことあらば、之を矯正すべき趣旨の訓戒を遺したり。殊に慶喜公の父君水戸九代の藩主烈公は、厚く藩祖の主義を奉じ、慶喜公の一橋家相続の後も折に触れて此事を諭告せしことあり。是れを以て慶喜公は、一橋家より入りて宗家を相続するに当りて、他日皇室と幕府との間に確執の生ずることあらば、断然武家政府の政権を皇室に奉還し、政権を一途に帰して以て我が国利民福を図るの外なきことを覚悟せり。故に慶喜公は他の入説を待つまでもなく夙に其意志ありしも、爾後の成算に焦慮して躊躇せる折から、偶土佐の前藩主たる山内容堂は此意を以て公に上書せり。公も亦漸く善後策に就ての方案を得たれば、之を機として西暦一八六七年十月自ら政権を皇室に奉還し、皇室は即時に之を嘉納したり。所謂王政復古とは此事にして七百年間虚位を擁したる天皇は玆に其実権を回収し、日本帝国は完全なる統一を見るを得たり。要するに此政変は外国の刺撃に基因すること多しと雖も、朝廷に賢良の輔弼ありて之を助成せられ、将軍に慶喜公の如き偉人ありて速に英断せしにより、大禍乱の発生することなくして終局を見るを得たるものなり。されば公の薨去西暦一九一三年十一月に際し、今上陛下より公の霊前に賜へる誄詞に、
 国家の多難に際して閫外の重寄に膺り、時勢を察して政を致し、皇師を迎へて誠を表し、恭順綏撫、以て王政の復古に資す、其志洵に嘉すべし。今や溘亡を聞く、焉んぞ痛悼に勝へん。玆に侍臣を遣はし、賻を齎して臨み弔せしむ。
と仰せられ、其至誠にして公明なる心事を嘉尚し給へり。
土地人民は皇室に隷属し、箇人の私有すべきものにあらずとの観念は前章に詳述せしが、既に徳川将軍の政権を奉還し、朝廷亦之を許容せられて、王政復古の新政玆に施行せらるゝに至りしかば、各雄藩中には、土地人民を私有して其自治に任ずるは、国民の輿望に負くことを自覚し、率先して封土奉還の事ありしにより、一般の各大名も靡然として、土地は即ち皇室の土地にして、人民は即ち天皇の臣民なりと覚醒し、将軍の政権奉還より二年の後、即ち西暦一八六九年、皆土地人民を併せて朝廷に返納せり、之を版籍奉還といへり。
    四 土地私有の意義
終りに説明すべきは土地私有の意義なり。此に所謂土地の私有とは、普通に使用する土地の所有権とは其意を異にす。当年に於ける土地の私有者は、土地人民に対して無上の特権を与へらる。彼等は其土地に於て法律を作り紙幣を発行し、其土地より出づる所の一切の租税を私し、土著の人民には課役を賦し、其生命財産に関しては生殺与奪の権を帯ぶる等、純然たる一箇の専制政府の主権者と相選ぶ所なし。土地の私有とは即ち此権利の保留をいふ。故に版籍奉還とは、やがて此特権を土地人民と共に復帰したるものにて、箇人の土地領有権を政府に没収するにはあらざるなり。されば奉還せるは此特権に附帯せる土地
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と人民とにして、箇人としての財産は依然として安全に保護せられ、版籍奉還の後と雖も、尚ほ一定の邸宅と田園とを所有す。外国の人、我が国情を知らざるより、往々此二つを混同するものなきにあらざるは、全く誤解に出づるものといふべし。
    五 当時の文書
以上述ぶる所は大綱を挙ぐるに過ぎず。而して其政権奉還の手続の如きは、前日口述する所ありたれば、今此に詳にせず。此に慶喜公が政権奉還の当時西暦一八六七年十月、将軍の重臣老中より各国公使に贈りて、政権奉還の由来を説明したる文書あれば、此に添附す。
 我が日本の大君、祖宗已来二百五十余年を経、今日まで伝襲せし政権を、御門に帰し給ふ事を自から英断ありしに、余等此国勢変革の際に当りて、或は流言浮説の人心を熒惑することあらんを恐れ、各国に其情状を説明せんことを要する左のごとし。
 目今の事情を了悉せんには、古往の事蹟を概説するにあらざれば明晣ならざるにより、古に溯りて申述候。
 往昔二千有余年前、鴻荒の初、国祖降天已来、その子孫常にこの国に君臨あらせられ、全国の政権みなその掌握し給ふところたり。これ実に日本の皇帝にして、外国には御門の名を以て知られたるものなり。
 然るに世漸く下りて、御門の政、その外家藤原氏の手に移り、御門はたゞ垂拱して事にあづからせ給はず、而して藤原氏の政をなすや徒らに華靡文飾をのみ事として、当時朝廷文武の官ありといへども多くはその名のみにして、其兵馬の実権は世職の武官に帰したり。されば国家有事に臨んでは、自から擐甲執鋭其役に従ふ能はず、会会不享不廷のものあれば、征伐の事一に此輩の手に任ぜり。その武家の棟梁を源平二氏とす。而して日本の半国を分ち、東の武家は源氏に属し、西の武士は平氏に隷するの状あり。保元・平治の頃、皇位の争ありて、各この二氏に依頼せられて、其武力をかりて、その争ふ所を達せんことを計り給ひ、藤原氏も同族相軋して、皆各二氏による所ありしが、一時平氏勝を得て源氏を亡滅せるものゝごとし而して戦勝の力と翼戴の功とを以て、平氏は其盛を極め、かの累代この国の政権を執りし藤原氏に代りて其威を擅にするに至り、天下を制すること二十年、されど其凶暴なる、御門を幽して我意を振ふに及びしを以て、御門は源氏の冑裔に令してこれを征しめ給ふ。源氏は父祖の旧讎を滅し朝家を保護するに到りて、御門其功を賞し、全国兵馬の権を挙てこれに委托せられたり。これ積年の勢、既に諸国に武士なるものありて郷曲に武断し、朝廷より命ぜられたる守令の力制すること能はず、武家の勲労あり閥閲ありて人望あるものにあらざれば、制馭し得ざるにより、かゝる命令あるに到りしものなり。こゝに於て政権全く武家の手に落たり。是西暦千二百年の頃にして、我国政治の一大変革をなせしものなり。其官を征夷将軍といひ、其位はその時に朝廷より賜る所によるといへども、全国の政は全く其手にありしものなり。これ日本皇帝の下に、一の大君てふものありて政治を主宰するの始とす。
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 これよりの後、国内の政権を争ふものは、みな此将軍の地位を争ふことゝなれり。其間治乱常なく、殆ど四百年にして、海内の武士兼并するもの、土地を有すること数州に跨り、各雄を称し長を争ふて御門は勿論、将軍といへども亦虚器を擁するに及び、天下の壊乱極れり。
 我大君の開祖東照宮、英邁の資を以て斯間に挺生し、櫛風沐雨、自から汗馬の労を経てこの大乱を蕩平し、上御門を安んじ奉り、下万民の塗炭を拯ひて、国家始て太平なるに至れり。
 当時の御門、此功績の大なるを感嘉し給ひ、これに将軍の職を命じ又全国文武の政務を挙てこれに委任せられたり。東照宮即権現サマとして外国に聞えたる我大君の開祖は、撥乱反正の勲、已前の将軍に比して更に抜でたる所あるによりて、其政務上の威権もまた前の将軍に比して更に大に且盛なりしは自然の理なり。因て大に全国の武族、嚮に各地に割拠し、その自己の威を振ひしものを、その居住せる江戸の地に会し、これが臣属たるべきことを誓はしめ、其封地与奪の権もみなこれを其手に収め、為に券を製してこれに頒与し、また江戸に邸第を置き、隔年或は毎年、時を期して江戸に参覲するの制を定めたるに、海内大小の武族即諸侯は、みな其法を仰戴き、一の異言あるものなく、悉くこれに服従せり。
 かくのごとくにして其子孫世々相継、十数代を経て、永く此国の主宰として、朝廷これを允るし諸侯これに服し、国民みな其業を安んじて、太平の福祉を享けしこと、今日に及て実に二百有余年なり。而して其初に方りては、外国の商船の来るあり、商船の海外に貿易するありて、交通の途障る所あらざりしに、一外国より渡来せし布教士の、我国不逞の徒と相結んで乱を計ることありしより、国安を保つが為めに、大に厳令を発して其布教を禁じ、其徒を駆逐し、竟に商船の来るを禁じ、又商船の出洋をも厳制して、たゞ一・二国長崎に来るを許るすにとゞまり、国を鎖すに到りしは、当時不得已の方略なりし。
 然るに輓近に及び、宇内の形勢大に変遷して、亜米利加国より使節を派来して開国を勧誘するに至れり。蓋蒸気船発明已来、天涯地角悉く比隣のごとくなるの今日にありて、東洋の一島国にして、一天拡披の万国人民を拒絶して、与に交らざるの理あるべからずとは、当時の大君と、一・二その政府に立てる重臣とは、夙にこれを暁解せしかば、その説ところを容れて、遂に各国との交際を開き、貿易を通じ条約を取結び、以て開祖東照宮の旧に復し、中世已降鎖国の規条を廃棄するに決せり。
 是実に皇国の一大変革にして、闔国人民の故常に安ずるの族には、已甚しく不服を抱かしむるに及べり。是に於て鎖国攘夷の説、国中到処に囂々たるを致し、大君政府の時勢に鑑みて、斯相当の英断ありしを以て、外国の兵威に恐怖して、苟且に其意に従ひしものなりと誤解し、これを朝廷に譖して、その委任の武職を尽さゞるものなりとし、朝廷もまたこれを察せず、容易くその説をいれて、大君政府に命ずるに外国の交を絶つべきを以てせり。これより外交上種々
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の紛紜を生じ、言ふに忍びざるの不都合を惹起すに到りしは、各公使にもとく承知せらるゝごとくにして、今これを述るを須ゐず。
 かくのごとく、我大君政府外交を開きし已来、固より処置の宜きを得たりとは謂がたきは、余等も自から知るところにして、慙愧に堪ざる次第なれども、大君政府にては既に各国と締約せし以上は、いかにもして、鎖国の説を唱へて外人を忌嫌ふものをば漸々に制圧し約款の一々、これを履行せんとの宿志は曾て止ことなし。
 然るに幸にして今日に及び開国の規模を一定し、約款の件々を遂行ふにいたりしは、実に我英偉敏達、天縦の識見を有せらるゝ今大君の将軍職を襲て、祖宗已来日本の主宰たる地位に立たせ給ひしによれり。されば本年各国公使を大坂城に延見して、大に親交の実を示され、情誼の厚、守約の固、其大君の任として固より当然なる所とはいへども、百難を排して此場合にまで到りしは、諸君にも察知せらるゝ所なるべし。
 抑天子に下る事一等にして天下の大権を握ること、自然の勢によりて六百年来因襲し来るところ、我国特殊の政体にして、これによつて治安を維持し来りしといへども、今万国と交を通ずるに方りては交際上の名分頗る不都合あるのみならず、今は国内人心の紛乱して統一に困むものも、多くはこゝに原因せり。これによりて英明なる我大君は、独り衷に断じて斯政権を御門に帰し、改て国内の大宗・巨室を集会して、方今の形勢事情を論究し、適時の政府を建立し、将来再び動かすべからざる国憲を制定し、以て外万国と並立して、国を富強の域に進めんとの深慮に出でしものにして、実に国を憂ふるの深き、古今比類なき所なり。
 故に事こゝに及ぶと雖も、外国と日本との交際に於て聊か難事あることなく、都てこれまでのごとく平穏親和ならんことは、言語を費すまでもなく、必尊慮を煩すなかれ。
 大君に於ては、締結せる条約の款目に於て、既に已に履行して残す所なく、専ら外交の重を了知せられたれば、此度来会する大小名の会議に於ても、外国事情を弁論あれば、皆これに聳聴すべし。況んや我大君祖先已来の恩沢に浴せしもの十が八九にあれば、縦令守旧の説を執るものあるも、其勢を得ること難し。故を以て余等は、外国公使も平生の情誼を以て、余等が志を賛成輔翼あらんことを冀望し、他日我国の降盛に趨くに至りて、即貴国の尽力ありし徴として形影声響のごとくに視んことを深く願ふ所なり。右はこれまでの成行を推して、余等限り及演説候。余は過日書簡を以て申進候通り、京師より申越次第尚可及報告候。
   ○右ノ英訳文アルモ略ス。



〔参考〕渋沢栄一 日記 大正四年(DK570182k-0002)
第57巻 p.416 ページ画像

渋沢栄一 日記  大正四年      (渋沢子爵家所蔵)
六月五日 曇
○上略 午後六時大六天徳川公爵邸《(第)》ニ抵リ、受爵ノ紀念祝宴ニ出席ス、山内・石渡二氏、家令以下ト共ニ公爵 ○慶久御夫婦ヨリ饗宴セラル、食後写真等ニヨリテ往事追懐談アリ、夜十一時散会ス
 - 第57巻 p.417 -ページ画像 


〔参考〕渋沢栄一 日記 大正六年(DK570182k-0003)
第57巻 p.417 ページ画像

渋沢栄一 日記  大正六年      (渋沢子爵家所蔵)
一月二十九日 晴 寒
○上略 三時徳川公爵邸ヲ大六天《(第)》ニ訪ヒ、同家ノ家政顧問会ニ出席ス、五時頃退席シテ○下略
   ○中略。
三月一日 晴 寒
○上略
副島伯爵来リテ、徳川厚男ノ身上ノ事ヲ協議ス ○下略
   ○徳川厚ハ慶喜ノ男。



〔参考〕渋沢栄一 日記 大正七年(DK570182k-0004)
第57巻 p.417 ページ画像

渋沢栄一 日記  大正七年      (渋沢子爵家所蔵)
一月四日 晴 寒気昨日ト同シキモ風ナシ
○上略 午前十時徳川公爵ヲ大六天邸《(第)》ニ訪ヒ、奥方ニ謁シテ年賀ヲ陳フ
○下略



〔参考〕(増田明六) 日誌 昭和二年(DK570182k-0005)
第57巻 p.417 ページ画像

(増田明六) 日誌  昭和二年     (増田正純氏所蔵)
十一月一日 火 晴                出勤
午後五時より飛鳥山邸ニ於ける雨夜譚会ニ出席した、今日は徳川慶光公家ニ関する財政ニ付き特ニ子爵より談話があつた、之は同家財政史編纂ニ関する史料に供する為め、植村澄三郎氏よりの依頼ニ因つたのである、来会者は子爵の外徳川家より植村澄三郎・三輪修三・古沢秀弥・玉虫教七の四氏に渋沢敬三・小生・白石・岡田(純夫)の四氏であつた
○下略
   ○徳川慶光ハ徳川慶久ノ嗣子。



〔参考〕中外商業新報 第一五七三九号 昭和四年一二月二日 喜久子姫を渋沢子爵御招待 きのふ飛鳥山の邸へ(DK570182k-0006)
第57巻 p.417 ページ画像

中外商業新報  第一五七三九号 昭和四年一二月二日
    喜久子姫を
      渋沢子爵御招待
        きのふ飛鳥山の邸へ
徳川喜久子姫は御婚儀の日も迫られたので御忙しい下準備のかたはら徳川家達公爵家を始め各親戚のお名残のお招きに出席されてゐるが、渋沢子爵夫妻も一日午前十一時飛鳥山の邸に喜久子姫をお招き申上げた、この日姫には弟君の慶光公や母堂実枝子の方、お妹の喜佐子さん喜美子さん達とお揃ひで、和服姿もお美しく十一時過ぎ渋沢子爵邸にお着きになり、子爵夫妻や阪谷芳郎男夫人・穂積男未亡人等と御挨拶を交され、楽しい御語らひの内に午餐を召され、午後は邸内の紅葉を賞観されたり、歓談にくつろがれ、三時すぎ辞去された
   ○徳川喜久子ハ慶久ノ女。高松宮宣仁親王妃トナル。