デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

3部 身辺

5章 交遊
節 [--]
款 [--] 7. 三井家
■綱文

第57巻 p.451-453(DK570208k) ページ画像

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■資料

渋沢栄一 日記 明治四四年(DK570208k-0001)
第57巻 p.451 ページ画像

渋沢栄一 日記  明治四四年     (渋沢子爵家所蔵)
六月二十七日 雨 暑
○上略 三井同族会ニ抵リ、大橋朝次氏等ト談話ス ○下略


竜門雑誌 第三〇七号・第八三頁 大正二年一二月 中御門・三井両家披露会(DK570208k-0002)
第57巻 p.451 ページ画像

竜門雑誌  第三〇七号・第八三頁 大正二年一二月
    ○中御門・三井両家披露会
岩倉具明子夫妻の媒酌に依り此程華燭の典を挙げたる中御門経恭侯と三井八郎右衛門氏令嬢慶子との成婚披露式は、四日午後二時より有楽町三井集会所に催されたり、当日青淵先生・同令夫人も出席せられたるが、先生には来賓を総代して一場の祝辞を述べられたり


中外商業新報 第一〇一六九号 大正三年八月一四日 ○三井高生翁逝く 三井家一門の耆宿(DK570208k-0003)
第57巻 p.451-452 ページ画像

中外商業新報  第一〇一六九号 大正三年八月一四日
    ○三井高生翁逝く
      三井家一門の耆宿
三井家一門中の耆宿にして芸苑素人の先達なりし三井高生翁は予て病気の処、十三日午前七時五十五分溘焉薨去せらる、享年七十二、翁は天保十四年五月京都に生れ、後東京に移り三井家を経営して、明治維新以来、或ひは金融に、或は貿易に貢献するところ尠からず、其功を以て累陞正四位に至り、更に危篤の報天聴に達するや、特に従三位に叙せらる、実業家中稀に見るの優典と云ふ可し、為人温厚和平而かも中に犯すべからざるものあり、維新の初め豪商巨賈の家を破り産を傾くる比々相接する間に、独り家門の栄を堕さず、更に進展今日の盛を得たるは翁の力の与かる処尠からざる也、明治二十六年当代元之助氏に家督を譲りし以来、悠々自適世紛と絶ちて残年を楽しむ、其芸に游んで通ずるもの謡曲・茶道・俳句・絵画・盆栽等何れも凡を超へて妙手の称あり、清幽高雅真に達人晩年の趣を見る、其他養育院の事業に賛し資を投じて社会に寄与するところ少からず、長子元之助、次は得右衛門、次は守之助及越英之助氏等皆共に家を成し、翁の後愈々昌ゆ
 - 第57巻 p.452 -ページ画像 
女は医学博士土肥慶蔵氏に嫁せり、葬儀は十五日午前九時途中列を廃し青山斎場に仏葬を営み、遺骸は桐ケ谷の火葬場に於て荼毘に付し、更に京都真如堂の塋域に葬る由


中外商業新報 第一〇一七一号 大正三年八月一六日 ○三井高生翁の葬儀(DK570208k-0004)
第57巻 p.452 ページ画像

中外商業新報  第一〇一七一号 大正三年八月一六日
    ○三井高生翁の葬儀
      壮厳なる盛儀
故従三位三井高生翁の葬儀は既記の如く十五日午前九時より青山斎場に於て執行せらる ○中略 次で法華経の諷経中に、喪主元之助氏を始め三井家一族及び親戚会葬者の焼香ありて、十時過ぎ悲しき式を了へ、遺骸は直ちに馬車にて桐ケ谷火葬場に送りて荼毘に附しぬ、尚ほ遺骨は京都真如堂の同家塋域に葬むる由、当日会葬者の主なるは如左
 大隈伯(代)・毛利侯・松平・広沢・井伊各伯爵、清浦・稲葉両子爵、都築・毛利・瓜生・渋沢(代)・住友・高橋・近藤・松尾・五辻・高木・阪谷各男爵 ○下略


中外商業新報 第一〇二八五号 大正三年一二月八日 ○三井武之助氏逝去 多能多趣味の人(DK570208k-0005)
第57巻 p.452 ページ画像

中外商業新報  第一〇二八五号 大正三年一二月八日
    ○三井武之助氏逝去
      多能多趣味の人
既報の如く数日前重態に陥れる三井武之助氏は薬石遂に効なく、七日午後一時廿五分眠るが如く自邸に於て長逝せられたり、享年六十歳、氏は三井家の一族、三井高福氏の六男にして、安政二年六月十日を以つて京都に生る ○下略


中外商業新報 第一〇二八八号 大正三年一二月一一日 ○三井武之助氏葬儀 十日青山斎場に執行(DK570208k-0006)
第57巻 p.452 ページ画像

中外商業新報  第一〇二八八号 大正三年一二月一一日
    ○三井武之助氏葬儀
      十日青山斎場に執行
故従五位三井武之助氏の葬儀は十日午前十時より青山斎場に於ていと荘厳に営まれたり、之より前午前八時半霊柩は麹町区富士見町の邸を出で、一路粛々青山に向ふ
○中略
喪主を始め白装束の未亡人・令嬢相次いで
△懇ろなる焼香 を行ひ、同族親族諸氏焼香をなし、斯くて同族側より会葬者に対し挨拶あり、会葬者は各自焼香を行ふて午前十時半全く式を終れり、尚当日日本赤十字社等の寄せ来れる懇切なる弔辞は之を霊前に供へたりと、遺骸はそれより同家の菩提所なる本所真盛寺に埋葬されしが、会葬者約一千名に達し盛なる葬儀なりし、其内の重なる人々左の如し
 徳大寺公(代)・井上侯(代)・中御門侯・前田利同伯・田中伯(代)立花子・米田子・瓜生大将・岩崎久弥・近藤廉平・都筑馨六・高木兼寛各男・渋沢男(代)
○下略


渋沢栄一 日記 大正四年(DK570208k-0007)
第57巻 p.452-453 ページ画像

渋沢栄一 日記  大正四年     (渋沢子爵家所蔵)
 - 第57巻 p.453 -ページ画像 
三月廿五日 雨
○上略 午後六時半赤坂ナル三井男爵邸ニ抵リ其招宴ニ応ス、饗応極メテ鄭重ナリ、夜十時帰宿後新聞紙ヲ一覧シ、又日記ヲ編成ス


渋沢栄一 日記 大正八年(DK570208k-0008)
第57巻 p.453 ページ画像

渋沢栄一 日記  大正八年     (渋沢子爵家所蔵)
一月十二日 曇 軽寒
○上略 正午三井男爵邸ノ招宴ニ付三田別邸ニ抵ル、支那人葉恭綽氏ヲ主賓トシタルナリ ○下略


中外商業新報 第一三七二五号 大正一三年五月二三日 三井高維氏 結婚披露(DK570208k-0009)
第57巻 p.453 ページ画像

中外商業新報  第一三七二五号 大正一三年五月二三日
    三井高維氏
    結婚披露
男爵三井八郎右衛門氏の三男高維氏は今回分家して三井守之助氏の長女英子嬢と華燭の典を挙げたので、廿二日午後三時から麻布区今井町の三井男邸において披露の会が催された、邸の内外とも時節柄とて何等の装飾もなく、余興もなく、頗る質素な設けのうちに、両家の主人及び新郎新婦は入口にて客を迎へた、定刻車を連らねて来る客は清浦首相・藤村逓相・松平外務次官・関屋宮内次官・宇佐美東京府知事・井上侯・渋沢子・金子子・毛利男・前田男・藤田男・木村日銀副総裁深井同理事・梶原勧銀総裁・馬越恭平・藤山雷太・入沢博士・木村博士・山崎博士など諸氏をはじめ朝野の名士夫人令嬢数百名で、広間に入つて茶菓の饗をうけ、晩春初夏の趣き深い庭に対して歓談に時を移し、心をこめた接待に新夫婦の将来を祝福して午後五時散会した