デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

3部 身辺

10章 葬儀・法要
1節 葬儀
■綱文

第57巻 p.739-743(DK570344k) ページ画像

昭和6年11月14日(1931年)

是日、勅使トシテ侍従本多猶一郎ヲ飛鳥山邸ニ差遣セラレ、御沙汰書並ニ祭資・幣帛・供物・生花ヲ賜ハリ、焼香セシメラル。次イデ皇后宮御使並ニ皇太后宮御使ヲ差遣セラレ、祭資又ハ生花ヲ賜ハリ、焼香セシメラル。


■資料

泰徳院殿御葬儀記録 二 【(三)葬儀第三日記録】(DK570344k-0001)
第57巻 p.739-740 ページ画像

泰徳院殿御葬儀記録 二         (渋沢子爵家所蔵)
 ○第三 葬儀
    (三)葬儀第三日記録
十一月十三日 曇
      (イ)殊遇
        (い)御使御差遣
 定められた人以外多数の人々の御通夜に明けた十三日も、十五日の御葬儀準備と、相変らずの弔問者の応接に忙しい。
 而もこの日 皇太后陛下より御料理五十人前の御下賜あり、また閑院宮殿下には恩賜財団済生会総裁として御盛菓子を賜つたが、その御使は作久間氏であつた。因つて大倉喜七郎男は、先づ高輪御殿に参上し石川別当に面謁、昨十二日高松宮殿下より、故渋沢栄一霊前に御使御差遣御焼香を賜り、遣族一同感泣罷在る旨言上を御願し、尚ほ御帳に姓名を記入し、次で東伏見宮邸へ参上、弔電の御礼を申上、御帳に記入、閑院宮邸並に伏見宮邸に参上、賜物御礼を言上、記帳をした。また午後二時には大宮御所に参上、入江大夫外出中、西邑事務官御奥出仕中に依て、清閑寺事務官に面晤、皇太后陛下より御料理を下し賜はり、故渋沢栄一遺族は思召の渥きに感泣罷在る次第を言上せられんことを請ふたところ、同事務官は直に御奥に出仕して言上申上ぐべしとのことであつた。
次に御帳に例の式に依り記入して引取つた。
        (ろ)葬儀当日勅使御使御差遣の御沙汰
 然るに本日実に宮内大臣より次の如き通達があり、遺族一同を感泣せしめた。
 正二位勲一等子爵渋沢栄一薨去ニ付特旨ヲ以テ左ノ日時ニ其邸並葬斎場ヘ
 勅使 皇后宮使 皇太后宮使ヲ被差遣候此段及通達候也
  昭和六年十一月十三日
                 宮内大臣 一木喜徳郎
    渋沢敬三殿

 - 第57巻 p.740 -ページ画像 
      記
  十一月十四日其邸へ
   午前十時     勅使
   同十時二十分   皇后宮使
   同十時三十分   皇太后宮使
  十一月十五日青山斎場へ
   午前十時 参着
            勅使
            皇后宮使
            皇太后宮使
        (は)右に対する用意
 右に付御遺族御親族の心得を左の如く定めて、それぞれ刷物を配布した。
      勅使御差遣ニ付御遺族御親族御心得
  十一月十四日御邸ノ分
  一勅使ハ午前十時御来邸
  一皇后宮使ハ午前十時二十分御来邸
  一皇太后使ハ午前十時三十分御来邸
    此ヨリ先、聖上 皇后宮 皇太后宮三陛下ヨリノ賜物ノ中、一部ヲ供シ置ク
  一御一同午前九時四十分迄ニ霊柩前ニ着席ノコト。
  一喪主ハ係員ノ合図ニヨリ、休所ニ御少憩ノ勅使ノ御前ニ出テ、御沙汰ヲ拝シ賜物ヲ拝受シテ、柩前ニ至リ、奉供シテ其儘所定ノ席ニテ勅使ノ焼香ヲ御待受ス。
   劫使ハ焼香後一旦休所ニ退下スルニ付、其節喪主ハ休所ニ出テ御礼ヲ言上ス、次勅使御退出
  一皇后宮使 皇太后宮使ニ対シ同前。
  一三陛下御使焼香ノ節、係員御注意スルニ付、一同御起立ノコト
  一服装、フロツクコート、モーニングコート、喪章附、婦人ハ相当ノ喪服。
 また十四日自邸に於ける役割を次の如く定め、同日午前九時習礼を行ふこととした。
  勅使御先導            橋本実斐氏
  皇后宮使御先導          金子武麿氏
  皇太后宮御先導          大倉喜七郎氏
  香炉               田中栄八郎氏
  賜物拝受輔佐           森村市左衛門氏
                   古河虎之助氏
                   浅野総一郎氏
  警蹕               原忠道氏
 十五日青山斎場に於ては前同様としたが、賜物拝受の輔佐を要せぬので、勅使・御使係として、浜田豊城氏が当ることになつた。


官報 第一四六五号 昭和六年一一月一六日 宮廷録事(DK570344k-0002)
第57巻 p.740-741 ページ画像

官報  第一四六五号 昭和六年一一月一六日
 - 第57巻 p.741 -ページ画像 
    宮廷録事
○勅使・皇后宮使並皇太后宮使 正二位勲一等子爵渋沢栄一薨去ニ付一昨十四日午前十時勅使侍従子爵本多猶一郎ヲ其邸ニ差遣ハサレ、左ノ御沙汰ト共ニ祭資・幣帛・供物・花ヲ賜ヒ、訖テ焼香セシメラレ、又同十時二十分皇后宮使皇后宮事務官野口明ヲ差遣ハサレ、花ヲ賜ヒ訖テ焼香セシメラレ、又同十時三十分皇太后宮使皇太后宮事務官西邑清ヲ差遣ハサレ、祭資・花ヲ賜ヒ、訖テ焼香セシメラレタリ、
 高ク志シテ朝ニ立チ、遠ク慮リテ野ニ下リ、経済ニハ規画最モ先ンシ、社会ニハ施設極メテ多ク、教化ノ振興ニ資シ、国際ノ親善ニ努ム、畢生公ニ奉シ、一貫誠ヲ推ス、洵ニ経済界ノ泰斗ニシテ、朝野ノ重望ヲ負ヒ、実ニ社会人ノ儀型ニシテ内外ノ具瞻ニ膺レリ、遽ニ溘去ヲ聞ク、曷ソ軫悼ニ勝ヘン、宜ク使ヲ遣ハシ、賻ヲ賜ヒ、以テ弔慰スヘシ


泰徳院殿御葬儀記録 二 【○第三 葬儀】(DK570344k-0003)
第57巻 p.741-743 ページ画像

泰徳院殿御葬儀記録 二         (渋沢子爵家所蔵)
 ○第三 葬儀
    (四)葬儀第四日記録
十一月十四日 曇後雨
      (イ)概況
 御葬儀を明日に控へて多忙である、而も弔問者は絶えず、玄関に名刺を置き、また書院の霊柩に向つて焼香して行く。
 玄関前には「造生花其他御供物の儀は遺志により堅く御辞退申上候」と云ふ貼紙があり、屋内の廊下には「接待委員各位」と題し「十五日午前九時二十分迄に青山斎場へ御参集願上候」とか「受付委員各位」と題して「十五日告別式当日受付委員各位は午前九時迄に青山斎場へ御参集被下度候」とか、また「委員各位へ謹告」として「一、当日ノ服装ハモーニング又ハフロツクコート。一、帽子ハ任意ノ事。一、左腕ニ喪章ヲ附スル事」などゝ云ふ貼紙が掲示されてある。
        (い)勅使・御使
 前日宮内省よりの通達通り、午前十時から御弔問の勅使・皇后宮御使・皇太后宮御使の御来邸があるので、午前九時習礼を行ふて、準備をとゝのへ御待ち申上げて居ると、午前正十時勅使本多侍従来邸、西洋館応接の御休所にて少憩、聖上よりの
 一、御沙汰書
 一、両陛下ヨリノ祭資一封(金参千円)
 一、白絹   五匹
 一、供物   八台
 一、花    一対
を拝受し、直ちに書院の柩前に至り奉供して所定の席についたが、此の時敬三氏は御沙汰書を捧持し、その他の賜物は森村男・古河男・浅野総一郎氏がそれぞれ捧持した。
 やがて田中栄八郎氏霊前に香炉を安置すれば、原氏の「起立」の声に、一同起つて勅使の参入を待つ、橋本伯爵の御先導にて勅使は静々と柩前に進み焼香せらる。その間満座寂として声なく、渋沢家一統は
 - 第57巻 p.742 -ページ画像 
勿論、並居る者、皆この光栄に感激の涙なき能はなかつた。勅使御退席後、敬三氏は御休所に出でて御礼を言上した。かくて勅使御退邸後午前十時二十分には皇后宮御使として野口事務官来邸、花一対を賜はる、勅使御同様御焼香ありて退邸。次で午前十時三十分皇太后宮御使として西邑事務官来邸、祭資一封(金壱千円)と花一対とを下賜され御焼香ありて退邸
 勅使並に御使接遇の行事終つて後、敬三氏によつて恭々しく読み上げられた御沙汰書は左の如くであつて、簡潔にして、然もよく子爵の全貌を表現し尽されてあるのに、一同更に聖恩の辱きに感激して涙を流す人々も少くなかつた。
        (ろ)御沙汰書 ○前掲ニツキ略ス
        (は)宮家御弔問
 閑院宮殿下より、神宮奉賛会総裁として御使赤岡氏を遣はされ、御盛菓子を賜つた。
        (に)御礼言上
 男爵大倉喜七郎氏は渋沢家を代表して直ちに宮城並に大宮御所に参上御礼申上、閑院宮邸へも参上、同じく御礼を言上し、其旨御帳に記入して引取つた。
      (ロ)祭壇
 祭壇には霊柩の奥に大写真額、その前に、右より白国王冠一等勲章勲一等瑞宝章・勲一等旭日桐花大綬章・仏国レジヨンドノール勲一等の各勲章が置かれ、それから御位牌、その次に御下賜の干菓子と果物同じく蒸菓子、同白絹五匹、御沙汰書、天皇・皇后両陛下よりの御祭資、聖上よりの御目録、その前に皇后陛下よりの御目録、皇太后陛下よりの御祭資、皇太后陛下よりの御目録、更に前方に皇后宮御焼香炉聖上御焼香炉、皇太后宮御焼香炉と並び、その手前に灯明に並べて三つの香炉が置かれる。又供物は向つて右、勲章及び御位牌に近く、聖上・皇后宮・皇太后宮の順に御下賜の生花、その右一番奥に皇太后宮の御盛菓子、次に高松宮妃及東京慈恵会総裁竹田宮昌子内親王両殿下の御盛菓子、その前に内閣総理大臣若槻礼次郎男爵の紅白盛菓子、各大臣よりの同じく盛菓子か供へられ、向つて左側には右と同じく勲章と御位牌とに寄せて、聖上・皇后宮・皇太后宮よりの御生花、それと縦に並んで徳川家達公・同夫人・徳川慶光公・徳川圀順公・同夫人の三台の盛菓子、その左に各大臣の盛菓子、内大臣牧野伸顕伯・宮内大臣一木喜徳郎氏の各盛菓子、次に最も左に済生会総裁載仁親王・明治神宮奉賛会総裁載仁親王・理化学研究所総裁博恭王・斯文会総裁博恭王・聖徳太子奉賛会総裁朝融王各殿下より賜はつた各御盛菓子が供へられ、さらに中央御下賜品の左右に雪洞二基が置かれ、右側の雪洞に近く御沙汰書の謹写されたものが、来弔者の眼を惹ひて居た。
      (ハ)墓標
 一方谷中の墓所の工事は、葬儀委員の報告中に詳記された如く、着着と進んで居るが、午前中寛永寺に於ては、かねて清水組にて用意しある檜材一尺角長さ一丈六尺七寸のあくまで白い木の香新らしい墓標に、藤本竹香氏か筆を執り、表面に「正二位勲一等子爵渋沢栄一墓」
 - 第57巻 p.743 -ページ画像 
裏面に「昭和六年十一月十一日薨」と墨痕鮮かに書き下した。
○下略


父渋沢栄一 渋沢秀雄著 下巻・第五五―五八頁 昭和三四年四月刊(DK570344k-0004)
第57巻 p.743 ページ画像

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