デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

3部 身辺

5章 交遊
節 [--]
款 [--] 15. 三島毅
■綱文

第57巻 p.470-471(DK570229k) ページ画像

明治43年11月3日(1910年)

是ヨリ先、栄一ヨリ三島毅ニ撰文ヲ依嘱セル、移建愛蓮堂記及ビ祭枯松ノ二文ノ稿成ル。是日栄一、之ヲ揮毫ス。


■資料

文事来簡一 (明治四十三年九月八日)(DK570229k-0001)
第57巻 p.470 ページ画像

文事来簡一  (明治四十三年九月八日)  (渋沢子爵家所蔵)
              (移建愛蓮堂記祭枯松文ノ件)《(別筆)》
秋雨覚新涼候処愈御清健被為在奉敬賀候
却説先般は於諏訪不斗邂逅御舟遊ニ陪シ、誠ニ面白キ御事ニテ難有奉多謝候、小生義は老脚徒歩ヲ怯レ汽車開通ヲ待、去五日帰京仕候、鳥渡御話申上置候貴嘱之二文モ右避暑中ニ相綴リ候ニ付、今日清書入高覧申候、老衰筆力鈍リ甚拙劣ニ候ヘ共御海恕可被下候、又不都合之処御坐候へは被仰下度、早々訂正可仕候、余譲拝芝申候 匆々頓首
  九月八日
                            毅
    青淵男 坐下


文事来簡一 (明治四三年)(DK570229k-0002)
第57巻 p.470-471 ページ画像

文事来簡一  (明治四三年)       (渋沢子爵家所蔵)
拝啓 過日は昔夢会陪座難有奉謝候、其節被仰聞候二文之御異見御尤ニ存ジ、別稿ノ如ク改正一応入高覧申候、改正ノ理由ハ附箋ニテ御承知可被下候、猶御異見御坐候へば可被仰下、幾度ニテモ改正可致候、却説昔夢会陪座毎々難有、其鄙意ハ拙老旧主幕末大艱難ヲ共ニシタル徳川公ノ傍ニテ、旧時之貴賤ヲ忘レ、朋友ノ如ク接近言論シ、実ニ難有御事ニテ、旧主有霊ハ泉下ニテ喜ヒ可申上候、毎々感愉致候事ニ御坐候、乍序御礼申上候 匆々頓首
  十月廿二日
                            毅
 - 第57巻 p.471 -ページ画像 
    青淵男 閣下


渋沢栄一 日記 明治四三年(DK570229k-0003)
第57巻 p.471 ページ画像

渋沢栄一 日記  明治四三年       (渋沢子爵家所蔵)
十一月三日 半晴 寒
午前七時起床入浴シテ朝飧ヲ食ス ○中略 畢テ愛蓮堂移建記ヲ浄写ス、又祭枯松文ヲ揮洒ス ○下略


竜門雑誌 第二七五号・第五四―五五頁 明治四四年四月 ○移建愛蓮堂記(DK570229k-0004)
第57巻 p.471 ページ画像

竜門雑誌  第二七五号・第五四―五五頁 明治四四年四月
    ○移建愛蓮堂記
愛蓮堂原在韓国平壊大同門街蓮池中小島為箕城八勝之一按旧記古碑明嘉靖壬寅李朝中宗時観察使閔斉仁創建以為遊観所自託君子之志其後観察使閔文忠閔丙奭鄭祥一各相距凡百年改築以至今又数十年通計三百六十九年明治三十八年戦役後地与堂共為韓国興業会社所有青淵渋沢男実為其監社四十二年男達古稀社員尾高次郎与清水満之助胥議毀堂舟其木材瓦石運之東京移建于飛鳥山曖依村荘以介其寿今玆五月竣工男招余観之且属記望之巍峨翼立丹㬦爛然如梵宇就視之木材素横而堅牢彫刻麤拙而奇古側鑿池種芙蕖荘中添一偉観矣人皆謂男曾分置其所管第一銀行支店又刱開京仁京釜両鉄道裨益韓国不尠堂之帰男蓋有夙縁也余謂夙縁更有深焉者蓋愛蓮始周濂渓濂渓取其出淤泥而不染清廉如君子也斉仁建之雖託君子之志其後為観察使者大率貪婪損上剥下中飽之図終失民心以醸今日国家之式微則愛蓮之実安在也仮令蓮有心乎必有乗桴桴海之歎我男反之身在財利奔競之間守君子清廉之操以致今日之富史公所謂廉賈帰富能挙愛蓮之実則堂之帰男夙縁太深而堂亦可謂得其所矣是不独可為男賀而可為堂賀也遂書以為記
  明治四十三年六月
            八十一叟 中洲 三島毅撰
                 野鶴 日下部東作書
   ○愛蓮堂ハ栄一ノ古稀ヲ祝シ、関係会社ヨリ寄贈飛鳥山邸内ニ建テラレタルモノ。
   ○枯松ハ同邸分園向山ニアリシ老松。