デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

3部 身辺

5章 交遊
節 [--]
款 [--] 2. 伊藤博文
■綱文

第57巻 p.420-423(DK570185k) ページ画像

昭和2年12月20日(1927年)

是日栄一、渋沢事務所ニ開カレタル雨夜譚会ニ出席シ、伊藤博文ニ関シテ往事ヲ述ブ。


■資料

雨夜譚会談話筆記 下・第五〇〇―五一九頁 昭和二年一一月―五年七月(DK570185k-0001)
第57巻 p.420-423 ページ画像

雨夜譚会談話筆記  下・第五〇〇―五一九頁 昭和二年一一月―五年七月
                   (渋沢子爵家所蔵)
  第十八回 昭和二年十二月二十日 於丸ノ内事務所
    一、伊藤公に関する御感想に就て
先生「伊藤さんに就ての話は随分長い。実は私は伊藤さんよりは大隈さん・井上さん・松方さんと行動を同じくした。 ○中略 伊藤さんとは明治二年大蔵省で御目に掛つたのが初てゞ、伊藤さんは其頃から西洋化を考へて居つたのに対して、私は漢学的に何事にも西洋の科学を其儘鵜呑にするのは悪いと云つて、幾分説を異にし『君は古い』と伊藤さんから云はれた。大蔵省の改正係では大隈さんが主として大に改革に努め、最早昔の大宝令の考で居つては時代おくれだと、諸制度を根本から改めて行つた。伊藤さんは大隈さんと一処に大体の趣意を説き、実際の仕事は私がやつた。是等改革の中、土地を人民の所有にせなければならぬ事を第一に説いた、当時土地の所有権は認められず、所謂永代借地になつて居つた。此土地所有権の創設が第一、次に租税の改正、それから事業の発展、此の三つを根本とした意見書を草して伊藤さんに出した。すると伊藤さんは之れは冗長過ぎると非難したので、私は此位云はねば判らぬと討論した。無論意見書の文章はまづいと思つて居つた。それから明治三年になつて、右の意見から推しても少し一同が金箔を付ける必要があると云ふ議が出た。又実際此儘では財政上碌な事は出来ない事は私も感じて居つた。そこで亜米利加の経済上の働を見る為め、海外派遣に就ての上申書を私が書いた。それが同年秋に議纏り、伊藤さんが行く事となり、芳川顕正・福地源一郎・吉田次郎の三人が随行した。此人選に就て、芳川氏は伊藤さんが選び、福地と吉田の両氏は私が推薦した。視察は一年足らずで、三年の九月に出掛け翌年春帰朝したが、其研究目的として調べて来た内、重要なものは四つである。先
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づ国立銀行を起し、紙幣を発行する事に依つて、太政官札を兌換する為に、アメリカのナシヨナル・バンクの制度を見る事が其一である。日本在来の金貨引換は、自己の懐を肥やす商売法であつたのを捨てゝ、公の商売法に則ると云ふのが、其要点であつた。次に公債証書発行法、並に貨幣制度が之れである。此貨幣制度を行ふには、本位貨幣を金に拠るか、銀にするか、それとも金銀両本位とするかが問題であつた。最後に大蔵省自身の仕組である。前にも述べた通り、省が大宝令に拠る仕組では最早駄目である。租税の取方にしても先づ土地を人民に与へて地券を創つた。昔は政府の地面を永代借地として借受け、其証書として質地証文と云ふのを政府に差出して居たものである。借受者たる藩は草高即ち石高に対して、四つものとか三つ半ものなどの名称で石高に対する税を納めるのであつた。一石に対する四斗の割合を四つもの、三斗五升を三つ半ものと云ふ此場合草高と云ふのは地面に付くもので、各借受者が之れに対する租税を納める標準で、質物に対して質入者が利子が納める様なものである。租税の改正を主張したのは私で、大隈さん・伊藤さんは初め妙な事を云ふ奴だと思つて居た。併し私は満更空論を云つたのではない、之れは尾高惇忠さんに教へられて居たので主張した。後では大隈さんも伊藤さんも、単なる書生論でない事を認めて呉れた。伊藤さんが亜米利加から国立銀行制度を見て来た事に就て、之れを実際にやらうとした。所が伊藤さんは帰朝して見ると、大蔵卿の大久保利通さんに大変嫌はれて、当時大蔵少輔であつたのが大阪造幣局長に左遷された。伊藤さんは後に井上さんより位が上に成つたが其頃は井上さんが大蔵大輔で伊藤さんは少輔だつた。左遷された伊藤さんは大変悲観して、井上さんに対する愚痴を私に宛てた手紙の中に書いて『人が失脚すると少しも構つて呉れない』等と云つて寄越した事もあつた。後になつて伊藤さんに此手紙を見せて揶揄うと『それ丈けは勘弁して呉れ、千円出すから其手紙を売つて呉れ』などゝ閉口して居た。併し岩倉さんが使節として海外に出掛ける時になつて、伊藤さんは其随行を命ぜられ、事態一変して、帰朝後もあの頃の様に逆境に立つ事はなかつた。米国の国立銀行制度は、大隈さんも伊藤さんも、日本で立派に実行出来ると思つた。私もそうだと信じて賛成したが、後になつて見ると馬鹿気た事であつた。大蔵大輔の井上さんは、明治五年の冬から司法省の金で江藤新平・田中不二麿と仲が悪くなり、六年の春辞職したので、私も一処に、かねての希望通り大蔵省を罷めて仕舞つた。但し井上さんは、国立銀行の事には力を入れたいとの事であつた。私も之れは尤もな事だ、何とかして物にして見度いとの考であつた。国立銀行条令として銀行の法律が出来たのは明治五年十一月で私達が作成した。其の下調べは私がやり、翻訳したのは福地源一郎と富田との二人であつた。之等の事に就ても当時大蔵省でよく伊藤さんと討論したものである。所が明治八年に至つて愈々合本法で実施して見ると、金融硬塞を生じ、太政官紙幣の兌換も出来ず、遂に国立銀行の発行紙幣を引揚げねばならない様になつた事は、今からしては笑ふべき事であるが、
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当時は皆んなが出来ると思つて居たのである。銀行家となつてからの私は、伊藤さんと懇意であつた事は変りないが、互に相接する事は少くなつた。日本で国立銀行制度を採用するに就て斯んな経緯があつた。伊藤さんの国立銀行制度説に対して吉田清成氏が英国式の中央銀行制度を唱へた。此時井上さんや私が両者の判断をして伊藤説を採る事になつたのである。憲法問題に就ては私は伊藤さんと討論した事はない。無論其制定に参与しなかつた。と云ふのは法律制定に参与する資格がなかつたからである。然しそんなことを内々で予め話されて居つた。伊藤さんは憲法発布の下調べをすると同時に現今の内閣組織を創り、自ら其総理となつた。之れは西洋式実行の結果であつて、あの鹿鳴館の試みなども其一端である。政友会の出来たのは明治三十二年《(三十三年)》で、伊藤さんはそれ迄政党組織に就て種々心を悩まして居つたので、私が其事を薦めて『政党を創つて大隈さんと相対したらいゝでせう。英国にはヂスレリーに対するグラツドストンがあり、保守党と改進党が争つて居るではありませんか、貴方も一つ大隈さんをヂスレリーとして、向ふに廻し相争ふ積りで政党をお創りなさい』と云つた。すると伊藤さんが例の書いた物を出して私に見せて『渋沢、君も之れに同意するだらう、同意するなら之れに署名しろ』と私に名前を書かせた。それから私を政友会員に引入れ様としたので、私は『政党組織をお薦めはするけれども、自分で党員になる事は御免を蒙る』と云つたら、伊藤さんが怒つて『そんな馬鹿な事はない。自分で善いと云つて頻りに薦め乍ら、自分で党員たる事は厭だなんて、それは勝手だ』と不平を云つたから、私は『役者と見物人はおのづから違ふ。私は見物人だから立役者にも成らなければ馬の脚も御免だ』と云つた。伊藤さんは大変此事に不満だつたけれども、井上さんが仲に入つて宥めて呉れてから、伊藤さんも納つた。斯んな関係があるのだから、直接憲法制定に与らなかつたとは云へ、後の政党の事も私が導いたとも云へば云へやう。併し其後伊藤さんは、よく私に『自己なしに働いて呉れるのは君ばかりだ』と云つて喜んで居た」
○中略
増田「伊藤さんは取り止めのない行動をされる様に世間では云つて居る様で御座いますが、公私の区別は大変厳格だつた様に聞きます。地方へ御出でになつて県知事などには誠に厳格な言葉を使ひ、地方人民の総代などに対しては、其知事の前で丸切り別な程軽い口振で話になるそうで御座います」
先生「洒落で辺幅などは全く構はない人だつたから、今の話の様な事も殊更するのではあるまい。此点では井上さんと全然違つて居た。私は伊藤さんと書生つきあひをしたのだが、ずぼらだつた。併し大変愉快な人で、或点では大変大きな考を持つて居た。日本の制度はおれのものだと云ふ考で、自分で立案し経営して行くと云つた質だつた。財界に於ては私を一思案ある者だと見て呉れて居た」
○下略
   ○此回ノ出席者ハ栄一・渋沢篤二・渋沢敬三・増田明六・渡辺得男・小畑久
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五郎・高田仙治・岡田純夫・泉二郎。



〔参考〕青淵回顧録 渋沢栄一述 小貫修一郎編 上巻・第七六八―七六九頁 昭和三年三月五版刊(DK570185k-0002)
第57巻 p.423 ページ画像

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